静かにする時間

「聞く」と「話す」を人間は同時にできません。話し合いというのは、「聞く」と「話す」の両方が必要です。どんなに強力に「話す(発信)」ができても「聞く(受容)」ことができない人とは話し合いは成立しません。
聖書にこんな一節があります。「たとえ地上のすべての言語や天使の言語を話しても、愛が無ければ、やかましいシンバルや煩い銅鑼も同様です」(コリントの信徒への手紙一 13章1節の私訳)。
「聞く」というのは、話している人を大切にするということです。人の話を聞く時間と自分が話す時間を交互に経験して、「話が通じた」という感覚が成立します。ですから、話をしている人の時間を奪わない、という意味を子どもたちに伝えることが大事になります。
私は週に1回、各クラスに赴いて聖書のお話をします。私が教室に入ると、教師が子どもたちに、「園長先生がお話に来てくれたよ。お話を聞くときはどうするんだった?」と話しかけてくれます。そうすると、子どもたちは「静かに聞く」とか、「園長先生のお顔を見る」というふうに答えています。ちゃんと声をかけて確認をするだけで、子どもたちはしっかりと「話を聞く」ことができます。
たとえ一時的に騒がしくなっても、「今は、私がお話をする時間だからね」、「今は、誰がお話をする時間かな?」といった声をかけると子どもたちはハッとして、静かになっていきます。「聞きなさい」、「静かにしなさい」という命令よりも、話している人を尊重することを伝えた方が、自分から話を聞く姿勢に戻っていく力が養われています。
話を聞くのは、一義的には興味があるからです。私も聖書のお話をするときに、子どもたちに興味を持ってもらえるように工夫をします。
相手に興味をもって「聞く」こととは違いますが、内容に関わらず静かにしなければならない、「静かにする場面」を体験することも大事です。例えばコンサートや図書館、公共の乗り物の中やレストラン等です。長時間は難しいでしょうが、幼児期であっても、「静かにするべき場」があることを教え、体験していくことは大事なことです。

2020年01月22日