自発的な試行から思考を豊かに

幼児期の思考の発達において著しい影響力があるのは、自発的で多様な動きです。運動と思考は別のものとしてとらえられがちですが、幼児期には、思考は運動に続いて発達します。私なりの捉え方をするならば、自発的な運動に思考の発達が従属するといった方がいいようにすら思っています。それほどに、この時期の自発的な動きは重要な意味を持ちます。
幼児期は大人から見ると理解できないような行動を見せます。状況を顧みない行動、迷惑と思える行動、突発的な行動が必ず見られます。幼児期の子どもが独り言をしゃべりながら活動をするのも、大声や奇声をあげたり、順番を待たずに話しかけて来たりといったことも思考と密接に関わっています。言葉が分かるから、語りかける言葉で全部通じるはずだと思うのは大間違いです。そこには子どもの思考に沿ったアプローチが決定的に不足するのです。幼児期の自発的な生き生きとした動きそのものが幼児期の思考の力です。いずれそれらは頭の中の思考へと移行していきます。しかし、幼児期には肉体的な活動を伴わない思考の発達はあり得ないものです。
このような時期がおおよそ小学校入学頃まで続きます。小学校入学後に授業公開などを見に行くと実に多くの子が体を動かしています。席を離れることは稀であっても、唇を触り続けたり、髪の毛を触り続けたりといった自分の体への刺激を伴って先生の話を聞いています。チック症状であれば別ですが、子どもが自分の体に触れるのは思考をしている証拠でもあります。動きをやめろというのは、子どもにとって考えるな、命じられているのと同じ意味になります。大人にとっては迷惑なことと思われるかもしれませんが、そういうものなのですから、子どもの発達に向かい合って、大人の方が工夫しなければなりません。
先日子どもたちが木登りをしているのを見て、驚いておられた方がいました。最近は怪我をさせないためや、木を保護するために木登りを禁止している幼稚園も多いのでしょう。実際、私が園長となる前、木登りは禁止されていました。しかし、木登りは一見すると思考とは無関係な腕白に思えますが、総合的な思考へとつながる試行の場面です。私は、「木登りの良さはいい意味で子どもの期待を自然が裏切ってくれること」だとお話をしています。子どもは、時間をかけて試行錯誤しながら木に登れるようになります。簡単に木は登らせてくれないのです。最初の枝に手が届くために体が大きくならないと届かないことがあります。木はそのように育ったのですから、文句を言っても無駄です。既に登れる年長児を見上げながら、自分が上る様を想像(思考)します。他児の経験から自己の経験を育てているのです。やがて、背伸びして手が届くようになると、大人の手を借りずに登っていきます。自分に都合のいい場所に枝が出ているとは限りません。見えていない幹の裏側に足場があるかもしれません。観察し、先を見通し、安全な枝はどれかといったことを、手足を動かして試行して、思考の力を働かせて学んでいきます。そうやって高く上った木の枝の間から見える世界は、他では経験できない魅力をもっています。小さな子どたちにとって、大人を見下ろすということも新しい経験への出発点になるでしょう。プラスチックのムラのない色彩やにおいに対して、多様な変化を見せ、時には自ら危険を警告する色やにおいを発して対話してくる自然への施行から得られる思考の力は多彩で多様で深く大きいものです。
自発的な試行を豊かに経験することは、決して無駄にはなりません。すぐに結果を伴わなくても、その子の内に思考力は確実に育っていきます。

2020年01月08日