個性の輪郭

個性は、親や先生が「この子はこういう子である」と評価して決められるものではありません。そもそも人間は皆、個性的な存在として生まれています。神さまによって唯一の命を与えられている私たちは工業製品ではないのです。

問題は、個性的な存在である人間が何故個性を失うような事態がおこるのか、ということです。一つは幼児期の「善意からの抑圧」が関与しています。

「家族でハンバーグがおいしいと評判のレストランに食事にいきました。子どもに『何でも好きなものを注文していいのよ』と言ったところ、子どもは『エビフライ』を選びました。すると、『ここはハンバーグがおいしいお店だから、ハンバーグにしなさい』と言い、みんなでハンバーグを注文数することになりました。」

欲しいものを欲しい、好きなものを好き、嫌いなものを嫌いと表明したとたん、「こちらの方が良いから合わせなさい」とたしなめられるような環境で個性の輪郭は削り取られます。

「好きと嫌い」は、人の個性の輪郭を形づくる根っこの部分です。同じ5歳でも水遊びが好きな子もいれば嫌いな子もいます。人間は好きなものと嫌いなもの、得意なものと苦手なものがあって当たり前、という前提を身に着けることが大切です。日常的にふぞろいな世界が広がっていることを知り、不揃いな存在同士だということを身をもって経験する方が集団で合わせることの美しさよりも幼児期には貴重です。言い換えるならば、個性を尊重するとは「あなたと私は違っていて当然」ということです。それは良い悪いと評価されるものではありません。

大人はいつも世間体の方を子どもよりも大事にします。知らず知らずのうちに善意からそのことが現れてきます。例えば、父の日のプレゼントとして子どもが父親の顔を描き始めたときに黙って最後まで先生や母親が口出しせずにいられるか?案外できないものです。子どもの描く絵は「おかしい」のが当たり前です。それを見て、「お父さんの目はそんな色だっけ」とか「髪の毛がないけどいいの?」とか、「耳がないのはおかしい」とか。いかにも父親が見て「喜ぶ」ように善意から矯正してしまいます。実際、背の小さな子どもの目線から背の高い父親の顔は、おでこから上の髪の毛が見えないのです。幼児期は色覚も発達している最中ですし、目線が変われば光線の入り具合も変わるのは当然ですから黒や茶ではない色が見えることもあるのです。目を描くのに赤や緑を使いたいのです。しかし子どもが認識している父親が表現されるよりも、見栄えのいい、喜んでもらえる絵に「してあげる」ことを大事にしてしまいます。「それじゃあお父さんが悲しむよ」、「ちゃんとやらないとママが悲しくなるよ」、「みんなのパパやママが見てくれるのだから“ちゃんと”やろうね」と、善意から抑圧をちらつかせてしまうのです。

大事なことは、大人が幼児を学ぶことです。絵であれば、2~4歳の子に大人が一般的に持っているイメージに一致するものを求めるのは脳科学的に、そもそもおかしいのです。なぜなら、彼らは自分の心象に映るものが全てだからです。人の顔は「こういうもの」という一般的な枠と関係なく人の顔を認識しているのですから、大人にとって都合のいい絵など描けるわけがないのです。

大人と子どもはこんなに違う。私たちは不揃いな世界に一緒に生きているのです。そこに個性があります。

2018年09月24日