待つことを教える大切さ

子どもと過ごして特に多く使う言葉は「急いで」、「早く」ではないでしょうか。仕度が遅い子や、なかなか遊びを終えられずにいる子に、幼稚園の先生も「もうお友だちはお部屋にいるよ」、「みんな待ってるんだよ」と言って急かします。
周りの状況を把握して、行動を切り替えるようになることは大事な成長です。ただ今回は、待たせる子ではなく、こういった場面ではもう一方に「待っている子」がいることを考えてみたいと思います。
普通ですと、みんな揃って行動をするときに待たせてしまう子は、先述のように急かされたり、あるいは遅れたことを叱られたり、待っている皆に「ごめんなさい」と謝らせる等の対応があるでしょう。しかし、視点を「待っている子」に向けると別の事柄が見えてきます。それは、「待つことを教える」ということの大切さです。
待つことができるということは、人間の器の問題です。これは実は教育の最大課題へのアプローチではないでしょうか。
遅れてくる人にイライラして、遅れてくる人にずっと心を奪われていて、その人が到着するなり「何やってんだ!」と怒鳴る人。
誰かが遅れていても、心を奪われずに過ごし、「大丈夫、待っている間に~ができたよ」とさらっといえる人。
どちらに人間的な魅力があるでしょうか。どちらの人間と一緒にいたいと感じるでしょうか。待つことができる人とは、寛大な心をもって赦す人です。人望や魅力といった言葉であらわされる心の器を育てる方が、教育の課題として優先順位が高いのではないでしょうか。
どうせ待つなら、歌でも歌って待とうか?お話しを一つしましょうか?そんな風に「待てる人に育てる」ということは素敵なことではないかと思います。
考えてみれば、私たちはこれまで皆、迷惑を掛けたら謝るという教育だけを受けてきたように思います。しかし、私たちは誰でも迷惑をかけずに生きることはできません。待たせる子も、その子なりのベストを尽くして生きています。それならば、迷惑をかけられてもそれを受け止める器を育て、相手の事情に心を寄せることができる方が、ストレスなく健康的な生き方に繋がります。
「待つ」ということは我慢することではなく、「赦す」ことなのです。

2019年07月31日