子どもの問題の前で立ち止まる

 子どもたちと接していると、神さまは人間を何て自由に創造してくださったんだろうと思わされます。そんな彼らと接していて、「正しいって何だろう?」と考えさせられます。それは、子どもたちは自由に振舞いながら、実は多くの場面で自分たちの行いが正しいのかどうかを問いかけてくるからです。
 遊びの時間であれば、遊ぶことは「正しい」ことです。でも先生のお話しを聞くときには、遊ぶことは「正しくない」ことになります。2~3歳程度の子どもに、「今は遊ぶ時間じゃないでしょ」と言い聞かせても、時間感覚も周囲への関心も未熟な彼らに理解できるはずがありません。この場合、遊び続けようとする子どもと、子どもに通じない言葉をかけて正しい行動を求めている大人とどちらが「正しい」のでしょうか。
 この世界には、あり得ないと思えるような違う考え方を持つ人がたくさんいます。特に子どもと私たちの間では、この感覚をもっておくことは大事です。
 子どもにとっての正しい行為は、私たちにしてみればとんでもない身勝手な振る舞いに見えたりします。しかし、彼らの視界、彼らに聞こえている音、彼らの触れる感触がもたらす、彼らの受け取った世界にどのように向かい合うかは、大人には測れないことが多くあります。大人から見ると「問題」と見え、すぐにやめさせないと面倒だと思えても、それは子どもが受け取った環境に対する一生懸命にあみだした大切な対処法なのかもしれません。
 問題行動をすべて受け入れることをすすめているのではありません。しかし、「この行動はこの子にとってどんな意味があるのだろう」、「この行動でこの子は何を得ようとしているのだろう」という思いを心に持っておくことが大事なのです。もしかしたら子どもなりの愛情表現かもしれません。子どもからのSOSかもしれません。
 子どもの問題と思える行動を前にして、大人は「すぐに、今すぐに」と改善を考えます。しかし、その過程を通さないと辿り着けない成長もあるのです。問題行動が自分自身や相手を害するものでない限り、大人自身が少し俯瞰して子どもを見る心の余裕をもっていたいと思います。子どもの行動の中には、簡単にとってしまってはいけないことがあるのです。

2019年10月31日