答えのない問題を考える力

今は、医療や技術、ダイエットや子育てにいたるまで日々新しい発見や検証が発表され、これまでの常識と思っていた考え方が覆されるということが次々とあります。昨日までと全く正反対のことが「正しい」情報として伝えられます。何をどう信じればいいのかわからなくなるというのは、情報化著しい社会の宿命です。しかし、そこで自分で考えて「選ぶ」ということが求められます。

その時に求められるものを書き出せば、情報を「見極める力」、常識を「疑う力」、未来を「予測する力」、多面的に物事を「考える力」、自分の判断を「検討する力」などになるでしょうか。これらの力が育っていかなければますます増え続ける情報の洪水に振り回される人生になります。

このような時代をチャンスと見るか、危機と取るかは価値観に由来するでしょう。しかし、事実として今の子どもたちはこれまでの親世代や祖父母世代の常識や価値観に生きるのではなく、自分の人生の歩みを自分で考え、自分で選び、自分の力で開拓しなければならないという現実があるのです。

これらの力を育てるときに必要なものの第一は「言葉」です。思考は言葉によって形成されます。幼児期は沢山の言葉を獲得します。中には親として眉を顰めるような言葉をいつの間にか取得していることもあるでしょう。しかし、それらの言葉を使って話すことを叱ったのでは、子どもは話すことに怯えてしまいます。子どもにとって話すことは思考することそのものです。それらの言葉を使うとどうして不快な気持になるのかを「会話」をもって伝えることで、子どもに「考える」機会と「選択」の機会、そして「検討する」機会を与えることに繋がるのではないでしょうか。

もう一つは、年長児ほどの言葉を駆使することができる子どもには、少しずつ「答えのない問題」を投げかけることです。念のため申しますと、「答えがない」のですから子どもはそこで「言葉」を失って黙ってしまうかもしれません。しかし子どもの中で「問いかけ」が消滅することはないようなのです。ある時きっかけを得て、突然話し始めます。

答えが決まっている問題に置いて「言葉」すなわち「思考」はさほど重要ではありません。むしろ「知識」が重要です。しかし、最初に触れましたように今の時代は知識は外部記憶装置としての端末やネット検索を用いれば、一先ず得ることができます。知識はもちろん軽視すべきものではありません。しかしもはや個人で管理しきれないほどのスピードと分量が現代社会を生きるための知識として必要になっているのです。風が吹いて桶屋が儲かるのはせいぜい同じ町内の出来事でした。しかし、蝶が羽ばたくとハリケーンが起こるのは地球の裏側かもしれないということを予測しなければならないような時代なのです。「想定外」が言い訳にならない時代とは、そういう時代です。

先日、世界的に非常に優秀とされる大学に進んだお子さんが卒業を前に「留年」されたという話をききました。なぜ留年されたのか。成績は極めて優秀であったそうです。しかし「哲学がない」と教授会は判断をしました。つまり単なる知識においては極めて優秀と言っていい。論文を書くと情報を駆使して抜群の完成度のものを提出する。筆記試験も問題ない。しかし人物に「哲学」がない、という理由でした。将来必ず指導的な人物となることが求められるだろうから、一年留年して、旅して世界の答えの出ない矛盾を見て、考えなさいと勧められたそうです。えらいと思ったのは、このように告げられた親は、この教授会の判断に「愛情」を感じたと言われたことです。そして、有難いと感じつつ、その忠告に従ったのだそうです。教授たちが真摯に一人の学生の人生を慈しんだ上で出された選択であったからでしょう。

情報を「見極める力」、常識を「疑う力」、未来を「予測する力」、多面的に物事を「考える力」、自分の判断を「検討する力」、それらを駆使してどう答えのない問題に取り組むのか。それをどう伝えていくのか。それが幼児期、少年期、青年期のどのような時期の教育にとっても重要な課題となるはずです。

2018年12月05日