ヴィジョンを持つ

幼児教育の環境は今年も様々な揺さぶりをかけられることでしょう。経済的にも、学識的にも、様々な発言が無責任に幼児の育っていく環境を揺さぶります。そのような世相の中で、貴重な成長期である幼児期の育ちを支えるものは何でしょうか。私はしっかりと子どもについてヴィジョンを持つことだと思います。幼児教育の場である幼稚園はもちろん、親もヴィジョンを持つことが大切です。

かつては、単純に表現すれば、「優秀な成績を得、有名な大学に入り、優良な企業に入社する」という目標がありました。最近ではこれが「日本で」だけでなく「海外で」という視野の広がりを得たくらいでしょうか。

皆がこの道を辿ると成功した人生を得ることができると信じられていた時代にはヴィジョンは必要ではありませんでした。実際に目に見える成功者がいるのですから、目標を達成するために「競争に勝利する」ことが大事だったのです。そのような中でヴィジョンに思いを巡らせることは、かえって競争力を損なうことになります。既に先行者がいるのですから、後の世代はより効率よく競争に勝利するように工夫し、あとは頑張ることが求められていたし、それで成果がでていたのです。しかし今日、このような頑張りによる目標の達成は、成功と幸福を必ずしも約束してくれません。むしろ、「それは~で代わることができる」という非情な存在否定にさらされています。

言葉を変えるなら、既に日本の子どもたちも親も幼児教育そのものも、トップランナーとして道を拓くことを要求されるようになっているということです。そこには参考とすべき事例はあっても、後追いすべき目標はありません。真似るべきものがない中で、考えることなくひたすらこれまでどおりに「頑張る」、「努力する」ということを続ければ、結果は明白です。絶対に取り戻せない時間を浪費して、最後は行き倒れることになります。このような時代に子どもたちが道を切り開いていくために、「ヴィジョン」を持ち、示し、共感を得ることが必要だと考えています。

このように指摘すると、あるいは「うちはちゃんと子どもの将来を考えています」という方がおられるはずです。それは本当に「ヴィジョン」になっているでしょうか。「ヴィジョン」と「目標」を間違えていないでしょうか。「目標」は達成を目指して挑戦すべき「通過点」です。そして、目標は往々にして「命令」に姿を変えます。「ヴィジョン」は、それを目指していくことで「世界にどのような影響を与えるのか」を視野に収めるものです。つまり「子どもが世界にとって代わることのない人となる」、とはどういう人として育っていくことなのか、を示すものです。

キリスト教会ではヴィジョンは「幻」と翻訳されて用いられてきました。幻を抱くときに必要なのは、分析と統計と経験ではなく「感性」です。ヴィジョンを聞いたときにワクワクして、ぜひ自分も参加してみたいと思うような「感性」の世界がなければヴィジョンにはなりません。それは必ずしも言葉として完成しないものかもしれません。しかし、それを掲げることで、目標を定め選ぶ時の「筋」が通ります。

親が抱くヴィジョン、家族が抱くヴィジョン、そして何よりヴィジョンを生きる主役である子ども自身が共有することが重要です。そして、そこに幼稚園も自園のヴィジョンをもってワクワクしながら参加します。地域が支えてくれます。育ちゆく子どもたちの目の前に世界を広げていきます。そこで「選択」を迫られるときヴィジョンは力強く決断を後押ししてくれます。

2019年01月08日