見て、考え、言葉を得る

朝の挨拶をしている時、必ず「お話」をしてくれる子がいます。今日の気持ちや出来事をお話ししてくれます。挨拶の順番を待つ子もいますが、できるだけ目線を合わせて話を聞くようにしています。わざわざ教室から私のいる事務室にやってきて、些細な出来事を報告してどう感じているのかを話してくれる子もいます。お当番の時はもじもじして声の出せない子が、今見たことを話す時にはイキイキとした声で話をしてくれます。子どもにとって、今見てきたことをすぐに言葉にして伝えたいというのはとても大きな欲求なのだと知らされます。大きな欲求であるということは、大きな育ちのチャンスを持っているということです。
幼児期の子どもは、基本的に「見ているもの」について考えます。大人のように、景色を眺めながら明日の予定を考えるということはしません。つまり、子どもが見ているものこそ、子どもが言葉を得るための教材になっているということです。
見ているものを言葉と結びつけることは重要な積み重ねになります。そこからさらに進んで、目に見えない感情を言葉化することは、見て、心動かされた子どもの視線を察知し、そこに共感した大人の言葉が与えられる中で蓄積されていきます。
四六時中子どもの表情を観察するのは不可能ですが、もしも子どもが「あ!」という表情を見せた時、見入って心奪われていたならば、子どもに共感し、「言葉」を与えるチャンスです。感情、感動は何もしなくても勝手に育つものではありません。子どもが見た事象に対して、共感してくれる人の心と言葉が子どもの感情と感動を育てます。
「まだ小さいからわからない」ということはありません。乳児の頃から子どもは驚きや美しさ、すばらしさを感じています。ただ、見た事象、感情や感動を、大人と共有するための言葉をはじめとする表現と伝達手段を得ていないのです。
そこで実は、子どもを感性豊かに育てようとするならば、子どもの感情と感動に対してどれだけ豊かに大人が共感し、多彩な表現を伝えることができるかというのが一番重要なことになります。
そして、やがて子ども自身が自分で言葉をもって感情や感動を伝えるすべを得たならば、今度は大人が黙る時です。子どもの気持ちを先回りして察して語り掛ける必要はありません。自分自身を伝える子どもの言葉を大人の眼差しの中で見て、子どもの言葉を聞き、「そうなんだ」と答えるだけで十分です。多少間違っても、直ちに訂正はしないで、話したいという子どもの欲求を満たしてあげてください。そういう機会を重ねると、不思議なほどに子どもの言葉は多彩に、そして深みを増していきます。

2019年06月07日