「ことば」の環境

西荻学園幼稚園はキリスト教を保育の土台としてます。聖書の教えを土台としているということです。聖書が、私たちの持つものの中で、もっとも警戒し、恐れているものがあります。それが「ことば」です。

これまでの人類の歴史の中で、人が人を死に追いやるときに最も多く用いてきたものは何でしょうか。剣でしょうか、銃でしょうか、核爆弾でしょうか。ある人は「毒」だと言いました。しかし聖書は武器や兵器ではなく、人の腹から出てくる「ことば」、罪に支配され、制御されない舌こそ最も人を死に追いやってきたものだと受け止めています。「ことば」に苦しめられ、そそのかされ、誘惑され、傷つけられた人の間で最も多くの争いと「死」が生み出されてきました。

聖書は、私たちの罪に「ことば」が深く関わることを伝えています。創世記の原罪の物語は、神様との約束を破ってしまった物語ではなく、食べてはならない木の実を食べてしまったことを指摘された時に、男と女、人と世界、神と人との愛を、人が「ことば」をもって決定的に破壊してしまった物語です。「食べてはならない木の実を食べてしまったのは、私のせいではない。」「あなた(神様)が合わせてくださった女のせいです。」「あなた(神様)がお造りなった蛇のせいです。」そうやって愛を壊していきました。悔い改めるならば、神様は赦してくださったはずです。しかし、ことばを用いた時、神様との関係は壊れ、「死」が生まれました。そこで聖書は、人間が「ことば」を用いることについて、特に心を込めて戒め、教えています。

ことばについて教えている聖書の箇所は、実にたくさんあります。たとえば、知恵を伝えているとされる旧約聖書の「箴言」には、無数の教えがあります。その中の18章の言葉を紹介します。
「愚か者は英知を喜ばず 自分の心をさらけ出すことを喜ぶ。」(箴言18章2節、新共同訳)
「愚か者の唇は争いをもたらし、口は殴打を招く。
愚か者の口は破滅を 唇は罠を自分の魂にもたらす。
陰口は食べ物のように吞み込まれ 腹の隅々まに下って行く。」(箴言18章6~8節、新共同訳)
「一度背かれれば、兄弟は砦のように いさかいをすれば、城のかんぬきのようになる。
人の口の結ぶ実によって腹を満たし 唇のもたらすものによって飽き足りる。
死も生も舌の力に支配される。 舌を愛する者はその実りを食らう。」(箴言18章19~21節、新共同訳) 

もう一つ、代表的な聖書の言葉を紹介します。新約聖書のヤコブの手紙3章の言葉です。
「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。
御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。」(聖書 ヤコブの手紙3章1~12節、新共同訳)

ヤコブの手紙3章の言葉は、子どもたちを迎える私たち「教師」にとって刻み付けて心しなければならない教えです。まず最初に「多くの人が教師になってはいけません」という戒めから始まっています。教師は他の人よりも厳しい裁きを受けることになるからです。何よりも「ことば」を裁かれるのです。

教師は、「ことば」を用いて子どもたちと接します。子ども同士で諍いがあった時、どういう言葉を、誰からかけるのか。遊び相手が見つからない子を、どう励まし、促すのか。泣いている子を慰める言葉は何か。保育の様々な準備をしながら、一日を振り返って、「あの時の言葉は、よかったのか?」と考えます。「こういう時には、どういう言葉をかけるのがいいのか?」、「この場面では、むしろ声をかけてはいけないのではないか?」、教師は常に子どもたちに向ける言葉を準備しています。「ことば」は口から発するものだけではありません。表情やボディランゲージ等、私たちから発せられる様々な「ことば」を子どもたちは敏感に受け取っています。

「子ども時代こそ最も豊かで、成長することで失っていく」ということを青山学院大学の福岡新地教授(分子生物学者)の対談記事を読みました。その記事を紹介します。
「必要なものが組み合わさることで大人になるわけではないからなんです。むしろ逆に、生命の基本は、まず過剰さを与えられ、それを刈り取っていきます。脳のニューロンは生まれた直後に多数の網目ができ、よく使われるものは強化され、使われないものは刈り取られます。大人になるということは、実は何かを失っていく過程なんですよ。免疫システムも胎児の期間が最も豊穣で、自己免疫疾患にならないように自分自身に反応する免疫システムがなくなり、外敵と戦うものだけが残ります。引き算なんですね。必然的に、子どもは豊かで大人はプアだということになります。」「子ども時代は五感が敏感です。嗅覚や視覚も良く、森に行けば匂いの変化がわかり、光の輪郭や蝶の羽、カミキリムシの輝きなどもとてもよく見えます。聴覚も子どものほうが広範囲で、高い音が聞けます。子どもは豊かな外部に対するプローブをもっているわけです。そこで知り得たことが大事で、多感な子どもたちに多様な体験を与えて、その中で自分にとって大事なものを自ら選び取ってもらう時期として、子ども時代があると思います。」(保育ナビ2021年2月号、フレーベル館)

新型コロナウイルス感染症のために、教師は全員マスクをして子どもたちと接しています。幼児期の子どもたちは、相手の表情から得る情報の7~8割を相手の目から感じ取っているそうです。もともと子どもたちは目から「ことば」を感じ取る力が豊かです。その子どもたちと、私たち教師はもう一つの大事な表情を伝える口元を覆って接しています。先ほどの福岡教授の言われるとおりであるならば、必然的に、子どもたちの目から情報を得る力は衰えることなく、むしろ強化されています。そこで、言葉をもって補うことは、とても大事なこととなっています。これまで以上に、舌の制御が、教師にとって大切になっています。子どもが相手だからと「ことば」を疎かにすることはできません。「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(ヤコブの手紙3章6節、新共同訳)。

私たちは今、もう一度自分の「ことば」を発することの恐ろしさを知るべきでしょう。特に、私たちの「ことば」を子どもたちが感じ取っていることを、深く知るべきです。発せられた言葉だけでなく、メールやラインを打つ人の「ことば」を、その目を子どもたちは見ています。そこで、火のように森を焼く様な言葉が発せられていることを、子どもたちは感じ取ります。

聖書は、神様が「ことば」によって世界を創造されたと記します。聖書において「ことば」は単なる響きではなく、そこに発した者の「実(じつ)」があると考えます。ことばには重みがあります。たった一つのことばが、人生全体に大きな影響を与えます。言葉が正しく用いられないと、自分や他の人々の人生を破壊することもあるのです。

私たちは言葉をもって主張します。そのような時こそ言葉を制御しなくてはいけません。主張は、容易に「勝ち負け」の問題となり、攻撃的になり、残酷になります。だから私たちはそういう時こそ黙ることを心しなければなりません。正義の主張、傷ついたという主張、過ちに対する言い訳をするときくらい自分の言葉に支配されてしまう時はないのです。言葉に支配された時、事柄ではなく人間への攻撃がはじまります。自分を正当化し、味方を得るために何でもします。先ほど紹介した創世記の原罪の物語がまさにそうなのです。だから、聖書は次のように語ります。言葉は最小にして、生き方で示すべきだと教えています。

「あなた方の中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。・・・ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブの手紙3章13~18節、新共同訳)

子どもたちを迎える教師として、ヤコブの手紙は大切なことを教えてくれています。また、イエス・キリストも言葉について教えておられます。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12章2~3節、新共同訳)

SNSの発達は、新しい言葉のフィールドを開拓すると共に、そこにも癒しがたい亀裂があることを教えています。仲間内の噂話はもはや隠れることができません。陰口は隠せません。個人への攻撃も隠せません。SNSは匿名の世界ではなく、この世で最も正確に発言者を追い詰めることのできるところです。

子どもたちは見ています。私たち大人の「ことば」の世界を見ています。聞いています。子どもに何かを与えるよりも、子どもの前で「ことば」を制御することのほうがはるかに大事なことです。子どもたちの言葉が攻撃的なるのは、私たちの日常に響いている「ことば」がそのようになっているからです。言い訳的になるのであれば、そのような「ことば」に接するからです。「ことば」は子どもの中に勝手に湧き上がるものではありません。どこかで獲得し、使い方を身に着けていくのです。現在のコロナ禍において、世間に響いている「ことば」は、子どもたちにとって潤いあるものはなくなっているように感じています。

幼児教育において、子どもたちの過ごす環境を整えることは重要な課題です。それは、おもちゃや遊具、調度にとどまらず、子どもたちの語る言葉、聞く言葉にも十分に心を配っていきたいと思います。「人の口の言葉は深い水。知恵の源から大河のように流れ出る。」(箴言18章4節、新共同訳)子どもたちの心を潤す「ことば」で幼稚園が満たされることを願っています。

(2021年2月父母の会の園長の話から)

2021年02月09日