家庭でルールを考えてみましょう①

子どもは日常の様々なコミュニケーションや行為によって成長していきます。その時に子どもと家族がルールを共有していることは良いことです。

子どもの自己肯定感を高め、自信を持たせるには、自由に考え、やりたいことをやるということは大切です。しかし、それは何でも思い通りにさせるということとは違います。

子どもを自由にさせることを、まるで鮭を川に放流するように、後は放っておくという「放流型」の子育てをなさる方もおられます。これは極端です。私は全く勧めません。無法地帯である大海原に向けて川に放流された鮭の稚魚が無事に帰ってくる確率は小数点以下です。それで立派な成人となるのは、宝くじが当たるような奇跡です。子育ては博打だと言われる方もおられますが、「何でも自由にさせる」というのはあまりにも見込みのない賭けです。無法地帯で育つのは、自分勝手で他者への思いやりに欠けた、衝動的な人間です。社会性や自制心、責任感がなければただのわがままです。

そこで―たとえが悪いのはお赦しください―子育ては「柵」で囲われた牧場で羊や牛を自由にさせるような「放牧型」であることが望ましいと思います。柵はここからは出てはいけないというルールです。

幼稚園で子どもたちと遊んでいると分かるのですが、子どもは自分がどこまでやっていいのか、どこまでが許されるのかを試しています。そこで明確な「限界」をルールとして共有することで、子どもは「ここまでならやっていい」という判断基準を持ちます。それは安心を与えられるということです。また、同時にルールによって子どもは危険から守られます。ルールと言う「柵」は安心を与え、危険から守るものです。

この限界がなければ子どもはどこまでやっていいのか分かりません。分からないままに力いっぱい遊んで、怪我をしたりトラブルを起こしてから「何やってるの!ダメでしょ!」と怒られるのは、子どもにしてみれば理不尽です。

ルールは人を縛るもので必要ない。どんなことも受け入れる寛容さが必要なのだという方もおられるかもしれません。そうであれば、「絶対に」子どもを叱ってはいけません。子どもの犯すあらゆる間違いを子どものせいにしてはいけません。それは、「ルールは不要」と判断している大人の責任です。「ルール」を与えないのであれば、子どもの間違いの一切を大人は一方的に背負い続けるべきです。それが「フェア」なことです。

実際に、ルールのないところぐらい人間が不自由を感じる環境はありません。ルールは人をより安心して自由に解き放つためにあるものです。

2019年01月24日