「失敗」はない

教育の目的は「生きる力」を獲得させることです。もっと生々しい言葉で表現すると「食べていける、食わせていける、稼げる、養える」人にすることです。親によって、先輩によって、教師によって、一期一会の出会いの中で教えられることがあります。知識や経験を通して与えられるものが教育であるならば、必ず次の世代が生きていくための力となるべきなのです。幼稚園は教育をするところです。その目的は「卒園」させることではありません。将来、独立して生きることになる子どもたちの生きる力の獲得に幼児期にふさわしく貢献することです。

子どもたちが生きていく世界ーーそれはそのまま親世代である私たちが生きている世界の延長ですがーー、そこはいつでも成功できるドリームランドではありません。いつでも褒めてもらえるところでもありません。必ず自分に同調し、同情してくれるところでもありません。努力が報われるとも限りません。「うまくいかないこと」でいっぱいです。「生きる力」という点から考えるならば、「うまくいかないこと」こそ「学び」の機会です。そして幼児期というのは「うまくいかない」経験を保護の元で得ることのできる時期です。

子どもたちは型押しされた工業製品ではありません。神さまの愛のこもった命であり、世界に唯一のご両親から生まれた命です。皆違うのですから、隣り合えばぶつかることがあります。いつでもぴったり寄り添える筈がありません。ケンカを経験します。勝ち負けが生まれます。一つしかないおもちゃを二人の子どもが欲しがれば、当然「得た者」、「失った者」に区別されます。上手に作れなかったり、早く走れなかったり、登れなかったり、捕まえられなかったり、色々な「うまくいかない」経験に泣く子がいます。いらだつ子がいます。

この時こそ幼児期特有の保護の元で教育が問われるのです。うまくいったなら何も教える必要はないのです。うまくいかなかったときに、それを「失敗」「挫折」としてあきらめの中で枯らせてしまうか、次へとつなげる「学び」の時として「生きる力」の養いとできるかで、教育が決まります。しっかりとした保護の元で多彩な経験を「成功」と「学び」として蓄えることと、「成功」と「失敗」として取捨することのどちらが生きる力に必要でしょうか。私は「成功」と「学び」として蓄えることだと考えています。

うまくいかなかった一つ一つの経験も生きる力を引き出します。一つしかないおもちゃで遊べなかった子に、可哀そうだからともう一つおもちゃを用意することが教育なのか、悔しい思いをした子に寄り添って一緒に時間を割いて悔しい思いを受け止め、一緒に課題を考えることが教育なのか、子どもの内に育まれてきた生きる力の成長を信じて黙って我慢して待つのが良いのか。教育が問われる時です。そのとき、生きる力を得るという課題は、保護者の課題でも教師の課題でもなく、子ども自身の命の課題であることを忘れてはならないと思います。

例えば、 一つしかないおもちゃで遊べなかった子は、「明日は一番に幼稚園に行く」と宣言して帰り、次の日お母さんを急かして登園してきました。おもちゃを真っ先に使うためです。しかしそれも一日だけのことで、一つのおもちゃに他のおもちゃを組み合わせて、一緒に遊べる工夫を始めるようになりました。朝一番に登園するという解決を得るために教師のサポートやお母さんの協力があったのですが、一緒に遊べる工夫を始めたのは子どもたち自身です。安易な慰めで課題を取り上げられたり、大人の正解に同調させることで思考や感情を奪われたりせず、しっかりとしたサポートを得られた子どもたちの経験に「失敗」はありません。

 

 

2018年09月01日