躾(しつけ)の目的

子どもは、「走ってはいけません」と言われると走ってみたくなります。「取らないで」と言われると取っていきます。子どもにとって、未経験の出来事の本質はやってみないと理解できないからです。

多くの子どもにとって、最初の体験として、走ってはいけないところで走ることは楽しいことです。「取らないで」と言われて取ったときに、相手が困った様子を見せることは楽しいことです。人間には「良い思い」もあれば「悪い思い」もあります。どちらかを無しに人間について考えることは無意味であり、危険なことです。しかし人間は、人にぶつかったり、物を壊したり、転んで痛い思いをすると、「次は走るのをやめよう」と自制することを学びます。「良い思い」に従うか、「悪い思い」に委ねるかを決める力を育むことができます。

躾(しつけ)とは何か、という問いは、なかなか難しいものがあります。躾という言葉を英訳しようとすると、1対1で対応する単語はありません。例えば「training」でしょうか。しかし、日本語の「身を美しく」と表記される躾(しつけ)は、単なる技術の習得以上の広く深い意味を持ちます。

人間には「欲求」があります。「やる/やらない」は本来同等の価値です。最初から善悪に色分けされていません。ですから、「走ってはいけません」と言われたときに、子どもが走り出すのはおかしなことではありません。それを楽しいと感じることもおかしなことではありません。

躾の目的は、子どもが自律して生きることができるようにすることです。言い換えると、その場その場の「物事の判断を考えることができる」ようにすることです。人生を他人任せにしない生き方を育むことです。

先ほどの走ってはいけないところでどうするかは、「善悪」の判断になります。「取らないで」と言われてどうするかも、「善・悪」の判断です。判断は、怒られるから行動を抑制するのではなく、自分自身で決めて責任を伴った時にはじめて自律の意味を持ちます。

そこで、躾において大事にすべきことは、子ども自身に「善悪を考える」ように促すことです。子どもが自分自身の心の声に耳を傾けさせ、子ども自身に倫理観や道徳心に問いかけさせるのです。「叱られるから」、「褒められるから」という理由で行動を抑制するのではなく、自分の心が「よくないことだ」と判断するから自制するのです。

一方的な命令や威圧や誘導は、思い通りに子どもをコントロールすることであり、子ども自身が自分を制していることとは違います。

躾の前提は、子どもは一人前の独立した人格であり、親の所有物ではない、という当たり前の敬意に立つことです。人生の先達である大人が子どもに対し、人格を尊重し、敬意をもって接することから躾は始まります。そのような関係から、子どもも相手を信頼し、尊敬し、人格を尊重することを学びます。他者への敬意と尊重こそが子どもの内に「善・悪」を判断する自制を育みます。

2021年01月22日