観察する目

子どもたちが園庭で虫を捕まえてくると、何という名前の虫かを調べ始めます。まだ、字を読むことが得意ではないので一緒に図鑑を開きながら、「この虫かな?」、「ちょっと違う。この虫には白い小さい点がない」、「この虫かな?」、「違う。うすーく茶色の線がある」、というような会話が起こります。私などは視力の衰えもありますから、子どもに言われてはじめて気がつく小さな特徴です。子どもにはとても優れた観察力があると感じます。

一方で、「これだよ!」とよく見もせずに虫の名前を決めてしまう子どももいます。やはりその子にとって重要なのは早く決まった正解を求めることです。結果として、観察することなく、目の前の開かれたページの中に「正解がある」という根拠のない解釈の中で、答えを決めてしまいます。そのページの中に同じ特徴を持つ虫がいない、ということを自分で確認しないのです。正解を求める中で、正解を得ることが至上の目的となると、人間は観察を止めてしまうようです。

見ることと、観察をすることは違うと思います。何かを視界に納めたということが「見る」だとすると、そこから情報を読み取ろうと積極的に関わろうとすることが「観察」です。観察を通して、新しいことに気が付いたり、そこから課題を得たりすることができます。

子どもに様々な体験や経験をしてほしいと多くの方は思うはずです。そういった体験や経験を自分自身の養いにするために何かを「観察」する力は大きな影響を与えます。新しい遊びや活動になかなか積極的に加わらないで、離れて見ていることを選ぶ子どもがいます。大人としては、直ぐにでも加わって欲しいと思います。「この子は引っ込み思案で」とか「臆病で」と評価することもあろうと思います。もちろん、そうした性格的な面もあると思いますが、そうした時には、直ぐに誘うことをしないで、しばらく子ども自身に「観察」する時間を与えてあげるとよいと思います。

遊びや活動に加わることは、子ども自身の選択する課題です。その課題のために、観察し考える時間を与え、その上で加わる、加わらないを子どもが判断します。そうした時間がなければ、不安と恐怖の中で「怒る・泣く」以外の選択肢がなくなります。特に新しい環境に入る時には、ある境界線の向こうから観察して踏み込むことを決断します。その時に「早く、早く」と急かされると、不安と恐怖が増していきます。じっくりと待つ時間が必要です。それは分単位ではなく、何日も、何回も、ということもあります。

幼児期の観察力を養うには、やはり変化に富んだ外に出るのが一番です。特に自然には多彩な刺激があります。毎日同じ場所へ行っても、自然は日々変化しています。その時に感じたことや気付いたことを言葉にします。言葉で表現することで、僅かな変化にも意識が向きやすくなります。そして、「なんでだろうね?」というような疑問を抱くように促すことで、「知りたい」という気持ちが刺激され、さらに熱心に観察する気持ちがわいてきます。

観察は「決断」とか「判断」とか「意欲」いう力と結びつきます。人々の言葉に表さない意識を推察するコミュニケーション力にも関わります。幼い時の観察力の養いは、その後も子どもを支える太い根となるはずです。

2020年09月28日