「希望の松」から学んだこと

東日本大震災の後「希望の松」とタイトルをつけられた一本の松の写真が新聞に掲載されました。七万本の松林が津波によって流される中で、耐え抜いた一本の松は、希望の象徴として紹介されました。
撮影されたのはフォトジャーナリストの安田菜津紀さんです。安田さんは義理のお母さまをこの津波で亡くされました。被災地を訪れた時、あまりの光景に何をしたらいいか分からない中で、唯一シャッターを切ることができたのが「一本松」だったそうです。「希望の松」として人々の希望の象徴となった時に、「良かった。陸前高田のことが伝えられる。私にも何かできた気がする」と思えたそうです。
しかし、この写真の掲載された新聞を身近で傷ついている義父を励ますつもりで見せた時、言われました。「何で、こんな海の近くに来たの?余震が続いているんだよ。もう一度同じ揺れが来て、同じ波が来たらどこに逃げるつもりだったの?」そして続けて言われました。「あなたは七万本の松と一緒に暮らしてこなかったから、この残された一本の松は希望の象徴に見えるかもしれない。だけど自分たちにとっては、津波の威力を象徴するもの以外の何物でもない。できれば見たくない。」
そのとき安田さんははっとしました。自分は一体誰を大切にしてシャッターを切っていたのだろう。どうしてシャッターを切る前に、ここで生きる人たちの声に丁寧に耳を傾けなかったのか。このことは安田さんにとって一番大きな教訓となったそうです。
先日、園児の保護者との個人面談が各クラスで行われました。子どもたちの育ちも環境も様々で、教師たちも一学期を手探りし。試行錯誤し、様々な形で子どもたちのために幼稚園の毎日を作ってきました。ほぼすべての保護者の方々が教師たちに感謝を述べてくださいました。ありがたいことです。
しかし、中には教師の言葉を受け止められない保護者の方々もおられたようです。教師の報告を聞きながら、子どもを思い、保護者を思っての教師の言葉であったことは確かです。ただそれらの方々に語る前に、聞くことが大切なのだと思わされました。丁寧に「聞く」ことは、どんな仕事をしている者にとっても大事なことでしょうが、教師のように心が「伝える」ことに傾く者は、特に心がけなければならないのでしょう。子どもの声に耳を傾ける教師が、保護者の声に耳を傾けるときが面談の時なのでしょう。そのとき前述の安田さんのお話を思い出しました。
子どもたちの光景、エピソード、言葉や仕草。それらを見守る大人は、教師は教師として、保護者は保護者としてそれらを別々に受け止めています。必ずしも喜びや希望ではなく、教師や保護者に苦痛や悩みをもたらす事もあります。「希望の松」が多くの人には希望の象徴に見えた中で、「見たくない」と感じる人がいたように、です。教師の受け止めが絶対ではないことを心したいと思いました。その上で、一人の子どものことを大切にする仲間として並んで子どもを見つめられたら、と思いました。

2019年07月19日