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幼児期にはタイムリミットがある

0~6歳は「人格形成期」と言われます。それは人生の終焉まで大きな影響を与える時期ということです。この時期にはタイムリミットがあります。「0~6歳」までなのです。体の器官の成長や、筋肉や感覚器の発達は人格形成に深くかかわります。もちろん個人差はありますが6歳までに歯が生え変わり始めます。内臓器官の発達の40%が6歳までに行われます。感情や情動を司る脳は6歳までにほぼつくられます。体も心も、幼児から少年期、さらに大人へと変化しているのが0~6歳です。この時期に形成された「人格」の上に学習による知識、経験、行動原理や社会や人とのかかわり方といったものが築かれます。

つまり、幼児期とは人生の大樹が力を蓄える根っこが育つときであり、人生という家の土台が据えられるときです。据えられた土台を無視して家を建て上げることはできません。幼児期こそ親世代が子のために時間と知恵と労力を注ぐべき時です。

「時は金なり」という言葉がありますが、時は金より貴重な取り返せない「いのち」そのものと思ったほうが良いのです。「時はいのちなり」です。

2018年08月30日

人間力

ご自分のお子さまは将来どんな人として生きているでしょうか。弱いよりは「強い人」、いじわるよりは「優しい人」、いいかげんよりは「責任を果たす人」、無気力な人よりは「意欲のある人」、優柔不断よりは「決断できる人」、口先ばかりの人よりは「行動する人」、孤独よりは「人と交流できる人」等々。少なくとも幸せな人であってほしいと皆さん願っておられるはずです。

最近「人間力」という言葉が使われるようになりました。「人間力」があるというのは、つまり何なのでしょう。それは、「あなたにいて欲しい」と思われる人格、言い換えるならば「愛される」力ということです。実はお子さまに対して抱いている「将来こういう人であって欲しい」という保護者の皆さまの純粋な願いこそ「人間力」の土台なのです。

本当に「強く優しい」人は、「意志」があり「行動」を伴い「決断」をする「責任」を負い、人と力を合わせて限界を超えて進む道を拓く人です。

幼児期は人格形成期です。この時期に自覚して「意志」、「行動」、「決断」、「責任」、「交渉」といった将来の力の根っこを育てることが重要であり、根っこの成長を阻害するものは、どんなに世間が勧めても取り除くことが幼児教育の基礎的な志向でなければならないと思います。

 

2018年08月30日

2学期がはじまります

 長かった夏休みも終わりが近づき、夏期保育のために登園した子どもたちの元気な声が幼稚園に響きました。久しぶりに「おはようございます」の挨拶をすると、夏の間にひとまわり大きくなったように感じました。大変な猛暑でしたが、子どもたちは充実した夏を過ごしてきたことと思い、うれしく感じました。長い休みの中、大切にされてきた子どもたちは再びはじまる幼稚園生活にためらいやとまどいを感じ、登園をしぶったり、泣いたりすることがあるかもしれません。子どもたちを見守り、送りだしてくださるようお願いします。また、夏休みの中で身に着けたお手伝いや早寝早起きなどの良い習慣は、これからも続けていけるようにご家庭でも励ましていただきたいと思います。
 2学期は運動会やクリスマスなど大きな行事があります。お友だちとのかかわりを深め、特別な成功や充実といった大きな経験を子どもたちが得られるように、ご家庭のご協力をいただいてまいりました。今年も寛大なお心でご協力をいただけますよう、どうぞよろしくお願いいたします。
(2018年9月 園だよりより)

2018年08月31日

「失敗」はない

教育の目的は「生きる力」を獲得させることです。もっと生々しい言葉で表現すると「食べていける、食わせていける、稼げる、養える」人にすることです。親によって、先輩によって、教師によって、一期一会の出会いの中で教えられることがあります。知識や経験を通して与えられるものが教育であるならば、必ず次の世代が生きていくための力となるべきなのです。幼稚園は教育をするところです。その目的は「卒園」させることではありません。将来、独立して生きることになる子どもたちの生きる力の獲得に幼児期にふさわしく貢献することです。

子どもたちが生きていく世界ーーそれはそのまま親世代である私たちが生きている世界の延長ですがーー、そこはいつでも成功できるドリームランドではありません。いつでも褒めてもらえるところでもありません。必ず自分に同調し、同情してくれるところでもありません。努力が報われるとも限りません。「うまくいかないこと」でいっぱいです。「生きる力」という点から考えるならば、「うまくいかないこと」こそ「学び」の機会です。そして幼児期というのは「うまくいかない」経験を保護の元で得ることのできる時期です。

子どもたちは型押しされた工業製品ではありません。神さまの愛のこもった命であり、世界に唯一のご両親から生まれた命です。皆違うのですから、隣り合えばぶつかることがあります。いつでもぴったり寄り添える筈がありません。ケンカを経験します。勝ち負けが生まれます。一つしかないおもちゃを二人の子どもが欲しがれば、当然「得た者」、「失った者」に区別されます。上手に作れなかったり、早く走れなかったり、登れなかったり、捕まえられなかったり、色々な「うまくいかない」経験に泣く子がいます。いらだつ子がいます。

この時こそ幼児期特有の保護の元で教育が問われるのです。うまくいったなら何も教える必要はないのです。うまくいかなかったときに、それを「失敗」「挫折」としてあきらめの中で枯らせてしまうか、次へとつなげる「学び」の時として「生きる力」の養いとできるかで、教育が決まります。しっかりとした保護の元で多彩な経験を「成功」と「学び」として蓄えることと、「成功」と「失敗」として取捨することのどちらが生きる力に必要でしょうか。私は「成功」と「学び」として蓄えることだと考えています。

うまくいかなかった一つ一つの経験も生きる力を引き出します。一つしかないおもちゃで遊べなかった子に、可哀そうだからともう一つおもちゃを用意することが教育なのか、悔しい思いをした子に寄り添って一緒に時間を割いて悔しい思いを受け止め、一緒に課題を考えることが教育なのか、子どもの内に育まれてきた生きる力の成長を信じて黙って我慢して待つのが良いのか。教育が問われる時です。そのとき、生きる力を得るという課題は、保護者の課題でも教師の課題でもなく、子ども自身の命の課題であることを忘れてはならないと思います。

例えば、 一つしかないおもちゃで遊べなかった子は、「明日は一番に幼稚園に行く」と宣言して帰り、次の日お母さんを急かして登園してきました。おもちゃを真っ先に使うためです。しかしそれも一日だけのことで、一つのおもちゃに他のおもちゃを組み合わせて、一緒に遊べる工夫を始めるようになりました。朝一番に登園するという解決を得るために教師のサポートやお母さんの協力があったのですが、一緒に遊べる工夫を始めたのは子どもたち自身です。安易な慰めで課題を取り上げられたり、大人の正解に同調させることで思考や感情を奪われたりせず、しっかりとしたサポートを得られた子どもたちの経験に「失敗」はありません。

 

 

2018年09月01日

子どもの役割

先日、バスに乗っていたところ、こんな光景に遭遇しました。

混んでいるバスの入り口付近に見るからに近づきがたい雰囲気の険しい顔つきの青年がいました。足を投げ出すように寄りかかって立っているので、通路が塞がれています。そこにベビーカーにお子さんをのせたお母さんが乗車してきました。「ごめんなさい」と言いながら奥に進もうと若者の傍を通りました。若者は明らかに迷惑そうに足を引っ込めました。しかし、混んでいるため奥に進めず、お母さんは若者の傍にベビーカーを押さえながら立ちました。丁度スマホをいじる若者の視線に、ベビーカーのお子さんが見える位置でした。

若者は相変わらず険しい顔でスマホをいじっていましたが、バスが動き出してしばらくしたらスマホから視線を外して、ちらちらとベビーカーのお子さんに視線が動くようになりました。そしてさらにしばらくしたら、何と近寄りがたい険しい顔をしていた若者が百面相をはじめたのです。唇をつきだしたり、笑ってみたり、しかめっ面をおもしろくやったり…。大変失礼ですが、とてもそんな表情を人前で見せるように思えなかったので、とても印象的でした。もちろん可笑しなものと感じませんでした。善いものを見たという思いがありました。

松居和先生(元埼玉県教育委員長)の講演で伺ったことがあります。それは社会において0歳には0歳の子どもにしかできない仕事があるというお話です。それは、「人の善いものを引き出す」ことで、私たちは0歳の子どもによって「善い人間」に育ててもらうのだと話されました。先ほどの光景からそのことを思い出しました。子どもの求めていることや心はわからないことがいっぱいあります。しかしその「わからない」相手の心や気持ちを理解しようとするために、忍耐やコミュニケーション力が引き出されてくるのです。それも周りにいる人を引き付けるほどの幸せと共にです。そして人は自分自身を「善い人」と感じ取るのではないでしょうか。0歳は0歳にしか出来ない仕方で家庭を守り、社会を守る仕事を果たしているのです。そんなことを思わされた光景でした。

 

 

2018年09月02日

たっぷり外遊びをしましょう

 園庭から子どもたちの元気な声が聞こえてきます。雨が上がって久しぶりに外で遊ぶので、今日はいつも以上に元気が溢れています。朝一番に登園してきた子は、もう一時間以上遊んでいます。けれどもまだまだお部屋に入るつもりはないでしょう。お日さまと風と土や砂、草木や花、鉄の遊具や木の遊具が子どもたちを誘っています。西荻学園幼稚園の園庭は大きさを自慢できるものでありませんが、自由に遊べる園庭があるのは本当に大事なことです。

外遊びをすることは子どもにとてもよい刺激があります。何といっても、成長期にある身体が強くなります。外遊びには身体を強くする要素が沢山あります。

恵まれた日本の自然の与える感覚は最高の刺激です。どろんこ遊び、砂遊び。花のや葉っぱの色を見る。匂いを感じる。感触を楽しむ。常に違う風や雨や雷を感じる。虫に刺されるといったことも危険を学ぶことになります。良い刺激を受ける中で「感受性」も育まれます。本当に危険な虫などは幼稚園では直ちに駆除し、防疫に努めています。
五感への刺激は、脳の中でも前頭葉を刺激します。外遊びを通して子どもの脳は発達します。前頭葉は感情や意思にかかわるところで、その発達によって集中力も増します。
以外に思われるかもしれませんが、「算数」に代表される「見えないもの」へのイメージを育てているのは実際に体験した体感覚です。五感を駆使して遊んだ体験が、現実には見えないものへの想像力を培います。「かくれんぼ」や「おにごっこ」は「空間認識力」を発達させます。座っているよりも、体を動かして遊び尽くした経験が算数に取り組むときに重要な「試行錯誤」や「発見」を身につけます。
走ったり、登ったりといった全身の運動は肺機能を発達させます。基礎的な運動能力を発達させます。筋肉を鍛え姿勢が良くなり、集中力を増します。結果として雑菌への抵抗力がつきます。皮膚が丈夫になり、骨が丈夫になります。免疫機能も強くなりますから、風邪をひいても治りやすくなります。
太陽の光を浴びることで、体内時計がリセットされます。生活リズムが整いますから、課題に取り組む意欲や情緒の安定が得られます。

沢山の外遊びの経験は子どもの成長にマイナスになることはありません。天気の良い日、たっぷりと外遊びをしましょう。

2018年09月05日

命と死と

 西荻学園幼稚園はキリスト教会が設立したキリスト教主義の幼稚園です。園長の私は、牧師と園長を兼務しています。今週は牧師としてお二人の方のご葬儀をしました。お二人ともお子さんたちに見守られて息を引き取られました。ご葬儀は、故人へのお子さんたちの感謝の思いで満たされた涙のご葬儀でした。朝、命の輝きにあふれる子どもたちを元気に幼稚園に迎え、その後死者を涙をもって教会から送るというのは牧師と園長を兼務しているからこその経験です。

 人の死は、その人の生を写し出します。牧師として沢山の方の死に立ち会う機会がありました。社会的に大変な成功を収めた人が、「死んだら呼んでください」と言われて、子どもから捨てられて死んでいく様を見ました。亡くなったことを知らせたら、「面倒なので適当にしておいてください」と言われた施設の方のお話も聞いたことがあります。

 「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いたでしょう。だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送りなさい。」(アメリカ先住民のことば)

 幼稚園の子どもたちはもちろん、保護者の方々も今は若く、老いや死は実感のないものでしょう。しかし、誰にでも衰える時があり、死を迎える時があります。自分のことを委ねなければならない時が来ます。これは私の経験から確信をもって言いますが、その時には、本当の親子の関係が暴露されます。「愛」が言葉だけであったのか、時と身を与え互いに愛してきたのかがあらわれてきます。

 幼稚園に集う子どもたちも保護者の方々も、教職員たちも、「あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送」ることを心から願っています。幼児期に育つ生きる力の根っこが、そんな人生を終わりまで支える根っことなるように、心してまた命の輝きに満ちた子どもたちを迎えたいと思います。

2018年09月08日

幼児期の課題―「愛着形成」

 幼児期の愛着形成は、その後の成長に大きな影響を与えます。特に人が自発的な動機で物事を始められるかどうかに深く影響を与えると言われています。自発的な動機を持たない人間は、外部から動機を与えられないと動けないということです。いわゆる「指示待ち人間」を思い描いていただければよいと思います。

 「愛着」はボウルビィ(Bowlby.j.)によって提唱された概念です。子どもはある特定の養育者(多くは母親)との間に親密な関係を維持しなければ、社会的、心理的な問題を抱えるようになる、というものです。子どもはたった一人の養育者(父親には申し訳ありませんが、殆どの場合母親です)を心の拠り所として、その人との間に愛着を形成することで、課題に挑戦する意欲が湧いてくるのだと言います。たった一人の養育者に対して、子どもは「自分は無条件で愛されているか」、「誰よりも優先して庇護されているか」を常に推し量るのです。その条件が満たされないと、子どもは成長する中で他者への関心を正しく抱けず、さらに熱心にたった一人の養育者の関心を引くことに傾くために、新しい課題に挑戦する意志が湧いてこないのです。自発的な動機が芽吹かないのです。

 「愛着」を作るための子どもの努力は生後6か月頃から始まり2歳頃まで活発に現れます。その間、養育者の注意を引くために泣いたり、微笑んだり、声を出したり、身振りを示したり、しがみついたり、後ろを追いかけたり、聞き分けのない態度をとったり、わざと嫌いと言ってみたり、様々な行動を通して養育者が自分に関心をもって傍にいるのかどうかを確認します。私の見てきた幼稚園の子どもたちは、まさしくこのような行動を取ります。このような行動によって「愛」を求める子どもに養育者が応えるというやり取りの中で「愛着」は形成されます。この形成のタイムリミットが「6歳頃まで」と言われるのです。

 日本には、「つの付くまでは膝の上」という言葉があります。ひとつ、ふたつ、みっつ、と歳を数えて「九つ」(9歳)までは子どもの求めに応えて膝の上に座らせてあげなさい、という意味の言葉です。6歳どころか9歳までかけて大事に育てるのが「愛着」だと理解されていたのです。明治維新の頃、まだ江戸を訪れた外国人は、子どもたちの求めに大人が喜んで応えて膝の上に座らせ、子どもたちが幸福を感じてのびのびと安心して遊んでいる姿を見たとき、「ここは楽園だ」と本国に報告したそうです。

 今の時代の流れは、子ども自身が選んだ「たった一人の養育者」から、あまりにも早く子どもを引き離そうとしています。福祉は今を満足させ、依存させることが目的ではなく、福祉によって幸福な未来を獲得し、自立的自発的な人生を生きることが目的であるはずです。そうであるならば、乳幼児期の福祉とは愛着形成を親子が安心して行える環境を整えることです。

 幼稚園まではお子さんとの関りを増やすことを考えてください。あせって自立させる必要などないのです。愛着形成が十分にされれば、子どもは安心して親元から離れて遊びまわる姿を見せてくれます。むしろ、愛着形成が不十分な時期に刺激を与えようとして習い事を始めるというのは、私自身はお勧めしません。それは愛着形成後の次のステップです。まず幼稚園の頃までは愛着形成を十分にするべきです。

2018年09月10日

甘え上手な子はリーダーの素質があります

「先生、見ててね!」、「ママはわたしといなさい!」、こんな風に母親や先生にくっついて離そうとしない子が必ずいます。心配して早く引き離す必要はありません。たっぷりと甘えさせてください。甘えさせるのは、何歳まででもいいのです。べったりと甘えていた子も、ある時を境に親や先生からどんどん離れて「ママは見なくていいの」「先生は向こうへ行きなさい」等と言って自分からお友達の中に入っていきます。しかもやがてお友達同士の遊びの中でリーダー的な存在になります。

思うに、甘えていた自分をどのように接して助けてくれたか、守ってくれたかを肌感覚でスキルとして覚えていくのではないかと思います。自分が頼りとされたときに、お友達を助け、喜ばせる接し方を選ぶことができるようになるのです。甘える子は、とても面倒見がよい子になります。

エリクソンという学者は、無条件の愛を受けた基本的信頼が自己への信頼を育てる、という趣旨のことを語っています。甘える自分を受け止めてもらったいくつもの経験は、他者への思いやりにつながります。ですから、子どもが甘えてきたらむしろ喜んで欲しいと思います。しっかりと甘える子の中で他人と協働する力が育っていると思ってほしいです。

しっかり甘えることができた子の育てるリーダーの素質は成長にともない大きな影響を持つようになります。一人で何でもやるのではなく、周りの力を借り、皆の力を束ねて、一人では達成できない難しい課題を乗り越えていくからです。これは集団知を形成することで、一人の天才を超える力を発揮して殆どの歴史を重ねてきた人類にとって極めて重要な素質です。

最近の小学校では「1/2成人式」というのをします。その時にある小学校では宿題として「親に抱っこされる」という課題を出す、という話を聞いたことがあります。小学校の高学年ともなれば、「抱っこして」と言うのも恥ずかしかったでしょうし、親の方もためらうこともあったでしょう。しかし実際に抱っこされた子は皆、満足した表情を見せ、「嫌だった」という子はいないそうです。逆に現代は、抱っこをねだるのも抱き上げるのもためらう必要のない幼児期に甘えきることができずに心の不安定さを持つ子どもたちが見られるということなのかもしれません。

いつまでもご自分にくっついて離れようとしないお子さんを「このままでは皆の中で孤立してしまうのでは?」と心配されたり「お友達と遊んで来なさい」と無理に押し出す必要はありません。お子さんが満足するまで甘えさせてください。子どもはいずれ必ず親を置いて離れていきます。

2018年09月11日

一人遊び

「お友達と一緒に遊べてますか?」というご心配をよく聞きます。保護者はお子さんとお友達のとの関係をとても気にされます。そのお気持ちはよくわかります。しかし、子ども同士の間で不和があったり、ケンカしたり、無視したりといった葛藤とトラブルがあるのが普通です。保護者や先生の見守りとサポートがある時期に基本的な人間関係の葛藤を経験しておいた方がいいと思っています。

成長とともに子どもの動きは大きく活発になって、保護者とすれば走り回る姿を見て衝突しないかとハラハラし、皆と離れて一人で大人しくしていると「いじめられてないか」と心配してしまうのが幼児期です。この時期の子どもたちは、周りからは友達同士で遊んでいるように見えても、実際は「一人遊び」の延長線上でかかわっている時期です。同年代ではなく大人との一対一の関係を求める子もいます。幼児期はどんどん視野を広げていきますが、発達心理の面からは、まだ主観と客観の区別が未分化だと言われます。物事を自分の視点や経験を中心にして捉えるため、自分があ集団の一員であるという自覚はあるのですが、他の人のことを客観的に見ることができないために相手の「気持ち」を理解できる段階には至っていないのです。9~10歳ごろまで自分と周囲を区別できないという意見もあります(ルドルフ・シュタイナー)。

「一人遊び」は主観の中で生きる子どもにとって必然的な遊びの形です。無理にお友達と遊ぶことを強要されずに「一人遊び」に没頭していた子の方が客観視を始めた後のお友達との関係が上手にできるようになるようです。「自分の世界」を一人遊びを通して構築した子は、周囲から魅力的に見える、と言われた先生の話を伺ったことがあります。

逆に一人遊びが中途半端に中断されてきた子は、他の子に興味を持ち始めると、遊んでいたおもちゃを勝手に取ったり、苦労して皆で作った砂山を勝手に触って壊してしまうといったことをします。他の子は自分の遊びを取り上げられたり壊されたりするのですから、いい気分がしないのは当然です。さらにネガティブな特徴として、集中力が続かない、すぐに投げ出す、情緒不安定といった面が見られます。「一人遊び」は字を読めるようになったり、テレビ等の情報を楽しめる年齢になると難しくなります。手指をつかって夢中になれるような環境がなくなっていくからです。

コミュニケーション能力を駆使したアクティブな人間関係を持つための力は、実は一人遊びに没頭する幼児期に力を蓄えているのです。

2018年09月12日

一緒に遊ぼう

幼稚園の園庭での出来事です。年長さんの女の子が2人、砂場でままごとをしていました。そこに年少の女の子がやって来て、「一緒に遊ぼう」と声を掛けました。年少の女の子はままごとに入れてもらいたかったのです。

「一緒に遊ぼう」「…」「一緒に遊ぼう」「…」、何度声をかけてもままごとをしている年長さん2人は一切応えませんでした。もちろん聞こえていないわけではありません。年少さんもあきらめません。「一緒に遊ぼう」「…」「一緒に遊ぼう」「…」「一緒に遊ぼう」「…」。

こういうやり取りを見ると、私たちは「聞こえないの」「ちゃんとお返事しなさい」「入れてあげなさい」と言ってしまいそうになります。年長さんのおねえさんなんだから、小さな子に親切にしなさいと「指示」したくなります。

しかし、ままごとに加わろうというのは年少さんの課題です。ままごとに入れてあげるか、拒絶するかは年長さんふたりの課題です。課題を奪ってはいけません。

「○○ちゃんは年長のおねえさんたちと一緒にやりたいんだね」と年少さんの思いを先生の声で年長さんに聞かせます。別の遊びに興味が向かないことも確認して年長さんにもわかるように確認します。ただし「入れてあげなさい」と先生は言いません。

黙っている年長さんは意地悪をして黙っているのではないのです。二人で作り上げている今の遊びの世界が大切なのです。壊されたくないのです。それは当然の心持ちです。どうしても入ってほしくない、というのも大事な選択です。しかし、小さな子の求めを無視することもできないのです。自分たちの遊びを維持しながら、新しい子をどう加えていくのか。彼らはとても難しい人間関係の課題に向き合っているのです。だから黙ってしまうのです。

年少さんは諦めずに「一緒に遊ぼう」と声をかけつづけました。年長さんは黙っていました。10分以上のやり取りです。こどもの遊び時間としては長く感じる時間です。年長さんの視野が狭くなって行き詰りそうなタイミングで、状況に目を向けさせるような声掛けを先生はします。年少さんを加えるためのきっかけとなるものに気づかせます。ついに「これを使っていい」と年長の一人が声を出しました。「こっちでやって」ともう一人が居場所を指示しました。ぎこちない中で3人でままごとが始まりました。3人の子どもがそれぞれの課題を達成しました。

「みんな仲良く」は大事なことです。でもそれは強制されたとたんに無価値なものになります。自分自身の課題の中で選択されるものです。安易な「仲良く」という指示は人間関係の課題を子どもから奪います。そんな時に大人に求められるのは「こうしてあげればいい」という解決策を出すことではなく、言いたくなる気持ちを抑えて、子どもの課題のサポーターとして同行することです。

 

 

2018年09月13日

「主体的」を守る

 私たちの国には幼児教育について示す文部科学省の発行する『幼稚園教育要領』という文書があります。平成29年度に改訂され文部科学省のホームページから全文と解説を見ることができます。これは幼児教育に携わる者にとって非常に重要な文書です。

 幼稚園教育要領の中に頻繁に出てくる言葉は「主体的」という言葉です。子ども自身の活動について記すところで使われています。他にも「自発的」、「自分で」「意欲的」という言葉が出てきます。幼稚園における子どもの活動は「主体的」であることが最重要だと伝えているのです。これは原型となった倉橋惣三らが中心となってつくられた『保育要領―幼児教育の手引き』(1948年刊行)から引き継がれている幼児教育の基本です。幼児期の子どもの活動は子ども自身が「主体的」であることが最重要なのです。

 「主体的」とは「自分の意志・判断に基づいて行動するさま」という意味です。これはある場面では厄介なものです。例えば、園庭での集団遊びなど「みんな」で行う活動をしようとします。先生が「今日は~をしましょう」と呼びかけると「やったー」と喜んで参加する子がいる一方、「やらない」、「いや」という子もいます。そこで先生は子どもたちを「まとめる」ということに悩まされます。しかしこれは当たり前です。やりたくないことを無理強いされれば大人でも抵抗します。「みんなと同じことができないはおかしい」という価値観が「主体的」であろうとする子どもを妨げるのです。

 「みんなと一緒」を強いられ続ければ、子どもは主体的に生きることを諦めるようになります。かつて集団に誘われると加わるのですが、こっそり私のところに来て「どうせやらせるんでしょ」と言う子がいました。「そんなことはしないよ」、「やりたくないんだね」、「他に何をやりたい?」「ここで一緒にいようか」と、何回もそんなやり取りをしました。

 「やりたくないことでも周りに合わせてやらなければならない」ということも大事です。しかし集団への帰属意識や状況の客観視が未熟な幼児期に「みんなと一緒にできないとおかしい」と強制を繰り返すことは、長い目で見てマイナス面が大きいと思います。幼児園教育要領に「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なもの」とあります。人格形成の基礎において「主体的」であることを否定された子どもがどのようにその後の人生を生きていくのでしょうか。「主体的」であろうとする子を守り、やりたいことを見つけ、得意なことを伸ばしていくという力を育てることが幼児期には優先されるべきです。「やりたい、やりたくない」「好き、嫌い」…様々な主張が伴うのが個性です。満たされた個性の出会いによって「主体的に」形成される集団こそ素晴らしいのではありませんか。

 今日も幼稚園で一人一人の子どもの「主体的」な選択が守られること、それは時に大変な忍耐をもって子どもと向き合い、寄り添うことです。けれどもそれがこの国で幼稚園に求められている課題なのだと肝に銘じるところです。

2018年09月14日

子どもを主体的にする主体的教師

 幼稚園教育要領は、子どもの活動について「主体的」であることを求めています。「主体的」というのはつまり、子どもが主役になってするということですが、この言葉を聞くと「それでは子どもについていればいいのですか」、「子どものやりたいようにさせればいいのですか」という人がいます。これは「主体的」の具体的な姿を「放任」と翻訳して理解しているという証拠です。なぜそういうことになってしまうのかというと、「一斉型保育」が幼稚園の主流であった時代があるからです。当時は子ども数が多く、一クラス40人を一人の幼稚園教師が担任するということもありました。そのような状況では一斉型保育にせざるを得なかったのです。しかし今後はさらに少子化が進むことが予想されます。クラスの規模も少人数化に進んでいます。子どもの発達について、これまで経験則から予想されていた子どもが「主体的」であることの重要性が、目覚ましい研究によって科学的検証と実践をもって確認されてきました。それらを踏まえて学ぶ者にとって、今の保育の志向が一斉型保育の頃と同じであっていいわけがありません。私は一斉型保育の「小学校への接続のために」という迷信から早く日本の教育は解放されなければならないと思っています。現在の「小1プロブレム」の主たる原因は、子どもから主体的活動を奪う「一斉型保育」と「放任」にあると考えています。

子どもの「主体的」な活動というのは「放任」とは全く違います。「主体的」の具体的な方向性は「自責」ということです。一斉型保育が「先生に言われたから従う」という「他責」に根ざすのに対して、「自分で決めたから行う」という子どもの「自責」の活動ということです。「自責」は一昔前に使われた「自己責任」という切り捨て論理とも違います。他人のせいにはしない、という主体性です。自責のもとで、「何で遊ぶか」、「誰と遊ぶか」、「どんなルールで遊ぶか」等々、子どもは決断していきます。その時、子どもの「成長しよう」、「学ぼう」、「知ろう」、という生命の最大課題の欲求が発揮されているのです。そこから子ども自身が秩序を作り、規範を思考し、抑制を選択します。しかし、知識と経験のない子どもたちは自分の選択や決断に満足できる結果を引き寄せることができません。そこで極めて重要な存在となるのが子どもの決断をサポートする大人であり、幼稚園であれば教師の存在です。

子どもの主体的活動のサポーターとしての教師は、総合的な幼児教育の知識と経験が求められます。情熱だけでなく冷静な理論的裏付けをもって保育に当たらなければなりません。たやすく「放任」となりかねない状況を、子どもの欲求を察知し、適切な言葉としぐさをもって、必要な分だけを誘導し、子どもの主体的活動を妨げないというのは、大変な忍耐と体力、寛容と愛を必要とします。必然的に一人の教師の見れる子どもの数は少人数にならざるを得ません。

しかも、そこで一番大切なのは、教師自身が「主体的に動くことは楽しい」と実感していることです。主体的な大人だけが子どもの主体的活動をサポートできます。主体的に活動している子どもから学ぶことは大きいという実感のない人は、主体的な子どもの姿を大切にすることができません。教師自身の主体性が大切にされ、「子どもためにやってあげたい」と思えることが大切です。そのために「自責」の姿勢で学び続け、試行錯誤を重ね、昨日よりも今日、今日よりも明日、さらに成長しているのが主体的な教師です。園長としての素直な思いを言えば、このような教師は非常に高く評価されるべきです。出来ることなら給与を今の何倍も出して報いたいと思っています。

今日記したことは理想です。しかし、「進みゆく教師のみ人に教える権利あり」(小原國芳 玉川大学創始者)です。教師も園長も学び続ける主体的存在であることでのみ、子どもに、保護者に、人に教えることができるのです。

2018年09月17日

幼児教育のPDCAサイクル?

幼稚園教育要領の改訂に伴い、その解説も多く出版されました。文部科学省も解説を公開しています。その中に「カリキュラム・マネジメント」という言葉が登場しました。

カリキュラム・マネジメントについて文部科学省も含め一般にこのように解説されています。「カリキュラム・マネジメントとは、幼稚園の教育目標の実現に向けて、子どもの地域でや家庭での生活の実態を踏まえ、教育課程を編成、実施、評価し、その上で改善を図るという、教育課程の一連のPDCAサイクルを計画的・組織的に実施していくこと」(「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」無藤隆編著、東洋館出版社)。

ここで問題と感じているのが、幼稚園の教育についてのPDCAサイクルを実施すべきという理解です。Plan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Act(改善)というサイクルとして運営されるのがPDCAサイクルです。

幼稚園組織運営をPDCAサイクルで評価するという提言は、まだ理解できます(それですらも、近年の幼稚園を巡る環境の変化に対応するには不適切となった、と私は考えています)。しかしPDCAで毎日の保育を回せというのはナンセンスです。もちろん結果を振り返り、改善を継続的に行うことは大切です。例えば「ヒヤリハット」のような改善計画や避難訓練のような「幼児の意志」を無視してでも従わせなければならない計画に対してPDCAサイクルは有効でしょう。しかしPDCAサイクルは、「計画」をもとに評価改善するサイクルであって、刻一刻と変化し成長する子どもの姿や取り巻く環境を「後追い」しかできないということです。逆に「先回り」をした計画を実施するというなら、結局は旧来の「一斉型保育」にしか対応できないと言わざるを得ません。子どもを計画通りに動かせたかどうかが評価対象になり、改善の主たる面になってしまうからです。これは、どちらの場合も子どもの主体的活動のサポーターとしての役割を果たせないことになってしまいます。

幼稚園教師が直面するのは、刻一刻と変化する幼児期の子どもの成長欲求です。そこで求められるのは、子どもの姿を計画に合わせて強制することではありません。不安定で不確実で複雑で曖昧な状況です。そこで教師に求められるのは状況を観察し、直感的に状況判断を下すということです。大切なのは、行動の前の瞬時の状況判断です。この状況判断に、「幼稚園の教育目標や理念を共有する」教師の主体的判断が反映します。ここが大切です。

「計画通りにいかない」ことこそ、幼児期の子どもの世界なのです。遊びの面白さとはつまるところ、計画を離れた楽しさであり、これまで自分を定めていた「自分ルール」の逸脱なのです。そのとき本当に大切なのは、「ルールは変更しても良い」、ということです。そのとき「跳躍」と呼ぶべき幼児期の瞬発的かつ爆発的成長が見られるのです。跳躍した発想が、創造を促し、新しい発見やアイデアを生み出し、新しい価値や意味を子どもの内に生み出していくのです。幼児教育の場とは、子どもたちの成長欲求の発する「ルール変更」の要求に出会うところです。子どもたちの革命の場です。

そこで、改訂された幼稚園教育要領の実施に当たって有効なのは、今日ある考え方から導き出すならばPDCAサイクルではなく、OODAの考え方だと言えます。Observation(観察)→Orientation(判断)→Decision(意思決定)→Action(行動)という流れの考え方です。教師にしっかりと幼児教育者としての理念が浸透していることが前提ですが、この過程の中で教師の中に「何のために教師がいるのか」、「どこに向かっていくのか」という自分の主体性への問いが生まれることが大切なのだと思います。そこで、直感的な保育方法の創出が起こるのです。

2018年09月18日

小さな声でありがとう

子どもを褒めて育てる、という教育論が一頃流行りました。これは提唱された時は「褒めるだけ」の教育論ではなかったのですが、マスコミによって取り上げられている間に、いつの間にか「褒めるだけ」の極端なテクニックとして紹介されるようになり、弊害が問題視されるようになりました。幼少期から何かをすると褒められるという環境に置かれると、大人になってからも「褒められる」という外発的動機がなければ動けない人間になってしまうのです。子どもを都合よく「褒める」ことでコントロールできるというテクニックになってしまったのです。確かにこれは危険です。

 では、どうすればいいのでしょうか。橋井健司という園長先生がその著書(『世界基準の幼稚園』光文社)の中でこの「褒めて育てる」ことを取り上げてその危険性に触れて、自分は「そっとその子に近づいて『ありがとう』『先生、助かった』と小さな声で感謝の気持ちを伝えるようにしています。間違っても『えら~い!』と大げさにほめたり、みんなの前でその子のおこないを発表したりはしません」と書いていました。これは見倣うべき対応だと思います。特に「そっとその子に近づいて」というところがいいのです。園長先生とその子だけの小さな世界が満たされます。

 この方の著書を読んでいただくのが良いと思いますが、私なりに要約してお伝えすると、「えらい」とほめることと、「ありがとう」と感謝を伝えることの違いは、行動の結果が自分の利益になるか、他人への貢献となるかの違いです。この考え方に私も賛成します。自分の行いが誰かの役に立ったという、あの独特の充実感は子どもの内に自尊心を育てます。ぜひお子さんにそっと近づいて、小さな声で「ありがとう」、「助かった」と言ってみてください。

2018年09月20日

個性の輪郭

個性は、親や先生が「この子はこういう子である」と評価して決められるものではありません。そもそも人間は皆、個性的な存在として生まれています。神さまによって唯一の命を与えられている私たちは工業製品ではないのです。

問題は、個性的な存在である人間が何故個性を失うような事態がおこるのか、ということです。一つは幼児期の「善意からの抑圧」が関与しています。

「家族でハンバーグがおいしいと評判のレストランに食事にいきました。子どもに『何でも好きなものを注文していいのよ』と言ったところ、子どもは『エビフライ』を選びました。すると、『ここはハンバーグがおいしいお店だから、ハンバーグにしなさい』と言い、みんなでハンバーグを注文数することになりました。」

欲しいものを欲しい、好きなものを好き、嫌いなものを嫌いと表明したとたん、「こちらの方が良いから合わせなさい」とたしなめられるような環境で個性の輪郭は削り取られます。

「好きと嫌い」は、人の個性の輪郭を形づくる根っこの部分です。同じ5歳でも水遊びが好きな子もいれば嫌いな子もいます。人間は好きなものと嫌いなもの、得意なものと苦手なものがあって当たり前、という前提を身に着けることが大切です。日常的にふぞろいな世界が広がっていることを知り、不揃いな存在同士だということを身をもって経験する方が集団で合わせることの美しさよりも幼児期には貴重です。言い換えるならば、個性を尊重するとは「あなたと私は違っていて当然」ということです。それは良い悪いと評価されるものではありません。

大人はいつも世間体の方を子どもよりも大事にします。知らず知らずのうちに善意からそのことが現れてきます。例えば、父の日のプレゼントとして子どもが父親の顔を描き始めたときに黙って最後まで先生や母親が口出しせずにいられるか?案外できないものです。子どもの描く絵は「おかしい」のが当たり前です。それを見て、「お父さんの目はそんな色だっけ」とか「髪の毛がないけどいいの?」とか、「耳がないのはおかしい」とか。いかにも父親が見て「喜ぶ」ように善意から矯正してしまいます。実際、背の小さな子どもの目線から背の高い父親の顔は、おでこから上の髪の毛が見えないのです。幼児期は色覚も発達している最中ですし、目線が変われば光線の入り具合も変わるのは当然ですから黒や茶ではない色が見えることもあるのです。目を描くのに赤や緑を使いたいのです。しかし子どもが認識している父親が表現されるよりも、見栄えのいい、喜んでもらえる絵に「してあげる」ことを大事にしてしまいます。「それじゃあお父さんが悲しむよ」、「ちゃんとやらないとママが悲しくなるよ」、「みんなのパパやママが見てくれるのだから“ちゃんと”やろうね」と、善意から抑圧をちらつかせてしまうのです。

大事なことは、大人が幼児を学ぶことです。絵であれば、2~4歳の子に大人が一般的に持っているイメージに一致するものを求めるのは脳科学的に、そもそもおかしいのです。なぜなら、彼らは自分の心象に映るものが全てだからです。人の顔は「こういうもの」という一般的な枠と関係なく人の顔を認識しているのですから、大人にとって都合のいい絵など描けるわけがないのです。

大人と子どもはこんなに違う。私たちは不揃いな世界に一緒に生きているのです。そこに個性があります。

2018年09月24日

習い事・おけいこごと

保護者の方からお子さんの習い事について相談されることがあります。

最近のお子さんはピアノ、バレエ、ダンス、チアリーディング、英語、水泳、サッカー、空手、受験のための私塾など実に様々な習い事に通っていて、朝幼稚園に来ると「疲れたー」と言って先生に寄りかかって外遊びを嫌がるということも見られます。お子さんが習い事で疲れてしまうことは保護者の方も心配していて、どれを続けさせてどれをやめさせるかも悩みどころです。

私が習い事について考えたときに、大変参考にさせていただいた本を紹介します。杉山由美子氏の『お子様おけいこごと事情』(婦人生活社)という本です。この中で、最初は習い事をさせることに杉山さんは懐疑的でしたが、周りの子どもたちは皆習い事に通っていました。そこで、どんな習い事がいいのか様々な習い事や早期教育教室を取材してレポートしています。取材を続ける中で習い事に懐疑的だった杉山さんも、現代の子育てが習い事を必要としている背景が見えて、時代に逆らえないという思いを持たれます。「何のためにおけいこごとをさせるのか」「その子は将来良かったと思えるか」「おけいこごとを通してどんな大人になってほしいと自分は考えているのか」と杉山さんは自問します。そして、こう記しておられます。

「何のためにおけいこごとをさせるのかと言ったら、集中してひとつのことをする喜びを知るためである、と今は断言できる。その意味では何でもいいのだ。」

幼児期の子どもは、どんなことでもいいので夢中になって、没頭して取り組むことのできる体験こそが大切です。その意味では何の習い事を初めてもいいですし、始めたら続けなければならないということもありません。何かを夢中になって体験し、体験したことで成長を得ることが自信を育てます。習い事を専門的に極めるのは、成長の順序から言ってももっと先のことです。出来れば、初めて楽しさを知って、いったんやめてしまっても、またやりたくなって再開するというくらいの余裕があるといいのです。幼児期の体験は「浅く、広く」と考える方が良いのです。多種、多彩な経験こそ幼児期の最重要な経験です。習い事は親も子も縛るように感じたらやめてしまうくらいのつもりの方が良いと思います。また、一度の体験では興味を抱かなったことに、ある日突然取り組むようになるのが子どもたちです。

習い事は、親も子も縛られない程度に楽しんでください、というのが私の意見です。

2018年09月25日

段階をふんで育つ大切さ

「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

上記の言葉は、聖書のマルコによる福音書4章28~29節の言葉です。麦の成長には順序があって、それぞれの段階を疎かにしたり、ましてや順序を飛ばして豊かな収穫を得ることはできません。

人の成長においてもきちんと段階をふんで育つことが大切です。例えば子どもが歩くようになるには4つの重要な段階をふんでいきます。

第1段階 手足を動かすが、体を移動させるためには手足を使えない「移動しない運動」の段階。

第2段階 腹部を床に押し付けながら決まった方法で手足を動かしてAからBへと動けることを覚える「腹ばい」の段階。

第3段階 重力に逆らって、自分の手と膝で体を起こし、腹ばいより巧みな技術をもってAからBへと動き回るようになる「四つんばい(はいはい)」の段階。

第4段階 自分の脚で立ち上がり、歩くことを覚える「歩行」の段階。

この4つの段階は、各段階が次の段階に不可欠前提となっています。このことから成長において新しい段階を獲得できるかどうかは、その前段階を確実に終了できたかに全面的にかかっているということです。

早く自立させようと急かして歩かせる弊害について以前、前段階が十分に獲得できないままに次の段階への移行をを強制されると、前段階を獲得することで置き換えられるべき機能が残り続ける、ということを聞きました。どういうことかというと、例えば反射行動が「腹ばい」や「四つんばい」の状態の乳児のまま「歩行」の段階にいたってしまうと、その後の反射によって生じる運動は「腹ばい」や「四つんばい」の乳児が身を守ろうとする動きが残り続けることになります。そのため大きく激しくなる少年期の運動に適切に体がついていけないといったことや、転倒した時に頭や腹を守るために手をつくことができず、大怪我につながることもあるのです。

前回、習い事のことを記しました。やってみて楽しめればよいし、興味を示さないならやめた方が良い。そして将来興味を持ったならその時改めてはじめればいいと記したのは、この段階をふんだ成長という視点からも重要な態度だと考えるからです。興味を示し、楽しめるということはそこで得られるものを成長の段階として子どもが欲しているということです。興味を示さないのは、まだそれを得るべき段階にいたっていないということを示しているわけです。

段階をふんで成長し「豊かな実」を生きる力として獲得していく子どもたちにとって成長を急かされることは害の方が多いのです。興味を示さなかったり、うまくできなかったり、早くできないお子さんにイライラしてしまう時に、「まだ今の段階を十分に楽しみきっていないのだろう」と思っていただけるとうれしいです。

2018年09月27日

一緒にする経験

暑さがどれほど続くかと思いましたが、9月も半ばを過ぎると涼しい日が続くようになりました。秋の訪れを感じています。子どもたちは毎日、お友達と力を合わせて運動会の練習に励んでいます。C組にとっては、ラインに沿ってお友だちとまっすぐに走ることもおよそ初めての経験ですが、運動を楽しみながらお友だちを応援する声もだんだんと大きくなっていきます。A・B・C各クラスの練習を他のクラスの子が見ると、自分たちもやってみたいと思うようです。

幼い子どもたちは、他の人がしたことと自分自身がしたこととの間に区別をつけないということが時折起こります。これは経験を得て成長しようとするときの自然な姿です。家族や、お友だちがしていることや、やってくれたことを見て、あたかも自分自身がそれをしたかのように経験として蓄えるのです。経験というのは本来、未知の事への挑戦からはじまります。自分にとって未知のことを行っているお友だちに自分自身を重ねることで、未知を既知へと変え、実際に行う前に心構えと道筋を準備するのです。運動会の練習で、多くのお友だちの成功や失敗に共感する子どもたちは、そのことを通して自分自身を応援し、励まして、一所懸命に可能性を開拓しています。運動会まであとわずかです。子どもたちの健康が守られ、お天気に恵まれ楽しい運動会を迎えられるように願っています。

2018年09月28日

言葉は幸せな関係のためにある

先日行われた9月の父母の会でお話ししたことです。

日本語の言語学者の金田一秀穂先生がご講演の中で、言葉は「正しい言葉があるわけではなく、仲良くなるためにあるんです」とお話ししておられました。そして、「子どもは敬語をつかえなくていい」と言います。

例えば、おばちゃんが子どもに飴をあげました。もらった子は母親に「ありがとうって言いなさい」と言われて、「ありがとう」と言いました。そうしたら、おばちゃんは「いい子ね」とにっこり笑って褒めました。そこでもし、飴をもらった子が「この度は結構なものを頂戴いたしました。まことに恐れ入ります」と言ったら、気持ち悪いですね。もうそれは子どもの言葉ではないのです。おばちゃんと子どもの関係が居心地の悪いものになってしまいます。

そこで金田一先生は、「子どもというのは敬語が使えなくてよい、敬語が使えない子どもがいたら安心してください」と言われるのです。金田一先生は、「言葉というのはあくまでも道具であって、『正しい言葉』に私たちが従わなければいけないわけではない」とも言われました。そして、「敬語というのは一人前にならないと使えない言葉なんです。というか、一人前であることを示す言葉が敬語なんです。ですから子どもは敬語を使っちゃいけないんです。子ども扱いされる存在だから、敬語を使うことは許されないんです。でも、大人になったら一人前であることを示さなきゃいけませんから、必死に敬語を勉強しなければいけないんです。」「使われると気持ち悪い、自然に嫌だなと思う。その嫌だなと思う気持ちを大切にしてほしいんです。」この金田一先生の言われることはとても大切な視点だと思います。

私たちは言葉を使って何をしているのでしょうか。コミュニケーションです。人間同士が「いい関係」を作るため、互いに「仲良く」なるため、互いに「幸せ」になるために言葉という道具を使うのです。正しい言葉を使うことは大切です。しかし、正しい言葉でなければ使ってはならないということになったら、私たちは言葉を失ってしまうのではないでしょうか。人間関係は「正しい言葉」よりも大切なものです。言葉は幸せな人間関係のために使われるべきものです。

夏休みが終わって積極的に話し始める子がいます。とても良い「言葉の経験」をしてきたのでしょう。「この子がこんなにお話しするようになったのか」と驚き、うれしくなります。ただし必ずしも正しい言葉ではありません。乱暴な言葉、汚い言葉もつかいます。物の名前も間違っています。でもそこで直ちに「それは使ってはいけない言葉」、「それは間違ってる」と言われたらどうでしょう。言葉の初心者である子どもから言葉が失われてしまうかもしれません。言葉を道具として使った幸せな人間関係への可能性と将来に影をおとす方が恐ろしいことです。

ですから、たとえ間違った言葉でも、それで仲良くなれたら、人が互いに通じ合うことができたなら、それは「幸せの言葉」です。子どもの時には「幸せな言葉」の世界を守ってあげることが第一なのです。正しい言葉は、大人が「正しい言葉」を話す姿を見て覚えていきます。言葉は深い思考と理解の道具でもあるからです。

言葉はこの先も一生学び続けるものです。大人もマナー教室で敬語を学ぶ方がいるではありませんか。まだ始まったばかりの子どもの言葉の世界を、焦って「一人前の大人」へと引き上げるのは無理があります。

繰り返しますが、言葉は「幸せな関係」を作るためにあるのです。その視点から子どもの言葉の世界に耳を傾けてみてください。それから、ご自身の大人の使う「幸せな言葉」の世界を聞かせてあげてください。

※金田一秀穂先生の講演は、みやざき中央新聞2397号(2011/1/17)から連載された「九州PTA研究大会記念講演」を参照しています。

2018年09月29日

思いやりは喜びから

「思いやり」という相手に共感する感情は、人間が社会生活を他人と一緒に幸福に生きていこうとするならば、極めて重要な感情です。一般に、思いやりは幼いころから思いやられて育ってきたことが不可欠な前提だと言われます。思いやられるとは、具体的には喜びを与えられるということです。そのために喜ばせてもらう機会や時間が多いことが大切です。重要なのは、喜びの体験の重さや深さよりも、機会や時間といった「量」を必要とするということです。

発達心理学者の観察によると、母親に喜びを与えてくれることを要求する子どもは、同時に、母親自身も喜びを感じてほしいという高度な感情を抱いていくそうです。

人は、大事な人と喜びを一緒に体験したいと求めるのです。相手と一緒に喜びあうことが、より深い喜びとなるという経験を重ねていくと、やがて相手と悲しみを分かち合うことのできる「思いやり」の感情が芽生えてきます。そして、喜びと悲しみを共有することによって人間的なコミュニケーションが成立発展していきます。「思いやり」は、相手と悲しみすらも分かち合って生きることができる社会構築のための高度なコミュニケーションの土台となるものです。それは実は、最も身近な人と喜びを分かち合う経験が十分にあってこそ生まれ、育っていくのです。

このことを親の側から見ると、親自身が子育ての中で喜びを実感することが、子どもの中に「思いやり」を育てるということになります。

佐々木正美先生(児童精神科医)は、親自身が子どもに喜びを与えるということについて、「まず子どもが喜ぶことを何でもしっておかなくてはいけないでしょう。そして、そのうちのどんなことに、自分も喜びを感じながら行動できるかを、自然に無理なく見いだして、実行すればいいのです。親自身も喜ぶことができる活動なら、困難や苦痛があるはずありません」(佐々木正美著『はじまりは愛着から』福音館)と言われています。食事やおやつ、入浴など毎日の繰り返しの中に、素晴らしい時間があります。

最後に「思いやり」を育てる中で最も避けなければならないのは、子どもの「自尊心」を傷つけないことです。悲しむ子どもを決してからかってはいけません。悲しむ子にかける言葉がないのなら、黙って一緒にいることでも慰めになれるのが「親」という尊い存在です。

2018年10月01日

「ウソ」を考える

人間はだれでもウソをつきます。一つは自分自身を守るために、もう一つは相手を守るためです。例えば、自分のみじめなところを知られたくないので言い繕うことをします。また、そのまま伝えると相手を傷つけたり不愉快にするという時に言い繕います。私たちは普段、相手との関係を意識して言い方や内容を変えています。時には正反対のことを伝えたりします。つまりウソをつくのです。

言葉を相手との幸せな関係のために使うときにもウソは発生します。自分のためであれ、相手のためであれ、その後の関係を良いものにしたいという欲求として、悪意があって言うものではないですから、潔癖にウソを否定することは現実的ではないのではないでしょうか。

多くの場合、頭ごなしに「ウソはダメ!」、「違うでしょ!」と親の方は感情的になって、子どもなりの幸せへの気遣いを無視して自尊心を傷つけるような叱り方をしてしまいます。親として、子どもを嘘つきにしたくないという思いはとても良く分かるのですが、気遣いと自尊心を無視した叱り方を続けると、逆に子どもはウソが上手になっていきます。叱られた子は、次はばれないようなウソ、上手なウソをつくために努力を始めるのです。

繰り返しますが、子どもがウソをつく一番初めの理由は、自尊心が傷ついて自分が惨めにならないように、相手を傷つけて悲しませないためにという、どちらかというと美しい気持ちから始まっています。その点を受け入れてほしいと思います。

子どものウソは大人にはすぐに見分けられるものです。大切なのはウソだとわかっているということをどう子どもに伝えるかです。頭ごなしに感情をぶつけて叱りつけると会話が終わってしまいます。ウソへの対処には、できるだけ穏やかにウソとわかっていることを伝えて、さらに会話を継続させるようにすることが求められます。ウソを言われてむしろ悲しいと感じられたなら、そのことをできるだけ穏やかに伝えてください。繰り返しますが、幼い子は幸せな関係を成立させようとしてウソをついてしまっています。大人はそういった子どもの気持ちを受け入れていることをできるだけ穏やかに伝えるように努力してください。そうすれば、子どもは「悪意あるウソつき」になったりはしません。

2018年10月02日

根拠のない自信をたっぷり育てましょう

以前も紹介した児童精神科医の佐々木正美先生は「子どもを育てるときにもっとも大切なことは、子どもの心の内に、生きていくために必要な『根拠のない自信』をたっぷりと作ってあげることです」と記しています(佐々木正美著『はじまりは愛着から』福音館)。

「根拠のない自信」とは何のことだろうと訝しく思われるかもしれませんが、幼児教育の現場にいる者には、佐々木先生の言われることがとてもよくわかります。「根拠のない自信」の育っている子は、遊びが大好きで、そして上手です。「やってみたい」という思いがいつもあって、様々なことに挑戦しています。そして親に対して見事な「甘えん坊」です。言い換えるなら、幼児期を幼児として生き抜いているという意味で、「子どもらしい」のです。

「根拠のない自信」は第一段階として乳児期の「基本的信頼感」を意味します。やってほしいことを誰かにやってもらうことで、その相手を信じる力が育ちます。乳児期はやってほしいという要求ばかりです。母親や父親が要求を聞き入れてあげることで、人を信じる力がしっかりと身につきます。それは次に幼児期に人を信頼し、ひいては自分自身を信じていくことに繋がっていきます。

このように言うと「過保護」になりはしないかと心配されるかもしれません。しかし心配は無用です。「過保護」というのは、子どもが要求していないものを親の都合や満足を優先して過剰に押し付け、結果として子どもの生きる力が育つことを邪魔してしまうことです。ここで申し上げているのは、子どもの要求に応える、ということです。そのためには少なくとも0~2歳までの乳児期は子どもが信じる存在(ほとんどの場合は母親)が要求を常に聞けるように傍にいることが大事になります。いないということは、そのまま要求が無視されるということに繋がります。もちろん100%一緒にいて要求に応えることはできるはずがありません。しかし要求に応えようとすることこそ、乳児期の子の親の頑張りどころです。親が「自分は過保護ではないか」と思うくらいに子どもの要求に付き合うくらいがいいのです。

全面的に受容される時期が守られ、受容された経験があればあるほど、人間は自立していきます。

以前、幼稚園で本当に手がかかり、教師を悩ませたお子さんのお母さまから小学校での様子をお聞きしたときに、こんなことを言ってくださいました。「この子は、大人をはじめから信じています。(小学校の)先生のこともはなから信じていて、それが他の子と違うように感じるんです。」

大人は、「手のかからない子」を求めます。そんな子を「いい子」と判断します。これは教師も陥る罠です。しかしそれは大人にとって楽で、育てやすいというだけで決して「いい子」であるのではありません。かえって乳幼児期に大人に手をかけさせる子の方が、内に「根拠のない自信」を豊かに育んだ子、人を信じ、自分自身を信じる力を育んだ子であることが多いのです。

2018年10月03日

見ているだけの子

子どもたちには、遊びに入らずに「見ているだけ」の子がいます。かくいう私自身も幼稚園の頃は見ているだけのことが多い子だったそうで、「この子、大丈夫かしら」とずいぶん心配されたそうです。

先生が「さあ、~をしましょう」と誘っても加わらずに見ているだけです。こういう子がいると若い先生は遊びに加われるようにと様々に声をかけますが、うまくいきません。それで先生は自分の力不足を感じてしまい、親は心配してしまうのですが、これは先生の力不足の結果ではありません。「心配無用」です。

見ているだけの子どもの状態について学問的な解説をすると、発達心理学者のM・B・パーテンは、見ているだけで遊びに加わらない子を「傍観的状態」と呼んで、その先にある「協同あるいは組織的遊び」への第一歩と位置付けています。またバンデューラという心理学者は、学習は自分が体験しなくても、他者の行動を観察することによっても成り立つことを実証しています。

見ているだけの子は、決して気が弱いのでも、寂しい思いをしているのでもないのです。目の前の遊びを観察して学習し、そこに自分が加わるタイミングを自分で計っている最中なのです。「よし!」と決意が固まれば、自分から進んで「入れて」「やりたい」と明確に意思を表します。むしろ、見ているだけの状態をきっちりやらせた方が良いと考えています。「見ているだけじゃダメ!」と無理に誘って、強引に遊びに加えても子どもにとって良いことはないでしょう。また、「それなら別のことをする?」と別の遊びを促すというのもお勧めしません。それらは、見ているだけという準備段階の中にある子どもの興味関心を破壊してしまうことです。形ばかりは遊びに加わっても、そこに子どもの主体的行動はありませんからすぐに「やめた」となります。子どもがその遊びを通して得るものは不快感だけです。

子どもを見守るというのは忍耐のいることですが、子どものために何もしないという選択も大切なことです。「やりたくなったら、やるでしょう」というくらいに気長に楽観的に構えているのがいいのです。

2018年10月04日

詩 「強さ 弱さ」

「強さ 弱さ」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

お母さん怖いよ、と
しがみつく娘の頭をなでながら
「大丈夫よ、大丈夫。
あんなのちっともこわくないの」と
言い聞かせる

こうして私は彼女のために
一つずつこわいものを失って
少しずつ強くなる

だけどそれとは反対に
気づいていくのだ 彼女は
少しずつ少しずつ

安心しきって抱かれていたその腕が
ただの 弱い女のものだったということに

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「せんぱいママ」

「せんぱいママ」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

大切なのは
愛情よりも根性なのだと
その人は笑った

こぼれ落ちるほどの
愛情に満ちた笑顔で

根性のない愛なんて
ただの泣きごとなんだと
その人は笑った

まぶしい黄色のタンポポが
やわらかな綿毛に変わるように
その人はふいに笑うのをやめて
「だけど、私もいっぱい泣いたよ」と、
やさしく言った

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「一人でできることが」

「一人でできることが」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

「一人じゃなんにもできないくせに!」
そうののしった私を
幼いあなたは
決して忘れはしないでしょう

そして未来のあなたは私のことを
「一人じゃなんにもできない人だったのだ」と
そう思い出すでしょう

そうです
子供にそんなことを言う大人は
一人じゃなんにもできない人です
お母さんはそういう人でした
だけど あなたのおかげで
一人でできることが
一つずつ 一つずつ ふえていったよ

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「謝罪」

「謝罪」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

「おかあさん、ごめんなさい」
眉間のしわをうかがいながら
幼い娘は おびえた声をあげた

無力の者の謝罪はせつない
私は 後味の悪いつばを飲みこんだ

窓の外で 五時のチャイムが鳴っている
部屋の中に 夕闇がしのびこむ

あと数年で 未熟な母を飛びこえて
幼い娘は 成熟した子供になるだろう
そして私を見下ろして言うだろう
「お母さん、ごめんなさい」
その時私は
自分が無力の者になったことに気づく

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「重み」

「重み」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

自分が少し悲しむと
お母さんがすごく悲しむから
それがつらいと娘が言った

自分が泣いていると
お母さんがすごく気にするから
それが嫌なんだと 私をにらんだ

ああ こうして親たちは
やわらかな手かせ足かせとなるのだろう
あたたかな鎖をからませるのだろう

多くの子供たちが その重みで
何かを思いなおすのだろう
何かを思いとどまるのだろう
投げやりに進み始めた歩みは止めて
声をあげて引き返すのだろう

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「無駄」

「無駄」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

「私の人生に無駄なものなど一つもない」
そんな よく聞くセリフを言うような人は
傷つきやすい臆病な人間だ

散らかった部屋の真ん中で
うっかり赤ん坊と一緒に寝てしまい
目をさましてから 頭をかかえて後悔
流しの中に積まれた食器
かごいっぱいの洗濯物
そんなものさえ 
何かの糧になっているんだと思わなければやっていけない
そんな 自分を責めることに臆病な人間

私はそういう幸福な人間をめざそう
「無駄なものなど一つもない」
そう自分に言い聞かせながら
平安の日々を手に入れよう

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「抱きしめたくなる」

「抱きしめたくなる」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

お母さん、私
どうやったらまた 赤ちゃんに戻れる?
小さくなったら
ごはん食べさせてくれる?
だっこでねかせてくれる?

娘のそんなささやきを
哀しく思うし 愛しく思う
病院で初めて弟を見た時の
不安げな顔を思い出し
小さな体を ぎゅっと抱きしめたくなる

お母さん、私
どうやったら早く 大きくなれる?
一人で歩いて 幼稚園に行きたいの
一人で遊びに行きたいの

娘のそんなつぶやきを
寂しく思うし 嬉しく思う
漠然とした遠い何かに向かって
確実に進んでいるその小さな体を
「まだ行かないで」と
ぎゅっと抱きしめたくなる

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「よその家」

「よその家」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

他人の子が
とてもかわいく見える時がある
聞きわけがよくて 素直で 優しくて 明るくて
まあ、なんてかわいいのかしら あの子は!

その時ふと
娘の視線の先に気づく
娘はよその子のママを見ている
きれいで やさしくて 歌やお話が上手なママを!

娘はそっと 私の手をにぎる
私もそっと 娘の手をにぎる

それから手をつないで 帰る

私たちのおうちへ

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

クリスチャンの家庭の子どもの育ち

西荻学園幼稚園はキリスト教主義の幼稚園ですから、クリスチャンのご家庭のお子さんがほぼ毎年入園されます。そこで、今回は特にクリスチャンのご家庭のお子さんの育ちについて、注意点を考えてみます。

聖書の語る人間観は大きく二つあります。一つは、人はみんな神さまによって命を与えられた尊い存在であるというものです。これは、人権の基礎であり、人間の尊厳を教える大事な人間観です。もう一つは、「罪」の理解からくる強い倫理観を伴う人間理解です。この二つ目の点が、場合によっては子どもを強く抑圧し、育ちの力そのものを委縮させてしまうことがあります。

子どもが育つというのは、それまで自分を定めていた「枠」を「自分の意志で」、「自分らしく」、乗り越えていくということです。その時に、強すぎる枠に囲まれると枠を乗り越えることがとても困難になります。「自分らしく生きる」という育ちの力に対して、「クリスチャンとして相応しく育て」という外部の強い力が働くからです。

現在の日本にはクリスチャンは1%程です。クリスチャンとして子どもを育てようと意識している家庭となると更に少ない数になります。これは、クリスチャンとして育てられている子どもは、絶対的な少数派に属するということです。念のため申しますと、少数派だからいけないということではありません。少数派であるという事実を受け止めなければいけないということです。少数派として、クリスチャンとしての自分を発揮することに慎重にならざるを得ない、という子どもの現実を重く受け止めてあげて欲しいと思うのです。

子ども同士の間であっても、クリスチャンであることが必ずしも肯定的に受け止められるわけではありません。教育された「罪」の意識からお友達を注意すると、「攻撃」していると相手にも、さらには教師にも受け止められかねません。自分らしく生きようとすると「クリスチャンのくせに」と攻撃されます。神さまを信じていることを馬鹿にされます。繰り返しますが、少数派であるということを理解してあげてください。程度の差はあれ、大人のクリスチャンが社会で経験する少数派の困難を子どもの世界でも経験する可能性が大いにあるのです。

家庭で「クリスチャンらしく」と言われ、外では少数派となってしまうとなると、いったいどこで子どもは「自分」を発揮して、ありのままに生きればよいのでしょうか。どこで「自分」を育てればいいのでしょうか。このままでは、いつも外的動機によって動く、顔色を伺って生きる人になりかねないということです。一見すると従順な「良い子」ですが、これほど聖書の祝福する人間の姿からかけ離れたものはありません。

そこで、クリスチャンのご家庭では、特に一層心がけて、「その子らしさ」を神から与えられた良いものとして注目することが大切です。子どもを「罪びと」と定めたり、受け入れがたい子ども行いを「罪」のせいにしてはいけません。その子らしい生き方は良いことだということを意識して伝えてあげてください。その上で、改善すべき点について「罪」と安易に結びつけて子どもの育ちの「もがき」を断ち切ってしまうことなく、その行いの先に子どもがどんな意図を実現しようとしていたのか、その点を尊重して対話することが重要になります。

2018年10月08日

おしゃべり=思考

幼児期の子どもは、いつでもどこでもしゃべり出します。「静かにしなさい」と言ったことのない親や保育者はいないのではないでしょうか。

幼児期の子どもにとって、しゃべるとはすなわち思考です。大人のように言葉を発せずに考えることができず、頭に浮かんだことをすぐに「おしゃべり」という形で表に出します。これは思考能力を得るための通過儀礼のようなものです。まず音声として外に言葉を出し、その繰り返しによって頭の中だけで言葉が操作できるようになります。

これは、逆に言えば幼児期の子どもに静寂を強制することは、すなわち「考えるな」と命令しているようなものだということです。これまでも何度も記しましたが、子育ては大変忍耐のいることです。それは苦痛に耐えるというよりも、大人から見ると「無意味」「無価値」に思える子どもの行動に「忍耐」して向き合うということです。子どものおしゃべりも大人から見ると、迷惑で、空気を読まない身勝手な「無価値」な行動に思えます。大人の方は、自分の予定通りにしないで勝手に話し始める子どもに腹を立てます。そして「静かにしなさい。今、何をする時ですか!よく考えてみなさい!」と叱るのです。しかし、それは子どもにとって、「考えるな」と命令されていることと同じです。

すこし柔和な大人ですと、「後でお話しを聞かせてね」と言って静かにするように促します。しかし実際に後でお話しをしてくれる子どもは極少数です。おしゃべりを封じられると思考を整理できないのですから、「後で」はそもそも無理な要求です。

「静かにしてね」が口癖になっていたら要注意です。大きな声で騒ぐとなれば「もう少し小さい声で話そうね」と注意します。それでも、また大きな声になるでしょう。それだけ思考が活発にされているということです。もう一度、「静かにお話ししようね」と声をかけます。何度も繰り返すとうんざりするでしょう。これが電車の中だったら周りの目が気になってしかたないでしょう。中には「何でもっと厳しく言わないの!」と余計な忠告をする他人がいます。それらに耐えて子どもと一緒に過ごすのは本当に大変です。でも、そこで思考する子どもを守るから「保護者」なのであり、「保育者」なのです。

お絵描きや工作、活動するときに「おしゃべり禁止」にしたら子どもたちの作品はつまらないものになるでしょう。創造性も主体性も工夫も何もかも奪われて「おもしろい」ものが生まれてくるはずがありません。そして、お絵描きも工作も、その他の活動も絶対に「嫌い」になります。

子どもたちに静かにしてほしい時には、「静かにしなさい」と命令するのでなく、子どもが静かにしたくなる環境をつくるのが最もよい方法です。例えば幼稚園の先生が行う保育技術にとして「わざと小さい声で話す」ことをします。すると子どもたちは静かになり耳を澄ませます。もう一つは、子どものエネルギーをできるだけ発散させてから静かにする時間を迎えさせることです。子どもは動きが活発で、わずかな距離でも駆け出したり、とにかく動きます。幼稚園の先生は「動」と「静」の切り替えを意識して、子どもたちの活動を工夫しています。特に一日の最初の活動を「動」として十分に身体を動かすと、その後落ち着いて「静」の活動に移ります。「動」と「静」の割合は7:3くらいです。これも保育技術の一つです。

2018年10月09日

しつけ―繰り返し、待つこと

アメリカの発達心理学者エリク・H・エリクソンは、幼児期の大切な発達課題を「自発的な表現」と考えました。親や先生の顔色を伺いながら、命じられたことをしぶしぶやるのではいけないということです。

例えばこれは「しつけ」を考えるときに大事な点を教えてくれます。「しつけ」は、先人が築き上げてきた価値や文化(この中に生活習慣や挨拶といった礼儀などが含まれます)を教えることです。何をしなければならないか、何をしてはいけないか、その具体的な判断のもとになる言葉と行動を伝えることです。そして、「しつけ」の目標点は、子どもがその伝えられたことを、やがて自発的・意欲的に実行できようになるということです。

では、どのように「しつけ」ればいいのでしょうか。

第一に気を付けたいのは伝える人です。「しつけ」を子どもに伝えることができるのは、子どもに信頼されている人です。大人でも、あの人の言うことなら聞こうとか、この人に言われると正しいとわかってても嫌な気持ちになるとかいうことがありますが、子どもの場合はなおさらです。だから幼児教育の場では「すべては愛着から」というのです。その点で、子どもの両親による「しつけ」が大切ですし、子どもの慕う祖父母や保育者も重要な存在になります。

第二に大切なことは伝え方です。「しつけ」として大切に思うことを、穏やかに、必要に応じて、必要な分だけ、折々に「繰り返し」伝えるということです。

そして第三の重要な点は、子どもが自発的に実行する時を「待つ」ということです。その時が来るまで、繰り返し伝え、手助けするということです。子ども本人がこれをやろうと決め、実行することを待つ中で、子どもの「自分を決める力」が育っていくのです。そこに自発・自立・自律・自主といったことが生きてくるのです。

「しつけ」をする立場の大人にとって最も気を付けたいのが「待つ」ことを意識することだと思います。「待つ」ことができるというのも個人差のある能力です。そこで「しつけ」の上手下手がでてくるのでしょう。

「しつけ」がうまくいかないというときに点検すべきなのは、「性急すぎていないか?」、「感情的な激しさで教えていないか?」という点です。出来るようになるまで待てずに、いらだって「早くしなさい」、「何度言えばわかるの」という言葉が多く出てきます。そして多くの場合こういう言葉は、非常に激しい攻撃的な響きをもって、子どもに威圧的に伝わってしまいます。伝える側があせると、子どもはもっとあせります。お互いが悪循環に陥ります。

「しつけ」に限らず、子どもに何か伝えるときのポイントは「穏やかに」、「繰り返し」、「できるまで待つ」ことです。待つことは、子どもを信頼していることを伝えることになり、子どもへの愛をもっともわかりやすく伝えることにもなるのです。

2018年10月14日

自分を主人公にして育つ

幼児期半ばまでの子どもの大きな特徴は、「自分が主人公」という生き方です。この「自分が主人公」という生き方が、心身非常に大きな影響を与え、成長を力強く引っ張っていきます。

例えば運動という面では、自分の意志の通りに体を動かして目的を達成しようとします。この時期の運動には特徴があるといわれます。

・ありとあらゆる動き方を身につけようとする
・どう動けばいいか、に強い関心を持ち、人の動きを真剣に見ている
・動き方を身につけるために精一杯努力する

これは大変貴重な時間です。一生に一回だけ人間が全力を出し切ることを惜しまないという珍しい時期なのです。その原動力となっているのが「自分が主人公」という生き方です。不思議なことに。この時期を過ぎたら、人間は力を倹約してなるべく「楽をしたい」と願い、動かないですむように工夫をはじめます。「怠ける」ことを優先するようになるのです。

このことは、子どもの自尊心の育ちを考える上でも、大変に重要なファクターです。幼児期の子どもは、全力で主人公として人生を生きているのです。そして自分を主人公としてサポートしてくれる人に愛着を抱きます。その人の関心を得るために懸命に呼びかけてきます。「見てて!」と。

これはストーリーを話せるようになると、更に拍車がかかります。自分の話を聞くように、他の子の話しを聞いていた先生の顔をつかんでグイっと自分の方に向かせたりします。それは結果として、文章構成と読解の能力を育むことにつながります。

この時期にしっかりと人生の主人公として見守られてきた子は、非常に強かな自尊心を育てると共に、自分から場の中心をあえて譲るという協調をやがて獲得します。しっかりと主人公として「大切に」されてきた子は、幼児期の終わりには、「~は○○ちゃんの方がよく似合うから、私はいい」、「○○くんの方が上手にできるから、僕は~の方をしてあげる」というような発言が聞かれるようになります。

この発言は、卑屈な発言ではありません。「自分が主人公」であることをしっかりと生きてきたからこそ、どこに自分の居場所をもっても自分らしくいられる安心感を持っている人間の発言です。これは自分一人で達成できない課題に出会ったときに、自分の役割を明確に自覚し、協力を得て課題を達成するという極めて高度な社会性の発現です。

人類の進歩は一人の天才によって刺激をあることはありますが、それが社会全体を動かす文明・文化の進歩へとつながるのは、実はこの高度な社会性の継続にかかっていると、私は考えています。

2018年10月16日

みんな一緒でなければならないのか

遊びの時間が終わってお片付けの声がかかると、子どもの中には一人か二人、それまでの遊びに区切りをつけられないでぐずる子が必ずいます。そんな時に、「ほら、みんなもうお片付けしてるよ!」、「もうみんなお部屋にいっちゃうよ!」、とじつに様々な「みんな」という言葉がバリエーション豊かに飛び交います。おそらく幼稚園や保育園で発せられる言葉のトップ3に入る言葉が「みんな」です。

子どもに社会訓練を与えるときに、「みんなにあわせる訓練が必要である」という意見があります。小学校に進学してから苦労させないために、集団生活に早くなれるように、「みんなに合わせて行動する子」を作り出そうと大人は四苦八苦、工夫の限りを凝らしています。

頭からこのことを否定するほど、「集団行動」に無意味さを感じているわけではありません。しかし教育にかかわるものとして、この「みんなに合わせる反復訓練」によって得られるのは「協調性ではない」という事実から目をそらしてはなりません。「みんなに合わせる反復訓練」から子どもが得るのは、似て非なるネガティブな「同調性」です。

協調性と同調性は、似たものと見られますがまったく別のものです。同調の出発点は「みんながそうしているから、あなたもしなさい」という外発的要因です。もっとはっきり言えば子どもに自己主張を「諦めろ」と伝えているということです。過激なようですが、分析すればそういうことになります。当然ながらこの経験が重なっていけば、やがて内発的な意欲は弱まっていきます。「みんなと一緒」を強制されるので、やがて大人に対して諦めてしまうからです。子どもによってははっきり言う子がいます。「どうせ、やらせるんでしょ!」何を言っても私の話は聞かないじゃない、と幼児期から大人を見限っているのです。あるいはいつも顔色を伺い、作品を作るといつも誰かのコピー作品となります。「好きにしていいのよ」と言われると困ってしまい、何もできなくなります。それを我が子の成長した姿として親は望まれるのでしょうか。

「良い子」の基準は国や文化によって異なります。日本では「言うことをきちんと聞ける子」、「指示に従える子」、「集団の和を乱さない子」が良い子として認識されます。逆に言うと、そういう子に育てる親こそ「立派な親」であり、そういう子にしつけた教師は「優れた教師」と評価されるということです。卒園近い年長児は先生から言われます。「もうすぐ一年生なんだから」、「もう一度年中さんになる?」と、周りに合わせられない子は追い立てられていきます。厄介なのは、この同調を求める大人の声が子どもへの「愛情」から発せられているということです。

だからこそ申します。その深い愛情をもって、子どもの目を見てください。みんなの方ではなく、あなたの愛する子の目を見てあげてください。子どもと目を合わせてみてください。「みんな」という言葉で論点を曖昧にすることなく、子どもの目を見て、「どうしてうまく切り替えることができないのか」を考えることに愛情を費やしてみてください。真剣に子どもから聞く姿勢で接してみてください。

はっきり言えば、これは時間も手間もかかります。うまくいかないという思いに何度も苦しみます。周りから「ちゃんと子どもにやらせなさい」という非難を浴びます。「みんな」という言葉にとらわれた人から冷笑されるでしょう。しかし、これを繰り返すことによって自発的な「集団への協調」が必ず育ちます。5歳頃には、子ども自身が集団の中で自分がすべきこと、すべきでないことの境界線を見つけていくようになります。集団で遊ぶ機会が増えれば、どうすれば集団の良好な関係を保つことができるか、目を合わせた知的な意見交換を学んでいきます。自分のやりたいことと集団が求めていることの誤差を意識し、その誤差を自分の物差しではかり、許容範囲を把握し、自分自身で自分を律していく力を得ていきます。

2018年10月17日

学ぶ―運動と知性によって

「自分が主人公」となって活動する時期である幼児期は、その発露として「様々な動きを身に着けたい」という望みがあり、そのために全力で取り組みます。そして、それと同時に心の中で燃え上がっているのが「知性」への情熱です。

人間の知性を非常に単純に言い表すと、「分ける」ということです。続いて、分けたものを「集める」、分けたものを「較べる」、分けたものを「合わせる」といったことがあります。これらの「分析」「集合」「比較」「対応」という論理的作業から、数学的知性が展開していきます。そして、これらも自発性に支えられて発展していきます。

「様々な動きを身に着けたい」と欲求するときも、子どもは滅茶苦茶に動くのではありません。「知性」に従って動きます。動き方を知るということは知性を用いて「学ぶ」ことに他なりません。子どもが自分の目で見て、動き方を「なるほど」と理解し、「自分でやってみて」、「どうすればうまくできるか」を試行し、ついに「動き方を獲得する」ということは、言い換えれば「学び方」を「学んだ」ということです。「学ぶ力」を育てたということです。だから知性を育てようと思うならば、子どもが自分で「動き方」をよく見て、自分で取り組めるような機会をたくさん与えることが大事です。

しかし、今日では幼児期に単に計算や読み書きができたことを「知性」の成長と思ったり、子どもが自分でできるように「動き方」を教えるかわりに、大人が代わってやってあげたり便利な道具で代替しようとします。しかしその時に「知性」と見えるものの本質は「学び」ではなく「暗記」です。

子どもは「もっと完全に、もっと大きく、もっと早く、もっと強く、もっと美しく動きたい」という心から湧き上がる熱情をもっているのです。そのために、「どうすればいいのか」を注意深い観察と「知性」の法則によって理解しようとしています。この強い望みと力が生き生きと発揮されることに手間をかけることが理にかなっていのではないでしょうか。

2018年10月19日

大人の共感

幼児期の発達は、それぞれが独立して発達するのではなく、必ず関連するものすべてが発達します。例えば一つの運動でも、それは単なる運動能力の発達ではなく、知的能力、社会性なども関連しながら発達していきます。

だから、どんな分野ものでも「やらなくてよい」ものと言うのは基本的にありません。外から判断できる子どもの興味や習熟には個人差があるので、大人が判断して「興味がなさそうだから」という理由で取り上げるのは、将来相互に関連して発達する要素をなくしてしまうことになるかもしれません。

では逆に、何でも体験の場を与えれば勝手に子どもは成長していくのでしょうか。それも違います。幼児期の子どもの好奇心は、大人との応答によって大きく育っていきます。子どもの発する「なんで?」は、自分の問いかけに向き合ってくれる、言い換えるなら共感してくれる相手に向けた信頼の言葉です。そういう相手がいなければ、「なんで?」と問うことをしなくなります。そこで子どもの興味は終わるのです。

これは大人も同じです。自分の興味や関心に応答してくれる相手がいれば、そこから更に新しい思考や発見が拡がっていきます。逆に、周りに共感や受け入れてくれる相手がいなければ、興味は広がりもしなければ深まりもしません。

子どもの育ちの原体験は信頼する大人とのやり取りにあります。共感され、受容され、応答されることが、子どもが体験してきた様々なことを子どもの中に刻み込みます。そして蓄えられた原体験がやがて新しい体験の刺激を受け、関連し合って子どもの全体的な発達につながっていきます。子どもたちにとって共感してくれる大人と、その大人への信頼はとても重要なことなのです。それは同時に、信頼する大人と一緒に過ごす時間が重要だということです。

2018年10月19日

ある日突然に力が出ます

昔から、スポーツの秋、芸術の秋、食欲の秋等々、秋は私たちを様々な意味で豊かにしてくれる季節です。夏休みとは違った様々なことをお子さまと一緒に体験される機会を持たれることだろうと思います。

子どもの興味や力は、いつどこで開花するかは分かりません。それまで見向きもしなかった様子だったのに、ある日突然のめり込んでいくということが起こります。幼稚園でもそうした姿を見ることがよくあります。

お絵描きに全く興味を示さなかった子が、マーブリングやデカルコマニーを経験して絵の具に夢中になるということがあります。あるいは、これまでは幼稚園が用意してきた画材を利用していたけれども、年長になって「自分の」画材を持つようになったら、俄然熱心に取り組むようになったということもあります。体操の時間はつまらなそうにしている子が、園庭遊びに飛び出すと真っ先に鉄棒に向かっていって前回りや逆上がりに黙々と一人で挑戦することがあります。大人が良かれと思って準備したものがある時には関心なさそうに見えたのに、ずいぶん後になって、自分から要求し、夢中になって取り組むようになるということはよくある光景です。まるで想定していなかった子が、どの子よりも興味を示して独占して取り組み始めるということも起こります。

大人の側は、その場で「興味なさそう」、「この子には向かないようだ」と子どもの個性を決めてしまいがちです。そうしなければ「やってられない」気分になります。しかし、幼稚園で子どもたちの成長を見守っていて思うのは、子どもの興味や力がいつ開花するか予想がつかないし、子どもの得意・不得意は実際には誰にも分らないということです。大人ができることは、この「いつ」「どこで」「何を」花開かせるか分からないもののために、「たくさんの機会を準備する」ことしかありません。そして、子どもが我を忘れてのめり込む対象に出会ったなら、それを継続できるように環境を守ってあげることが大人の役目です。

子どもの伸びる力は、何事も吸収していく力が強い幼児期に「幅広い原体験」を得、それらが相互に作用しあって生まれます。

運動についても、動きの多様性が幼児期の運動の課題ですから、単一のスポーツをさせるより、幼児期には遊びを通して「こんな動きもできるんだ」という様々な種類の動きを幅広く経験させる方が大事なことです。のちに一つのスポーツにのめり込んだ時に、それが地力として成長を支えます。

幼児期は、繰り返し練習させるようなドリル的な教育よりも、違う種類のものを沢山経験させる方が、将来良い影響を与えると感じています。そもそも、どんなに心を尽くして準備をして様々な体験を提供しても、幼児期に得るものよりも遥かに大きく多様な世界がこの後の人生に待っているのです。幼児期の姿から、「この子は人づきあいが苦手」、「この子はスポーツが苦手」などと個性を決めつけるのはおかしなことです。「『今は』お友だちとお話しするのが苦手のようですね」、「『今は』サッカーよりもお部屋で工作をしている方が好きな様子です」、こんなふうに幼稚園の先生たちは子どもの成長をとらえます。

今年の秋も沢山の原体験をされますように。そこに何一つ無意味なものや無駄な時間はありません。

2018年10月20日

失敗を伝える

先日届いた雑誌(『保育ナビ』2018年11月号)の記事に、こんな一節がありました。

「今の子どもの教育に必要なのは、『失敗と挫折』だと私は思っています。今のお母さんたちは『失敗してはいけない』『間違いなく』『キチンと、早く』と、失敗しないことにとても一生懸命です。でも、親が自分の経験した失敗や挫折を、どれだけ子どもに語れるかのほうが、実は大事なことなんですね」(大日向雅美先生 恵泉女学園大学学長)。

子どもの経験に失敗はありません。何度もこれは繰り返しお伝えしたいことです。「失敗」は「学び」です。必ず成長の糧になります。だから、勇気をもって、必ず失敗するだろうと思えることも、挑戦させることが大切です。

見込み通り失敗しても、その時に「ほら、やっぱりできなかったでしょう」と言われたら、再度挑戦する意欲を損ないます。ですから、「お母さんもできなかったことがある」、「お父さんもできなかったことがある」、と失敗の経験を伝えてあげでほしいです。失験は必ず誰にでもあることを伝えて、失敗は「悪」ではないことを教えることが大事です。失敗を続けて、それでも挑戦を重ねると、工夫が生まれます。改善が生まれます。これこそが「学び」です。

どんな挑戦であれ幼児期の子どもにとって全てが「本番」です。「失敗してもいい」と挑戦する子はいません。「これは遊び」、「これは真剣」、という区別はないのです。いつでも成功を目指す挑戦です。「遊び」は「遊び」という名の本番です。「練習」も「練習」という名の「本番」なのです。いつだって子どもは成功を目指しています。だからこそ、失敗を成長の糧にすることができます。

大日向先生は、教育には「失敗と挫折」が必要だと言われました。私も教育を与えられている期間に、たっぷりと失敗し、工夫と改善に熱心に取り組めることが大事だと考えています。「失敗させては可哀そう」と「できること」だけを与えられるということは、成長の機会を奪われているのに等しいのです。子どもにとって最大の成果は成長することです。成功することではありません。そして成長とは、これまでの枠を超える挑戦から得られるものです。できることというのは枠の中のものです。そこには成功はあっても成長はありません。しかし、成長するには失敗の可能性を引き受けて挑戦する必要があるのです。

この挑戦に向かう子どもにとって安心を与え、力を励ますのは、失敗し、挑戦を続けて成長を獲得した憧れの「大人」の姿なのです。

2018年10月22日

憧れを守る

「憧れ」は子どもの成長を促すとても大きな力を持つ感情です。親、家族、お友だちや先生等の人との関係性を発達させた子どもは「憧れる気持ち」を抱くようになります。その対象は多くの場合、原点に母親、そして父親があり、さらに人に限らずキャラクターや年齢が上の子どもなどに広がっていきます。

「憧れ」は単純に表現すると「~みたいになりたい」という気持ちです。それが自分を前進させるための大きな原動力になります。「~に憧れなさい」と子どもに指示したことのある人はいないと思います。「憧れ」は人に指示されずに自分の内側から取り組む内発的動機に属します。しかしそれと当時に憧れの対象から気持ちを引っ張り上げる外発的動機づけをもらうところもあります。内発的動機と外発的動機が結束して育ちの原動力である「憧れ」となります。そして、「憧れ」は子どもに自律性による行動の変化をもたらします。

育ちにおいて大きな力となる「憧れ」を守ってあげることは、大人の大切な義務です。そして、「憧れ」を通して多くのことを学び取っていくことを子どもの育ちのために用いない手はありません。「静かにしなさい!」と叱るかわりに「忍者になって行くよ。見つからないようにね」と声をかける方が子どもにとって行動が具体的に伝わります。

しかし乱用することは禁物です。小学校入学前の年長のお子さんに「もうすぐ一年生になるんだから、お弁当を残さず食べられるよね」とか「もう一年生になるんだから一人でできるよね」といった声掛けが頻繁に行われます。そこで注意して欲しいのは、「憧れ」を抱いている子は「憧れ」の対象にまだ追いついていない、ということです。頑張って憧れの対象に近づこうとしている子に、あまりにも憧れを刺激する言葉を乱用すると「一年生になりたくない」とむしろ幼さに戻ってしまうこともあります。

そして、これは同時に「憧れ」の対象に近づくために「失敗」をすることを恐れさせないことでもあります。「失敗」は「悪いこと」ではありません。「憧れ」に近づくためのステップです。過度に憧れを刺激することは、完璧主義に陥らせ、「失敗」を恐れさせることになり、やはり「憧れ」を失うことになりまねません。子どもの憧れの原点である母親や父親が、自分自身の失敗体験についてお話しできると良いと思います。何かを達成するというのは、いきなりできることばかりではないこと。何度も練習してできるようになること。時にはうまくいかなくて「諦め」なくてはならないこと。こういった経験はマイナスイメージでとらえられ、子どもにとってこれは「避けるべきもの」となります。そんなときに、誰でも最初はうまくできないということや、少しづつ上手になることを身近な大人が見せることができれば「憧れ」は守られます。

<参考>「発達教育2018.10」号特集『人と関わりたい気持ち、人に憧れる気持ちを育てる』安住ゆう子

 

2018年10月24日

余白をつくる

子どもに沢山の体験をさせることはとても大事なことですが、それと同時に「余白」を作ることも心に留めてほしいと思います。

「余白」とはスケジュールの「余白」です。子どもが活動や体験の間にのんびりと自分に向き合える時間という意味です。子どもの内発性や創造性を誘発するための時間的な余白ということです。子どもは幼児期に活動や体験に没頭して取り組むことが肝心です。だからこそ逆に、「何も計画されていない時間」が大事になります。そのような時間を十分に得た子は意欲的に活動に取り組む内的な力を蓄えます。

しかしこういった「余白」は、かなり自覚しないと作れないことが多いです。大人もそうですが、実は子どももスケジュールがいっぱいということはよくあります。幼稚園を降園したらすぐに習い事、次にお教室、家に帰って食事をしてお風呂に入って寝る時間。そこにある隙間時間は移動の時間ということがよくあるのです。大人のスケジュールに子どもを一緒に連れていくということもあるでしょう。だから、意識して子どものために「余白」を作る「気持ち」を持つことが大事です。それは同時に子どもと過ごす大人が子どもの「余白」を一緒に過ごすことに他なりません。

この「余白」は子どもたちの中に「楽しかった」「面白かった」という気持ちをゆっくりと浸透させる時間です。この時間が削り取られると、せっかくの体験を「やりたくない」と拒否し、主体性を失った活動にしてしまうことがあります。だから一日、一週間、一か月、一年といったスケジュールに「余白」を必ず設けるつもりでいるのが良いのです。西荻学園幼稚園は大胆な「余白」である「夏休み」「冬休み」「春休み」を持ち続けています。この期間は「預かり保育」をしません。一日の中でも、練習帳のような短時間の活動を幼稚園の主活動の「余白を埋める」ために使うということもしたくありません。自然体験のようなものを除けば、発表会のような行事は多すぎては良くありません。それらのために日常の幼稚園活動の「余白」が「余白」自体が大事な保育スケジュールの要素なのです。

子どもの育ちのために、大人である私たちには次々と「与えたいもの」、「見せたいもの」が沢山あります。しかし、何かを「しない」と決めることも与えることと同じくらい重要なのです。

2018年10月25日

子どもの挑戦を手伝う

子どもが何か活動に没頭しているとき大事なことは「口を出さない、手を出さない」ということです。見守ることが大事です。しかし、やがて子どもの挑戦が限界を迎えたときには、「お手伝いしようか?」と幼稚園の先生は声をかけます。

もちろん、そのお手伝いとは先生がやってしまうということではなく、例えば子どもの手を取って一緒に行うことなどを意味します。あるいは、課題を一つだけゆっくりと子どもが見られるようにやってみせるのです。

そういったタイミングはどうやって計るのかと思われるかもしれません。先生は一人につきっきりというわけにはいきませんし、子どももそれを求めているわけではありません。しかし、子どもの方からどうしても助けが必要な時にサインを出すのです。先生に声をかける子もいますし、「ふー」と大きくため息をつく子もいますし、きょろきょろと周りを見回す子もいます。サインは様々ですが、これまで没頭していたものから視線が外れるといった様子が出ます。その時に「お手伝いしようか?」と声をかけるのがちょうどよいタイミングであり、それまでは声をかけずに距離感をもって離れているのが良いのです。

「お手伝いしようか?」と声をかけても、もう少し自分で頑張りたい子は「あっちに行って!」と言ったり、聞こえないふりをしたりします。そのときはまた距離を離して見守ればいいのです。子どもは大人を信頼していれば、助けが必要な時には声をかけてきます。

西荻学園幼稚園の方針の中で「丁寧・適時・適所なかかわり」というのは、このような子どもの自主的な活動に対する先生の姿勢を意味しています。

ところで、このように助けが必要となった子に、先生はなるべく早く応えようとしますが、場合によっては他の子の手伝いをしていることもあります。そんな時は、「これが終わったら行くから、それまでもう少し自分でやってみて」と、順番を明確に伝えて自分なりの試行錯誤をしながら待つようにうながします。もちろん次の子がいるからといって、今向き合っている子を疎かにはできません。理想は「その子にもまんべんなく、助けが必要な子にしっかり時間をかける」ということです。しかし、そのために子どもは「順番待ち」をしなければなりません。

かわいそうに感じられるかもしれませんが、待たせてしまう子は次の機会に優先してあげます。また、試行錯誤をしながら待つように促すと、その間に一瞬でも課題から気持ちを解放したことで、取り組んでいた活動への新しいアプローチを発見して解決してしまうことも少なくありません。「もうできちゃったよ」と得意な顔の子に、「先生はあっちに行って」と振られることも多くあります。

兄弟姉妹のいない子どもの中には自分の番を「待つ」ということに慣れていないために、無理に先生を引っ張っていこうとする子もいますが、先生が必要な時に丁寧にかかわることを繰り返していくうちに「待つ」ことができるようになります。

2018年10月26日

習い事をやめると『やめ癖』がつくか?

子どもが習い事を始めると、一度は「やめたい」と言い出します。親としては、「せっかく始めたのだから、もう少しがんばりなさい」と励まします。しかし、「やめたい」と子どもが言ったときには、安易に励ますより、親も一旦立ち止まって考えてみるのも悪くありません。

なぜ、「やめたい」と言い出したのでしょうか。他にも習い事や教室が多すぎて子どもが疲れているのかもしれません。何事も、意欲のない時に無理にさせても成果は上がりません。それどころか「二度とやりたくない」と悪い印象として残ってしまうかもしれません。

また、子どもに習い事をやめさせると、「やめ癖」や「あきらめ癖」、「逃げ癖」がついたり、あるいは「挫折感」に苦しまないかと心配される保護者もおられます。

結論を言いますと、習い事をやめたから幼児期の子どもの発達に悪影響があるということはありません。

橋井健司先生がうまいたとえを使っておられました(「世界基準の幼稚園」光文社)。「やめたい」というのは、いわば車のブレーキを踏んでいる状態なのだそうです。そこで無理にアクセルを踏んで前に進んでも、故障の原因にしかならないでしょう。まずは親も落ち着いてなぜ子どもがブレーキをかけているのかを察知する余裕を持ってほしいと思います。

その上であえて申しますが、「やめる」という捨てるものを決める決断は、前向きな決断だと思います。「何をしないか」を決めること、「いらないもの」を見分けること、「捨てるもの」を決めることは前向きなことです。

驚かれるかもしれませんが、幼稚園と習い事や教室で一日のスケジュールがいっぱいで、子どもが疲れ切ってしまうようでしたら、いっそ幼稚園をお休みされてはいかがでしょうか。ぎっしりの隙間のない一日を無理して生きるより、よほど子どものために良いことです。私は子どもにとって隙間のないスケジュールは危険だとすら思っています。そういう子どもは、明らかに心が消耗しているのです。

その上で、子どもの体力や知力や経験を考えるとスケジュールが物足りなくなったと思われたら習い事を考え始めてもよいのではないでしょうか。

心理学用語に「レディネス(readiness)」という言葉があります。「学習活動に効果的に従事することを可能ならしめる学習者の心身の準備状態」(ブリタニカ国際大百科事典)のことを意味します。

子どもが習い事に興味をもって「これをやりたい」といっても、レディネスが整っていない中途半端な状態のこともあります。そのような状態ではじめても、長続きできず飽きてしまいます。あせって習い事を始めても成果はないのです。それでも「もう少しがんばって」と親は願われるでしょうが、そのような時は早くやめて出直した方がいいのではないでしょうか。

2018年10月29日

秋の恵みをいただいて

肌に感じる風も少しずつ冷たくなり、秋の深まりを感じます。この季節は、園庭で遊びまわるには最適な気候です。戸外での活動をたくさん取り入れていきたいと思います。

先日の運動会では、たくさんのお手伝いとご声援と拍手をありがとうございました。運動会を経験し大きく成長した子どもたちは、活動も自信に満ちて大きく力強くなってきました。これまで、離れてお友だちの様子を見ていた子が積極的に遊びに関わってくるようになりました。下の年齢の子たちが、上の年齢の子たちの遊びを真似して自分たちで遊んでいる姿も多くみられます。自分たちを真似する下の年齢の子たちのお世話をする上の年齢の子たちの優しい姿も見られます。譲ったり、譲られたりといった交渉とコミュニケーションの場面も少し深まってきました。異年齢の子との交流を多く経験することは子どもたちの育ちの力を強く刺激しています。日毎に伸びる子どもたちの姿に教師も喜びを感じています。

秋は様々な実りを子どもたちにも大人にも経験させてくれるうれしい季節です。お芋掘りでは、子どもたちの顔ほどもある大きなお芋を掘り出して、親子一緒に喜ぶ姿もありました。季節や自然が与えてくれる恵みを親子で一緒に喜ぶことは、何よりも子どもたちにとって幸せな経験です。季節感や幸福感という「言葉で言い尽くせないもの」が、子どもたちに伝えられています。

(11月の園だよりから)

2018年10月30日

手を使いましょう

子どもが幼児期に主体的に遊びを始めるためには「下準備」が必要です。たとえば、スポーツ選手は試合のために体を鍛え、筋肉を自分のイメージの通りに動かすことで自在に肉体を活用します。

子どもも幼児期に体をたくさん使って遊びます。つまり考え方はスポーツ選手と同じです。違いは、子どもは意識的に必要な準備を選んだり、行ったりできないということです。そこで大人の意識的なサポートが必要になります。もちろんこれは何でもやってあげるということではありません。

幼児期を通して「下準備」として意識されると良い第一のことは、「毎日できるだけたくさん手を使うように習慣づける」ということです。単純なことと思われるかもしれませんが、これは子どもが人として生活習慣を身につける上でも欠かすことのできないほど重要なことです。

西荻学園幼稚園では、お当番として欠席の連絡を園長まで知らせに来てくれます。その際、事務室の扉を開けるのですが、子どもの多くは扉のノブを開けられません。最近は扉を回すノブではなく、レバー式のものが多くなったために、そもそも扉を開けるために「ノブ」を回す必要があることを知りません。そこから教えます。「目で見たノブを手でつかむ」。これが第一段階です。ノブを握ったら、その手を回転させます。これが第2段階です。最後に回転させた状態を維持して手前に引きます。これが第3段階です。そうして初めて扉が開きます。同じことが回すタイプの水道を使う時にも起こります。加減ができないので、水浸しにしてしまうことが続きます。はさみを使ったり、折り紙をしたり、のりを適量つけたり、こういった活動も同じです。これらの動きを完成させるために必要な下準備が、手をたくさん使うということです。

いっそレバー式にしてしまうということも考えました。実は大人にとってはその方が「楽」なのです。しかし、「毎日できるだけたくさん手を使うように習慣づける」という下準備をしっかりして、できることを増やす方が大切だと考えてそのままにしています。

私たちが日々の生活の中でどれだけ手を使っているかを考えてみてください。朝起き上がり、洗顔し、服を着替え、食事を作り、食べます。考えるときも、書いたり、本をめくったり、パソコン、スマートフォンやタブレットを操作したり…と殆ど間断なく手は使われています。

手を使うことが「できることを増やす」ために必要です。できることが増えると、子どもは自信を得て自立していきます。自分から「やりたい」という意欲を抱き、それを実現するための創意工夫が起こります。そのために手をたくさん使って動きを向上させることが大切になります。そしてそれは単に肉体的な面だけでなく、内面においても豊かなものをもたらします。手を使う習慣を普段から積極的に取り入れてほしいと思います。何でもやってあげるのではなく、できることを積極的にさせることです。

2018年10月31日

子どものこだわりを理解するヒント

幼児期の子どもは、時として大人には理解しがたいほどの「こだわり」をみせることがあります。それらはやがて必ず環境に適応することで収まりますが、その間に子どもの内でどんなことが起こっているのでしょうか。

幼児期の子どもにとって、まだまだ世界は初めてのことに満ちています。目に映ること、耳にすることが未知のものばかりです。この時の子どもの置かれている状況を理解するには、今まで一度も行ったことのない世界に放り出されたと想像してみてください。

手がかりが何もないのです。地図もなく、言葉もわからず、時計もない。そんな「知らない世界」に放り出されたら、私たちはどうするでしょうか。必死に周りを観察し、僅かでも手がかりとなることを見つけたら、それを目印にして動こうとするでしょう。探検に出かけても、必ず見知っている目印を手掛かりにして戻って来ようとするでしょう。そうやって自分で地図を描き、自分で言葉を理解し、そこにいる者たちと手探りでかかわっていくのです。それが、幼児期の子どもたちの毎日なのだと考えてください。

もちろん「ガイド」として大人が傍にいることは大きな助けになるでしょう。しかし、このガイドは同時に「わからないこと」が待ち構えている世界に子どもを押し出すのです。知らない世界を進んでいくのは不安なことです。そこで、目印となることを一つ一つ繋げて秩序立てていきます。それは安心を作る作業です。

ここで、もう一つ想像してみてください。そうやって苦労して秩序立ててようやく適応しようとしている環境を、そうとは知らない誰かに壊されてしまったら、つまり目印となるものを取られたり、別の位置に動かされてしまったら、不安からパニックになり、癇癪を起こしても当然な気がしませんか。

幼児期の子どもは、物事を行う順序がいつもと違うと癇癪を起し、いつもの場所にものが置かれていないと怒ったり、物をきっちり同じ向きで揃えないと落ち着かなかったりします。大人にとっては、なぜそんなことが気になるのかと思うような些細なことにこだわります。しかし、上記のように子どもとってはそれが一大事なのです。

子どもこだわりに全て付き合っていられないというのが、大人の正直な気持ちでしょうが、この幼児期の子どもの気持ちを理解しているのといないのとでは大違いです。

こだわりはそう長くは続かないと言われますが、1年以上様々なこだわりを見せるのが普通です。この時期はイライラすることでしょうが、この時期にこだわりを通して「秩序感」を育てることが、人間の社会性を得ていくために大切な準備なのです。

2018年11月02日

大人の貫禄は子どもにもわかる

子どものころ、大工さんや植木屋さんの仕事を身近に見る機会がありました。祖父は金箔押しの職人でした。祖父の思い出は一緒にお正月に過ごした食卓と、金型を調整する神業のような職人の手仕事の情景です。職人の仕事を目にすると、飽きずに眺めていたことを思い出します。その時見た仕事の流儀が、時として自分の仕事を支え、ヒントを与えてくれることもあります。憧れた思い出が今も自分にとって大事な財産になっていることを思わされます。

年季のある職人の貫禄というのは、子どもにわかるものです。そこに至るまでに並々でない苦労があったことでしょうし、同じ道を目指しながら挫折していった仲間も多くいたはずです。その中で独り立つ職人というのは過酷な競争に打ち勝ってきた人です。

ちょっと見はヨロヨロしているお爺さんやいつも静かにほほ笑むお婆さんが、戦争中の体験を語られると、その説明の正確さと見識の高さに圧倒されます。人間として筋を通して生きている姿に「大人」とはこういうものだ、と知らされたものです。年月は容赦のないもので、こちらの予定にお構いなしに人生を削り取っていきます。そんな中で「大人」として生き抜く耐性を、昔は困難な時代の中で否応なく鍛えられたところがあったのでしょう。

哲学者の鷲田清一氏がこのように言っています。「かつては場数を踏み、痛い目に遭う体験を通して、生きていくのに不可欠な『見極め』がつく大人になりました。子供もさまざまな職業の大人を見て、生き方を選択できた。ところが失敗する可能性があらかじめ排除され、大人の仕事にも多様なイメージを描けません」(『おとなの背中』角川学芸出版)。さらに、似たような価値観の大人の背中しか見えなくなった結果、子どもたちは「万能感」か「無能感」のどちらかの両極端に生きるようになった、と述べています。

今は、昔はなかった「選択の自由」が与えられています。自由が与えられているからこそ、その中で貫禄ある「大人」になることは指標を失くしたように思われます。しかし、そんな時は幼い子どもと向き合ってみることです。幼い子どもから好かれ、同時に畏怖、尊敬されれば「大人」です。そしてそんな大人が子どもに「憧れ」という財産をもたらします。それは「万能感」の下品さと、「無能感」の諦観の沼から子どもたちを引き上げる「恵み」となるのではないでしょうか。

2018年11月05日

子どもはやりたがっている

「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」これは山本五十六の言葉と伝えられています。人の成長を考えるときにいつでも思い出すべき、暗唱して心に刻み付けるに足る言葉です。私の経験からも、この言葉の一節のどれかが欠けたときに私自身が人の成長の妨げとなったことを反省させられることがたびたびあります。

幼児期の子どもたちに接していて感心するのは、「できる」ことへの気持ちの強さです。例えば、コップを傾けて水をそそぐ。水道の蛇口をひねって水をバケツに汲んで砂場までこぼさずに運ぶ。砂山をつくって、トンネルを繋げるにはどうしたらいいか。登り棒の上り方。鉄棒で前回りをすること。歯ブラシをつかって歯を磨くこと。手を洗うこと。

大人となった私たちが「ちゃんとやりなさい」、「自分でできるでしょ」の一言で指示してしまいがちな殆どの動きも遊びも、子どもたちは「知らない」のです。私たちには勝手な幻想があって、年齢とともにできることが自動的に増えると何故か思ってしまうのですが、「増える」のではなく子どもが「できるようになりたい」と思って増やしてきたのです。だから、「やってみたい」という要求に十分に応えてもらえなかったことは、うまくできなくて当然です。だからこの「できるようになりたい」と望んでいる子どもたちの気持ちに応えることが幼児教育では非常に重要になります。それではどのようなことに気を付けたらいいでしょうか。

それは、子どもが「自分の目」で見て、なるほど!と「わかって」、自分もやってみようと「やってみて」、自分自身の成果に「満足する」、というプロセスを実現していくことです。このプロセスを大事にすると、単に「できるようになった」というだけでなく、「学んだ」ことになります。つまり、「できた」ということと同時に「学び方」を学ぶことにつながります。

子どもが良く見て、自分で取り組めるような伝え方を考えてみると以下のようになります。

① 教える「うごき(行為)」をできるだけ一つに絞り込み、子どもの注意をそらす余計なものを取り除く。

② 子どもに伝える動作を分析し、各動作を、はっきりと、ゆっくりと、正確に順を追って実行して見せる

③ 難しいところを確認し、特に丁寧に、正確に、ゆっくり、繰り返して、見せる。

④ 見せるときには、言葉を使わない。子どもを「見る」ことに集中させる。

⑤ 伝えるときは言葉に頼らずに、動作を正確に実行して「見せる」ことに集中する。

⑥ 間違いをその都度訂正することは心を怯えさせるので、子どもがやっているときは声をかけない。

⑦ うまくできなかった時は、もう一度、繰り返し、正確な動きを、ゆっくり、丁寧に「見せる」。

⑧ 子どもが自分自身ではじめる自由を与える。

分析すると8項目にもなりましたが、一つ一つは「できる」大人にとっては決して難しいことではありません。むしろ、大人にとっては難しいことではないので子どもがうまくいかないと焦れてしまうのです。そこで子どもから取り上げて間違いを指摘したり、代わりにやってしまいます。けれども、それこそが子どもの「学び」の機会を奪う最大の敵です。大人が「焦れる」と、子どもはうまくできないことを「悪いこと」と感じて、失敗を恐れてやらなくなります。それは一番避けるべきことです。

正確に、ゆっくり、丁寧に、繰り返し、見せる。それに加えるならば「できると信じる」こと。これが大事なのです。

2018年11月07日

クレーン現象

「クレーン現象」という言葉があるそうです。子どもが「お母さんがして~」「先生がして~」と、まるでクレーンの先で物を取るように、親や先生の手でしてもらおうとすることだそうです。

子どもは本来「自分でする」と言う気持ちが強いものです。そこで大人が手を出してやってしまうと不機嫌になり、泣き出したり、怒ったりします。そのような子どもたちがいつの間にか「やって~」「して~」と、人の手をあてにするクレーン現象にかかっているのです。

子育てにおいて大事なことはなにかと聞かれれば、「自立」と「自律」と応えます。「自分の手を使い、自分の頭を使い、自分のやりたいように進める」という活動を繰り返してきた子どもは、「自分でする」というあの強い気持ちを持ち続けます。それは「自律」を身に着け、「自立」を目指して一歩一歩進んでいる姿です。「お母さんがして~」「先生がやって~」という子どもと比較すると、「自分を使い、自分でやりたいようにする」子どもの方が強い生命力を感じます。

一頃、ビジネス書で「タイムマネジメント」ということが流行りました。正直言って、最近のビジネスマンはこの程度の見通しも計画も立てられないのかと驚いたものです。幼児期以来の日常の積み重ねが大人になって影響しているのではないか、と考えてしまいます。

幼児期に「遊び」という環境の中で、自分で考えて遊び、実行し、考えて工夫する、という一連の活動を自分のやりたいようにやってきた子は、自分の生活、つまり限られた「時間」を管理する「自律」を身に着けていきます。優先順位をつけ、出来るものから片づけて、必要性を自分で判断してやり通すという「人間力」を発揮できると信じています。

そのために、子どもの「自分でする」という生命の要求に応える大人の工夫と努力は大事なのです。

 

2018年11月08日

自立とはどんなことか

介護保険を通してサポートを受けられる方の立ち合いをお願いされて行ってきました。ケアマネジャーの方が熱心に介護サポートをお勧めする姿を見ながら、そこで使われる「自立」という言葉が「自分でできる」ということに意味が限られていることに気が付きました。「~ができる」、「~へ移動できる」といった具合です。介護の現場では安全という意味でそれでよいのでしょう。

しかし私が度々使う「自立」、つまり幼児教育における「自立」はただ「自分でできる」ということに限りません。「自立」とはもっと全人格的なものです。その人の感性、知性、理性、意志、肉体を駆使するものです。

「自立」は、自分自身に対する自信や確信に基づく安心があり、周囲の人や物と安定した関係を築いており、自分で選択し、責任を取ることであり、それらの実現のため行動に挑むことです。このすべてがあって自立が成り立ちます。必ずしも「自分でできる」ことが全てではありません。そこに自主性がなければ「自立」ではないのです。

この「自立」へと向かうために、かならず子どもがたどる「道」があります。まず自分からすすんでかかわること、次にそのかかわったことを続けること、続けているうちに単なる運動が感性、知性、理性、意志を駆使するものとなっていきます。そして、満足を実感して終了します。この段階を経て、自分自身に対する自信や確信を得ると、子どもの人格が奥底から変わっていくのです。

集団保育の現場で、優れた教師は「指示」の下で子どもたちを動かすことをしません。初めに子どもたちの興味を引くいくつもの方法を用意して、子ども自身の「やってみたい」という気持ちを引き出します。例えば競技や、劇や合奏、歌の時です。人に動かされるのではなく自分から決めて始めることができた子どもは、人に依存せずに取り組みます。やがてその活動の満足や充足が、子どもの中に自信と確信を育て、人への親切へと発展したり、周囲への思いやりを発揮したり、より良いことをしようとする態度に繋がっていきます。自由を守られたことで、かえって規律意識を育てるのです。

一つの活動に集められたエネルギーが満たされ、集中した活動によって大きくなり、「やり遂げた」という満足を得ると、今度はその大きく膨らんだエネルギーが、人格の諸相に調和をもって再び分配されるのです。集中と調和のプロセスを通して人格は育ち、自立が得られます。

きっかけは大人の目から見ると生活上の小さなことかもしれません。しかしそこから育つ「自立」とは全人格的な営みの成果なのです。

2018年11月09日

生活のリズム

私たち人間は、それぞれにふさわしい生活リズムをもって生きています。リズムは生活習慣によって作られていきます。

健康な人は、多くの場合、日々の生活を快適にする生活のリズムをもっています。もちろん不規則な日もあるでしょうが、およそ食事、睡眠、日中の活動についてリズムを持っています。

食事は、栄養を考えて摂ることはもちろん大切です。それと共に食べることは心に喜びをもたらすものです。喜びをより大きくするため、あるいは悲しみを癒すために美味しいものを食べます。願わくは、食卓を囲んで家族が会話することができれば素晴らしいと思います。心を豊かにするために食事は大切な生活習慣ですから、食事時間も習慣化して生活のリズムを作ることが良いでしょう。

睡眠も食事と同様に活動の基礎です。トータルの睡眠時間とともに、夜は何時に寝て、朝は何時に起きるという毎日の規則的な習慣は子どもの心身の健全な発育のために非常に重要なことです。この「非常に重要」ということを真剣に受け止めてほしいと思います。幼児期の心身の発達の著しい時期に、脳や身体はリズムをもって活動し、順序正しく成長していきます。リズムが狂うということは、この「順序正しく」という成長が乱れるということです。具体的にはホルモンバランスが崩れます。子どもたちの脳や身体の成長は必要に応じたホルモンが多すぎず、少なすぎず、最適な量が分泌されることで健全に発達成長します。そのバランスの重要性は身体の成長発達期を過ぎた大人の比ではありません。よい睡眠のリズムはあらゆる行動に関係し、目覚めている日中の活動に力を与えてくれます。これまで、子どもの自主的な活動や、能力の獲得ついて様々書いてきましたが、それらは「良い睡眠習慣」があることで満たされるのです。子どもにとって規則的な睡眠がどれほど大切かは「寝る子は育つ」という格言もあるほどに、どの時代の親たちも肌で実感してきたのです。

最後に、幼児期の子どもが健康的な生活リズムを構成するときに不可欠な要素は「遊び」です。ほとんどの生命体は、規則正しい活動を繰り返すことによって生命を保ちます。幼児期の子どもにとって、食事と睡眠以外の生活リズムといえば、何といっても「遊び」です。

食べる、眠る、遊ぶという三つの要素が生活の中でリズミカルに定着することが、子どもが健康で幸福な日々を送る上でとても大切なのです。

2018年11月12日

人の間で生きる

「人間」の文字が表すように、私たちは人の間で生きています。たくさんの人とのかかわりを求める人も、少ない人との深い交流を求める人など、様々な人がいます。しかしどんな人でも他者との関係を通して自分の存在を実感します。人との交流を失って生きるのはつらいものです。そこで、子どもたちが人と交流して生きることに喜びを感じる力を育んでいくために大切なことを考えてみたいと思います。

幼稚園でも、遊んでいる子どもたちの輪の中になかなか加われない子がいます。親としては、そのような子どもに対して不安を感じられることもあるでしょう。しかし、ほとんどの場合心配はいりません。子どもは本来、信頼する人、安心できる人にしか話しかけませんし、一緒にいたいと思うことはありません。まず親や祖父母、幼稚園の先生たちなどに自分の意思や望むことを聞き入れてもらうことで、安心して話すことができるようになります。その後に、同年代の子どもたちとも話せるようになります。

このときに大切なことについて、児童精神科医の佐々木正美先生は、子ども言うことを「聞くこと」と「聞き入れること」とは別だということを言われています(『はじまりは愛着から』佐々木正美著、福音館)。「子どもが話しかけてきたら、何でもうなずいて聞くように心がけてください。親にとって都合の悪いことを言っても、それを頭ごなしに否定するような態度はけっしてとってはいけません。できるだけ穏やかな表情や言葉遣いで、お母さんはそうは思わない、そういうことは好きではない、と丁寧に伝えましょう」(同書58ページ)親や祖父母その次に先生と、少しずつ「思った事を素直に話しても大丈夫」と安心感を得ていけば、やがて友だちとなる同年代の子どもたちにもかかわっていけます。

子どもは親や先生、その他の大人から学ぶだけでなく、それ以上に近い年齢の子どもと学び合うことが重要です。それがさらに沢山の多彩な個性を持つ友だちと交流し、教え、教えられる機会をどれだけ持てたかという「量」が重要です。この点は、子どもの育ちの興味深い点なのですが、「質」より「量」ということが重要なことが沢山あります。いわゆる「親友」という関係は、幼児期・少年期を経て人間関係を成長させたところで得るものです。むしろ多彩な「量」が、遊びやおしゃべりを通して知識や経験や感情を数多く子どもたちに得させます。それが周りの人からの期待に応えていこうとする(例えばお手伝いを喜んでする等)自発的な活動を促します。

現代ではこういった子ども同士の交流は、大人が意識して大切にしてやらなければならないでしょう。大人から学ぶだけでは、子どもの心を動かせないことが確かにあるのです。それは友だちと共有する時間の中で与えられるものなのです。大人は子どもに、友だちの大切さを伝えることを怠ってはならないと思います。そのために、自分自身が誰かの良い「友」でありたいものです。

2018年11月13日

大人になるために―必要なものは代替できない

子どものころに十分な教育を受けられなかったとしても、健全な大人として立派に人生を全うした人は限りなくいます。しかし、子どものころに十分に遊んだ経験のないまま大人になり、ひきこもりや、対人恐怖や負い目に過剰なストレスを感じる人が非常に多くなっています。

子どもには、まず母親(母性)、次に父親(父性)、祖父母や兄弟姉妹ら家族、そして友だちや先生たちと交流を豊かに広げ、繰り返すことで生きていくことが大切です。この点は、未だに数学的に置き換えることのできない事柄です。数学的に置き換えられないということは、他のもので代替する手段が質的に「ない」ということです。

子どもたちにとって「遊び」は代替不可能な事柄です。大人は子どもたちに「教えることができる」ということを大きく評価しすぎていないでしょうか。知識や技術が増えることは価値のあることです。しかし遊ぶことに罪悪感を感じさせることは避けるべきです。

子どもの発達に遊びと交流は不可欠です。共感や感動などの人間性の発達に加え、規則や役割、責任、義務、道徳といった社会性の発達に有益な活動です。さらに、友だちとの遊びを十分に体験することで、人を信じる感情や自分を信じる心を育てていきます。

作詞家の阿久悠氏は新聞のエッセイで、子ども時代にやっておかなければならないことを全部すませてからでないと、しっかりした大人になることはできない、と書いておられました。

思春期や青年期を迎えてから気持ちを引き締めて努力しても、簡単にしっかりした大人になれるものではないでしょう。子ども時代にやるべきことをちゃんと経験しておくことが、大人になる前提なのです。

2018年11月15日

目先ではなく本質を考える

みやざき中央新聞(2762号)に掲載された「株式会社そうじの力」の代表取締役、小早祥一郎氏の講演から紹介します。

【以下引用 一部要約】
たとえば、「Aさん、あれはどこにあるんだっけ?」と言われたAさんが一生懸命ものを探す。「あれ、ここに置いたはずなんですけど、ちょっと探してみます」と言ってAさんがウロウロしてしまったら、それだけでAさんの力は100%発揮されなくなります。Aさん、Bさん、Cさんの力を結集すればすごい力になるはずなのに、ばらばらでコミュニケーションが取れていなければ力を発揮できません。掃除の目的はここにあります。要するに「100%の力を発揮するために」掃除をし、きれいにするのです。力を発揮するのは「個人」でも「家族」でも「職場」でも同じです。掃除は「きれいにする」こと自体が目的になってしまうことがあります。しかし、それはあくまで結果としてきれいになるものです。もう一つ、想像してみてください。道にゴミが落ちていた。「あ、ゴミだ」と気付いても通り過ぎることが多いと思います。でもゴミが落ちているのを見て、ちょっと立ち止まりしゃがんでそのごみを拾ったら、少なくともそこにあったゴミ、つまり「小さな問題」が解決したということになります。言い換えるなら、ゴミを拾うことは、自分に「小さな問題を解決できる力」があると思える行動です。つまり掃除は自主的な「問題解決力」です。自分が捨てたわけでも、自分が悪いわけでもない。「拾いなさい」と言われているわけでもありませんが、気付いて「自分がやればいいんだな」と思える力なのです。
【引用終り】

掃除をすることは100%の力を発揮するため。ゴミを拾えるのは問題解決力の証し。私たちは子どもに様々なことを指示します。例えば「おもちゃを片付けなさい」、「もう、お片付けの時間だから、やめなさい」、といった具合です。その時、指示をする私たちは目先の行動を目的にしていないでしょうか。しつけや教育といった課題を持つときには、こんなことでも立ち止まって考えてみる「癖」を持てると良いでしょう。

紹介した小早氏も、自分の仕事を立ち止まって考えています。その時に見えたのは、目先の善し悪しではなく行動の本質です。

「きれいにする」ことが目的になると、物を別の場所に移すことが「整理」になります。ゴミを別の場所に隠すことが「掃除」になります。つまり作業です。しかし、本質として「100%の力を発揮するために」を目的とすると、行動の結果は「成長」と「充実」に結びつきます。

子どもたちのために、自分が普段与えている指示がただその場を満たす作業を命じているのか、その作業を通して「成長と発達」に結びつく本質をとらえているかで、言葉遣いも何もかもが変わってきます。仮に、子どもがその指示に対してすぐに応じることができないときも、反射的に怒ることから解放されて、子どもの発達の段階を理解し、子どもの発達に適した指示を与えることができます。

2018年11月17日

教えたと言える状態

何度教えてもなかなかできない人に、「前にも教えたでしょう。」「さっき伝えたでしょう。」「何度も言わせないで。」こういう言葉をかけてしまいます。教えたことを理解していない相手を責めてしまう言葉です。

「教える」ことには常に「学ぶ」相手がいます。当然、教える側も学ぶ相手に合わせて工夫します。そこで「教えたつもり」になります。しかし、学ぶ人が理解する、あるいはできるようになっていなければ「教えた」ことにはなりません。厳しいですが、学ぶ側に結果がなければ「教えたつもり」になっているだけで、「教えた」ことになりません。

「教えたつもり」ではなく「教えた」といえるようなるには、相手を見る他ありません。教えた結果、学んだ相手が今までできなかったことができるようになったら「教えた」と言えます。乱暴な言い方をすれば、教え方はそこでは「問題にならない」のです。学んだ者の獲得する結果が全てです。

私たちは教える側よりも学ぶ側の立場が弱い、と無意識に思っています。また、そう思わせています。教え方が悪いと考えるよりも、「できないのは自分のせいだ」と考える傾向があります。これはすでに幼児期の子どもにも見られる傾向です。

「まじめにやってない」と決めつけられたのかもしれません。「やる気がない」と責められたのかもしれません。これではいつまでたっても「教えた」、「学んだ」といえる状態は訪れません。これは教える側にも学ぶ側にも、時間の無駄であり、不幸なことです。

学ぶ人に学ぶ気持ちがないなら、やる気を起こさせるところから教える者の責任は始まっているのです。教える人の責任は重大です。

2018年11月19日

なまはむめろんタップダンスコンサート

今日は、「なまはむめろんタップダンスコンサート」がありました。幼稚園のお母さま方のおはからいで、幼稚園の保護者も含むユニット「なまはむめろん」をお招きすることができました。子どもたちは音楽もダンスも大好きです。今日は一緒に歌っても踊ってもいいコンサートで、子どもたちも保護者の方々も、もちろん教師たちもみんな楽しい時間を過ごしました。

 

普段、ダンスの好きな子どもたちはお弁当の時間に他のクラスに行ってダンスを披露したり、園庭で遊んでいるときに一緒に踊ったりしています。おもしろかったのは、普段ダンスを踊っている子たちは、じっと座ってステージのダンスを凝視していました。代わりに、普段はダンスをしない子たちが一緒に踊って、跳ねていました。ブルースハープに興味をもって真似する子。特にブルースハープの歯磨きが楽しかったようです。「もう一回」とリクエストしていました。保護者からは、「この子がこんなにステップを踏んで踊るとは思わなかった」、「~くん、上手ね」、という声も聞こえました。保護者の方々も手拍子をして体を揺らして楽しい時でした。きっと、じっとステージを見ていた子たちは、明日から自分たちのダンスに今日見たステップを踊るのではないかと思います。お帰りの「さようなら」の挨拶の後、コンサートで教えてもらったタップダンスのステップを見せあって遊ぶ子や、お母さんに「見て」と言って自分流のダンスを披露している子もいました。

 

とても楽しいステージを準備してくださった幹事様、なまはむめろんの皆さん、ありがとうございました。

2018年11月20日

「真似」のすばらしさ

以前、何かの記事で読んだのですが、「真似」には「猿真似」という言葉がありますが、実は猿は生まれて後のごく短い期間を除いて真似が殆どできないそうです。逆に人間は猿と同じく生まれて後のごく短い期間の真似が見られなくなったあと、しばらくするとすさまじい勢いで真似を始めます。それが一生続くのだそうです。「真似」が上手で、「真似」の恩恵を最大に受け取っている生物が私たち人間です。

西荻学園幼稚園にも兄姉のいるお子さんがいます。兄姉のいるお子さんは、いないお子さんと比べると、技術や交渉や秩序感といった面では発達が進んでいることが多いです。これは、身近な年上の子の「真似」をしたいという強い動機が子どもたちにあるからです。この気持ちはどんな先生の指導力をも超えて子どもたちを突き動かします。新しいことに挑戦するときも、親や先生がどんなに促しても励ましても教えても、一向に挑戦しなかったお子さんが、上の年齢の子どもがそれをするのを見て、「自分も、自分も」と名乗りを上げて挑戦するということは幼稚園ではよく見られる光景です。固く閉ざされていた心の扉が、年上の子の声掛けをもらったり、楽しくやっている姿を見ると簡単に開くのです。

これが同年齢では、こういうふうにはいきません。意外に思われるかもしれませんが、幼児期の子どもは極めてプライドの高い存在です。同年齢のお友達のアドバイスを素直に聞くことはなかなかできません。しかし、自分より年齢が上の子どもとなれば、プライドが傷つくことはありません。その分、素直にアドバイスを受け入れられるのです。

そして、これは真似る側だけのことにとどまりません。真似られる側、アドバイスを与える側の子どもも、自分より年下の子であると、教えることに抵抗を感じないことが多いのです。逆に、同年齢では自然に競い合っていますから、「真似するな」と声を荒げるのです。ところが、年下の子が自分の真似をしているのを知ると優越感を感じます。「~ちゃんがやってるのは、私をまねしてるんだよ」と、わざわざアピールします。純粋な意味で、「誇り」がそこにあります。これも素晴らしいことです。

年長児の頃には、お友だちの間にはライバル意識も芽生えています。勝負事を望むようになり、勝ち負けに敏感になりこだわります。負ければひどく落ち込むこともあります。そんなときに自尊心を取り戻し、平常心を取り戻すために自然に年下の子どもたちと遊んで気分を切り替えて戻ってくるということがあります。どんな慰めよりも、自分が年下の子たちのあこがれの対象であるという自覚が子どもの心を修復します。

このことは、同時に「自分(あるいは年長)こそ幼稚園のリーダーだ」という意識を生みます。わがままを言ったり、片づけをしないと、年下の子たちから「A組(年長クラス)さんなのに、変だよね」と言われている場面も見られます。先生には色々と言い訳をしたり、無視したりしていた子が、年下の言葉を聞くととたんに動き出すのです。

「学ぶ」は「真似ぶ」から転じた言葉と聞いたことがあります。真似を通して「学ぶ」ことと「教える」ことを子どもたちは経験します。「真似る」、「真似られる」ことで子どもたちが得るものは多様で、どれも素晴らしい力を子どもたちにもたらします。それは幼児期や少年期だけでなく、必ず将来大人になっても力を発揮します。

2018年11月22日

ごっこ遊びの深さ

ごっこ遊びは、子どもたちの発達にどのような意味を持つでしょうか。保育関係の論文では、ごっこ遊びの意義を「他者理解」とか「役割取得」といった用語で分析しています。これは、子どもの想像力や協調性といった社会性の発達に影響を持つということです。

これは、今日ではむしろ「コミュニケーション力」を育むと理解する方がわかりやすいと思います。ごっこ遊びは不得手な子は、コミュニケーション力に関わる能力の発達が未熟なのだと理解できます。先ほど「想像力」や「協調性」という言葉を使いましたが、具体的には「お互いのイメージの共有」を目的とするために、相手のイメージを汲み取る力が必要であり、相手の伝えるイメージを説明する言葉を理解する読解力が必要であり、共感が必要です。さらにそれは一方通行のものではありません。自分の側から情報を伝える伝達能力や要求を通す交渉力と説得力が必要です。ごっこ遊びの中で自分がどんな役割を果たすのか。自分たちのごっこ遊びをする集団の秩序と境界線をどうするのか(例えば、「年中さんだけ」、「女の子はいい」、「先生はダメ」といったグループの境界線や役割上の秩序がごっこ遊びには必ず現れます)。

これは私の私見ですが、最近の企業では部署の「リーダー」を育てるために「ロールプレイ」を取り入れるところがあります。ごっこ遊びはそれに近いと理解するのが良いと思います。大げさに思われるかもしれませんが、ごっこ遊びで要求される能力はチームリーダーに求められる能力と同じです。

ごっこ遊びに参加する子ども同士が対等に交渉を行い、その中からごっこ遊びを牽引するリーダーが生まれていきます。しかしリーダーの地位は安泰ではありません。常に要求を突き付けられ、不平を言われます。そこで怒ったり、乱暴な態度をとれば、ごっこ遊びからはじき出されます。この点、子どもたちのとる態度は極めてシビアです。リーダー失格となれば、もうそのごっこ遊びに自分の居場所がなくなります。自分から新たなルールの中で役割を獲得する努力(謝罪や役割の変更等)をしない限り、別の遊びに向かうしかないのです。

ごっこ遊びが示すコミュニケーション能力とは、単に言葉のやり取りをするということにとどまりません。コミュニケーションの本質は「想像力」と「交渉力」です。豊かなイメージを共有し、交換して常にごっこ遊びは発展していきます。

このように、ごっこ遊びを通して子どもたちは、この後の生涯において宝となる「人の間で生きていく力」を鍛えているのです。

2018年11月26日

親はすばらしい

どんなに評判の良い教育理論であっても、すべての子を満たすことはできません。理想と現実のギャップに悩むことが必ず起こります。その子どもにあったやり方に工夫をしなければうまくいきませんし、しかもそれを忍耐強く長時間続けなければ効果は持続しません。教育はインスタント、時短というわけにはいかないのです。子育ての悩みが尽きることはありません。諦めずに自分なりの努力と工夫、そして地道な実践からしか道は開けません。

しかし、子どもを愛する大人が、教育理論を知ることで子どもの「正しい見方」や「手助けの方法」を知っているのと知らないのとでは全く大違いです。

子育ての悩みは尽きません。しかし、子どもの成長は待っていてはくれないのです。幼児期の成長に「停滞」はないのです。その時に、不器用でも不慣れでも、「子どもの見方」の入り口を知っているということは、子どもの真の望みを理解することができるということです。少なくとも、それを探ることができます。そこで「手助けの方法」を知っていれば、子どもの望みに適った手助けを工夫できるということです。

幼児教育の最大の目的は子どもの望みと一致しています。子どもは「自分でできるようになりたい」と望み成長しています。幼児教育は子どもの「自立、自律」を目的にしています。このことを知っているのと知らないのとでは雲泥の差です。子どもたちはやがて主体性をもって人生を自分で拓く力を得ていきます。そのことを見失っては目先の上手、目先の成功、目先の従順、目先の満足に心を奪われてしまいます。しかもその時満足しているのは子どもではなく、大人の方ということになりかねません。子どもの人生の主役は、子ども自身です。それを奪ってはいけません。

子どもの成長は停滞しません。しかし時短にもできません。一歩一歩です。挨拶ができない時期があるでしょう。上手にお話しできない時があるでしょう。イヤイヤと何でも嫌がる時があるでしょう。ケンカしてしまう時があるでしょう。しかもそれが続くと、「いつになったらできるようになるのか」、と、ため息が出て、途方に暮れることでしょう。

それでもその時に子どもの望みを忘れずに「良い母親であろう」、「良い父親であろう」と悩む人は、「良いお母さん」であり「良いお父さん」です。子どものために悩み、頑張っている親は、間違いなくかけがえのないすばらしい親です。

理想と現実のギャップに悩むときには、どうか「自分でできるようになりたい」という子どもの願いを思い出してください。周りの声も批判や非難よりも、その子の内なる「できるようになりたい」という声に心を向けるお母さん、お父さんでいてください。幼稚園はそんなお母さん、お父さんの味方です。

2018年11月28日

自信を奪わない

幼稚園の先生が子どもに接するときに配慮するのは「自信を奪わない」ということです。

子どもにとって、毎日毎時が学びの時であり、発達の場面です。その時にもっとも子どもを伸ばすのは、子ども自身の「やってみたい」、「できるようになりたい」という成長欲求に即したときです。この成長欲求に強く応え、子どもに行動を促す力になり、失敗してもへこたれない心をもたらすのが「自信」です。「自分はできる」と自信を抱く子は、様々な行動に積極的です。新しい環境で挑戦を恐れません。

この「自信」の源泉は、「自分でできた」という成功体験が何といっても大きいです。しかし「他人に迷惑をかけないこと」「集団のルールを守ること」を重んじる日本の子育てでは「自信」が育ちにくいと言われます。

それは、多くの場合子どもの行動をコントロールすることに注力してしまうからでしょう。子どもの行動をコントロールできる親が「良い親」である、集団のルールを守る子が「良い子」であると考えるとき、教育やしつけは「ダメ!」に偏ることが多いからでしょう。つまり、子どもを育てる中で、子どもの行動や発想を制限することが多くの割合を占めるのです。

「ダメ!」の他にも、「過干渉」ということがあります。子どもが一生懸命にやっていることに、親が手を出してさっさと片づけてしまう、ということです。子どもが自分の意思でやろうとしたことを親が先取りしてしまうことが「過干渉」です。過干渉は子どもからやる気を奪います。そして「自信」を失っていきます。「危ないから」、「時間がかかるから」、「汚すから」という大人の都合が子どもの行動を制限します。これは子どもが何歳であっても同じです。子どもが育つためには必ず干渉を受けざるを得ません。だからこそ、自信を奪わないことを念頭にして、どこまでが必要な干渉で、どこから過干渉になるかを見分ける配慮を失わないことが大事になります。

もう一つ加えると、「放任」も子どもの自信を損ないます。それは子どもを「一人の人間」として扱っていないということです。一人の人間として果たすべき責任は子どもにもあります。マナーやエチケットは特に、毅然とした態度で伝えることが大事です。ただし、その時は子どもを人目から離して、人前で叱らないように配慮できることが望ましいです。子どもは概してプライドが極めて高い存在です。子どものプライドを傷つけない配慮を心がけるべきです。

2018年11月29日

クリスマス会へ向けて

【12月の園だよりから】

遊戯室にクリスマス会の練習のための舞台が設置されました。いよいよ子どもたちのクリスマス会に向けての練習も本格的になってきます。全てのクラスが歌と合奏をします。その他にC組は遊戯、B組は劇(セリフは録音します)、A組は聖誕劇(セリフを実際に舞台上で言います)をします。沢山のことに子どもたちは取り組みます。歌や楽器、遊戯や劇には得意・不得意がありますし、自分の思い通りの楽器や役になれなくても一生懸命に取り組む子がいます。大役を引き受けて少し落ち着かない様子の子もいます。クリスマス会はその年に与えられた恵みを精一杯に舞台の上で表現するときです。子どもたちは一回一回の練習のたびに前よりも成長した姿を見せてくれます。お部屋でプレゼントを作る様子にも、子どもたちなりに期待をもってクリスマス会に臨もうとしていることを感じます。今年のクリスマス会でも保護者の皆様に多くのお手伝いをいただくこととなります。心より感謝いたします。 みんなが一緒に救い主のお誕生を祝うクリスマスを喜びをもって迎えられますように。(園長 有馬尊義)

2018年12月03日

答えのない問題を考える力

今は、医療や技術、ダイエットや子育てにいたるまで日々新しい発見や検証が発表され、これまでの常識と思っていた考え方が覆されるということが次々とあります。昨日までと全く正反対のことが「正しい」情報として伝えられます。何をどう信じればいいのかわからなくなるというのは、情報化著しい社会の宿命です。しかし、そこで自分で考えて「選ぶ」ということが求められます。

その時に求められるものを書き出せば、情報を「見極める力」、常識を「疑う力」、未来を「予測する力」、多面的に物事を「考える力」、自分の判断を「検討する力」などになるでしょうか。これらの力が育っていかなければますます増え続ける情報の洪水に振り回される人生になります。

このような時代をチャンスと見るか、危機と取るかは価値観に由来するでしょう。しかし、事実として今の子どもたちはこれまでの親世代や祖父母世代の常識や価値観に生きるのではなく、自分の人生の歩みを自分で考え、自分で選び、自分の力で開拓しなければならないという現実があるのです。

これらの力を育てるときに必要なものの第一は「言葉」です。思考は言葉によって形成されます。幼児期は沢山の言葉を獲得します。中には親として眉を顰めるような言葉をいつの間にか取得していることもあるでしょう。しかし、それらの言葉を使って話すことを叱ったのでは、子どもは話すことに怯えてしまいます。子どもにとって話すことは思考することそのものです。それらの言葉を使うとどうして不快な気持になるのかを「会話」をもって伝えることで、子どもに「考える」機会と「選択」の機会、そして「検討する」機会を与えることに繋がるのではないでしょうか。

もう一つは、年長児ほどの言葉を駆使することができる子どもには、少しずつ「答えのない問題」を投げかけることです。念のため申しますと、「答えがない」のですから子どもはそこで「言葉」を失って黙ってしまうかもしれません。しかし子どもの中で「問いかけ」が消滅することはないようなのです。ある時きっかけを得て、突然話し始めます。

答えが決まっている問題に置いて「言葉」すなわち「思考」はさほど重要ではありません。むしろ「知識」が重要です。しかし、最初に触れましたように今の時代は知識は外部記憶装置としての端末やネット検索を用いれば、一先ず得ることができます。知識はもちろん軽視すべきものではありません。しかしもはや個人で管理しきれないほどのスピードと分量が現代社会を生きるための知識として必要になっているのです。風が吹いて桶屋が儲かるのはせいぜい同じ町内の出来事でした。しかし、蝶が羽ばたくとハリケーンが起こるのは地球の裏側かもしれないということを予測しなければならないような時代なのです。「想定外」が言い訳にならない時代とは、そういう時代です。

先日、世界的に非常に優秀とされる大学に進んだお子さんが卒業を前に「留年」されたという話をききました。なぜ留年されたのか。成績は極めて優秀であったそうです。しかし「哲学がない」と教授会は判断をしました。つまり単なる知識においては極めて優秀と言っていい。論文を書くと情報を駆使して抜群の完成度のものを提出する。筆記試験も問題ない。しかし人物に「哲学」がない、という理由でした。将来必ず指導的な人物となることが求められるだろうから、一年留年して、旅して世界の答えの出ない矛盾を見て、考えなさいと勧められたそうです。えらいと思ったのは、このように告げられた親は、この教授会の判断に「愛情」を感じたと言われたことです。そして、有難いと感じつつ、その忠告に従ったのだそうです。教授たちが真摯に一人の学生の人生を慈しんだ上で出された選択であったからでしょう。

情報を「見極める力」、常識を「疑う力」、未来を「予測する力」、多面的に物事を「考える力」、自分の判断を「検討する力」、それらを駆使してどう答えのない問題に取り組むのか。それをどう伝えていくのか。それが幼児期、少年期、青年期のどのような時期の教育にとっても重要な課題となるはずです。

2018年12月05日

挨拶

「ごあいさつ」を大切にする幼稚園は多くあります。西荻学園幼稚園も大切にしています。毎朝の幼稚園の門で子どもたちと「おはようございます」とお辞儀をして挨拶します。挨拶をする子もいれば、しない子もいます。お辞儀はするけど声を出さない子、反対に声は元気だけれども顔は横を向いている子等、様々です。一緒におられる保護者の方も、挨拶についての考えは様々のようです。叱る方や強要する方もいますし、苦笑いをしている方もいます。ただ概ね親はしっかりとした手本となる挨拶をしてくださいます。

私自身は、強要しては挨拶の基本から外れるだろうと考えています。強要して挨拶を嫌うようになってはもっと大事なことを失わせてしまいます。同じ子でも気分がいい日もあれば、しぶしぶ幼稚園に来ていることもあるのですから、無理強いは必要ないでしょう。ただ、挨拶がコミュニケーションのために重要であることを教えることは大切です。

教えると言っても、難しいことではありません。親が挨拶をして「幸せ」や「うれしい」が生まれることを見せればよいのです。挨拶のアクションはおよそ単純なものですから、手本となって動きを見せ、言葉を聞かせるのです。

挨拶はコミュニケーションの基本です。コミュニケーション力がなければ、意思疎通ができませんし、関係を作れませんし、それは自分自身の生きにくさに繋がります。

相手の目を見て「笑顔」で挨拶する、というのは殆どの国で通用する行動です。笑顔は「自分はあなたに敵意を抱いていない」というアピールです。コミュニケーションの基本です。

逆に、この基本ができていないと良好な人間関係の輪の中に入れてもらえません。笑顔一つで人間関係が損なわれ、ひいては人格形成に影響が出てくるのです。大人になって仕事をするようになれば、笑顔がなくて取引先を失った、仕事を失ったということが実際に起こりうるのです。挨拶を軽く考えてはならないということです。

その他にも、相手を見て話をする。自分の考えを正確に伝える。人の話を最後まで聞くといった人づきあいのルールを子どもが知るのは、親の姿からです。

子どもはまず親の真似をして成長します。親子のしぐさや表情、話し方、身振り手振りはそっくりなことが分かります。親がコミュニケーションについてよい手本を意識すれば、子どもはそれをちゃんと受け取ります。後は、子ども自身の「気分の問題」ですから、今日できなくとも深刻に心配することはありません。必ず挨拶をするようになります。後は挨拶という習慣を子どもがいくつになっても「軽視」しないことが大切です。

2018年12月10日

母親の笑顔は家庭の太陽

北欧諸国は「子育てしやすい国」のランキングで常に上位になります。その要因は政府の子育て支援が理由ではありません。そう世間に思わせると経済的効果と得票が見込めるので、日本ではそのように理解させようとする方々がいますが、実際の要因は「父親(同居家族)の育児参加」の「質」が良いということです。

ただし、この場合も単純に父親の育児休暇を取る割合で「質」を計ると本質を見失います。確かに育児休暇を取るスウェーデンでは父親は80%に上るので、日本の2%と比較すれば驚異の数字です。ただそれ以上に重要なのが、育児に参加する父親(同居家族)が何を目的としているかです。それは母親に代わって育児を「実行する」ことが目的ではないのです。

乳幼児期の子どもと密接にかかわるのは母親です。これは子ども自身が母親を求めるからです。この時期の母子関係によって子どもの人格形成の土台が作られていきます。そこで、父親(同居家族)が目的とするのは、子どもにとって代わりのいない「母親のストレス負担を軽減する」ことです。言い換えると、母親をいかに「人、妻、母として幸せ」にするかが目的なのです。それは必ずしも何でも代わってやってあげるということではありません。

これは子どもの育ちの面で極めて大きな影響をもつ姿勢です。繰り返しますが、この時期に子ども自身が密接なかかわりを求めるのは母親です(母性と言い換えていいいかもしれませんがここでは母親とします)。これはどうしようもなく代替不可能な子どもの本能的な求めです。

母親の心の余裕が子どもの人格育てます。しかし母親が育児のストレスでイライラしており、眉間にしわを寄せていては、愛情を求める子どもに欲求不満を残します。「ああしなさい!」、「それはダメ!」、「早くしなさい!」、「ちゃんとしなさい!」、「後にして!」、「わがままいわないで!」、「どうしてできないの!」、「何度言ったらわかるの」といった禁止の言葉や急き立てる言葉、否定の言葉、やがては子どもの人格やプライドを傷つける言葉が増えます。それらの言葉が子どもの体験をことごとく「失敗体験」にしてしまいます。これでは自尊心は育ちようがありません。しかし、これは母親の責任ではありません。父親をはじめとする同居家族が母親を「幸せ」にしていないからこうなるのです。

母親の笑顔は家庭の太陽です。父親や同居家族の育児サポートはこの太陽を守るためにあるのです。それが家事や雑用を手伝うことであるか、幼稚園の送り迎えをすることか、子どもの勉強を見てあげることか、母親の話をきちんと聞くことか、夫婦で子どもの将来を語り合うことか、一日完全に子どもから離れて自由な時間をもてるようにするとか、その「実行」は様々でいいのです。そのために感謝と配慮と協力をすることが父親(同居家族)の育児参加です。目的は幸せなってもらうことです。

2018年12月11日

父親の出番

乳幼児期の子どもが第一に求めるのは殆どの場合母親(厳密には母性ですがここでは母親とします)です。これは仕方ありません。しかし、乳幼児期後半から父親(厳密には父性ですがここでは父親とします)の役割が増えていきます。

「父親は外で働き、母親が子育てをする」という状況は、サラリーマンという働き方が定着してからです。つまりそんなに古くからあった考え方ではありません。江戸時代には、子どもの教育は父親の役目であることが殆どでした。学問や礼儀作法、人づきあい、商売や職人としての技術、遊び方までを父親が教えていたのです。それでは現代ではどうでしょうか。

まず、子どもが生きる力の土台というべきものを形成する乳幼児期(およそ6歳まで)は、子育ての主役は母親です。この時期の子どもは「根拠のない自信」を持つことが大切です。この自信をつくるのは「愛されている」という実感です。それには母親によるスキンシップが最も効果的です。この時期の父親は母親のサポート役です。母親の味方でいることが大事です。

一方、子どもが大きくなるにつれて、徐々に父親の役割が増えていきます。子どもを普段とは違う外へ連れ出し、一緒に体を動かしたり、自然に触れたり、普段出会うことのない人と関わる機会を作るといったことに、父親は適任者です。

それらを通して、社会のルール、仕事の大切さ、人付き合いの方法など子どもが成長していくときに要求される生きるための知恵や技術、能力を見せるのは父親の方が向いています。出展が不明なので申し訳ありませんが、以前成長期に父親と過ごした時間が多い子は社交性が良く、結果としてより高いキャリアを得る、自分の仕事への満足度が高いという調査結果を見たことがあります。

子育ては永遠に続くものではありません。父親、母親が自分の役割を大切にし、お互いを尊重して、協力できることが子どもにとって最善の育ちの環境です。

2018年12月12日

兄弟姉妹は平等にすべきか

二人目以降のお子さんがおられると、「兄弟姉妹を平等に」と思うことが殆どではないでしょうか。兄弟姉妹に限らないのですが、愛着を求め、自信と自尊心を育てるべき年齢の子どもにとって「平等」に扱われることは、不当に扱われているのと変わりません。

その意味で、兄弟姉妹を平等に育てることにこだわることはむしろ上の年齢のお子さんにとって悪影響があります。無理に平等に育てる必要はないのです。上の子を中心に育てるくらいでバランスがいいのです。

特に「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだから~」という言い方は避けた方が良いでしょう。ほとんどの場合、この言葉の後には「がまんしなさい」とか「ダメ」というニュアンスが続きます。上のお子さんは生まれたときから親の愛情を「全部」独り占めしてきたのです。つまりもともと「一人っ子」だったのです。ところが弟、妹ができたとたんに「あなたへの愛は弟(妹)と平等にするために、半分に減らします」という態度をとられて納得できるはずがありません。もちろん親はそんなつもりは全くないでしょう。そんな言い方もしないでしょう。しかし、それまで愛を独占していた上のお子さんがどれだけ不安を感じるかを知ってあげてください。

失われた愛を取り戻すために、自分へ親の関心を引き付ける必要があります。そこで、駄々をこねたりお漏らしをしたりといった、いわゆる「赤ちゃん返り」と言われる状態になります。すべては母の愛を取り戻すためです。子どもが愛を得るために良いことをしてくれるとありがたいのでしょうが、たいていは悪いことをします。聖書に「愛は忍耐強い。…すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」という一節があります。まさしくこのような愛が試されるのです。

その時に、「がまんしなさい」、「めんどうかけないで」と突き放されると子どもは何を感じるでしょうか。子どもの親に対する愛の期待は冷え切っていきます。安心できる愛着の基地を失って、行き場がなくなります。そうなって良いことはまずありません。

おかしな行動が見えてきたら、名前を呼んで「寂しかったのね。ごめんなさい」と伝えてあげることも大切です。これまで以上に手をつなぎ、抱きしめたり、膝の上にのせたり、おんぶしたりして、体温を感じる触れ合いを体験させてください。

このように書きてくると、「それでは下の子は、寂しくならないか」と思われるでしょう。上の子が「一人っ子」であったのと違い、下の子は生まれたときから親の愛を100%独占できないことが「当たり前」の環境にいます。親の愛は兄弟姉妹で分け合われるもの、という前提が生まれたときからあります。そのため、少々親の目が上の子に多めに向いても大丈夫なのです。兄弟姉妹に関しては上の子の方を中心に、というぐらいでむしろ「平等」が実現するのです。

2018年12月13日

親が子どもについて謙遜する必要はありません

「お子さんはとても頭が良いですね~」と褒められると、「いやいや、そんなことはありません。うちの子は全然だめで~」と答えている姿をよく見ます。

謙遜は日本人の美徳であるのと同時に、行き過ぎた謙遜は欠点でもあると思います。かくいう私も妻を褒められて、「いやいや~」と答えている自分に気づいて改善しようと努力しているところです。

親が自分のことを「いやいや~、うちの子なんか全然だめです~」と答えているのを聞いたら、子どもはどう思うでしょうか。そこに親の「謙遜」を忖度しろというのは無茶な話です。子どもは素直に、「ぼくは(わたしは)ダメなんだ」と聞いてしまうのです。親は謙遜しているつもりですが、子どもはその言葉をそのまま受け止めてしまいます。意図せず、心ない言葉を聞いた子どもの自信は大きく揺らぐことになります。

自分のことを謙遜するのは良いと思いますが、子どものこと、パートナーのこと、身内のことを卑下して扱う必要はありません。

特に、「良くできるお子さんですね~」と、子どもが褒められたなら「ありがとうございます。この子は私もびっくりするくらい一生懸命練習していましたから、とてもうれしいです」と満点に肯定してあげた方が良いのです。「可愛いお子さんですね~」と言われたら、「ありがとうございます。本当に可愛くて可愛くて、私、この子が大好きなんです」と言ってあげてください。

特に幼い子は大人の会話がわからないと思っていると、何気ない一言が子どもにとって大変な重荷となってしまうことがあります。逆に、子どもの味方である親の一言が、子どもの短所を長所発見の糸口に変え、長所をさらに育てます。

2018年12月17日

イヤイヤ期を考える

「もう帰りますよ」-「イヤ、帰りたくない」、「お泊りする?」-「イヤ、帰る」、「お片付けしましょう」-「イヤ、もっと遊びたい」、「おもちゃがなくなってしまうかもしれないけど、いいの?」-「イヤ、片づける」、「それじゃあ一緒に片づけましょう」-「イヤ、もっと遊びたい。」以下、同じようなやり取りが続きます。何を促しても「イヤ」と返すので、「イヤイヤ期」などと呼ばれる状態です。親もどう対応していいのかわからなくなり途方に暮れてしまいます。

この「イヤイヤ期」を通過するために大切とされているのが、以前ブログで触れたことのある「根拠のない自信」です。「根拠のない自信」というのは、「自分は愛されている」「自分は受け入れられている」「自分は大切にされている」という感覚であり、「自分は価値ある人間だ」と子どもが自分の存在を信じている状態です。この「根拠のない自信」はまず100%親から与えられます。子どもが努力して手に入れるものではありません。

「根拠のない自信」の上に様々な学習や経験が積まれていきます。底辺である「根拠のない自信」が大きく広ければ、その上に築かれるものも安定して大きく高くなります。ピラミッドをイメージされると良いでしょう。

そこで話しを「イヤイヤ期」に戻しますが、「根拠のない自信」を十分に得た子ほど、次に「自分の力で、何でもやってみたい」という好奇心旺盛な時期を迎えます。「根拠のない自信」があるから「何でもやってみたい」と思えるのです。そうして大人の側からすると、「何でこの子は私を困らせることばかり始めるの!」と思わずにおれない行動が出てきます。「やってはいけないこと」をします。

子どもには「何でもやってみたい」という気持ちがあり、大人の方には子どもの行動をコントロールしなければならないという思いがあって、この相反する思いがぶつかるところで「イヤイヤ期」が起こるのです。

「何でもやってみたい」という子どもの思いは、言い換えると「自分自身と自分の周りの環境を自分でコントロールしたい」ということです。だから何であれ自分以外の者に自分の行動をコントロールされることが嫌だから「イヤ」と言っているのです。この時に「もう知りません」と突き放されると「愛されている自信」が揺らいでしまいます。ではどうすればいいのでしょうか。前もって言っておきますと決して楽ではありません。

まず基本的に、納得のできる理由をきちんと言葉を尽くして教えることです。やさしく丁寧に説明して、なぜその行動をしなければならないのかを考えさせることで、子どもが少しずつ受け入れ理解できるようにします。そうして「根拠のない自信」を損なわないようにします。

しかし、そううまくいかないことがあります。それは、「イヤイヤ期」は「自分でやりたい」という自立心と、親から離れることの不安との葛藤を抱えている時期のためです。この葛藤を子どもに言葉で説明して理解させ受け入れさせろという訳にはいきません。

「イヤイヤ期」は、人の一生の中で最も「自立心」が強くなっている時期だという意見があります。しかし、同時に「根拠のない自信」を与えてくれる親から離れる不安が最も大きい時期でもあります。この二つの気持ちがぶつかって「イヤ」へと突き進む他ないのです。

このどうにもならない子どもの心情を理解することが大事です。「イヤ」が続くようでしたら、「わかった。うるさくいってごめんね」と受け入れ、そのことをスキンシップも合わせて子どもに感じさせてあげると良いでしょう。親の愛情によって「根拠のない自信」をさらに大きく厚く与えてあげるのです。その繰り返しが、「イヤ」以外の行動へ子どもを進ませることになります。

最後にもう一度記します。この時期の当事者となる親は楽ではありません。肉体的に休息をとって、体と心に余裕を持つよう心掛けてください。親が幸せを感じられることが、どんな時期でも子どもの健やかな成長と幸せに必ずつながります。この時期は特に親自身も自分を労わることを意識すると良いと私は思います。

2018年12月21日

お手伝い

「根拠のない自信」を強めるときの最善の方法は、子どもにお手伝いをしてもらうことです。うまくいけば親も子も幸せになれます。

最近は家事を子どもに分担させる家庭が減っています。これは親にも子にもマイナスなことです。家事は文字通り「家庭の仕事」です。その過程に所属する家族が応分に負担するのが最善なのです。そこに子どもを参加させないのは、子どもを一人前の家族として扱っていないということです。この考えは、子どもの権利を無視した「過保護」です。子どもには家庭に「参加する」権利があります。家庭の仕事を分担することで自分自身を育てる権利があります。子どもに何もさせないことが大事にしていることだと思うのなら、大変な勘違いです。幼稚園では夏休みや冬休みといった時期に「お手伝いをする」ことを子どもたちと約束し、休み明けには休みの間に習慣としたお手伝いをこれからも続けるように伝えています。

幼児期の子どもには、簡単なお手伝いを丁寧な言葉で頼んでみます。その際、例えば「お皿を並べてね」と言っても、子どもはどうすればいいのかわかりません。最初はゆっくりと食器棚からお皿を取り出し、両手で持って落とさないようにテーブルへ運び、どの位置に配置するかを見せてあげます。言葉で説明するのではなく、やり方を「見せる」ことを大事にしてください。できたら「助かったよ、ありがとう」と感謝の気持ちを伝えてます。子どもは「自分でできた」という成功体験を得ます。頻繁にお手伝いを頼んでほしいと思います。

小さな子に手伝わせるよりも、大人がやってしまった方が早いことは沢山あるでしょう。しかし、あえてお手伝いを頼んでください。この家庭の一員として仕事を果たすということは不思議なほどに子どもに自信を与えます。お手伝いを果たすことで、秩序感を強くしている時期の子は「責任」ということを学びます。これは将来、社会の一員として振舞うことを求められるときに大きな力となります。

最後に、お手伝いを頼んだ時の注意点を述べておきます。それは「出来不出来をとやかく言わない」ということです。幼児期の子にお手伝いを頼むのは、成功体験を与えるためです。難しいことや、失敗しやすいことは頼まないでください。多少出来が悪くてもまず「助かったよ、ありがとう」です。それから、もう一度やり方を丁寧に見せてあげればいいのです。「こうすれば、もっときれいに(上手に)できるよ」と向上することを教えてください。

お手伝いとは家庭という社会への貢献です。社会経験の一歩です。「自分の力でやりたい」と強く願っている時期に、自分の力を発揮して「人の役に立った」、「人を助けた」、「人から感謝された」という喜びの体験は、言語、思考、コミュニケーションといった面でも発達を促します。お手伝いを通して、「どうしてこうするのがいいのか」を話せば知識が増えます。子どもに尋ねて考えさせると考える力を育てることができます。お手伝いには子どもの好奇心と探求心を満たす要素が満載なのです。

2018年12月23日

競争‐根拠のある自信へ

これまで「根拠のない自信」について書いてきました。それは、幼児期には「根拠のない自信」を育てることが大事だからです。しかし、いつまでも根拠のないままではいけません。「根拠のある自信」も育てられる必要があります。

「根拠のある自身」を育てる時期は幼児期の後半からです。およそ小学校入学を意識するころからでしょう。それまでは「根拠のない自信」を優先すべきです。

「根拠のある自信」は、競争や継続といった実績によって得られるものです。スポーツやダンス、音楽や劇の発表会など、人前で競ったり披露したりする経験によって得られます。特に小学生になったら「競争」と「継続」を意識して活動させることも大切になってきます。

「競争」というと反対される意見をお持ちの方もおられるでしょう。私は、子どもが意欲をもって取り組んでいる事柄に関して、「競争」を取り上げるのは避けるべきだと考えています。「負けたら可哀そう」というのは、子どもの意識ではありません。負けを経験した子どもと向き合うことを避けたい大人の意識です。子どもを守るように見えて、実は大人を守るための発想です。本来、子どもは「競争」が好きなのです。負けて悔しくても、また競いたいと思うのです。「負けたら可哀そう」という状況に子どもが陥るのは競争の目的を間違えて教えているからです。

私自身は学校の成績に関わる学力向上に競争を持ち込むことには反対ですが、課外活動で意欲的に取り組む子どもの発達には「競争」が必要な要素だと考えています。その際、競争の目的は「相手を打ち負かす」ことでも「優越感を味わうため」でもありません。これを目的にすると子どもは褒めてもらうために「必ず勝てる相手」を見つけ出します。そこに「根拠のある自身」は一切育ちません。育つのは、「負け=悪」という怯えです。

子どもを競争に継続的に参加させる目的は、「自分に気づかせる」ことと「心をしなやかにする」ことです。競争を通して子どもに自分の強みに気づかせ、強みをさらに磨くことで「根拠のある自信」が育ちます。そして、競争する中で出会う困難や敗北から立ち上がり、「心をしなやかに」することを知ります。自分の蓄えた力を発揮することができます。その結果「根拠のある自信」が育ちます。

競争すれば敗者になることもあります。そこで、「もっと頑張ろう」と思うか、「今度はこういう練習をしてみよう」とか、あるいは「別の方法でやってみよう」とか、さらには「別の分野でがんばろう」ということを思うかもしれません。競争相手の「強み」を理解し、自分自身に対する思考を発展させたり転換させたりするきっかけが、敗北によって与えられます。

自分の強みや弱みをわからないままになると、「何となく」という根拠ない判断で人生を歩むことになります。自分のことがわからないままでは、何を決めるときも「何となく」、そして感謝もないままに「生かされる」人生になりかねません。むやみに競争を取り上げることは、子どもの人生を祝福することに繋がらないのです。

2018年12月28日

長所を伝える

前回、子どもの競争について記しました。「根拠のある自信」を得るときに、健全な競争は重要な原動力となります。このような競争の過程では、子ども自身が自分の長所に気づくことができるようにサポートすることが不可欠です。幼児期後半から小学生の子どもが自分で自分の長所に気づくことは困難ですから、一番身近な存在である親がどんな小さなことでも長所を見つけて、はっきりと言葉で伝えてあげることが大事です。

ところで、長所は常に「良い面」でなければならないと考えてしまいますが、長所は短所と思われるところに隠れていることがしばしばあります。幼児期に「落ち着きがない」ということは「活発」、「活動的」という長所が育とうとしているのかもしれません。「集中力がない」ということは「観察力がある」、「様々なことに興味をもつ」、「探求心がある」ということでもあります。「けんかばかりする」という子は、実は「正義感が強い」、「弱いものを守ろうとする」、「優しい」子であるかもしれません。

子どもの長所が何なのか良く分からないという時には、子どもが周囲からどのように見られているかを思い出すとよいでしょう。祖父母や、お友だちのお母さんやお父さん、幼稚園の先生から、「誰からも好かれますね」、「笑顔がとても素敵ですね」、「いつも元気ですね」、「虫を見つける名人ですね」、「お話しが上手ね」、そのような子どもの様子を聞くことがあると思います。そこに子どもの長所を知る手掛かりがあります。

幼児期から小学生のころの子どもであれば、遊んでいる時の様子をじっくりと観察してみるのもよいでしょう。一人で遊んでいる様子から何に興味や関心を持っているかがわかります。お友だちと遊んでいる時の様子から、「負けず嫌い」、「リーダー気質」、「気遣いがある」、「教えるのが上手」、「動作が機敏」、「ジャンプ力がある」、「鉄棒が上手」、「思いやりがある」、「手先が器用」、「集中力がある」、「頑張って取り組める」、「勇気を出して挑戦する」、「失敗を怖がらない」、そういった人格や身体能力の長所が見えてきます。

こうした長所を親から認められると、子どもは張り切って長所を伸ばし、大切にします。実はあまり深く考えることはないのです。子どもを見ていてパッと頭に浮かんだ子どもの「あら、すごい」と思った姿をそのまま伝えてあげればよいのです。

2019年01月04日

ヴィジョンを持つ

幼児教育の環境は今年も様々な揺さぶりをかけられることでしょう。経済的にも、学識的にも、様々な発言が無責任に幼児の育っていく環境を揺さぶります。そのような世相の中で、貴重な成長期である幼児期の育ちを支えるものは何でしょうか。私はしっかりと子どもについてヴィジョンを持つことだと思います。幼児教育の場である幼稚園はもちろん、親もヴィジョンを持つことが大切です。

かつては、単純に表現すれば、「優秀な成績を得、有名な大学に入り、優良な企業に入社する」という目標がありました。最近ではこれが「日本で」だけでなく「海外で」という視野の広がりを得たくらいでしょうか。

皆がこの道を辿ると成功した人生を得ることができると信じられていた時代にはヴィジョンは必要ではありませんでした。実際に目に見える成功者がいるのですから、目標を達成するために「競争に勝利する」ことが大事だったのです。そのような中でヴィジョンに思いを巡らせることは、かえって競争力を損なうことになります。既に先行者がいるのですから、後の世代はより効率よく競争に勝利するように工夫し、あとは頑張ることが求められていたし、それで成果がでていたのです。しかし今日、このような頑張りによる目標の達成は、成功と幸福を必ずしも約束してくれません。むしろ、「それは~で代わることができる」という非情な存在否定にさらされています。

言葉を変えるなら、既に日本の子どもたちも親も幼児教育そのものも、トップランナーとして道を拓くことを要求されるようになっているということです。そこには参考とすべき事例はあっても、後追いすべき目標はありません。真似るべきものがない中で、考えることなくひたすらこれまでどおりに「頑張る」、「努力する」ということを続ければ、結果は明白です。絶対に取り戻せない時間を浪費して、最後は行き倒れることになります。このような時代に子どもたちが道を切り開いていくために、「ヴィジョン」を持ち、示し、共感を得ることが必要だと考えています。

このように指摘すると、あるいは「うちはちゃんと子どもの将来を考えています」という方がおられるはずです。それは本当に「ヴィジョン」になっているでしょうか。「ヴィジョン」と「目標」を間違えていないでしょうか。「目標」は達成を目指して挑戦すべき「通過点」です。そして、目標は往々にして「命令」に姿を変えます。「ヴィジョン」は、それを目指していくことで「世界にどのような影響を与えるのか」を視野に収めるものです。つまり「子どもが世界にとって代わることのない人となる」、とはどういう人として育っていくことなのか、を示すものです。

キリスト教会ではヴィジョンは「幻」と翻訳されて用いられてきました。幻を抱くときに必要なのは、分析と統計と経験ではなく「感性」です。ヴィジョンを聞いたときにワクワクして、ぜひ自分も参加してみたいと思うような「感性」の世界がなければヴィジョンにはなりません。それは必ずしも言葉として完成しないものかもしれません。しかし、それを掲げることで、目標を定め選ぶ時の「筋」が通ります。

親が抱くヴィジョン、家族が抱くヴィジョン、そして何よりヴィジョンを生きる主役である子ども自身が共有することが重要です。そして、そこに幼稚園も自園のヴィジョンをもってワクワクしながら参加します。地域が支えてくれます。育ちゆく子どもたちの目の前に世界を広げていきます。そこで「選択」を迫られるときヴィジョンは力強く決断を後押ししてくれます。

2019年01月08日

「本年もよろしくお願いいたします」(1月の園だよりから)

「本年もよろしくお願いいたします」(1月の園だよりから)

明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

クリスマス会では多くのご協力をいただいき、ありがとうございました。楽しいクリスマス会となりました。心より感謝いたします。子どもたちが練習してきた歌や演奏や劇を楽しんで精一杯にステージで披露してくれました。大きなことを達成して顔を輝かせる子どもたちを見ることができました。

 冬休みの間には、クリスマスやお正月といった行事や楽しい出来事がたくさんあったことと思います。行事は祝福の挨拶を重ねる時でもあります。挨拶の小さな言葉、小さなしぐさが豊かに愛を伝えます。世界中どこも、習慣は違っても人が人と共に生きているところに挨拶はあります。私たちは挨拶に込めて大切な人に幸いを祈り、尊敬を表します。自分以外の人の幸いを願い尊敬を持つこと、それを表現できるのはすばらしい人の営みです。小さな日常の挨拶の積み重ねを大切にしたいと思います。

園長 有馬尊義

2019年01月10日

結果よりも過程を

子どもは環境が変わることを嫌がります。その要因は様々ですが、重要なこととして「失敗を恐れる」という要因があります。

子どもはプライドの高い存在です。それだけに挑戦にともなう失敗のリスクを過剰に気にする傾向があります。子どもが失敗を恐れるのは自然なことです。しかし、失敗を恐れて挑戦をしないようなると成長が妨げられてしまいます。そこで、今の「必ず成功を得られる居心地のいい環境」から、「失敗してもいいから新しい環境へと挑戦する」という姿勢を示すことが大切になります。

その時に子どもに大きな励ましを与えるのは、親が「結果に対して寛容」であることです。結果よりも「挑戦した過程と努力を重視」することです。

「結果」を褒められると、子どもは「自分をよく見せる」ことを優先します。そのため、より失敗を恐れる傾向があります。しかし「過程と努力」を褒められた子どもは、より難しいことを求めて挑戦することを優先します。結果としてより高いレベルの成功を得ることになります。通過点となった成功はより確かなものになります。

子どもの成長には、今の実力よりも「ちょっと上」に挑戦することが重要です。常に成功を得、いつも「自分が一番」という「居心地の良い環境」から、あえて今よりもレベルの高い環境に子どもをチャレンジさせることによって「成長を止めない」ように促すことが大人の役割です。子どもが時を多く過ごしている環境をよく見て、成長を止めないように「ちょっと上」へ気持ちが向くようにしてみてください。

付け加えますと、あくまで「ちょっと上」です。手の届かない、実力よりもはるか上の環境に入れてしまうと自信を無くしてしまいます。大人は「過程と努力」を見ることができますが、子ども自身はあくまで「結果」から自信を獲得します。子どもはプライドが高いので、「あともうちょっと」ぐらいの結果が伴わないとやる気をなくしてしまいます。それだけは避けるように注意してください。

2019年01月11日

講演会ご案内

1月18日(金)10:30~12:30に杉並区勤労福祉会館ホールにおいて、松居和先生の講演があります。

未就園の保護者の方々、また卒園児の保護者の方々もどうぞご来場ください。

「西荻学園幼稚園」とおっしゃって受付をしてください。

多くの方のご来場をお待ちしています。

チラシPDF 1.74MB)

 

2019年01月15日

選択の経験

子どもが何かを「選ぶ」という機会を大事にしてほしいと思います。それは「考える力」のきっかけとなります。

子ども自身に、「自分にとっていい選択は何か?」という問いを常に意識させるのです。大人の方が「この子にとっていい選択はこれだ」と過度に決めないということです。習慣的に「選択」をすることを許されてきた子どもは、周囲に流されそうになったり、不本意な選択をしそうなときに立ち止まって考える癖がつきます。

「ママが選んで」という子もいるかもしれません。その時も親に従うという「選択」をしたのは他でもなく自分自身だということを伝えることができると良いです。私たちの日々は、老若男女関係なく「選択」によって作られています。より良い選択をするために、幼い時から選択する姿勢を作ることが大事です。

多くの場合、幼い子に選択の機会は多く与えられません。食べ物も洋服も、靴も、カバンも親が選んで与えるのが一般的ではないかと思います。親としては、子どものためを思ってより良いものを選ぶのですが、それは子どもが選択する機会を奪うことと裏表の関係です。選択を大人が与えるべきか、子どもに選択させるべきかを考えなければなりません。そこに「親」の選択すべきところがあります。

西荻学園幼稚園では、制服も、カバンの指定もありません。上履きも基本的な機能を満たせばどんなものでもよいとしています。キャラクターものでも、どんな柄でも構いません。説明会では、「是非、お子さんに選ばせてください」とお話ししています。それだけではないでしょうが、子どもに様々なことを選ばせる保護者の方がとても多くおられます。西荻学園幼稚園の園生活は、入園前に自分で選んでみることから始まるといってもいいかもしれません。子どもは自分で選ぶことで好き嫌いを認識します。また、自分で選んだことでモノに対する責任や、選択する「重さ」を知ることができます。

「選択」の訓練は、同時に「自分と向き合う」という行為です。この訓練を幼い時から習慣づけることは、将来子ども自身が様々な悪意ある誘惑や危険から守る強力な心の盾になります。選択によって自分の意思や考えを表現することができるようになります。

ぜひ、選択の機会を子どもに豊富に与えてほしいと思います。

2019年01月17日

言葉を先取りしない

言葉は主語や代名詞が省略されても通じてしまうことが多くあります。会話言葉というのは構造がかなり曖昧でも通じてしまいます。しかし、幼い時はできるだけ曖昧な言葉を使わない、使わせないという方が良いようです。

幼稚園で子どもが先生に「紙!」と叫ぶ場面があります。先生はすぐに「お絵描きするために白い紙が欲しいと言っている」と察します。しかし、「紙?紙が何?」と聞き返します。子どもは「かーみー!」と繰り返します。けれども「かーみー、って何のこと?」と返します。すると「とって!」、「何を?」、「紙!」、「どうするの?」…、と察しの悪い受け答えをします。子どもの単語が出そろったぐらいに、「紙を取って欲しいの?」と聞きます。「そうだよ!」「それじゃあ、どう言えばいいのかな?」「紙をください」となります。

 察しの悪い会話は、聞き返せば成立します。
 「みんな持ってるから買って!」-「みんなって誰?」
 「あれ、ちょうだい」-「あれって何のこと?」
 「幼稚園楽しかった」-「べつに」-「じゃあ、つまらなかったのね」
 「一緒に行く?」-「どっちでも」-「じゃあ、行かないでいいわね」

大人が察しの悪い人となって聞き返し、子どもの言葉を促すことで、子どもは言葉を「文章」に組み立てなければなりません。文章を作るということは、自分の思考を形にする作業です。曖昧なものをきちんとした言葉へと落とし込み表現することで思考する経験が得られます。

一方で、大人が子どもに言葉をかけるときも、「ちゃんとしなさい」とか「しっかりやりなさい」とかいう指示の内容が曖昧な言葉は使わないように心がけた方が良いでしょう。言葉で伝えるのであれば、何をしたら「ちゃんとする」のか、どういうことが「しっかりしている」ことなのかをきちんと伝えるのです。

子どもは結構めんどくさがりです。察してもらうのが当然といった「王子様」や「お姫様」になりやすいです。大人は察しが良く、文章が成立していなくても子ども要求を理解します。「ママ!」と言われただけで、手袋を渡してあげたり、「ない!」と怒鳴られて、カバンを渡してあげたりといった場面を幼稚園で見かけるのですが、察しの悪い大人になって子どもに文章を組み立てさせてみてください。きちんと言葉で説明させることで思考を具体化し、また具体的なことを言葉という概念に落とし込む経験となります。副次的に忍耐力や集中力も必要とされるでしょう。

そのうち察しの悪い様子で大人に聞き返されると、子どもが大人の意図を察して、きちんとした文章で話すように自分から言い直すようになります。

2019年01月21日

家庭でルールを考えてみましょう①

子どもは日常の様々なコミュニケーションや行為によって成長していきます。その時に子どもと家族がルールを共有していることは良いことです。

子どもの自己肯定感を高め、自信を持たせるには、自由に考え、やりたいことをやるということは大切です。しかし、それは何でも思い通りにさせるということとは違います。

子どもを自由にさせることを、まるで鮭を川に放流するように、後は放っておくという「放流型」の子育てをなさる方もおられます。これは極端です。私は全く勧めません。無法地帯である大海原に向けて川に放流された鮭の稚魚が無事に帰ってくる確率は小数点以下です。それで立派な成人となるのは、宝くじが当たるような奇跡です。子育ては博打だと言われる方もおられますが、「何でも自由にさせる」というのはあまりにも見込みのない賭けです。無法地帯で育つのは、自分勝手で他者への思いやりに欠けた、衝動的な人間です。社会性や自制心、責任感がなければただのわがままです。

そこで―たとえが悪いのはお赦しください―子育ては「柵」で囲われた牧場で羊や牛を自由にさせるような「放牧型」であることが望ましいと思います。柵はここからは出てはいけないというルールです。

幼稚園で子どもたちと遊んでいると分かるのですが、子どもは自分がどこまでやっていいのか、どこまでが許されるのかを試しています。そこで明確な「限界」をルールとして共有することで、子どもは「ここまでならやっていい」という判断基準を持ちます。それは安心を与えられるということです。また、同時にルールによって子どもは危険から守られます。ルールと言う「柵」は安心を与え、危険から守るものです。

この限界がなければ子どもはどこまでやっていいのか分かりません。分からないままに力いっぱい遊んで、怪我をしたりトラブルを起こしてから「何やってるの!ダメでしょ!」と怒られるのは、子どもにしてみれば理不尽です。

ルールは人を縛るもので必要ない。どんなことも受け入れる寛容さが必要なのだという方もおられるかもしれません。そうであれば、「絶対に」子どもを叱ってはいけません。子どもの犯すあらゆる間違いを子どものせいにしてはいけません。それは、「ルールは不要」と判断している大人の責任です。「ルール」を与えないのであれば、子どもの間違いの一切を大人は一方的に背負い続けるべきです。それが「フェア」なことです。

実際に、ルールのないところぐらい人間が不自由を感じる環境はありません。ルールは人をより安心して自由に解き放つためにあるものです。

2019年01月24日

家庭でルールを考えてみましょう②

個人差のあることですが、3歳~4歳ぐらいまではルールを自発的に理解し、守るための自制心の発達が未熟です。言い換えると「我慢する」ことが苦手です。ですから、大人が何度も手本を示してルールを守ることを教える必要があります。しかしその後(だいたい4歳以降)、自制心がある程度育つと、きちんと子どもが受け取れるようにルールを示せば、子どもの欲求は「ルールを守る」方に熱心になります。さらに成長すると自分たちでルールを決めたり、ルールを変えて一層適したルールを作るということもあります。

ルールを作り、子どもがそれを守れるようにするために、3つのポイントがあります。

① ルールは少なくすること

② ルールの内容は年齢相応にすること

③ ルールを決める話し合いに子どもも参加させること

ルールは少ない方が効果的です。たくさんのルールをつくってしまうと、禁止されたり、叱られるばかりになります。それではうんざりしてしまいます。たくさんのルールは逆効果です。そこで、子どもも参加する家族の話し合いで、「本当に大切なこと」は何かを定めるとよいでしょう。「本当に大切なこと」はしっかりと守らせます。それ以外のことは自主性に任せます。

ルールの内容は子どもの年齢に合わせて考えましょう。知識や理解力を超えたルールは守りようがありません。まだ空を飛べない雛に、「空を飛ぶのが鳥である」というルールを与えるのは、おかしいでしょう。ましてやそのルールを守ろうとして飛べない雛が空を飛ぼうと巣から飛び出したら、取り返しがつかない事態だって起こります。ルールを決めるときに、不可能な背伸びを要求しては無意味どころか有害です。

そして、最も大切なのが、ルールを決める話し合いに子どもを参加させることです。言い換えると、子どもの知らないところでルールを決めて、押し付けることをしないということです。幼い子は、自分の意見を言ったりすることはできないことが殆どでしょう。しかし、自分も参加した話し合いで決めたことというのは、つまり「自分で決めた」ということです。ルールが最大の力を発揮するのは「自分で決めたこと」という土台がある時です。話し合いに参加することで、家族の中で自分に何ができるのかを考えるようになります。子どもなりに「家族」という正解のないチャレンジに参加します。4歳を過ぎるころにはこうした話し合いに加わることができるようになります。

ルールを一緒に考えることは、自分も家族のメンバーであることを自覚させます。頼るだけでなく、家族のメンバーとしてルールの中で役割を得、「頼られる」ことで健全な自信が育ちます。これはとても大切なことです。

2019年01月25日

家庭でルールを考えてみましょう③

家庭のルールを決めるときには、家族にとって大事なことは何かをまず決めるとよいでしょう。最も大事な原則ですから多くても3つぐらいにしましょう。これは子どもの年齢が上がっても変わることのない原則です。例えば「互いを尊敬し、大事にする」といったことです。宗教的な言葉で表されるものでも良いと思います。例えばキリスト教徒であれば、イエス・キリストの「互いに愛し合いなさい」という言葉でも良いと思います。

余談ですが、親が何らかの宗教の信仰を持つのであれば、幼い時からきちんとそのことを伝え、子どもも信仰を持つように育てるべきだと、わたしは考えています。信仰は生き方の土台であり、有形無形に人生を導き支えるものです。自分の人生を預けている大事なものを子どもに伝えられないのはおかしなことです。親が「わたしは~を信じている」、「信じて幸せに生きている」、「あなたにも幸せになってほしいから、信じてほしいと願っている」ということを折々に伝えるべきです。

話をルールを決めることに戻します。家族の原則を定めたら、次に「やるべきこと」をルールにします。家族の原則を守り、達成するために何をするべきかを考えます。この場合も、細かすぎると子どもは嫌になるでしょうし、親も守ることが難しくなってしまいます。

次に「やってはいけないこ」をルールにします。同様に多すぎると家庭が息苦しくなりますから、「絶対に」やってはいけないこと、に限定するとよいでしょう。

子どもが幼いころは、ルールは簡単で少なくすべきです。「やるべきこと」であれば、「家族に自分から『おはよう』と『おやすみなさい』を言う」というルールだけでも良いのです。ルールを決めて「守ることができた」という自覚を持たせることが大事です。ルールを毎日守ることで自信と達成感を得ます。達成感というのは何も大きなイベントによるものである必要はないのです。小さな達成感を重ねることも大事なことです。

良いルールは良い習慣を作ります。幼い時から大人になっても通用する生活の習慣をルールとすることで、良い習慣が人生に定着します。良い習慣を持つ人は、往々にして尊敬を得ます。

ルールを守るということは、ルールによって形づくられた集団の「正式な」一員となるということです。子どもは大きくなるにつれて様々な集団に加わる経験をします。集団の中では責任感や自制心を求められます。そのための訓練になります。

決めたルールは家族全員が守ることが原則です。それによって子どもは自分が家族の一員であることを自覚しやすくなります。そして、ルールがあることで家族の間で問題が生じたときに解決の道筋が明確になります。

2019年01月28日

家庭でルールを考えてみましょう④

ルールは「守れた、出来た」という達成感を重ねて自信を育て、良い習慣を子どもが得ることが目的です。縛ることが目的ではありません。そこで子どもがルールを守るために配慮すべきことがあります。

第一は、ルールを徹底するために、ルールを守る姿を親自身が必ずルールを守って示すということです。一度決めたら頻繁にルールを変えてはいけません。万一、ルールを変えるときには子どもに対しても真摯に提案すべきです。また、ルールを守れなかった場合は、真摯に謝罪すべきです。

次に、子どものやるべきことは代わりにやらない、ということです。大人がやった方が早いと思える時はいくらでもあるでしょうが、粘り強く子どもを見守る忍耐力が必要です。もちろん、いささか子どもの手に負えない状況になったと思ったら「手伝ってもいいですか?」と聞いて手伝ってあげるとよいでしょう。

子どもにルールを守らせるときの態度として、「絶対に守らせること」と「どちらでもいいこと」を区別しておくと良いと思います。例えば、「家族みんなの場所(リビングやお風呂場等)で遊んだら片づける」というルールを決めたらば、子ども部屋は子どもの部屋ですから、散らかっていても放っておくということです。リビングを散らかしてそのままにしておくなら叱ります。しかし、子ども部屋のように自分の部屋を与えたならば、その部屋の整頓については何も言わないと決めてしまうことです。もしかしたら、大人の目には散らかって見えても、子どもにとっては快適なのかもしれません。子どもの頃に自分の部屋を散らかしていたからといって将来掃除や整理が出来ない人になると決められません。

ところで、ルールを頻繁に変えるのは良くありませんが、「やるべきこと」のルールは定期的に話し合って、成長に応じて新しくしてください。進学や新年や誕生日といった成長を子どもが実感できる時がいいと思います。基本的な習慣はそのまま継続させ、出来ることをルールとして加えます。その時、より家族に貢献できることをルールにするとよいでしょう。

2019年01月29日

家庭でルールを考えてみましょう⑤

子どもがルールを守れなかったとき、あるいは守らなかった時にはどのようにすべきでしょうか。

おそらく、お手伝いのようなルールは代わりにやってしまった方が早いということが殆どでしょう。その方が簡単なのですが、あえてルールを守らないことで家族が迷惑を感じていることを伝えられると良いでしょう。これは叱ることとは違います。「困っているの、だからお願いね」、と促します。

それでもやらない場合は、原則として何故やれないのか、あるいは何故やらないのかの理由をじっくり聞いてみます。ルールだからと押し付けのではなく、子どもが自分の気持ちを説明する機会を与えてください。理由を聞いたら、まずは「(子どもの)話はわかった」と気持ちを受け入れます。正当な理由であれば特例として、「今日は代わってあげる」、「明日、今日の分も必ずする」、「一部だけでもやる」等の提案をします。ただし、余程の正当な理由がない限り特例として見逃すことは避けた方がよいでしょう。特例のないルールはありませんが、乱発しないようにしましょう。

おそらく、子どもの理由で最も多いのは「やりたくない」という言葉です。しかし、それは理由とはなりません。子どもが説明しなければならないのは「どうしてやりたくないのか」ですから、それを話せるようにすることが大事でしょう。その上で、何故家族一人一人にルールがあり、役割があるのかを思い出せるように話をします。

例えば、「もしも、パパ(ママ)がやりたくないってお仕事をやめちゃったらどうなるかな?」「もしもやりたくないってご飯を作らなかったらどうなるかな?」子どもなりに考えられるように話をしてみてください。その上で、「パパ(ママ)もやりたくないからお仕事辞めてもいい?」と聞くと「ダメ」と答えると思います。やりたくなくても、やらなければならない「責任」ということに思いが向くように丁寧に話すことが大切です。

ルールは守ることで定着します。「ルールだから」ではなく、ルールを守ることで、家族の一員としての達成感を得られることが大事です。そのために自分からルールを守れるようにすることが目標です。

2019年01月30日

家庭でルールを考えてみましょう⑥

子どもは遊びに夢中になったり、他のことに興味をもって集中するとルールを忘れてしまうことがあります。

そのようなときルールを思い起こさせようとしますが、それと共に大切なことは、子どもが忘れてしまったことを正直に話せる環境を普段から作ることです。

過ちを正直に話すことができないと、子どもは嘘をつくしかありません。しかし、子どもが嘘をつくようになると大人は子どものことが理解できなってしまいます。子どもの嘘というのは大人にはすぐ見抜くことができる場合が多いです。当然、嘘をついたことを叱ります。そうすると子どもは嘘をつかなくなるでしょうか。逆です。もっと上手に嘘をつくようになります。これではお互いが理解できなくなります。そこで何より、過ちを正直に話せる環境を普段から作ることが大切なのです。

正直に話せる環境は、第一に黙って聞いてくれる環境です。途中で怒ったり、非難したり、批評したりせずに聞いてくれる環境です。正直に話せるならば、過ちを犯したのは自分自身であり、それがいけないことは幼児でも十分に理解することができます。その上で、どうすればいいかを一緒に考えてみてください。

聖書にイエス・キリストとして大切な言葉があります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(聖書 マタイによる福音書11章28~29節 新共同訳)。

この聖書の言葉の「疲れた者、重荷を負う者」というのが、ルールを忘れて罪悪感を抱いている子どもと思ってください。心が重くなっている子どもを、「わたし」が迎えます。「わたし」にご自身の名前を入れてください。まず、休ませてあげることです。柔和で謙遜であることを心がけて話を聞きましょう。それが正直に話せる環境を作るということです。

そして「軛(くびき)」を一緒に負います。軛(くびき)というのは、2頭以上の家畜をつないで一緒に作業をさせるときに使われる首にかける道具です。進む方向がバラバラにならないように、軛(くびき)の重さを一緒に背負って、同じ方向を向いて前進します。正直に話をした子どもと、方向を目指し、改めて一緒にルールを負って出発するのです。

こうしたことを繰り返す中で、たとえ問題が起こっても家族のルールに立ち戻って穏やかに話し合う環境が作られていきます。家族が問題解決に向けて心を合わせやすくなります。このような環境を目指していくことは、幼児期だけでなく、年齢が上がり毎に活動や交友を広げていく子どもにとって、特に大事なこととなるはずです。

2019年01月31日

家庭でルールを考えてみましょう⑦

いつも子どもの近くで「何か危険なことはないか」、「間違いがないか」と見張っている親のことを、「ヘリコプター・ペアレンツ」と呼ぶそうです。子どもが乳児期にはこのような親の見守りが極めて重要です。

しかし、幼児期、少年期、青年期と成長し、体力も活動範囲も交遊も広がっていく子どもを常に見張り続けておくことは現実問題として無理でしょう。特に年齢が上がれば、親に対しても隠しておきたいことが出てくるのは当然のことです。親子だからと身も心も裸で隠し事なしにいましょうというのは現実的ではありません。いつまでもそのような関係を子どもに求めるのは、親の方に幼児性が残っているということです。必ず隠し事はあります。これは善悪で計るべきことではありません。人に見せない自分自身を持つことは人として当然のことです。

子どもの活動範囲が広がり、親の知らない交友や活動を経験するようになると、場合によっては法律的、道徳的、倫理的に問題あることに出くわすことがあります。その時に、子ども自身がルールを犯すことに健全な「嫌悪感」、「罪悪感」を持っていることが、最終的に子ども自身を守る防波堤となります。引き返せないところに足を踏み込むのを止める心を持つことができます。過ちを正直に話せる環境で育ったのであれば、直ちに躊躇うことなく親に助けを求めることができます。ルールを家族と一緒に決め、過ちを話し合って正し、ルールを守ってきたそれまでの達成感と自負心とが、親の目を離れたところで過ごす機会の増える子どもを危険から守ります。SNS等を通して、親の世代には経験のない交友や悩みを持つことになる子どもたちにとって、このことはこれからの時代に取り分け重要なことになるはずです。

一旦ルールが定着すると叱る機会は減るはずです。叱る機会が減るということは、親の負担がずっと楽になるということです。親に余裕が生まれ、結果的に快適な親子の関係を保つことが容易になります。

親が子どもを心配するのは当然のことで、「親ばか」と言われるくらい何でもやってあげたいと思うくらいがいいと思います。しかし、子どもの人生を監視し続けることはできないのです。干渉しすぎることは子どもの健全な自立を妨げるのも事実です。子どもが困るたびに先回りして助け、親やってもらうことが当たり前になると、毅然として子どもの間違った要求をはねのけられません。実は家庭のルールは守る側だけでなく、守らせる側をも育てます。子どもの成長にふさわしい親へと育っていくのです。

反抗期に「ルール」を与えられても子どもは受け入れられないでしょう。そのころになってこれまで何でもやってくれた「召使い」が「親」になって自分の要求を受け入れないと言い出せば、子どもは激しく抵抗するか、面倒なって無視するかのどちらかです。「ルールを持つ」、「ルールは守る」、「ルールを作る」という環境で幼い時から家族と共に過ごすことはとても大切です。

2019年02月01日

成長を感じるうれしさ(2月の園だよりから)

子どもたちの成長は、幼稚園だけで与えられるものでなく、何よりもご家庭の中で受けてきたものです。子どもたちと接していると、「ああ、随分と大きくなったな」、「しっかりと声を出すようになったな」、「お話しが上手になったな」と感じることが多くなり、成長を知ってうれしくなります。それは、ご家庭の愛に支えられ幼稚園へと通ってきた子どもたちが、お友だちや先生と交わり遊ぶ中で身につけてきたものです。

小学校への進学を控えたA組の子どもたちはグッと身長も伸びて、お辞儀の様子も明らかにB組、C組のころとは違います。体だけでなく、遊びの中でも頼もしさを感じる場面が多くあります。B組、C組の子どもたちも年齢の違う別のクラスのお友だちを遊びに誘ったり、率先してお手伝いをしてくれたり、名前を覚えてお休みを気にしたりします。3学期には体育参観、英語参観、リズム参観があります。僅かな時間ですが、子どもたちが幼稚園で経験してきたものをご覧いただきたいと思います。

2019年02月02日

子どもと会話をする

日本人はコミュニケーション能力に自信がない、と言われてどれぐらいの時がたったでしょうか。およそ70%以上の人が、コミュニケーションが苦手と感じているという調査結果では、どんな時にコミュニケーションが苦手と感じるのかと言うと、「自分の気持ちを伝えるのが下手」、「人前でうまく話せない」、「人と打ち解けられない」、「職場(学校)の人間関係で苦しんでいる」といった意見が出ているそうです。

会話や対話も真似るものです。表現・質問・応答、意見と感想の違い、会話の発信と受信も教わっているか教わっていないか、経験しているか経験がないかでは大違いです。その基礎は家庭で十分養われます。家庭でどのような言葉をかけられているのか、どのくらい親と会話をしているのか、どんな内容の会話なのかが極めて重要なことになります。

しかし、かけられる言葉が指示ばかりでは会話は成立しようがありません。よく子どもに話しかけているつもりで、「ああしろ」、「こうしろ」、「それはだめ」ばかりでは会話が発展しようがありません。それは常に2択なのです。むしろ指示する側は「yes」以外は受け付けないでしょう。これはコミュニケーションとしての会話には相当しません。

幼児期の子どもは、考える力が足りないのではなく言葉を知らないために話すことが苦手ということがあります。ですから、幼児期はあまり質問攻めにしてしまうと子どもは困ってしまいます。子どもの関心を引いているものを、親が言葉で丁寧に拾うということがいいでしょう。「これは赤いね」、「電車だね」ということから、「電車の横に赤い線かあるね」、「窓は全部で1,2,3・・・6つあるね」、「ここに字が書いてあるよ」という感じです。やがて子どもの方から「これは何?」というふうに聞いてくるようになるので、子どもの質問に対話をもって応えることを大事にした方がいいでしょう。

「どうして?」、「なんで?」という質問の中には、案外難しいことも多くあります、しつこく聞かれるとうんざりしてしまうかもしれませんが、ここが努力のしどころです。「どうしてだと思う?」「わかんない」「じゃあ一緒に考えてみようか」「調べてみようか」という問いの積み重ねが対話を生み出し、「思考」を促します。子どもの回答が間違っていても、できるだけ否定するのではなく、その子が自分で考えたことを認め、どうしてそういうことを考えたのかを詳しく聞いてみたいものです。案外、驚くような子どもの発想の力を知らされることも多いのです。すぐに正解を教えるのは、実は指示している時と、コミュニケーション上の質的違いは殆どありません。

会話や対話は、「認めてもらった」という経験です。子どもは答えが知りたいという欲求よりも、気を引きたくて質問と言う形で話しかけてくることもあります。そこで無視されては、話しかけることや質問することを恐れるようになるでしょう。

2019年02月04日

哲学を体験する

「哲学」というと、幼児期の子どもにはさっぱり関係がないように感じられて当然です。実際、プラトンやアリストテレスを読み聞かせなさいということとは違います。哲学から学ぶのは、思考過程に当たる「プロセス」であり、哲学者自身の問題や課題への向き合い方です。つまり、子どもが哲学を体験するときに大切なのは、哲学を学んだ大人の先導です。

哲学について日本人の多くは勘違いし、学び方を間違えていると思います。少なくとも哲学を解説して生業にしていこうというのでもない限り、哲学者の業績など学んでも雑学程度の意味しかありません。そんなものはネットで検索すれば丁寧な解説がいくらでもあります。そもそも、現代の科学で間違いと証明されているような内容を何で知る必要があるでしょうか。哲学を学ぶというのは、哲学者の主張内容を覚えることではありません。

大事なのは、哲学とは世界の中に「不思議」を感じた歴史であり、気になって仕方がない疑問を解こうとした「思考」と「情熱」の歴史の記録だということです。数多の英才たちが重ねた思考のプロセスを知ること、それによって世界の不思議にどのようにアプローチするのかを体験することが幼児期の「哲学」です。

「わからなーい」と思考停止することなく、「~先生が言った」と権威に依存することなく、自分自身の感じた「不思議」と「疑問」を、粘り強く思考を掘り進める知的な態度と思考のプロセスを自分自身で経験していない者が、新しい営みを開拓することはできません。哲学の態度は、「すぐに役立つ知識を追い求める」欲求にいつも脅かされます。すぐに人に頼って手にしたインスタントな知識である「すぐに役立つ知識」は、すぐに役に立たなくなると言われます。また、全知となることはできません。自分の知りえる全てが役に立たないときや不十分な答えしか得られないときに、諦めるのか思考を掘り進めるのかで人格や品格が決定的に異なります。

子どもが何かに疑問を持ったら、本人が納得するまでまず思考を掘り下げる対話を心がけたいと思います。それが哲学を体験させるということです。子どもが突拍子もない答えを語っても、「どうしてそう考えたの(思うの)?」と興味津々で聞いてみてください。彼らの「哲学」を学べます。私にとっても実に学びがいのある「論理」があります。決して馬鹿にできません。それこそ「ホモ・サピエンス」です。それから大人は、子どもの出した結論が「正しいかどうか」を哲学プロセスを一緒にたどって掘り下げていけばいいのです。

大人が本当に幼児に対して苦労すべきところは、答えを教えることではなく、哲学の思考プロセスの道中で如何に子どもの興味を維持し続けるか、です。その方がよっぽど難しいことであり、それこそ子どもだけではできないことなのですから。そこにこそ環境を整える大人の出番があります。

「幼児期の環境はストレスを感じるぐらいでないといけない」、とは私の先輩にあたる園長の言葉です。何でも与えていると、本人は王様のように振舞いますが、実際には環境の奴隷になって哲学を失うということが起こります。哲学できなくなることは、「ホモ・サピエンス」でなくなってしまうことに他なりません。それこそ本当に恐るべきことです。

2019年02月05日

質問の力

「質問」は教育活動の中核となるツールです。質問によって、子どもの「知りたい」を引き出し、刺激し、子ども自身が考え、答えを探し求め、答えを見つけることを経験させることが教育の本道です。この質問という素晴らしいツールを使いこなすという点で私自身は自分をまだまだ二流以下の教育者と思っています。常に反省することが多いです。イエス・ノーの二択を超えた質問を「最適に」発し、子どもに与えてこそ一流の教育者です。

例えば先日のブログ、「家庭でルールを考えてみましょう」におけるルール作りの時に、子どもに良い質問を重ねて子ども自身が答えに自分で近づけるように導くことで、子どもは自分で決断します。自分で決断したからこそ実践もともないます。ルールの効果が高くなります。基本的に、自分で答えを出すことが重要なことです。

良い質問を与えられることで、子どもに自分で考え、自分で答えを探す癖をつけることが大切です。良い質問を多く受けてきた子は、自問自答も育っていきますから、問題解決能力が育っていきます。

代表的な良い質問のカテゴリーは次の二つになります。

① どんなやり方があると思う?

② 自分だったら、どうすると思う?

シチュエーションによって質問の具体性は代わりますが、およそこの二つの代表的な質問を念頭に置いて質問を構成します。お分かりになるとおもいますが、この二つの質問に共通するのは、問題の当事者が質問を受ける子ども自身であることを意識させる性質の質問となっていることです。

幼児期に第三者の考えや感情を想像して物事を考えさせるというのは難しい課題です。様々な意見がありますが、人間が明確に第三者の目線に立ち自分を客観視できるのは12歳以上と言われます。大人になっても十分にはできないという分析をする学者もいます。「私が~と感じたのだから、〇〇ちゃんも~と感じる」という展開はできるのですが、「私は~と思っている。○○ちゃんは△△の理由で◇◇と思っている」という想定へと発展させることが難しいのです。第三者に関わる質問をしてはいけないということはありませんが、子どもが答えることができない様子でしたら、問題を子ども自身にもう一度戻して構成しなおす方が建設的です。発展的、建設的な質問の基本は自分自身の問題として課題を受け止められるように導くことを意識した質問になります。

子どもから質問への答えが返ってきたら、まず「なるほどね」、「そうなんだね」、「うんうん」と答えを受け入れます。それから、「どうしてそう思ったの?」と子どもの思考を辿る質問をして対話を広げていきます。

何らかの知識を求めているのであれば、どうやってその知識を得るかを対話によって考えさえ、一緒にその答えを確認するようにするとよいと思います。いくら子どもが自分で考えることが大事と言っても、間違った知識を与えてしまうのはよろしくないでしょう。協力して答えを見つけて「そうだったんだ」と納得できれば良いわけです。その中で、図鑑の見方などを身に着けていくこともできるでしょう。

質問は答える側が試されるだけでなく、質問する側の知識や知力の「底」を晒すことでもあります。初めから最上の質問はできません。しかし自分の質問を常に批判的に反省することで、良い質問者として質問の蓄えを増やすことはできます。つまらない質問や、的外れな質問は子どもからも軽蔑されます。大人同士では人間関係に致命的な事態を招くかもしれませんが、子どもは私たちとの関係をその程度で断ち切ることはしません。実に心の広い、ありがたい、最上のコーチです。しっかりと今日も子どもたちに話しかけて、鍛えてもらおうと思います。

2019年02月06日

子どもを待たせる

子どもが小さい時の子育ては面倒で、手間のかかるものです。子どもは親に負担を強いるのです。しかし、永遠の子ども時代などありません。幼い時は人生全体の僅かな期間のであり、通過点に過ぎません。ここでしっかりと子どもと時と場所を共有し、負担を背負い手をかければ、後の長い期間の子どもとのかかわりが楽になります。しかし、大きくなってから軌道修正するのは大変なことです。

おそらくどんな育児書を開いても、成長期の子どもにとって最重要なのは親によって子どもが尊重されることです。それも体験的に、です。子どもの話を聞き、問題を子どもと一緒に考え、話し合う時間を持つことです。ここで徹底的に親に辛抱や我慢強さが求められます。

「これやって!」、「一緒に遊んで!」、「早くこっち来て!」…子どもと接していると、実に多くの要求をしてきます。こちらの都合などお構いなしです。どんなに我慢強い人でも、忙しい時に子どもからこのように言われるとイライラすることだってあるでしょう。

こういう時は、自分に対しても子どもに対しても鷹揚に構えることです。子ども要求が緊急のものでない限り、別の仕事をしている最中であれば「今、お掃除してるから待っててね。お掃除をしない汚いお部屋で遊ぶのは、お母さんは悲しいと思ってるの」でいいのです。

乳児期の子どもの要求には速やかに応答する必要があることが多いのですが、幼児期の子どもの要求は、きちんと丁寧に理由を伝えることで待たせることができます。そして、この説明をするときのコツが、「嬉しい」、「悲しい」といった感情を伝える言葉です。

子どもは自分勝手で自分を優先すると思われることが多いのですが、子ども自身と親のどちらを優先するかを選ばせると、子どもは意外なほど多くの場合親を優先します。もちろん泣いたり、駄々をこねたりして冷静に選ぶことができない場面もあります。そのような時は、こちらの言葉を聞きとれない状態ですし、選択できない状況です。しかし選べるならば、子どもは自分よりも親を守る方を優先することが多いのです。

禁止すべきことについても、感情を添えた説明をすると子どもは禁止の理由と危険を認識しやすくなります。頭ごなしに理由も説明されずに「ダメ!」と言われては腹が立つものです。おそらくこれは自分の存在が認められていないと感じてしまうことからくる反発です。ですから、子どもの存在を受け入れていることを伝えることが理由を説明するときの第一段階。第二段階に論理的説明をし、第3段階としてこちらの感情を添えて伝える。さらに可能ならば「~が終わったらね」と約束をすることで、見通しを与えることができます。普段の関係が特別険悪でない限り、基本的にはこの伝え方で幼児期の子も待つことや禁止を受け入れることができるようになります。一度言えば理解するとは限りません。何度も同じようなやり取りを繰り返すこともあるでしょう。しかし確実に理解できるようになります。やがて自分が他者に与える影響について予想できるようになります。

2019年02月07日

今の気持ちはどんな感じ?

子どもは感情の起伏が激しいものです。頻繁に機嫌が変わるので、「落ち着きがない」「癇癪もち」「お友達と上手に付き合えない」「切り替えが苦手」など、様々に評価されます。ほとんどの場合感情の起伏は年齢とともに穏やかになっていきます。

子どもがなかなか自分の感情をコントロールできないのは、成長の過程として受け入れざるを得ないことですが、あまり激しい感情の起伏は子どもにとっても負担となることがあります。感情は自分でコントロールする他ありません。余程重篤な病症でない限り、薬物で抑えるわけにはいきません。そこで、少しずつ子ども自身が感情をコントロールするために、子ども自身に感じている感情を言葉(絵図)で表現させるという方法があります。

3歳頃であれば、「幸せ(嬉しい)、悲しい、怒り」といった三つの文字や絵を使って、「今の気持ちはどんな感じ?」と尋ねて、自分の感情へと意識を向けさせるのです。子どもの語彙が増えてきたら「ワクワクしてる、イライラしてる、怒っている、落ち着いている、嬉しい、楽しい、悲しい、寂しい」というふうに微妙な感情の表現を増やしてみるといいでしょう。それらを言ったり、書いたり、絵をボードに掲示して子どもが客観視できるようにします。

自分の感情に自分で思いを向けることは大事な成長です。これは自分を自分で観察し分析するということです。これが自制心を育むときに大切な訓練になります。自分自身の感情を捉えることができないと自制しようがありません。やがて「何に怒っているのか」「どうして悲しくなったのか」といった分析に進んでいきます。そのうちに感情に任せるままでは解決しなかったものに対処法を見つけていきます。

親は子どもの感情を誰よりも汲み取ることができるでしょう。幼い時は、そうやって感情を汲み取り、その原因に親が対処する必要があります。その時に第一に大切なのは、感情を受け止めることです。「いい」とか「悪い」という判断はせずに受け入れるということです。怒りは「悪」ではありません。悲しむことの重要な感情の経験です。感情はどんなものでも必要なものです。大切な自分の一部です。しかし、自制心がなければ他人だけでなく、自分自身も苦しめることがあります。

自分自身の感情を心から外に出して客観視することを繰り返すうちに、感情に振り回されないように自制心を育て、落ち着いて様々な課題に対処できるようになるのです。

2019年02月08日

選択と指示

「あるレストランに親子が来ました。親は子どもに『何でも好きなものを頼みなさい』と言いました。子どもはメニューをじっくりと見て、エビフライを選びました。すると父親は『ここはハンバーグがおいしい店だからハンバーグにしなさい』と言いました。母親はメニューの中から子どもの好きそうなメニューを勧めてくれました。子どもは『何でもいい』と言いました。」

上記のお話のどこに子どもにとって望ましくないものがあるかは、すぐにお分かりになると思います。はじめに「何でも好きなものを頼みなさい」と子どもの自主性を引き出す選択を与え、子どもはそれに自分の答えを返したのに、結局親の選択と好みを押し付けている点です。子どもの答えは否定されました。これならば最初から「ここはハンバーグがおいしいお店だから、今日はハンバーグを頼もう」と決めればいいのです。自由を与えておいてから、それを取り上げられることは大変に傷つけられることです。このようなことが続けば、子どもは自分で選択することそのものを放棄するでしょう。無意味なことに意義を見いだせないのは当然のことです。

子どもの自己肯定感や主体性を育てるために選択肢を与えた時には、子どもが選んだ答えが親の意に添わなくとも、子どもの選択を否定しないことです。親には子どものためを思う気持ちがあってのことでしょうが、子どもの側からすれば操られ、変えられるように感じるのは当然です。対話は感情的になり子どもの気持ちを萎えさせます。

子どもに対して意見を聞くのであれば、その件に関して命令と指示をやめることです。逆に子どもに指示を与えなければならないときは、「物わかりのいい」親を繕って「あなたの好きにしなさい」と言ってはいけません。どちらも子どもの感情を苛立たせます。子どもに対して親の態度を「選択」と「指示」を区別して一貫させることが自己肯定感と主体性を育てます。

子育て論の中には、「選択」と「指示」のどちらか片方を否定するものもありますが、私には現実的に思えません。「指示」ばかりを与えるのはおかしいことですが、経験の乏しい幼児期の子どもを、予想される危険から遠ざけ行為を戒めるのは、断固とした親の「禁止」という指示です。危険を前にして「ケガするけれど、まだやる?」と選択を与えているようでは困ります。「子どもが選んだことですから」と、他の子を傷つけていいということはありません。「選択」がいいこと、「指示や命令」は悪いことなのではなく、選択と指示の間で親が態度を曖昧にし、子どもの感情を苛立たせてしまうことが問題なのです。苛立ちの中では問題に正しく向かい合うことができません。

幼児期であっても、子どもの経験が増え、知識を増していけば「指示」よって従わせるよりも、「選択」を問うて、徐々に論理的な結論を応答するように子どもを導くことを心がけるとよいでしょう。子どもは大人から意見を求められることで自分の存在意義を感じます。自分の思いや考えを表現することで自信がつきます。自分の意見を聞くために待っている人がいてくれるということは自己肯定感につながります。

2019年02月14日

対話と自己表現

子どもと話をしていると、明らかに間違った意見を言うことがあります。そのような時に、「それは違うでしょう!」、「ダメね。分からないの?」という言い方は避けた方が良いでしょう。

対話は互いの表現の連鎖です。対話のために幼児期から経験させたいのは表現することに自信を持つことです。子どもが「何を言っても大丈夫」と感じ、どんな意見も馬鹿にされず、真剣に聞いてもらえるという信頼関係を持ち、安心して表現できる機会を多く持つことが大切です。

意見が間違っていた時には、間違いを正す必要はあります。しかし自分の考えを発言したことをまず受け入れます。「あなたの言うことは分かった」と、発言を受け入れます。その上で、「どうしてそう思うのか」と聞いて、子どもの思考過程を聞きます。自分の考えを発言することは間違ったことではありません。それどころか自分を表現できることは極めて重要なことです。それを否定はできません。その上で、別の思考方法を辿るお手伝いをすることで、間違った意見を正すのです。「他に考えられることはない?」、「別のやり方はないかな?」というふうに聞いてみます。さらに子どもが可能な範囲で、「お父さんだったらどうすると思う?」、「先生はうれしいと思うかな?」と考える条件を加えたり減らしたりして導きます。

大切なのは子ども自身が正解に辿り着き、それを発言できることです。そうやって発言者としての自信を高めていきます。また適切に間違いを正すことを経験すれば、自分の意見の否定で傷つくことなく適切な自信を高めることに繋がります。

職場の会議などで、自分の意見を否定されると自分自身の人格が否定されたように感じる人がいます。自分が否定されたと感じることに怯えて意見を言えない、という人がいます。しかし、自分や他人が持つ考えは、あくまで一つの意見であって、それに反対する人がいるのは当たり前です。自分の意見に反対されても、自分自身が否定されたわけではないと受け止められるように、対話による発信と受信の中で、自己表現を重ねて自信を育てることが大切です。最初に戻るようですが、「意見の否定は人格の否定ではない」という姿勢を身につけるためにも、間違った意見に対して「ダメ」という人格否定の言葉で受け止めるのは避けるべきなのです。

こうした丁寧な対話を繰り返すことで、子どもは会話の中ですぐに怒ったり、人の話を遮ったりということが少なくなります。自制心や柔軟性、共感、社会性が育っていきます。

2019年02月15日

愛着と報酬

幼児期の子どもが経験したことのないことに挑戦するためには、「安全基地」が必要だと言われています(ジョン・ボウルビィ イギリス、心理学者)。子どもが保護者に示す親愛の情や、保護者から切り離されまいと執着する感情を「愛着」と言います。このような子どもの愛着を向けられている保護者が「安全基地」となるからこそ、幼児は新しい経験の世界に踏み出し、探検できるのです。そこで幼児期は著しい発達の時となります。

この愛着と心理的な安全基地が発達過程において重要だという考え方に対して、「報酬」という考え方があります。学習と報酬の関係について多くの実験がされています。その結果、人は報酬が約束されていると問題解決能力が低下するという興味深い結果が出ています。つまり「~ができたら~を買ってあげる」とか、「頑張ったら、~に連れて行ってあげる」等の報酬を約束すると、学習効果が下がるということです。これは、最も少ない努力で最も多くの報酬を得るために何でもやるようになるからだと説明されています。

ずいぶん前ですが、園庭の落ち葉を観察することを目論んで子どもたちと集めるゲームをしたことがありました。ゲームですから「勝ち」という報酬が約束されます。「たくさん葉っぱを集めたチームが勝ちね」と。子どもたちはどうしたでしょうか?「勝ち」のルールを理解できなかった子どもたちは「黄色い葉っぱがいっぱいだよ」とか、「大きいのはどっち」といった具合に、地面の葉っぱを集めます。自分のルールで好きなように集めます。そこでは、「これは何の葉っぱ?」という質問も出ました。一方、「勝ち」という報酬を理解した子たちはどうしたのかと言うと、はじめは園庭に散らばる葉を集めていましたが、すぐに手の届く範囲のたくさん葉のついた枝をへし折りはじめました。あっという間に背の低い木は手の届く範囲の枝を折られてしまいました。「たくさん葉っぱを集める」というルールで「勝ち」という報酬を得るために最も楽な方法を選んだのです。報酬を得るためには最適の解です。しかし学習という面ではどうでしょうか。明らかに発展はありません。

報酬を約束する問題点はここにあります。報酬を得るための最短距離を走ってしまうのです。そこから知識や経験を高められるような回り道の課題は取り除かれてしまいます。これはルールへの理解が進めば進むほど顕著になります。報酬が約束されると、自分自身で考え、自分の興味を進み、自分自身で納得するという「自分本位の行動」が制限されるのです。しかし幼児期においてはこの自分本位の行動こそ最重要な経験と知識を与えます。

幼児期の自分本位の行動を支えるのが「安全基地」の存在です。挑戦はしっかりとした「安全基地」を確保しているからこそ可能です。

「安全基地」は、不安になったり、一つの挑戦を終えて充足したときに、自分を迎えてくれる存在です。子どもにとって最も大事な存在です。この存在との「愛着」は、どんな「報酬」にも代えられないことを忘れないでいたいと思います。

2019年02月21日

自己紹介ができるように

緊張して人前でお話しをすることが苦手な人は大人にも子どもにもいます。子どもは怖いもの知らずで、何でも元気よくできるということはありません。子どもは大人よりもプライドが高いので、間違うことを恐れて人と違うことをしたり、言ったりすることに抵抗感を感じることが多いのです。

「話す」ことは必要で大切なことです。自分の考えや気持ちを表現することは大事です。そこで、ある程度「筋」のある話をする機会を家庭で持つことを意識するとよいでしょう。

例えば、食事の時に一日の出来事や楽しかったことなど、「はい/いいえ」だけでなく、ストーリーや意見や考えを構成できるテーマを決めて話をします。いわゆる5W1Hにあたることを質問しながら話すことを促します。初めはもちろん上手に話せないでしょうが、より具体的に話すことを促します。そして大人も子どもに同じテーマで話をします。

子どもの気持ちが乗ってこないときには、親の方から話をしてみます。大人でも「今日楽しかったこと」というテーマで話すと、意外と難しいことを経験します。それが子どもの話を聞いたり、話を促す時の「気づき」にもつながりますから、大人も必ず話をしてみると良いでしょう。子どもの「聞く」力にもつながります。子どもは少しずつ話をすることに慣れていきます。

お話の目標は「自己紹介」です。幼稚園では機会がないかもしれませんが、小学校に入ると自己紹介をすべき機会が増えます。単に名前だけでなく、自分自身のことを具体的に表現して伝わりやすく話せるようになれたら最高です。ちょっと一目置かれる存在になります。人前で話すことへの苦手意識もなくなっているはずです。

2019年03月08日

4月の園だより(入園・進級おめでとうございます)

入園、進級おめでとうございます


C組、B組に入園なさった皆さん、入園おめでとうございます。B組の皆さん、A組の皆さん、進級おめでとうございます。かっこいい、やさしいA組、B組となるために心の中はやる気でいっぱいでしょう。新入の皆さんは、保護者の方から離れて初めての集団生活が始まります。また在園の皆さんは、新しい担任の先生・お部屋・お友達で楽しみでもあり、ちょっぴり不安な面もあるかと思いますが、少しずつ慣れていって欲しいと思います。大切なお友だちと出会い、楽しい遊びをたくさん見つけてください。「幼稚園は楽しいな」、「明日も行きたいな」と思ってもらえることが一番うれしいことです。


幼稚園は、A組のお友だち、B組のお友だち、C組のお友だちと、先生たち、ご家庭の方々、皆の交流と協力の中で織りなされていきます。そして、天のお父さまである神さまが愛をもって守り導き、幼稚園の皆と一緒にいてくださいます。今年も子どもたちの健やかな成長の一年が織りなされることを願い、神さまのお守りと祝福をお祈りします。
園長 有馬尊義

2019年04月08日

遊びは育ちの必須栄養

遊びは心の柔軟性と、順応性、創造性に深くかかわります。また遊ぶことによって共感や倫理といった社会性を身に着けていくことができます。幼児期に知識を詰め込むより遊びを通して社会性や情緒面を育てる方が、生涯的には成功につながるという研究結果がいくつも発表されています。およそ共通することは、幼児期によく遊んでいた子どもは、自分から問題を見つけ、解決のために自分で考え、学び、反復し、努力し、行動する力に優れているということが言われています。
人間と遊びに関する研究は、古くて新しい研究分野です。かつては哲学者が人間の定義として「遊ぶ」ということを語りました。現代では生理学や心理学、進化生物学、分子生物学などの様々な分野で研究されています。その結果はいずれも人間にとって遊びがどれだけ重要なものかを示しています。
人間は生まれながらにして遊びを通して問題解決能力を獲得していきます。赤ちゃんは音のなるおもちゃ振って遊びながら、原因と結果の関連性を学習していると聞いたことがあります。人の真似をして遊び始めるのは、記憶の出し入れが遊びに発揮されているからです。さらに人の真似を通して、どうしたら同じことが再現できるかという課題に対する問題解決能力を学んでいきます。子どもの動きや表情に大人が反応して笑いかけるのも、子どもにとっては大事な遊びです。子どもは何度も同じことを繰り返すことが好きですが、それは自分の行為に対して反応する周りの対応を得ることで、行為を共有して認知能力を高めています。認知能力が育つということは、事象と言語と意味が結びつくということです。幼児期に一人遊びから友だちとの遊びの世界へ進み、「ルール」が遊びに取り入れられると、もはやこの遊びは何のため、という単純な理解では済まないほどに遊びによって高められる能力は爆発的には増えます。身体的にも、心理的にも、精神的にもです。「ごっこ遊び」は、役割担当を決め、時に譲り合い、交替で行うルールが共有されます。「やりすぎ」への注意が喚起され、ルールを守ることが求められます。自己肯定感、幸福感、満足感、おもいやり、共感、交渉といった人間社会の健全な一員となるためのスキルを、小さな共同体を遊びのたびに子どもたちは創造して獲得しているのです。
遊びは「さぼり」でも「怠惰」でも「わがまま」でもありません。成長に食事が必要なように、人間が成長するには遊びは必須の栄養なのです。本質的に、成長に関わる「遊び」には善悪はありません。だから、子どもの遊びの色々に苦笑いして、ちょっとため息をついてあきれ、振り回されて、でも遊びの奇抜さに感心して、「この子はやっぱり天才だ」と思えたら、その時子どもは栄養満点の遊びを満喫していると思います。

2019年04月10日

子どもと一緒に遊ぶ

子どもの脳の発達は、生まれた後に成長する割合が大きく、その成長を助けるのが遊びです。遊びは自発的に行われる活動です。自発的だから楽しいのです。子どもは自発的に何かに興味関心を持っている時、楽しく遊んでいる時に驚くほど深い集中力を発揮します。その集中力(ゾーンと呼ばれることもあります)によって、それまでできなかったことができるようになったり、驚くほどの知識を獲得します。特に遊びは深い集中力をもたらし、さらに極めてバラエティーに富んだ可能性を秘めた行動であることから、成功失敗によらず問題解決能力や実行力、協働の経験、失敗の失意から立ち直る力などの能力を身に着けることができます。遊びの中での失敗は失敗ではなく、うまくいくための試行錯誤の機会に変えられます。だからこそ子どもの自発的な遊びの時間をより多く与えることに努力したいのです。
このような遊びの力は、子どもだけに恩恵を与えるものではありません。生涯にわたって、大人にも必要なことです。「楽しい」ということなしでは心身ともに疲れてしまいます。逆に、楽しいと心から思ったときは、疲れを忘れて取り組んだ経験を持つ方も多いと思います。楽しい遊びがもたらす集中力の恩恵は、私たち大人にもあります。ぜひ、子どもと一緒に遊びを楽しんでほしいと思います。
子どもと一緒に遊ぶ際には、是非「大人の実力」を見せつけてあげるのも良いです。遊びの時は、面白さを感じさせるために子どもに華を持たせて「勝たせてあげる」ことも必要なことがあります。しかし、子どもたちの中には「大人なんだからできる」という前提があるのです。つまり自然に子どもたちは一緒に遊ぶ大人の姿に「お手本」を見つけているのです。だから、大人として実力をしっかりと「見せる」ことが色々な意味で重要になります。ちなみに、園長の私は、子どもたちにとって一番勝つことが難しいラスボスのような存在です。鬼ごっこでも、綱引きでも、登り棒でも、「競争」を挑まれたら手を抜かずに勝つことを目指しています。
外遊びであれば、身体能力の可能性を見せてあげることができます。自然をベースとした遊びでは、「危険」と「難しい」の境界線を示すことも大人の役目です。どんなことが「危険」になるのか、危険を予測すること、危険を避けるため判断。一方で危険とは異なる「難しさ」への挑戦、自分の限界を知ること、「もうちょっと」を頑張ること、出来たときの喜び、そういったことを子どもは大人の姿を通して獲得できるのです。様々なスポーツも将棋のようなゲームでも、大人の上手な体の使い方や、ゲームに勝つための方法を学び取っていきます。大人は「遊び」の大先輩であって欲しいのです。子どものために大人こそ「遊び」を楽しむことに熱心であってほしいと思います。

2019年04月11日

大人は万能でも完璧でもない

大人が間違ったときに威厳や対面を気にして取り繕ったり、言い訳したりして子どもに謝らないというのは間違いです。子どもにしてみれば、間違いに気づいたら謝りなさいと指示されてきたのに、自分が間違えたときに謝らない大人を尊敬できるでしょうか。矛盾を感じてしまうでしょう。
大人が速やかに誠実かつ潔く誤りを認め謝罪すれば、それを見た子どもも自分の間違を認めて謝ることができる子に育つでしょう。逆に言い訳を重ねて謝罪しない姿を見れば、間違いをごまかす人間に育つでしょう。それは、間違いを認めて修正する自信が育たないということに繋がります。
人間は万能ではないし、完璧な存在ではありません。しかし一方で成長の可能性が常にある存在です。ですから、できないことや間違ったことを認めることができることが、成長において非常に重要な要素となります。
間違いを認めることは悪ではありません。恥でもありません。大人が自分の間違いを認め、子どもに対しても速やかに潔く誠実に謝罪する姿を示すことは、自分をありのままに認める「客観視」を育み、自己を認めることで間違いを修正し、自己肯定感を高めることに繋がります。謝罪は自分に対する自信を育てるものなのです。
現代はあらゆる発言に監視が付き、非難と批判が待ち構えています。正しい謝罪というスキルは、これからの時代に必須の自己防衛手段でもあると思います。誤魔化すことで小さな間違いを取り返しのつかない過失へと広げ、さらに言い訳を重ねた稚拙な謝罪が企業や個人に大ダメージを与える様は本当に残念なことです。
大人が万能である必要はありません。完璧を装う必要もありません。それはむしろ成長する子どもにとっては、有害なことです。大人とは万能で完璧であることではありません。大人が万能を装い、完璧を演じることを子どもは利用しますが、尊敬することはありません。自己を信じ、嘘や見栄えのいい話に頼ることなく、正直に道を切り開くことのできる「器」や「品格」が子どもに憧れの大人を感じさせるのです。

2019年04月12日

自己肯定感の揺らぎ

以下のような様子が子どもに見られたら、少し気を付けておいた方がいいでしょう。
・常に人の目を気にして、人との比較で物事を考えることが多い。
・自分より劣る人に対して、見下す傾向がある。
・自信がないため、人の言葉に傷つきやすい。
・何かをやり始める前にあきらめてしまう。
・人の批判が多い。
・自慢話が多い。
・必要以上に自分の失敗を責める。
・褒められても、素直に受け止められない。
幼児のことですから上記のようなことがその子の性向であると決めつけることはできません。ただ、一時的にせよ自己肯定感が揺らいでいる時に上記のような様子を見せることがあります。その原因は一概には決められませんが、子どもに様子が気になったら、まず子どもへのアプローチを見直す機会だと思われるといいでしょう。
 自己肯定の反対は、言葉にすると「自己否定」になるでしょう。つまり自分が嫌いで、自分が受け入れられないという状態です。
「まだ出来ないの!?」「やっぱりだめね」、「本当は男の子(女の子)がよかったのに」、「どうしてできないの!?」といった今の自分の存在を否定するような言葉は子どもの自己肯定感にマイナスの影響を与えます。また親や保護者が完璧主義で、子どもができる範囲で一所懸命やっているのに何度もやり直しをさせたり、子どもの努力を認めずに結果だけを見て「100点でなければ意味がない」といった否定をしたり、兄弟や他の子と比べて「~ちゃんはできるのに、なんでダメなの」と比較をすると、いともたやすく子どもの自己肯定感は揺らぎます。
自己肯定感の揺らぎを感じたら、まず周りのことに関係なく、子どもを一人の人間として認めることです。自己肯定感とは自分の存在そのものが大事だと思えるということで、そこに他人との比較は必要ありません。
自己肯定感の高い子は、おおむね逆境に強い子です。やり遂げようとする意志が強いので、結果的に学びの成果を得やすくなります。実力を得、実力に基づく達成感からさらに自己肯定感は高まります。他人と比較することで自分を守る必要がありませんから、他者の存在を受け入れることが容易になります。人の話を聞くことができるようになります。そうなると自然に人が集まり、さらに良い環境が形成されます。自己肯定感は傲慢とは違いますから、いくらでも高めてあげて良いのです。

2019年04月15日

感情を抑えること、感情を伝えること

子どもの自己肯定感を育むということは、「自分は無条件で愛されている」という実感を与えるということです。そのために大切なのは、一時的な感情に振り回されて、子どもへの評価を変えないということです。
子どもと一緒に過ごしていると、いかに褒めて育てようと思っても、注意を与え、危険から子どもを守るために叱らなければならない場面があります。もちろん手を出すのは論外です。決してしてはいけません。そのためにも、叱る側が感情的になってはいけません。感情的になって怒鳴るのも同様に絶対に良くありません。緊急にストップをかけるために大きな声を出すことと、感情的に怒鳴りつけることは別です。緊急事態に大きな声を出して子どもにストップが伝わったなら、その後は感情的に怒鳴ってはいけません。叱るというのは、問題行動を止め、訂正を与え、正しい行動へと促すことが目的です。その目的に沿う最も最適な方法は、穏やかに論理的に説明することです。感情的に怒鳴ることは存在の否定につながります。
一方、大げさなほどに感情をあらわすべきなのは、子どもへの感謝です。「ありがとう」は相手の存在価値を認める言葉です。加えて、「とっても助かった」といった言葉を加えられると、子どもは自分が人の役に立っていること、人から必要とされる存在なんだと感じることができます。
もう一つ、感情をあらわすべきなのは、子どもを褒めるときと、子どもが褒められた時です。「うれしい」という感情を、子どもを褒めるときと、子どもが褒められた時にあらわします。これは子どもの誇りを高めます。褒めるときには結果ではなく、努力やプロセスを褒めるように意識します。子どもが何かに挑戦して「できた!」という時には、大げさなほどに喜んで褒めます。失敗したときにも、頑張りを大げさなほどに褒めます。決して、「がっかり」した顔や失望を見せないように気をつけます。
そして、おそらく日本人にとって大事なのは、子どもが褒められた時には「ありがとう」と素直に喜びをあらわすことです。「いやいや、うちの子はまだまだです」とか「普段はダメなのに、今日は頑張ったみたい」というような謙遜の言葉を聞きますが、それは褒めてくれた相手が聞くのと同時に、当事者の子どもが聞いていることが多いのです。実はこういった謙遜の言葉の中には子どもの自尊感情を損ね、自分に対する肯定的なイメージを損なう言葉が少なからず含まれています。ですから、褒められた時には謙遜するよりも、「ありがとう!」そして、「○○くん(ちゃん)も素敵!頑張ってるね」の方がいいと思います。褒められたらば感謝して「ありがとう!」そして褒めてお返しするようにしてはどうでしょうか。そうすれば謙遜する必要はありません。

2019年04月16日

子どもの感情が爆発するとき

 嫌なことが続くと感情を爆発させてしまうことは、大人にもあります。まして、感情のコントロールが未熟な子どもが感情を抑えられずに爆発してしまうのは、当然の出来事です。
 大人でしたら、自分の感情が「怒り」なのか、「悲しみ」なのか、「失望」なのか、判断もできるでしょう。感情に「言葉」を与えることは、感情を制御する第一歩です。しかし幼児は自分の感情を的確に言葉で表現することができません。理解できていない不快感が心を乱すのですから、それはどれほど不愉快なことでしょう。ですから、幼い子はたびたび「癇癪」を起こします。
 大人は、感情を爆発させてしまうと大抵後悔します。実は子どもも同じです。「自分はダメな子だ」と思ってしまうのです。そんな中で感情を爆発させた子どもを叱るのは、逆効果です。まずは子どもに「あなたはダメな子じゃない」と伝えるために、落ち着かせることが肝要です。最も効果的なのは抱きしめることです。そうして子どもが落ち着いてから、どうして感情が爆発したのかを聞いていきます。それは「怒り」に分類できるかもしれませんし、「焦り」に該当するかもしれません。しかし、爆発するということは、いろいろ複雑な感情が混ざり合っているからです。
 少しずつ、感情と言葉を結び付けていけるとよいでしょう。感情をカードにして、イラストで表情を分かりやすくしてあげたりして、この気持ちは「怒ってる」、この気持ちは「悲しい」、この気持ちは「イライラ」といった風に、まずは単純に結びつけるといった工夫もよいでしょう。そういったものを準備するときには、「嬉しい」や「楽しい」、「ワクワク」といった感情も一緒に準備します。「イライラ」して感情が爆発したけど、今は「楽しい」に変わったといった、感情の変化を確認できるとより感情の言語化にプラスに働きます。そこから、「この次、また『イライラ』が来たら、今日みたいに大きな声を出さないで、どうしたらいいかな?」と対策を一緒に考えてみます。
 これを繰り返すうちに、子どもは自分の感情に「言葉」を与え、自分の感情を把握します。そうして自分をありのままに受け止め、コントロールすることができるように育っていきます。
 感情のコントロールでも、大事なのは自分で対処法を学ぶことです。自分への信頼と自信を高めることで、自制心が育ちます。
 子どもが感情を爆発させることは、一概に悪いこととは言えません。このこともまた子どもが自分自身を育てる大事な機会になっているのです。

2019年04月18日

親の自己肯定感を守る人

親(特に母親)の幸福度と子どもの満足度の間には、明らかな相関があるそうです。保育の現場にいると肌でそれを感じます。
子どもの自己肯定感を高めることをいくつか記してきましたが、子どもの自己肯定感を高めることと同じくらい大事なことが、親自身の自己肯定感を高める(あるいは損なわない)ことだと思います。単純に言うと、親自身が自分を大事にすることです。
しかし、子育てはストレスやプレッシャーと全く無縁でいることはほとんど不可能です。もしも間違った育て方をしたら、この子の人生はどうなってしまうのか。子どもの人生を背負う不安があります。自信を無くし、思い通りに応えてくれない子どもにイライラし、願ったように助けてくれない周囲にイライラして、子育てを楽しめなくなると、自己肯定感は下がっていきます。それが子どもに悪影響を与えるというのですから、ひどい悪循環に陥り、辛さは増すばかりです。
親自身が「完璧」を目指して、そうはなれない自分自身をダメだと思っていては、子どもと楽しく過ごすことはできません。「完璧」を目指すことはやめてみましょう。実際、完璧な親というのは存在しません。また、親としての評価は、自分という人間への評価ではありません。
子どもためにやってあげたいことはたくさんあっても、体力も気力も財力も限られています。全部はできません。だから、「やらない」という選択肢があることを覚えておきましょう。私自身も幼稚園をあずかるものとして、子どもたちのためにやってあげたいこと、用意してあげたいものは沢山あります。でもそこで「やらない」という選択肢を意識して加えます。その方が、現実的で幸福な選択を見いだせることが多いです。
そして、親の自己肯定感を守る最大最強の味方は子どもです。子どもは親を受け入れることについて、この世で最も愛にあふれ、驚くほど許容範囲は広く、何度でも赦してくれる存在です。子どもたちは、殆ど無条件に私たちを信頼して自分を預け、私たちの存在を探し求めてくれるほどに重んじ、愛情を注いで、私たちの自己肯定感を守ってくれる人なのです。

2019年04月19日

好きだからやる

 好きだから、楽しいから、やりたいから、だから子どもはやろうとします。もっとうまくなりたい。もっとやりたい。もっと聞きたい。もっと見たい。もっと知りたい。「もっと~したい」という気持ちがあるところに、子どもにとっての「遊び」が生まれてきます。 好きなことをしている時は、自然と笑顔になります。失敗しても、何度もやっています。
 先日、NHKの「100分で名著」という番組でマルクス・アウレリウスの自省録を紹介していました。番組の中で、自省録の中にたびたび出てくる「善く生きる」という言葉を解説されて、「もともとこの言葉に『善悪』という意味はありません。『善く生きる』とは、『幸せに生きる』ということです」と言われていました。「善」とは「幸福」です。道徳や倫理と関係した「正邪」と結びつくのは二次的な意味になります。
 幼児期はまず自分だけの幸せの追求です。しかしそのうちに、自分の行動が誰かの幸せに繋がり、誰かを喜ばせることができると知ります。誰かのために「やりたいから」、それをする、というのも幼児にとっては「遊び」に他なりません。好きだからお手伝いをします。やりたいから助けてくれます。そのような経験を重ねて、遊びの目的が大きなものになり、公(おおやけ)なものになっていきます。幸せは大きく育っていきます。ますます、幸福追求に力が入ります。このようにして「社会人」へと踏み出していくのです。
 少し大げさに言うならば、このようにして社会にアプローチすることは、心に「情熱」を与えます。情熱のあるところで、人はくじけたときにも心を回復させることができます。難しい課題に難儀するときにも、「相手」への想像力を働かせて答えを追求し、そこから共感する仲間を見つけ出し、アプローチを継続できるようになります。その時の思考の方向は、「この人に何をしてあげられるだろうか」というものが大きくなります。それは自分にある可能性の鉱脈を掘り下げることです。
 幼児期は、これは「義務」、これは「責任」、これは「遊び」と色分けしていくよりも、まず「好きだからやる」という「遊び」の領域を充実させることが重要だと思うのです。

2019年04月22日

あきらめ癖

大人も子どもも関係なく、成功の要因は「継続」です。努力と取り組みを継続した人は、他の分野に取り組むのも積極的ですし、また努力を継続できます。諦めずにやるべきことをやり続け、壁にぶつかったならば模索し、やり続ける。こういった努力は「やり抜く習慣」として子ども時代から身に着けることができれば、将来にわたって大きな力となります。
 そこで、子どもに習い事などの継続をするように励ますのですが、そこで「あきらめ癖」ともいうような状況に出くわします。すぐに「無理」とあきらめてしまう。あるいは取り組む前から「無理」と決めて挑戦しないといった状況です。こういったあきらめの原因は、およそ次の3つとされています。
(1) 自信の不足
(2) 成功経験の不足
(3) 繰り返し(習慣)の欠如
継続のためには、成績ではなく努力(過程)を褒められること、適切な手本を提示することが基本です。その上で、3つの原因について対応を考えてみます。
「自信の不足」に対しては、子ども本人がやり遂げる経験を重ねることが大切になります。ですから、子どもが取り組むことに口出しや手出しをしないことが必要になるでしょう。出来栄えよりも、子どもが「できた」という満足感を得ることを目的とした見守りが大事です。
 「成功経験の不足」については、「自信の不足」と連動することですが、取り組みの開始において、子ども自身の意思で選ばせることが大切になります。子ども自身が決めて行動し、子ども自身が工夫や、やり直しなどの意思を決定できるように環境を与えるように心がけます。「やらされたことがうまくいった」というのではなく、「自分で考えてやってみて成功した」という経験を重ねられるように配慮します。
 「繰り返し(習慣)の欠如」とは、「同じことを繰り返す」という経験です。最も重要な繰り返しの経験は日常の生活リズムにあります。そこで「習慣」と言い換えることができます。子どもたちと接して感じるのは、「あきらめ癖」があらわれる子は、生活リズムが安定していないことが多いです。生活リズムが乱れるということは、物理的に肉体や精神のバランスが乱されるということです。その結果は顕著に好奇心と集中力と忍耐力に現れてきます。寝る時間、起きる時間、食事の時間、遊ぶ時間などをできるだけ一定のリズムで繰り返せるように生活を安定させると、多くの場合、子どもたちは驚くほどの好奇心と集中力と忍耐力を発揮するようになります。そうなれば、たとえ小さな行動でも、子どもにとっては大きな意味を持つようになります。

2019年04月26日

ルールを守る子、ルールを破る子

ルールに対して子どもには二つの欲求があります。「ルールを守る」と「ルールを破る」です。伝統的に男の子はルールを破る傾向があってルールを教えるのが難しく、女の子はルールを守って集団の調和を守ろうとすると言われています。ただ幼稚園で子どもたちの姿を見ていると、ルールに対する傾向は性別に寄らず、一人の子どもの中で「ルールを守る」と「ルールを破る」ということが欲求によって入れ替わるというのが正確だと思います。
「ルールを守る」という傾向は、集団の秩序や調和に対して子どもが欲求を感じていると理解されがちですが、ルールを通して集団を維持し、集団に奉仕するという意味で「ルールを守る」というのは、かなり高度な社会性と精神性があることです。
子どもは「ルールを守る」ことに非常に執着します。それは社会的動機ではなく個人的欲求からです。この場合、本人も出来ていないのに、お友だち出来ていないことを責めます。きつい言葉でお友だちを注意したり、列を乱す子を押したりするということもあります。列の順番を乱されると不愉快だからルールを守るように要求します。その際、自分も列を離れてしまいます。お片付けの声がかかっているのになかなか片づけない子に、苛立ちを感じるからルールを守るように要求します。その際、自分も片づけをしていません。もう一つは、ルールを守っている「自分を見てほしい」という欲求で、これはアピールです。ルールを守る自分を褒めてほしいという要求です。
一方「ルールを破る」のは、命じられること、口出しや手出しを嫌っているということです。ただ、大人にとっては手を焼くことですが、子どもらしい姿はこちらにあります。遊びの集中を妨げられれば不愉快ですし、自分でやろうという成長欲求を妨げられることも不愉快でしょう。
「ルールを守る」、「ルールを破る」のどちらの傾向に対しても、基本的なアプローチは同じです。手本を示して、努力を誉める。他と比較することをしない。自尊心を傷つけない。ルールを変更しない。特例を作らない。これらの積み重ねです。そこから、本来の社会的意味でルールを守ることへと成長を繋げていきます。
ルールを守るというと、多くの場合「禁止」に服することと理解され、拘束をイメージします。しかし「ルールを守る」とは、「相手に対してわたしは何ができるだろうか」という精神から動くことを選ぶということです。赤信号で止まるのは、止まるという行動を起こすことです。赤信号で止まることで歩行者を守ることを選ぶのです。しかし、多くの場合赤信号で止まることで自分を事故から守ることを選びます。それは実は先に述べた子どものルール感覚と変わりません。社会性が未熟で、結果として不満が付きまといます。まずは大人自身がルールを守るという本当の姿勢を知ることがなければ、子どもにルールを教えることが「不幸」なことになってしまいます。

2019年04月27日

トイレトレーニング開始のタイミング

おしっこやうんちをしたいと感じて、トイレに行くまで我慢して、自発的にトイレでおしっこやうんちができるようになる、というのがトイレトレーニングの目的です。
そこで、トイレトレーニングは大まかに次のようなことを目標とします。
1. おしっこ(うんち)がしたいと言える
2. トイレまで排泄を我慢できる
3. トイレで排泄ができる
トイレにおけるマナーはこの次の段階になります。例えばパンツの上げ下ろしや、トイレットペーパーできちんと拭くこと、排泄後の手洗い等はしばらく手助けが必要なことが多いでしょう。
上記のような目標に到達できるためには、子どもの体の成長を待たなければなりません。おしっこは膀胱にたまり、その情報が神経系を通して脳に伝達され、その情報を脳が受け取ると「おしっこをしたい」という感じ、「おしっこを出せ」という指令を出します。その指令が神経系を通って膀胱に伝わり、筋肉を動かして、はじめておしっこが出ます。非常に大雑把ですが、こういう経過でおしっこを出します。
そうなると、脳と膀胱の発達、脳と膀胱の「連携」の発達がなければトイレトレーニングの目標に到達できないことになります。赤ちゃんの頃は脳と膀胱の連携が未発達で、膀胱も小さいので反射的におしっこをしています。身体的に我慢はできない状況です。やがておしっこの感覚を覚え、膀胱も大きくなっておしっこをある程度貯められるようになると「我慢する」をするようになります。こうなった時がトイレトレーニングを考え始める時期になります。多くの場合、「もう2歳だから」とか、「周りが始めたから」というようなことでトイレトレーニングを始めることが多いのですが、子どもの体が成長して準備ができていない時にいくらトイレトレーニングをしても、うまくはいかないでしょう。
子どもがトイレトレーニングを始められる発達の目安は、第一に「歩ける」ことです。危なげなく一人で歩けるようになれば、脳を含む神経系の発達が一定のところに到達していると考えられます。次に、トイレトレーニングは言葉をかけることからはじまります。ですから第二に「言葉が分かる、話ができる」というのが目安になります。「おしっこに行く?」という問いかけや、「おしっこしたい」という訴えも、多くの場合言葉を使います。そして、最後におしっこの間隔が空くということが大事です。ある程度間隔が空かなければおしっこを我慢することができません。時間を決めておむつをチェックする等して、おしっこの間隔が大体2時間程度空くくらいが目安といわれています。

2019年05月07日

トイレトレーニングの工夫

 幼稚園や保育施設でのトイレトレーニングをいくつか紹介します。
 おトイレの際に、おむつの子もトレーニング中の子も一緒にトイレに連れていきます。おトイレをする様子を見せるためです。一人でできない子に、一人でできる様子を見せることで、子ども自身がトイレトレーニングに取り組む気持ちになることも多いです。
 おトイレの時間はほぼ毎日決まった時間に全員に促します。出ても出なくてもかまいません。決まった時間にトイレに行くことで習慣づけをします。だいたい90分~120分間隔で誘うことが多いです。習慣づけることでおしっこのコントロールができるようになります。
 おトイレに入っている時間は2~3分程度ですが、子どもにとっては長い時間に感じられます。そこで、トイレに座ったら声をかけてお話をします。歌を歌うということもあります。いずれも、2~3分間座っていられるようにするトレーニングです。ただし、「おしっこ出た?」等のおしっこに関する声掛けばかりですと、早くしなくてはいけないと子どもは緊張しますので、声掛けはリラックスさせるためです。
 トイレットペーパーは、トイレトレーニングをはじめたばかりの子どもにとってはおもちゃです。幼稚園でも、一個丸々引き出してトイレを詰まらせる子が毎年います。ペーパを引き出すためにトイレに入ることもあります。そこで、保育園などではトイレットペーパーをあらかじめ1回分に切り分けて準備していることも多いようです。まずは、使いやすい状態からはじめて、トイレットペーパーを必要な分切って拭くという練習に進むと良いでしょう。「自分でできた」という達成感を少しずつ重ねていきます。
 服は、自分でおろしやすい、脱ぎやすい、そしてあげやすい、着やすい服を選んでくださる方がよいです。きちんと拭いて服装を整えるところまでできると介助なしでトイレができることになります。服装にも「自分でできた」という気持ちを持たせやすくしてあげる工夫があると良いです。
 最後に、トイレトレーニングは失敗と挫折と停滞がつきものです。少しづつ成功体験を重ねることが大切です。失敗が続き、おトイレのたびにおしっこを拭いたりするのは大変ですが、心がけて「がっかり感」を表情や言葉に出さないようにしましょう。逆に、無理に笑顔を作ることも子どものプライドが傷つきます。トイレトレーニングはなかなかデリケートです。失敗して一番がっかりしているのは子ども自身です。失敗したときには、普段通りに「きれいにしようね」と着替えさせて、失敗を引きずらせずに気分を切り替えるようにするのが一番です。

2019年05月09日

魅かれることから

幼稚園の園庭は砂の園庭です。子どもたちが走り回って遊ぶのに適当な場所です。この砂の園庭で、体育などの活動の際に子どもたちが園庭に座って先生のお話しを聞いたり、順番を待つという場面があります。そんな時、必ず園庭の砂をいじって遊び始める子がいます。前もって注意をしても必ず何人かは砂をいじり始めます。飽きているのではなく、砂の感触に魅かれているのです。
あるいは、道を歩いている時に縁石や花壇のへりに登りたがります。前もって注意をしても必ず上ります。塀に上りたがり、登るための遊具でない物に上り、大人をヒヤヒヤさせます。大人は危ないと感じるので、前もって注意を与え、また叱ったりしますが、何度も同じことをします。狭いところ、不安定なところに上ることに魅かれているのです。
雨が降ると水たまりができます。水たまりを見つけたら、必ず水たまりを通っていきます。まるで子どもの中に、「水たまりを見つけたら入ること」というルールがあるかのようです。水たまりに魅せられているのです。
何かを集めるのが大好きです。葉っぱも小石も子どもたちにとっては夢中になって集めるコレクションです。集めるということに魅かれているのです。
子どもたちにとって、「今、目の前にあるもの」が確かな存在です。その存在に魅かれるのです。非常に狭く、かつシンプルです。自分で見たもの、自分で触れられるもの、自分で得られるもの、このタイミングが子どもにとって重要な時なのです。大人が見ると「何でわざわざそんな事をしているのだろう」、「何もこんな時にしなくてもいいのに」と思うようなことが、子どもの世界の常識なのです。前もって注意しても、「今はやらないよ」と声をかけても通じないのが、当然なのです。子どもには「前」も「後」もありません。「今」、「目の前」のものに魅かれているのです。
「視覚」「聴覚」「嗅覚」「触覚」「味覚」といった代表的な感覚が最も鋭敏な時が幼児期です。この時期に感覚的な刺激を通して物事を理解し、概念をとらえようとしています。砂を飽きるまでいじって、指の間からさらさらと落ちる様を見たり、砂が落ちることで手の中の砂が「無くなる」「消える」という概念を感じています。道を歩くとわざわざ広い道ではなく狭い縁石の上を歩くのも、運動的な刺激と共に概念をとらえています。「危険」なことと「難しいこと」の境界線をとらえようとします。「限界」という概念を得ます。
概念をとらえるために、子どもの内には情熱的なまでの魅かれるものへの欲求があります。そして、この欲求を通して「さらさら」や「ごつごつ」や「べたべた」や「バシャバシャ」といった擬態語で表されるような概念の世界に入っていきます。大人が一緒に砂を触って「さらさらしてるね」と言う言葉を聞いて、魅かれたものが、「さらさら」と「砂」という概念を結び付けて体得されます。こういった概念の獲得を通して、将来、私たちと交わすコミュニケーションも、お友だちと交わすコミュニケーションも基礎が形成されています。
大人にとっては、少々困った砂いじりも水たまりへの突撃も、子どもにとっては「概念」を獲得するための重要な「今」「目の前」の世界へのアプローチなのです。

2019年05月10日

環境を作る

幼児教育と聞くと、具体的に何をしていると思われるでしょうか。外で子どもと一緒に遊んだり、一緒に歌ったり、工作を一緒に作ったり、お遊戯をしたり…そんな子どもと一緒に過ごす場面を思い浮かべることでしょう。これはとても大切な幼児教育の現場です。しかし一部でしかありません。重要ですが全てではありません。むしろ、子どもと一緒に過ごす以前の時間に大事なものがあります。それは「環境を作る」ということです。
子どもは、言われてやることにたいした喜びは感じません。私たちは「こういう遊びに誘ったら、きっと喜んで遊ぶぞ」、と思って子どもを誘いますが、往々にしてこの期待は裏切られます。大人から見ると何が楽しいのやらさっぱり分からないことでも、明らかに子どもが自分で選んで行動している時には喜びを感じています。
ですから子どもが自分で選んで行動できるように環境を作ることが、幼児教育では極めて重要なことになります。これは何もおおげさな遊具や調度を整えるということではありません。子どもが「やりたい」と思ったときに、自分でそれを始めるための環境を作るということです。
例えば、「工作をする」時に、幼稚園の先生たちは沢山話し合って材料を準備しています。画用紙をどのようなサイズで用意するのか。飾りをつけるときに使うのは糊か、テープか。仮にテープの方が丈夫に作れても、子どもがまだ自分で扱えないのであれば、糊を使って作る方法を模索します。あるいは、子どもに挑戦させるためにどんな「挑戦する工程」を用意するのか。準備できるものに子どもを合わせるのではなく、子どもに合わせて適切な準備をします。子どもたちの集中力は長くはありません。興味をもって集中してできる間に工作が完成できるように、学びと経験から先生たちは準備します。そして、子どもが自分から興味を持てるように、一つの作品のために絵本を何日も前から読み聞かせたりして、子どもが自分から取り組めるようにあらゆる環境を整えます。大好きな子どもたちの「自分でできた」という育ちの喜びのためです。いくら自分でできることがいいといっても、何も準備しないでただ子どもたちをそこにいさせればいいというのは放任であって、教育ではありません。もちろん「自分で選びなさい」、「自分でやりなさい」と口で言ってもその通りにはなりません。
以前、行政の方がこども園になることを勧めに来られた時に、教師たちの準備の場所を指して、「幼稚園時間の子どもたちが帰ったら、幼稚園の先生たちは仕事がお終いですから、保育士に場所を明け渡してください」と言った言葉を聞いて、絶対にこども園にはならないと決めました。幼稚園教師の仕事も保育士の仕事も、その実態を全く知らない人間が作っている制度だと分かったからです。
子どもが興味があるもの、夢中になれそうなものを、自分で選べるように配置すること。子どものレベルに合わせて準備すること。こういったことが環境を作ることになります。幼児教育の現場で見せるものではありませんが、むしろ多くの時間を費やしている欠かせない極めて重要なことなのです。

2019年05月14日

火事場の馬鹿力

幼児期に夢中になって満足するまで取り組む経験は貴重です。この時の子どもたちの集中力について輝きベビーアカデミー代表の伊藤美佳先生は、「火事場の馬鹿力と同じ」と言われています。火事のような切迫した状況で、普段では想像できないような力を無意識に発揮することが、火事場の馬鹿力です。それぐらい、ものすごい集中力が発揮されるのです。
子どもが集中している時、子どもを見守る大人は、「決して話しかけない、音を立てない、邪魔をしない」ことが大事です。真剣な顔で取り組む時に、中には鼻水を垂らして没頭する子もいますが、話しかけたり拭いたりしない方が子ども為です。
私は、幼児期の一人遊びは、大人に勧められてお友達と遊ぶよりも遥かに重要な遊び体験だと思っています。幼児期に火事場の馬鹿力に喩えられたような集中力を発揮する経験を沢山することは、必ず将来、取り組むべき、避けてはならない課題を担う基礎となる力となります。人間はやりたいことをやって力を育み、やりたくないことであっても責任をもって取り組むことで大人となるのです。
子どもを褒めることは大切なことです。しかし、褒めるタイミングの方が褒める量よりもはるかに重要です。集中力を発揮している子どもを褒めても、子どもにとっては迷惑でしかありません。本当にやり抜くべきことが中断され、出来なくなってしまうからです。
幼児期に自分の世界に没頭することが、結局、自立を作ります。いつまでもママにやってもらっては自分でできませんし、自分でやろうともしません。言われたとおりにするだけでは伸ばしようのない能力が人間にはあるのです。
幼稚園に、掃除をする身としては困ったところに毎日砂を山のように運んでくる子がいました。何度担任の先生が注意してもやめないので、いっそ掃除の仕方を工夫した方がよさそうだ、と発想を変えてやらせてみたところ、一週間も続けたらその「遊び」をやらなくなっていました。たとえ大人から見るといたずらにしか見えなくても、子ども自身が決めてやっていることです。何らかの育ちの欲求が子どもを動かしていたのです。子ども自身が、今ここで必要だと求め、決めているとき、育ちにおける「火事場の馬鹿力」が発揮されています。

2019年05月17日

サポートのさじ加減

集中して取り組んでいる子どもをそっとしておくことは大切ですが、同時にうまくいかなくて困っている部分があったら、適切なサポートをすることが必要になります。
物事をやるにはいくつかのステップがあります。例えば折り紙を折る時に、折工程が10あるとします。折り順にそって6までは自分でできるけれども、7がうまくできなくて集中力が途切れることがあります。その7「だけ」を教えることがサポートになります。7を教わったらまた自分で完成させたいのに、結構大人は7だけでなく最後の10まで「やってあげて」しまいます。大人が仕上げて「できた!」と喜んでも、子どもにとってはうれしくありません。
作ってもらった素晴らしい折り紙よりも、大人から見たらまだまだ下手くそでも最後まで子ども自身が完成させた折り紙の方が子どもにとってはるかに価値があります。サポートはお世話をすることとは違います。
もう少し加えますと、「やり方」を教えるときには、できるだけ「言葉を使わない」で伝える方が良いです。言葉は子どもにとって使い始めたばかりの思考ツールです。言葉と動きと両方で教えられると、言葉の方に意識がいきます。しかし、幼児期の取り組みの多くは「できる」大人の真似をすることで体得します。字を書き始めた子どもが文字をひっくり返した「鏡文字」を書くのも、真似をするからです。鏡文字は書こうとすると難しいのに、子どもは器用に鏡文字を書きます。それぐらい、動きを真似ることが得意な時期なのです。動きを真似るときの集中力は、言葉を理解しようとするときの集中力と比べ物になりません。子どもに説明している自分の言葉を分析すると分かるのですが、動きを教えようとする言葉は難しすぎる単語になるか、抽象的すぎるものになっています。そこで、「見ていて」と指示して、ゆっくり、ていねいに、黙ってやるほうが効果的ということになります。
上記の折り紙であれば、出来ないで困っている折り方だけを黙って見せて、子どもにまた折り紙を返してしまうというのが、良いさじ加減のサポートです。

2019年05月22日

じゃれつき遊び

子どもたちは大人にじゃれつくのが好きです。幼稚園では、毎朝正門で「おはようございます」と子どもたちと挨拶をします。正門のところに立っていると、必ず外遊びに出てきた子どもたちがじゃれついてきます。私によじ登ろうとする子、足にしがみつく子、様々です。私が体をゆすったりして動くたびに「キャー」と歓声をあげます。
じゃれつき遊びは大事な遊びの一つです。スキンシップという意味でも、身体の発達、運動能力の発達、そして精神の発達においても大きな力を持つ遊びです。幼児期のこれらの発達に、「手指」運動が良いということはご存知の方も多いと思います。指先を使うことは、脳に大量の刺激を与えます。しかし、もう一つ幼児期に大事なのが、「腕脚」の運動です。
日本体育大学名誉教授であった正木健雄先生(故人)が、「脳を鍛えるじゃれつき遊び」(小学館)という著書で、「じゃれつき遊び」を詳しく解説されています。
先生は、じゃれつき遊びを保育の中に意識して取り入れている幼稚園の先生方の証言として、じゃれつき遊びが一番子どもたちの「目がキラリと光る」という言葉を紹介しています。正木先生は「目がキラリと光る」のは、大脳の前頭葉がとても働いている時の現象だと言われています。正木先生は何年もじゃれつき遊びをした子どもたちの前頭葉の働きを調査されました。その結果は予想を超えるものだったそうです。
通常、幼児期の子どもの遊びは「興奮」に傾きます。前頭葉の発達の順序が「興奮」を発達させることが先行するからです。幼い子どもが興奮すると収まらなくなるのは、実は成長過程としては当然のことなのです。その後、幼児期を超えて、青年期まで時間をかけて興奮を抑える「抑制」を発達させていきます。ところが、じゃれつき遊びをする子どもたちの前頭葉では、興奮を発達させるだけでなく、抑制の強さも一緒に発達させていることが分かりました。これは「大人」の脳に近い活動がされていたということです。
じゃれつき遊びによって興奮と抑制の両方がバランスよく刺激された後、何が子どもたちにもたらされるでしょうか。それは極めて高い「集中」です。
正木先生は、じゃれつき遊びは直ちに子どもたちを賢くする遊びではないが、この遊びで育った子どもは素晴らしい集中力が育てられると言われます。それは幼児期を超えた向こうに広がる少年青年時代の学習と体験の野で本物の力を発揮します。
じゃれつき遊びをする子どもは夢中で、何度も同じことをするように要求します。心から満足して「あー、疲れた!」とキラキラした顔で言うまでやめようとしません。大変ですが、おすもうやレスリングのような「腕脚」を動かし、刺激を得るじゃれつき遊びは、子どもたちにとってあらゆる意味で最高の遊びの一つなのです。

2019年05月24日

ダメと言われるほどやりたくなる

動きが活発になったお子さんに一日何回ぐらい「ダメ!」と言っているでしょうか。多分、ほどんどの場合、効果がないのではないかと思います。というよりも、ほぼ効果はある特殊な場合を除いてゼロでしょう。
なぜなら子どもは「ダメ!」と言われるほどやりたくなるのです。なぜなら、「脳には否定語が通じない」からです。例えば、私は蛇と虫では、虫の方が苦手なタイプです。そこで、「虫のことは考えないで」と言われると、むしろ苦手な「虫」がすぐに頭の中に浮かんでしまします。つまり、「~しない」、「ダメ」という言葉を言われても否定の効果はまずゼロなのです。大人は「ダメ」とされていることを表に出しませんが、子どもは「思考=行動」あるいは「思考=おしゃべり」ですから、この点がさらに顕著に見られます。
そこで、子どもに「ダメ」を伝えるときの最も良い手段は、肯定することでしてほしくない行動から遠ざけるということになります。例えば、机の上にのってほしくないのであれば、「この椅子に座ってね」とか、「この台の上はのってもいいよ」と、肯定的な代替案を示すことです。走ってはいけないところでは、「ママ(パパ)と一緒に歩いてくれるかな」と示し、大きな声を出してはいけないところでは、わざと耳元でこしょこしょと「内緒話をしようか」と語りかけるといった具合です。その際に「ちょっと難しいけどできるかな・・・」と切り出すとさらに子どもは指示を聞いてくれることが多いです。ただ、子どもは次々と新しく出来ることを求め続けているので、「出来てしまった代替案」では通じなくなります。大変ですが試行錯誤しながらいろんな言葉をかけなければなりません。
「ダメ」という言葉は、聞いた瞬間に脳の思考を停止させます。そのため聞くべき言葉が排除されてしまうと思ってください。「ダメ」がきっかけとなって、その後の話を、「聞く必要のない話」と判断するようになります。
「ダメ!」の通じる唯一の例外は、危険に近づこうとする子どもの行動を「停止」させる時です。その時には、「そんなことをすると怪我をするかもしれないよ」ではなく、はっきりとお腹に力を入れて「ダメ!」と言ってください。その際に説明の言葉はいりません。子どもが停止し、危険から遠ざけたところで子どもの緊張をほぐしてから、丁寧に説明してあげてください。

2019年06月03日

子ども専用のスペース

私たち大人は、子どもに伸び伸びと遊んで欲しいと思って広いスペースを準備します。外で走り回ってサッカーをしたり、鬼ごっこをして遊ぼうというのであれば、広い空間が必要となります。しかし、それ以外の遊びでは、子どもが必要とするスペースは、私たち大人が抱くイメージよりもずっと小さいものです。
砂場で熱心に遊んでいる子を観察すると、一人の子が砂場全体を使って遊ぶということはまずありません。しゃがんで自分の手の届く範囲で熱心に砂をいじっています。幼稚園では落書きのためにチョークを用意しています。落書きを地面に書く時にも、チョークで書ける床面スペース全体を使う子はほとんどいません。おままごとのスペースもよく見ると広げたシートの片隅でわざわざ集まっています。
それなのに何故広いスペースが必要と感じるのかというと、子どもたちの遊びが次々と変わるので、それに伴って場所を移動するからです。おままごとをしていた子どもが、おままごとを放って別の場所で木登りを始めます。やがて、またおままごとに戻ると、次は上り棒に行ったり、鉄棒に行ったりという具合です。実は遊びを単体としてみると子どもの遊びが支配できるスペースは大変小さいのです。
子どもは意外と狭いスペースで落ち着くものです。それが子どもにとっての「自分の場所」として支配できる範囲を意味しています。幼稚園の教室いっぱいに広げられたおもちゃをかたずけるのは、子どもにとっては重労働です。しかし、狭い場所を指示して、「ここがAちゃんの場所だよ」と教えると、その場所の片づけはその後、指示されなくても自分からできるようになります。
ご家庭のリビングなど、大人のスペースは子どもにとって大きいので、その中に例えば体格に合わせた幼児用の机と椅子を用意して、「ここがあなたの場所」として与えてあげると、そのスペースの中で遊び、そのスペースの中の片づけをするようになります。朝起きると、まず「自分の場所」に行っておもちゃを取ってくる、自分のカバンを取ってくる、といったことも出来るようになります。
「子ども部屋」は、体格の小さな子ども時代には広すぎるスペースであることがしばしばです。結果として「片づけられない」、「整理できない」と叱られるより、子どもに合わせた「狭いスペース」を与えた方が良いことが多いのが幼児期です。

2019年06月04日

やりたいことをやる力

子どもにとって「やりたいことがやれる(挑戦できる)」というのは大事なことです。
西荻学園幼稚園では、園庭の外遊びの時に、様々な園庭遊具の他に、ボールや三輪車、ペダルなしの自転車、手押し車、手先を使うおもちゃや工作の材料、図鑑などを準備しています。砂場のおもちゃも多くありますし、木登りに挑戦できる木も、虫探しをする藪もあります。そして、先生たちがいます。
しかし、「羊を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」というように、やりたいかやりたくないかという自分の欲求に従って「やらない」を選ぶのであればそれはそれでよいのです。しかし、本当はやりたいのにやろうとしない子がいます。欲求に勝る「ストップ原因」があって、本当は求めていることができなくなっているのです。
ストップ原因は様々にありえます。しかし大きく分けると2つです。一つは、やりたいことをやると「怒られる」、「間違える」ということへの恐れです。もう一つは、「やって」と言えばやってもらえる環境に浸ってしまって、真っ先に自分では「できない」と判断してしまう場合です。
子どもにとっては全てが遊びのカテゴリーに入ります。朝の支度も、お手伝いも、子どもにとっては遊びです。本来遊びには「もう一回!」、「できた」、「もうちょっと」があるのであって、失敗しながら成功に進んでいくものです。
しかし、大人である私たちは「ちゃんとできないといけない」、「早くできないといけない」という遊びの基準から外れたところで子どもの行動を判断してしまいます。そのために、子どもがやっている途中で「ダメじゃない」と声をかけ、子どもから取り上げて代わりにやってしまいます。叱ってしまうこともあります。結果として、子どもは失敗すら経験できないということになります。
繰り返しますが、子どもは失敗して上手になっていきます。失敗の経験を取り上げらるから、次もできないのです。やらせてもらえないと楽しくなりません。チャンスを与えなければ満たされることはないのです。自分でできれば充実感があり満足できるのに、遮られ、取り上げられることが常態化すると、自分を出せなくなり、「やりたくてもやれない」という子になってしまうことがあります。
「ダメ」と言われて行動と思考が停止し、取り上げられて自分で答えを見つけることができないのは、子どもの自尊心を脅かします。やがて言わないとやれないということが起こり、しかも成功経験がないので、出来ることを応用して発展させたり、行動を予測したりといったことも難しくなります。
確かに何度か失敗を経験させなければなりませんが、子どもがやりたくてやる行動の成長は驚くほど早いので、できたことを認めてあげて、次のステップに子どもが進んでいくことを促す方が上手にできるようになります。結果として、何度も同じことを言ったり、何でもやってあげないといけないということから大人は解放されます。そうなれば、大人にとっても子どもにとっても幸せなことだと思います。やりたいことをやる、という子ども本来の力を発揮することができます。

2019年06月05日

使いやすければ、できる

キリスト教会には幼稚園を併設している教会がいくつもあります。牧師の関係でそういった教会へ行くと、お願いして幼稚園を見せていただきます。どの幼稚園も様々に子どもたちの環境を工夫しておられます。
ある幼稚園では子どもたち一人一人に自分のぞうきんを用意していました。子ども自身で拭くためでした。子どもが水をこぼした時など、「ぞうきんを取りに行こうね」と声をかけると、自分のぞうきんを持ってきて自分で後始末をするようになるそうです。子どもと一緒にぞうきんで水を拭き、洗って、絞って、干すところまで一緒にやって教えると、やがて何も指示しなくても自分でぞうきんを取りに行き、自分で拭いて、洗って、干すようになるのだそうです。
子どもが失敗したとき、叱ったり、注意したりするのではなく、「対処」を教えるということが大切なのだと教えてもらいました。失敗した時を、「対処」を教える機会と考えて、最初にきちんと教えると、同じことがあった時子どもは自分で対処できるようになるのです。
失敗したということは子どもにもすぐに分かります。いけないことをしたと自覚しています。その時に、叱られるとやがて大人の声に耳を貸さなくなります。聞こえないふりをして無視をします。不愉快だからです。これではいつまでたっても子どもは成長しません。成長とは、失敗を経験して対処を覚えて得られます。
子どもに対処を教えるときに、先ほどの園が用意されていた道具が、「自分のぞうきん」でした。最近は、ぞうきんも手軽に購入することができますが、購入できるぞうきんは幼児の手には大きすぎます。使いにくいのです。使いにくいとうまくできませんから、やりたくなくなります。それでは対処が身につきません。そこで、子ども用のものは、子ども用に工夫することが大切なことになります。ぞうきんであれば、子どものてのひらのサイズに合わせることが大事です。大体大人サイズの4分の1ぐらいです。このサイズですと、子どもの手で握ると絞ることができます。
子どもにとって失敗もの対処も「遊び」となれば、楽しく覚えていきます。やって見せ、一緒にやって、最初に子ども用の物を準備して丁寧に教えると、子どもはどんどん「大人の仕事」をやってみたくなるものです。先ほどの園で工夫されていた子どもの「自分のぞうきん」などは、取り入れてみると良いと思います。

2019年06月06日

見て、考え、言葉を得る

朝の挨拶をしている時、必ず「お話」をしてくれる子がいます。今日の気持ちや出来事をお話ししてくれます。挨拶の順番を待つ子もいますが、できるだけ目線を合わせて話を聞くようにしています。わざわざ教室から私のいる事務室にやってきて、些細な出来事を報告してどう感じているのかを話してくれる子もいます。お当番の時はもじもじして声の出せない子が、今見たことを話す時にはイキイキとした声で話をしてくれます。子どもにとって、今見てきたことをすぐに言葉にして伝えたいというのはとても大きな欲求なのだと知らされます。大きな欲求であるということは、大きな育ちのチャンスを持っているということです。
幼児期の子どもは、基本的に「見ているもの」について考えます。大人のように、景色を眺めながら明日の予定を考えるということはしません。つまり、子どもが見ているものこそ、子どもが言葉を得るための教材になっているということです。
見ているものを言葉と結びつけることは重要な積み重ねになります。そこからさらに進んで、目に見えない感情を言葉化することは、見て、心動かされた子どもの視線を察知し、そこに共感した大人の言葉が与えられる中で蓄積されていきます。
四六時中子どもの表情を観察するのは不可能ですが、もしも子どもが「あ!」という表情を見せた時、見入って心奪われていたならば、子どもに共感し、「言葉」を与えるチャンスです。感情、感動は何もしなくても勝手に育つものではありません。子どもが見た事象に対して、共感してくれる人の心と言葉が子どもの感情と感動を育てます。
「まだ小さいからわからない」ということはありません。乳児の頃から子どもは驚きや美しさ、すばらしさを感じています。ただ、見た事象、感情や感動を、大人と共有するための言葉をはじめとする表現と伝達手段を得ていないのです。
そこで実は、子どもを感性豊かに育てようとするならば、子どもの感情と感動に対してどれだけ豊かに大人が共感し、多彩な表現を伝えることができるかというのが一番重要なことになります。
そして、やがて子ども自身が自分で言葉をもって感情や感動を伝えるすべを得たならば、今度は大人が黙る時です。子どもの気持ちを先回りして察して語り掛ける必要はありません。自分自身を伝える子どもの言葉を大人の眼差しの中で見て、子どもの言葉を聞き、「そうなんだ」と答えるだけで十分です。多少間違っても、直ちに訂正はしないで、話したいという子どもの欲求を満たしてあげてください。そういう機会を重ねると、不思議なほどに子どもの言葉は多彩に、そして深みを増していきます。

2019年06月07日

言葉以外のコミュニケーション

子どもと接するときに、言葉によって伝達することは大切です。「どうせ分からない」と思わずに、丁寧に言葉をかけることで子どもの語彙も広がっていきます。そして同時に、言葉以外の伝達手段も用いることも重要なことだと思います。
幼稚園に入園してくる子は学齢3歳の子たちです。3月に3歳になったばかりの子もいて、言葉の発達の様子はみんな違います。なかなか言葉が出なくて心配されている保護者の方もおられます。そんな時に、コミュニケーションは言葉だけではないことを知っておくと、ぐっと気持ちが楽になります。
言葉を促すと言っても、言葉をかけることだけが手段ではありません。「何を話そうか?」と困ってしまうかもしれません。そんな時に、前後関係も複雑な意味もなく、ただ「コミュニケーションをとる」ことだけを目的として、子どもを誘うのに手指コミュニケーションは赤ちゃんの頃から使われます。子どもに向かって手や指を使ったコミュニケーションや手遊びを歌ったり、話しかけたりしながら併用することで、子どもに伝わる情報の幅は大きく広がります。一緒に手遊びをすれば脳も刺激を受けます。
コミュニケーションは、「話す」、「書く」だけでなく、「表情」、「歌う」、「描く」、「演じる」、「動く」など表現手段は様々です。そういう手段が沢山ある方が、子どもの捉える「意味」の世界に多層的な経験が加わると思います。語彙力や感受性が育っていきます。言葉は充当ですが、伝達手段のひとつに過ぎません。
これは逆に、子どもから大人へ自分の思いを伝えるときに言葉だけではない手段を与えることになります。語彙力の乏しい年齢の子も、精一杯話しかけているのに分かってもらえないとイライラするでしょうし、悲しいのは大人と一緒です。これからの時代、様々なツールの発展で世界中の人と出会う機会はますます増えるでしょう。そのような時代に生きていく子たちが様々な伝達手段を多層的に経験し、コミュニケーションの深みと幅を育てることは重要だと考えています。

2019年06月10日

ケンカの仲裁はしない

子どもが一緒にいれば、間違いなく諍い、ケンカが起こります。子ども同士のトラブルは成長のために必要な経験です。ケンカは怪我に繋がる、ということで直ちにやめさせたり、大人がどっちが正しい、どっちが悪いと決めてしまうと、子ども同士で解決する経験を持てません。ケンカも立派な社会経験であり、人間関係の経験であり、自己主張と共有と譲歩の経験です。どうしたら子どもたちを暴力ではなく、解決に意識を向けられるでしょうか。
ケンカが始まると、子どもは大人の仲裁を期待するところがあります。しかし、大人の仲裁に納得できるのは、ケンカをしているどちらかの側の子で、「あなたが悪い」とされた子は納得いきません。大抵の場合、大人はケンカが始まってから子どもに注目しますから、ケンカの原因について実は見ていないことが多いのです。この辺を計算して言い訳を始めるという子も現れます。いかにすれば大人を味方につけられるかを学んでいる子です。そこで、「ケンカを見るのは気持ちが良くないので、ケンカは外でやってください(あっちでやってください)」と伝えます。子どもを脅してはいけません。冷静に伝えます。ケンカを止めてもらえず、大人を味方につけられず、外に出されてしまうとなると、子どもたちは途端に「ヤバイ」と思うようです。そこで話し合いが始まることが期待できます。もちろんこれは万能の手段ではありませんが。
基本的に、子ども同士のトラブルは手加減のない暴力に発展しないよう気を付けなければいけませんが、大人は我慢して「見守る」のがベターです。お友だちと遊ぶようになった子どもには少しずつ確実に解決能力が育っています。

2019年06月15日

うちの子インタビュー

人と人が話をする様子を日本語は多彩に表現します。「会話」や「対話」、「談話」という具合です。それぞれの違いはお分かりになるでしょうか。
「会話」は二人または数人で話をすることをいいます。一方、「対話」は二人の人が向かい合って話をすることをいいます。会話は取り留めのない話なども含みますが、対話は信頼関係を築くためのコミュニケーション、という意味合いが強いようです。このうち「対話」について、大変良い示唆をいただきましたので紹介します。
「あなたも名探偵」という児童文学シリーズの作家である杉山亮さんが、「子どものことを子どもにきく」という本を著しておられます。その中で、杉山氏は息子さんが3歳から10歳になるまでの8年間、年に1回、「インタビュー」をしてきたことが紹介されています。この杉山氏から、子どもと対話するときの心構えを紹介します。
1. 子どもだから面白いことを言うと期待してはいけない。
2. 子どもだから尋ねてもわからない、と甘く見ない。
3. 大人に都合の良いところに誘導しない。
4. 大人が既に答えを知っていることをわざわざ尋ねない。
5. まとめようとしない。
6. 相手の全力に応えて、わからないことは「わからない」、知らないことは「知らない」と言う。
杉山氏は言われます。「自分の思ったこと、感じたことをそのまま言えるようになることは、悟ることに匹敵するほど大きな力だ。知識のためでもなく教育のためでもない、静かでしかし楽しい対話を大人と子どもの間で始めよう。」
子どもの未来に心から関心をもって、同じ人間として尊敬を抱き、対話ができる関係を築きたいと思います。

2019年06月27日

習慣を得るために

月曜日の朝は、登園してくる子どもの中に明らかに不機嫌な子がいます。普段と違う週末のスケジュールを過ごして寝不足になっていることが多いです。幼児期の子どもにとって十分な睡眠をとることは、場合によっては食事よりも優先させなければならないくらいに大事なことです。
しかし、なかなか子どもが寝てくれない、という悩みを持つご家庭も多いと聞きます。睡眠は習慣ですから、原則は「一定」であることです。寝る時間を一定にし、起きる時間を一定にします。その際に、寝る前15~30分を絵本を読んだり子どもとお話しをして、子どもと向き合う濃厚な時間を過ごし、時間になったら寝るということを習慣にされるのがよいでしょう。
統計を取ったわけではありませんが、意外と多くの家庭が寝る時間を決めていなかったり、布団に入ってから親が遊びに付き合ってしまったり、ということで「一定」していないことが多いように感じます。本当は、布団に入ったら子どもに何を要求されても相手にせず、つまらない感じで、鈍い反応しかしない、という方が子どもの寝つきのためには良いのです。ただ意外とこれができないのです。
出来ない理由はなんでしょうか。その大きな要因は罪悪感ではないかと思います。親はとても忙しいです。朝は、慌ただしく幼稚園に送り、幼稚園の後も気がつけば、「早くしなさい」、「ちゃんとしなさい」、「~をして」、と指示や命令ばかりとなりがちです。そのためちゃんと子どもの相手をしてあげられないという後ろめたさを感じられるのでしょう。子どもも親との時間に満足していないので寝る前にいつまでも遊ぶことを要求します。
寝る前に濃厚な15~30分を子どもと過ごすのは、親がその日の子どもとの時を後悔しないためでもあります。そうして一定の「これ以上はできない」という枠を親がきちんと決めて伝えておけば、子どもは自分でスケジュールの中で動くようになります。
後ろめたさや罪悪感のために、様々な場面で知らず知らずのうちに家庭の主導権を子どもが握ってしまうことがありますが、「寝ると言ったら絶対なんだ」というような主導権はしっかりと親が持つことで子ども自身が「自分の習慣」を獲得できます。

2019年06月28日

子どもとリクエスト

素敵なかかわりを感じさせるお話を伺いました。ある子煩悩と言っていいお父さんと子どもの日常の風景です。
子どもたちとテレビを見ている時に、子どもたちが「お父さん、テレビの音が小さい」といお父さんに言います。お父さんは「ああ、そう」と聞いてそのままにすると、「お父さん!テレビ!」と子どもが言います。そこでお父さんはこう言うそうです。「不満には応えられないけれど、リクエストなら聞きますよ。」すると子どもたちははっと気が付いて、姿勢を正して「お父さん、テレビの音を大きくしてください」と言います。そこでお父さんは「はい、いいですよ」とすぐに音量を大きくしてあげるそうです。
本当にありふれた日常の風景ですが、ただ不満を言うのではなく、自分の願いを相手に伝えるという会話に、惹かれるものがありました。自分から責任をもって人と関わる習慣の一つがリクエストです。それを通して自分の目標が遂げるというのは立派な「おとな」の姿勢です。
反対に、大人から子どもにリクエストするときにはどうしたらいいでしょうか。西荻学園幼稚園では「聞く」ことを大切に教えます。というのも、子どもは聞こえていても、「聞いていない」ことが多いからです。
これはシュタイナー教育を軸にされている幼稚園の園長とご一緒したときに伺ったことです。この園長先生の幼稚園では、昼食は給食を準備されています。昼食後、お皿を洗って片づけるという約束になっていました。
ある子がお昼を食べ散らかしたままで遊び始めました。先生は、その子の耳元で「テーブルを片付けてね」とリクエストします。子どもは「うん」と言って遊び続けます。少し経つと先生はまた耳元でさっきよりも小さい声で「テーブルを片付けてね」と言います。その子は「うん」と言い遊び続けます。5回目に先生が耳元でその子だけに聞こえるように「テーブルを片付けてね」と言った時に、その子は本当に聞こえたようで、お皿を洗って、すべてを片づけたそうです。そして、先生に「全部片づけた」と得意げに告げる子に、先生はにっこり笑って「ありがとう」と伝えました。
シンプルに繰り返すのは時間がかかって手間だと感じられるかもしれませんが、実感としては繰り返さなければならない回数はむしろ少なくなるように感じています。
子どもは聞こえていても、聞いていません。その時に、命令でもなく、相手の罪悪感や焦燥感を煽り立てるのでもなく、ただシンプルにリクエストを繰り返すところに、教育者の力を感じます。

2019年07月05日

言葉と心の違い

子どもは言葉で言っていることと思っていることが違うことが多いものです。
「幼稚園に行きたくない!」と言われたら、どうされるでしょうか。「行かないとダメ!」「何を言ってるの!」と咄嗟に言ってしまうかもしれません。
子どもが困ったことを言う時には、「助けてほしい」という気持ちがあります。それを上手にあらわしたり、説明できないので、「イヤ」という言葉になってあらわれるのです。
「幼稚園に行きたくない」という言葉の裏に、苦手な体操があるからかもしれません。お母さんと一緒にいたい、という気持ちがあるのかもしれません。それを「行かない!」という言葉でいっているかもしれないのです。
こういうときは、まず子どもの気持ちに共感することから始めてみてください。幼稚園に遅刻してしまうと焦られるかもしれませんし、子どもを送った後予定があって焦られるかもしれませんが、共感してあげることが最も時間的にも早く解決することが多いです。
「そう、行きたくないのね」と共感してあげてから、しばらく何も言わないで黙っていましょう。その際、正面に立つより、横に寄り添って同じ方を見て子どもが言葉を発するのを待ってみてください。
子どもは自分がやらなくてはならないことを十分に理解しています。しかし、それでもままならない気持ちに揺れています。だから、「どうして?」、「何で?」と問い詰めずに待ってみてください。少しずつ「イヤ」以外の言葉を話し始めます。
大事なのは、子ども自身が気持ちを外に出すことですから、慰めたりアドバイスをしたり、焦って「どうするの?」と選択を迫らないことが大事です。とにかく子どもに言葉を出させてください。そして、「そうなんだ」、「うん、わかるよ」と共感します。共感は同時に子どもを観察することです。本人が表せない不調があるかもしれません。
アドバイスや慰めというのは、実は事情を早く終わりにしたいと思っている側の逃げ道なのです。だからこのような時には、子どものためにはならない、と思ってください。子どもは自分でやるべきことへと踏み出す力があることを信じてみてください。そこで子どもの考える力が育っています。

2019年07月11日

声かけ無用

子どもが何かに集中していたら、声をかけるのは禁物です。
一生懸命に工作をしたり、絵を描いたり、逆上がりに挑戦していたら、声をかけてはいけません。「何をつくってるの?」とか「上手だよ」とか言いたくなりますがやめておきましょう。
大人でも仕事に集中している時に話しかけられたり、電話やLINEが入ったら集中が途切れて仕事が続かなくなることがあります。子どもにとってはそれ以上に困ってしまうのです。
子どもはごっこ遊びが好きです。そこでは、ただの木切れがケーキになったり、互いがヒーローになりきって遊びます。イメージが投影されるのです。独り言を呟きながら活動することも多くあります。集中しているからです。活動をするときにイメージがとても重要で、時には声に出すことでそれを補い、活動のストーリーを思考しているのです。
ところが、そのように集中し、夢中になって遊んでいる子どもに声をかけると、活動を中断させられます。そうすると、イメージがなくなってしまいます。「次はああして、こうして」と、先のことまで考えてフル回転していた思考が止まってしまいます。
子どもは好きなことを集中してやることで満足を得ます。この満足感で得られるものと、褒められることで得られるものは、かなり違うのです。子どもが求めてきたときに、求めてきたことだけに応える、という姿勢を基本にするといいと思います。
ですから、子どもが求めてきたら応えてあげます。集中して描いた絵を「見て!」と持ってきたら、その時に褒め、「何を描いたの?」と尋ねましょう。子どもがどんなイメージとストーリーの中で遊んでいたかを知ることができて、なかなか面白いです。スマホを見ながら「ああ、そう」と受け流すのはもったいないことです。

2019年07月12日

間違いを指摘するタイミング

子どもたちのためにご家庭でおもちゃを準備することがあるでしょう。幼稚園でもおもちゃを準備しています。おもちゃには遊び方の決まっているものが多くありますが、幼児が取り扱い説明書を読んでおもちゃで遊ぶということはありません。感性で遊び方を捉えて勝手に使っています。
それが知育玩具のようなものであると、与えた大人は「違うよ、こうやって遊ぶんだよ」と間違いを指摘したくなります。ルール通りの方が「正しい」遊び方だという先入観があるからです。さらにルール通りにすることで「知恵がつく」と思うからです。しかし、こういう場合は間違いを指摘せずにいましょう。子ども自身が間違いに気づく時がくるからです。子ども自身が間違いに気がついてルール通りにした時に、知育玩具は初めて本来の想定している可能性に向かいます。
年中から年長の頃には、文字を書き始める子がちらほら見られるようになります。よく見られるのが「鏡文字」です。その際に、目指したいのは「自分で気づく」ということです。自分で気づかせるには工夫が必要ですが、例えば見本と合ってるかどうかを自分で丸付けをさせてみたりするといった方法があります。できるだけ子どものプライドを尊重することで、嫌になって文字そのものを敬遠させないことが大事です。
そして、これが一番根気のいるところですが、間違いに気づく工夫をしてもなお気がつかないときは、「まだ、間違いに気づく段階に達していない」ということですから、待たなくてはなりません。間違いに気づく段階に至らないと、「違うよ」と言っても理解できないのです。
考えてみれば、大人同士でも間違いを指摘することは大変デリケートな行為です。プライドが高く、これから成長をしていこうとする子どもを相手にするときには、なおさらデリケートかつ根気が必要になります。

2019年07月13日

降園後の保育室

子どもたちが降園した後の保育室やトイレは、その日の子どもたちと教師たちの興味や関心、工夫や戸惑い、気持ちの落ち着きや苛立ち、満足したこと、やり遂げたこと、そんな沢山のことを感じ取らせてくれます。保育時間は園長が保育室内をうろうろしていると子どもたちの集中が切れてしまうことも多いため、直接保育室内に入ることはできるだけしませんが、降園後は、すべての保育室とトイレを見るようになりました。
同じことをしている方が他にもおられました。玉川大学准教授で東一の江幼稚園園長の田澤里喜先生です。先日届いた日本教育新聞に記事を寄せておられ(2019年7月1日)、こうした保育室の変化に気づくところに、保育の質向上につながる可能性があると書いておられました。
保育の質を高めるには、教材の工夫はもちろん必要です。しかし、いつ、どんなことに興味を抱き、どんな風にアプローチをするのかを想像した環境の工夫も大切です。子ども疑問や好奇心は待ったなしです。
朝、すべてのクラスの保育日案を確認します。変更があれば報告されますので、何も報告がなければ保育日案を軸に保育活動がされたことが分かります。しかし、降園後の教室に残っているのは、保育日案の成果だけではありません。
空き箱を長く長く繋げて作った力作が残っています。あまりにも長くなったので自転車で登園している子は持ち帰れなかったのです。これを作った子にとってアプローチは終わっていません。さて、どうやって持って帰るのでしょう。その工作が他の子に壊されないように置いてあります。
「今、子どもたちは記号に興味を持ってるんです」と言った教師の担任している教室の扉には、子どもの目の高さにカラーコピーした記号が掲示してありました。その成果は、危ないところ、子どもが触ってはいけないところに黄色い画用紙で作った「危険」マークをつけると子どもどうして「触っちゃだめだよ」と教え合う姿に繋がりました。子ども同士が教え合うことは、確実に子どもを成長させます。
羽アリが飛ぶ季節に羽アリを捕まえてきたので、子どもたちで考えたアリの名前の書かれた飼育箱がアリのように装飾されて置かれました。ただ飼育箱を置くのではなく、ちょっとした工夫を加えてくれることで環境が子どもたちのアプローチを迎えることができます。今年のたなばたの短冊に、「アリがいつまでも元気でいられるように」と願って書いてもらった子がいました。その子のアリへの関心と優しい心を迎える「見える環境」が準備されたからです。
ちょっとしたことでも環境として見えるようにすることで、子どもの興味や関心は育ちます。子どもが登園したときと子どもが降園した後で教室の環境が変わっていく幼稚園を嬉しく思っています。

2019年07月16日

「希望の松」から学んだこと

東日本大震災の後「希望の松」とタイトルをつけられた一本の松の写真が新聞に掲載されました。七万本の松林が津波によって流される中で、耐え抜いた一本の松は、希望の象徴として紹介されました。
撮影されたのはフォトジャーナリストの安田菜津紀さんです。安田さんは義理のお母さまをこの津波で亡くされました。被災地を訪れた時、あまりの光景に何をしたらいいか分からない中で、唯一シャッターを切ることができたのが「一本松」だったそうです。「希望の松」として人々の希望の象徴となった時に、「良かった。陸前高田のことが伝えられる。私にも何かできた気がする」と思えたそうです。
しかし、この写真の掲載された新聞を身近で傷ついている義父を励ますつもりで見せた時、言われました。「何で、こんな海の近くに来たの?余震が続いているんだよ。もう一度同じ揺れが来て、同じ波が来たらどこに逃げるつもりだったの?」そして続けて言われました。「あなたは七万本の松と一緒に暮らしてこなかったから、この残された一本の松は希望の象徴に見えるかもしれない。だけど自分たちにとっては、津波の威力を象徴するもの以外の何物でもない。できれば見たくない。」
そのとき安田さんははっとしました。自分は一体誰を大切にしてシャッターを切っていたのだろう。どうしてシャッターを切る前に、ここで生きる人たちの声に丁寧に耳を傾けなかったのか。このことは安田さんにとって一番大きな教訓となったそうです。
先日、園児の保護者との個人面談が各クラスで行われました。子どもたちの育ちも環境も様々で、教師たちも一学期を手探りし。試行錯誤し、様々な形で子どもたちのために幼稚園の毎日を作ってきました。ほぼすべての保護者の方々が教師たちに感謝を述べてくださいました。ありがたいことです。
しかし、中には教師の言葉を受け止められない保護者の方々もおられたようです。教師の報告を聞きながら、子どもを思い、保護者を思っての教師の言葉であったことは確かです。ただそれらの方々に語る前に、聞くことが大切なのだと思わされました。丁寧に「聞く」ことは、どんな仕事をしている者にとっても大事なことでしょうが、教師のように心が「伝える」ことに傾く者は、特に心がけなければならないのでしょう。子どもの声に耳を傾ける教師が、保護者の声に耳を傾けるときが面談の時なのでしょう。そのとき前述の安田さんのお話を思い出しました。
子どもたちの光景、エピソード、言葉や仕草。それらを見守る大人は、教師は教師として、保護者は保護者としてそれらを別々に受け止めています。必ずしも喜びや希望ではなく、教師や保護者に苦痛や悩みをもたらす事もあります。「希望の松」が多くの人には希望の象徴に見えた中で、「見たくない」と感じる人がいたように、です。教師の受け止めが絶対ではないことを心したいと思いました。その上で、一人の子どものことを大切にする仲間として並んで子どもを見つめられたら、と思いました。

2019年07月19日

「褒める」と「おだてる」は違います

大人は子どもを褒めるのが好きです。「すごいね!」、「上手だね!」、「天才!」と大げさに褒めたくなります。
ただし、子どもが夢中になっている時に褒めるのは、子どもにとって集中を妨げる邪魔になってしまうことは以前記しました。もう一つ、子どもを褒めるときに心したいのは、「大げさにやり過ぎない」ということです。
褒められることは子どもにとってうれしいことです。しかし、大げさに褒められると、その後の遊びへの集中力が削がれてしまいます。
幼稚園で子どもたちは鉄棒で遊びます。「ぶたのまるやき」、「前回り」、「逆上がり」等、褒めてもらいたくて「見て!」と先生を呼びます。見せてもらった先生も「できるようになったんだね」、「いっぱい練習したものね」と先生たちも褒めます。しかしその時に思わず「大げさに褒めて」しまうことがあります。大げさに褒められた子はうれしいですから、続けて鉄棒に挑戦します。しかし、褒められた後の挑戦が、一番怪我をしやすいのです。なぜなら、鉄棒を成功させることよりも、「もっと褒めてほしい」ことに心が向いてしまい、集中できなくなるからです。そして、痛い目を見たことに挑戦するのは、心が折れてしまってできなくなります。
子どもたちが「見て」といって誘ってくれるものは、子どもにとって「ついにできた」という自慢の技です。鼻歌交じりにできることではなくて、集中して力を発揮してようやく成功したものです。それを今後繰り返してより上手にできるようになります。その時に「褒められたいからやる」というのは邪魔な意識です。子どもにとって自分から欲して、「やりたいからやる」という経験こそがもっとも重要な育ちの機会です。
褒めるというのは、おだてることとは決定的に違います。芸を成功させたイルカにご褒美をやるのとは全く違うことです。大人が子どもを褒めるというのは、「できた」という達成感そのものを喜びとして感じられるようにするためのものです。ですから、褒めるというのは子どもを興奮させるために伝えるのではなく、短い言葉で、達成を次の挑戦のための基礎とするように安心させることを意識する方が大事なのです。

2019年07月23日

やらない子

子どもはとてもプライドの高い存在です。このことは、子どもと一緒に生きる上で大事な前提だと私は考えています。「子どもだから、いいだろう」、「子どもだから、明日には忘れてるよ」と思うのは間違いです。子どものプライドにかかわることは、余程のことがないと子どもの意識の中から取り除けられることはありません。いわゆる「トラウマ」となるのです。
幼稚園でパズルで遊んでいる子を必ず邪魔をする子がいました。その子に「一緒にやらない」、「やってみる?」と誘っても「やらない」といって逃げてしまします。しかし、しばらくするとまたやってきて、組み上げられたパズルをわざと崩したり、ピースを取って持って行ってしまうといった邪魔をします。
なぜ、そんなことをするのかというと、その子はパズルに興味はありますが、パズルをやる自信がないのです。だから他の子がしているのを邪魔するのです。
子どもは、できないことを恐れます。挑戦してできるかどうかわからないものには、なかなか取り組めません。新しいものになると、失敗するのが怖いのです。
失敗してもいい、という経験をさせたいと教師は願いますから、何度も積極的に誘います。しかし、どうしてもやらないという時には、その子のできそうな他の遊びに誘います。
その時パズルに興味を示していても、プライドが邪魔をすることがあります。そのような時には、無理強いせずに、別のやりたいことを探してあげる方がよいです。
「レディネス」という概念があります。子どもは自分自身の育ちの中で、準備ができたときに必要なものに取り組んで自分自身を育てていくという考えにつながる概念です。興味を抱いても、手の届かない時、手の出せない時はレディネスが整っていないのです。だからといって放っておいては、レディネスの整った他の挑戦の機会を逃してしまうかもしれません。レディネスの整わないところから子どもの興味を別に向ける手助けをするのも大事なこと務めです。

2019年07月25日

頼る力

自分にはできないことを自覚して、「助けて」、「手伝って」と人に頼ることができるというのも、大事な生きる力です。一人でできることには限界があり、得意もあれば不得意もあるのは、子どもも大人も同じです。
幼稚園には、何でもやってもらおうと依存してしまう子もいます。それが甘えなのか、依存なのか、それとも何をすべきか理解できていないのか、子どもたちの成長の様子は様々なので一括りに「良くない」とは言えません。しかし、人に頼ることができない子は心配になります。
これからの時代は、さらに人に上手に頼ることが「力」として問われると考えています。会社で社長だけが頑張っていても、チームのリーダーだけで仕事をしても、すぐに限界がきて、つぶれてしまいます。集まった人々が自分の役割を得て、得意な力を出し合って組織は最大の力を発揮します。助け、助けられる。それが成熟した社会ではないでしょうか。
「手伝ってほしい」、「助けてほしい」と言える「力」は、自分自身を把握する力であるのと同時に、他者を尊敬尊重する力でもあります。他者を貶めることは、動物でもできます。しかし、他者の才能を認め、尊敬し、尊重するところまで想いを高めることができるのが人間です。もちろん、人にものを頼めるのは自分のすべきことを精一杯やっているからです。何もせずに頼るのは驕った依存です。これは子どもであっても戒めなければならないことです。
子どもは向上心が豊かです。自分の能力を最大限に発揮することに喜びを感じます。そんな子どもたちに「~が得意なんだね」、「~はお任せしていいかな?」、「お願いするね」というように、持っているものを認め合えるような言葉をかけることで、子どもの自尊心は育ちます。それと共に、「何か手伝えることはある?」と聞く言葉も大事です。それを通して「ここを手伝ってほしい」と伝えられるようになります。自分自身への理解と、他者を信頼できる存在として受け止めることの両方で、頼る力が育ちます。

2019年07月30日

待つことを教える大切さ

子どもと過ごして特に多く使う言葉は「急いで」、「早く」ではないでしょうか。仕度が遅い子や、なかなか遊びを終えられずにいる子に、幼稚園の先生も「もうお友だちはお部屋にいるよ」、「みんな待ってるんだよ」と言って急かします。
周りの状況を把握して、行動を切り替えるようになることは大事な成長です。ただ今回は、待たせる子ではなく、こういった場面ではもう一方に「待っている子」がいることを考えてみたいと思います。
普通ですと、みんな揃って行動をするときに待たせてしまう子は、先述のように急かされたり、あるいは遅れたことを叱られたり、待っている皆に「ごめんなさい」と謝らせる等の対応があるでしょう。しかし、視点を「待っている子」に向けると別の事柄が見えてきます。それは、「待つことを教える」ということの大切さです。
待つことができるということは、人間の器の問題です。これは実は教育の最大課題へのアプローチではないでしょうか。
遅れてくる人にイライラして、遅れてくる人にずっと心を奪われていて、その人が到着するなり「何やってんだ!」と怒鳴る人。
誰かが遅れていても、心を奪われずに過ごし、「大丈夫、待っている間に~ができたよ」とさらっといえる人。
どちらに人間的な魅力があるでしょうか。どちらの人間と一緒にいたいと感じるでしょうか。待つことができる人とは、寛大な心をもって赦す人です。人望や魅力といった言葉であらわされる心の器を育てる方が、教育の課題として優先順位が高いのではないでしょうか。
どうせ待つなら、歌でも歌って待とうか?お話しを一つしましょうか?そんな風に「待てる人に育てる」ということは素敵なことではないかと思います。
考えてみれば、私たちはこれまで皆、迷惑を掛けたら謝るという教育だけを受けてきたように思います。しかし、私たちは誰でも迷惑をかけずに生きることはできません。待たせる子も、その子なりのベストを尽くして生きています。それならば、迷惑をかけられてもそれを受け止める器を育て、相手の事情に心を寄せることができる方が、ストレスなく健康的な生き方に繋がります。
「待つ」ということは我慢することではなく、「赦す」ことなのです。

2019年07月31日

感覚の優先傾向を知る

子どもから「~って何?」と聞かれて、答えに困ったという話をよく聞きます。分からないというより、どう説明すればいいのか困ってしまうということがあります。
先生としては、せっかく子どもが興味をもって聞いてきたので、正確に伝えようと頑張ります。その時に、ニュアンスで伝わる子と、厳密に正確な言葉の説明を求める子がいます。あるいは、答えを考えているうちに他に興味が移って質問を忘れてしまう子や、童話のような物語で説明されることを好む子もいます。
これは、「どんな感覚を優先的に認識しているか」という傾向と関係しています。
聴覚の感覚を優先する傾向があると、説明を「読む」よりも「聞く」を好みます。言語感覚が鋭敏ですと、新しいことと「意味」が結びつくことが重要になります。触覚が優先される傾向があると、手を動かすなどの動きがあると説明が理解しやすくなります。視覚を優先する傾向があると、書面や絵や図があると理解の際に大きな助けになります。これらは必ずしも一つの感覚が突出していたり、他の感覚が弱いというものではありません。あくまで、傾向があるというものです。
自分のことで恐縮ですが、私は視覚が優先される傾向にあるようで、理解の際には特に「書面」を視ることが大事です。必ずしも紙をめくる感触を必要とはしません。最近、電子書籍の優れた「読み上げ」機能を使ってみたのですが、どうしても集中できず内容が十分に理解できませんでした。聞くだけですと理解が困難になるようです。しかし、これが講演ですと、資料の書面がなくても講師を視て話しを聞くと理解できます。
自分や子どもの感覚の優先傾向を知ると、少し客観的に子どもとの距離を保って関わることがしやすくなるのではないかと思います。これはもちろん、大人同士の間でも同じです。一緒に仕事をしていて、「何でこの人とうまくいかないのだろう」というような時に、それは互いの悪意からではなくて、感覚の優先傾向がすれ違っているからかもしれません。ちょっと工夫するだけでコミュニケーションの結果はずいぶん変わるものなのです。

2019年08月02日

何かを教えたいという焦り

子どもと一緒に過ごしている時、「何か教えなければいけない」という焦りを感じることはないでしょうか。
仕事や家事がスムーズにできて、今日は子どもと一緒に過ごせる、と思って「何して遊ぼうか?」と尋ねます。例えば「塗り絵がしたい」と言われて塗り絵をしていると、「今日は天気がいいのだし、せっかく一緒に過ごす時間があるのだから、外でボールで遊んだほうがいいのではないか」、「ずっと塗り絵をしているよりも、せっかく一緒に私がいるのだから、折り紙やあやとりを教えた方がいいのではないか」。そんな風に感じることがあるのではないでしょうか。
子どもにとっては、大好きな人が一緒にいてくれるだけでいいのですけれども、何か教えなければいけないという気持ちがわいてきます。これは親に限らず、幼稚園の先生も、子どもと接する大人の多くが感じることのようです。子どもに何か一つでも新しいことを覚えてほしい。何か一つでも教えたいと思うのは、未来へと続く子どもの中に自分の存在価値をささやかであっても残してほしいという、大人となった命の焦りなのかもしれません。
人に教えるという焦りは、独特のものです。そこで自分自身の価値が決まってしまうような脅迫感があるからです。教えられることがなくなったら、もうその人と一緒にいられない。もうその人にとって一緒に過ごす価値のない人間になってしまう。このじっとりとした心の中にある、「自分自身の価値」に関わる恐れはなかなかに強いのです。
先日、ひらがなで自分の名前を書くことをはじめたお子さんから、「『る』ってどう書くの?」と聞かれたので紙に「る」と書いてあげました。この子が「園長先生、字が上手~」と褒められてしまいました。私は実際、お世辞にも字が上手ではありません。でもひらがなを書き始めた子には、「かっこいいー」となりました。恐らく、私たち大人はこのあたりでニヤニヤしながら「ありがとう」と満足するのが一番幸せなのです。そこから、「この字、間違ってるんじゃない」と指摘すると、途端にそっぽを向かれます。
幼くても、子どもたちには自分でやりたいことがあり、自分で教わりたいことがあります。大人と子どもの人間関係には、「教える・教わる」という関係とは、ちょっと違う関係があるのだと思います。

2019年09月05日

こころの癖・・・二分化

正しい/間違い、得/損、味方/敵、優/劣、美/醜、勝ち/負け等、様々な二分化をしながら世界や人、そして自分自身と関係を作っていきます。私たちには、殆ど自動的に自分と出会った対象を瞬間的に二分化して把握し、どちらかのレッテルを張って分類し、対応を探るという心の働きがあります。
幼児期は二分化に極端にこだわる時期です。たとえば、絵本を読んでいて様々な動物が擬人化されて登場すると、「この豚はいい人?」、「この猿はいい人?」、「狼だから悪者だよ」といった具合です。絵本のストーリーとは全く関係がなくても、新しい登場人物が出るたびに「いい人?」、「悪い人?」と聞いて、絵本のストーリーとは違う「いい人と悪い人のお話」を想定します。
私たちは何か新しいことに出会うたびに、それを二分化して捉えるという根強い感性があります。おそらく、かつて今のように安全がなかった時代にひ弱な人間が生き抜くためには、新しく出会うことが良いか悪いかを瞬時に分けて、悪いものであれば直ちに身を守る手段を講じなければならなかったのでしょう。突然出くわしたのがウサギかライオンか、それは自分にとって、良い/悪い、安全/危険、勝てる/負ける、そういった判断を瞬時に繰り返してきたのでしょう。今もそれは強力な自己防衛力として働いています。
ちなみに、先ほどの、絵本の登場人物を「いい人/悪い人」で尋ねてくる子には、「どうかな~」と答えています。なぜなら、きちんとストーリーの中から自分の判断で二分化を行うことが、幼児期の子どもの学びだからです。二分化がいい、二分化が悪いということではありません。
ただ自己防衛力としての二分化が、自分自身を苦しめることがあります。二分化は色んなものにレッテルを張ることです。レッテルはいつも他者に張るわけではありません。自分に「悪い」、「劣る」、「負け」というレッテルを張るのです。このレッテルを剥がして「良い親」、「良い上司」、「良い大人」であろうと、なんと多くの方がもがいていることでしょうか。
一度レッテルを決めてしまうと、「頭で分かっていても、心が納得しない」ために、いつまでも良くない出会いを繰り返すことになります。自分の子が「○○ちゃんに叩かれた」と聞くと、相手の子にもさらにはそのお母さんにもレッテルをべたべたと貼り、もはや自分で張ったレッテルの主張することが事実を歪めて、真実として力を振るいはじめます。
せめて、二分化の弊害を知って、「自分は絶対の真理を見通す裁判官ではない」、「二つに分けるのでなく、いっそ50ぐらい解釈の可能性を考えよう」という心の声を備えておきたいと思います。

2019年09月06日

事実に帰る

子どもの要求に、「それはできない」、「それはよくない」という事が起こります。子どもの気持ちはわかるけれども、その行動は良くないと思うことを、どのように子どもに伝えればいいのだろうと悩むことがあります。
 そんな時、私たちの気持ちは緊張して固くなり、ますます身動きできなくなるような感じがします。ただ黙って子どもの前にいる自分が子どもにとってひどい壁のように感じられて、嫌になってしまうこともあります。子どもの前で立ち往生してしまいます。
けれども、私たちは壁ではありません。子どもにとって邪魔な障害ではありません。どうしても受け入れることのできない事実の前で、じたばたしている子どもの支え手でありたいと思っているのです。さらに壁を高くしたいとは思っていません。
事実にはいろいろあります。
・目で見る事実
・耳で聞いた事実
・見て、聞いて感じた事実
・事実を知って私の中に起こった判断
子どもに対するときにも、正直に私たちが見たこと、聞いたこと、感じたことという事実を伝えることで耳を傾けてもらえます。事実を伝えることが一番子どもとの距離を近くするように感じています。子どもには事実を受け止めることが難しいように思えますが、伝え方によってちゃんと受け止めやすくすることができます。
 一方で、子どもの前で立ち往生しているに自分を弁護しようとすると「事実」よりも、「批判」、「忠告」、「強制」、「評価」を伝えてしまいます。子どもの隣に立つために事実に立ち戻ってみましょう。

2019年09月13日

子どもなりの覚悟

幼稚園は間もなく来年度の入園を希望される方々の面接の時期を迎えようとしています。同じく、来年度から小学生になる園児たちも、受験、入学前検診など、いよいよ小学校に行く日が近づくことを感じるようになります。
この時期、運動会という大きな行事を達成した自信で日々の遊びがグッと力強く大胆になる子がいる一方で、お友だちから離れて教師を強く求めるようになる子や指しゃぶりなどの行動が再び始まる子がいます。夏休み後に少なくなった抱っこやおんぶ、肩車などの要求も増えました。
運動会で見た子どもたちの成長に大人はさらに大きく、さらに前進を期待します。それが「もう、おにいさん、おねえさんなんだからできるでしょ」、「おにいさん、おねえさんなんだからしっかりしなさい」といった指示となって子どもたちに届くことがあります。
子どもたち自身も成長していくことを望んでいます。しかし、小学校を控えた頃の子どもの成長は不安と隣り合わせです。子どもたちは不安を抱っこやおんぶ、肩車などの接触を教師を求めたり、自分の指をしゃぶるといった行動で乗り切ろうとしています。
成長の著しい幼児期は、成長というものの持つ「これまでの当たり前が壊され、新しい常識が獲得される」という側面が特に強い時期なのだと思います。この成長の中を前進する子どもたちの感性は、自信と不安の中で不安定になるのも仕方のないことです。
小学校を控えている頃の子どもたちには、自分自身が甘えていることも、頑張らなければならないことも十分に分かっています。その中で、覚悟を決めて前進するために安心できる感触を求めるのです。このときに、子どもたちの具体的な将来を、「楽しみだね」と声をかけて一緒に期待を膨らませることがサポートになります。この時期の子どもの甘えは特に大事に受け止めてほしいと思います。簡単にそれを止めないで欲しいと思います。
甘えん坊で、頼りなく、幼くて心配になってしまうかもしれませんが、子どもたちは新しい成長に対して、彼らなりの感性で覚悟をきめ、意識することがあるのです。
小学校に入ってすぐの授業公開に行きますと、クラスの中で幾人かの子が指しゃぶりをしたり、口を手で触ったりしている様子を見ることができます。子どもなりに真剣に新しい環境に向かい合っているのです。そう思うと、指しゃぶりも、抱っこやおんぶを求めるのも、尊い挑戦の儀式なのです。

2019年10月29日

子どもの問題の前で立ち止まる

 子どもたちと接していると、神さまは人間を何て自由に創造してくださったんだろうと思わされます。そんな彼らと接していて、「正しいって何だろう?」と考えさせられます。それは、子どもたちは自由に振舞いながら、実は多くの場面で自分たちの行いが正しいのかどうかを問いかけてくるからです。
 遊びの時間であれば、遊ぶことは「正しい」ことです。でも先生のお話しを聞くときには、遊ぶことは「正しくない」ことになります。2~3歳程度の子どもに、「今は遊ぶ時間じゃないでしょ」と言い聞かせても、時間感覚も周囲への関心も未熟な彼らに理解できるはずがありません。この場合、遊び続けようとする子どもと、子どもに通じない言葉をかけて正しい行動を求めている大人とどちらが「正しい」のでしょうか。
 この世界には、あり得ないと思えるような違う考え方を持つ人がたくさんいます。特に子どもと私たちの間では、この感覚をもっておくことは大事です。
 子どもにとっての正しい行為は、私たちにしてみればとんでもない身勝手な振る舞いに見えたりします。しかし、彼らの視界、彼らに聞こえている音、彼らの触れる感触がもたらす、彼らの受け取った世界にどのように向かい合うかは、大人には測れないことが多くあります。大人から見ると「問題」と見え、すぐにやめさせないと面倒だと思えても、それは子どもが受け取った環境に対する一生懸命にあみだした大切な対処法なのかもしれません。
 問題行動をすべて受け入れることをすすめているのではありません。しかし、「この行動はこの子にとってどんな意味があるのだろう」、「この行動でこの子は何を得ようとしているのだろう」という思いを心に持っておくことが大事なのです。もしかしたら子どもなりの愛情表現かもしれません。子どもからのSOSかもしれません。
 子どもの問題と思える行動を前にして、大人は「すぐに、今すぐに」と改善を考えます。しかし、その過程を通さないと辿り着けない成長もあるのです。問題行動が自分自身や相手を害するものでない限り、大人自身が少し俯瞰して子どもを見る心の余裕をもっていたいと思います。子どもの行動の中には、簡単にとってしまってはいけないことがあるのです。

2019年10月31日

生活リズムを整える

まもなく新学期の始業式を迎えます。長期の休み中は生活リズムが崩れてしまいがちです。4月から幼稚園に入園なさる方も、入園への準備として生活リズムを整えることは大事なことです。そこで生活リズムを整えることを考えてみましょう。
私たちが健康に、元気に過ごすために生活リズムを整えることが欠かせません。不規則な生活リズムは私たちに大きなストレスをもたらします。しかもそれは多くの場合、本人には無自覚なうちに蓄積していきます。
子どもが元気に、生き生きと、そして満足して毎日を過ごすために生活リズムを整えることは欠かせない準備です。子どもの場合は、生活リズムを崩すとすぐに分かることが多いです。週明けに幼稚園で子どもたちを迎えると、理由もなく愚図ったり、落ち着きのない様子を見せたり、どうしても母親から離れなかったり、集中力がなかったり、癇癪を起したり、様々な言動の中に普段とは違う違和感が現れています。
生活リズムを整えるというのは、何も決まった時間に決まったことを必ずしなければならないということではありません。睡眠、食事、排泄といった基礎的な生活習慣の調和がとれている状態ことが理想です。
幼児期の子どもの一日の活動を考えるときには、「睡眠(および起床)」を第一にして生活リズムの調和をはからことが望ましいです。幼児期はあらゆる意味で発達の著しい時期です。スムーズに十分な睡眠をとることができ、心地よく目覚める生活を送ることができれば、他の生活習慣もスムーズに過ごすことができます。
生活リズムが整っているかを知る上で、指標となるのが子どもの体温です。そこでご家庭でも体温を測ることをお勧めします。可能ならば朝晩の2回。特に病気とは思えないのに年齢に対して低体温であったり、起きた直後の体温が昼間より高かったり、就寝前でも体温が下がらないといった時には、子どもの体内時計と実際の生活リズムが大きくずれているということです。このずれは成長ホルモンのバランスを崩すといった形で子どもの成長に影響を及ぼしますが、睡眠を軸として、食事、排泄、運動(遊び)といった生活リズムが整うとバランスを取り戻すことができます。
生活リズムを作るときのコツの一つは、メリハリのあるリズムを作ることです。集中して過ごす時間があるならば、開放的に自由に過ごす時間を持つこと。たっぷりと活動してお腹をペコペコにすること、食べるときには満腹になること。これらは順序がひっくり返ってもいいものです。満腹するまで食べた子が、その後お腹がペコペコになるまで遊び抜く一日があってもいいのです。大事なことは決まった時間に決まった順序で行うことではなく、生活の調和です。メリハリがあると子どもにとって満足感のある一日が作られていきます。
生活リズムを整えるときの大人の役割は、子どもたちに受け入れやすい生活リズムを考えることです。睡眠の他に、子どもたちの自発的な遊びの時間が確保されることも望ましいことです。生活リズムに沿った流れの中で過ごすことは、子どもたちにとって心地よい環境です。
幼児期の子どもの生活リズムを作る時に注意したいのは、言葉ではなく、大人が態度で心地よい生活リズムをうながすことです。さらに大人自身の行動で生活習慣を見せることができれば、心地よい生活リズムの中で、片づけや着替えやお手伝いといった基本的な生活スキルを子どもたちは身につけていけます。
最後に、当たり前ですが習慣は継続することで真価を発揮します。継続するために始めから欲張って予定を詰め込み過ぎないようにしましょう。最初は睡眠のリズムを整えるだけで十分です。

2020年01月06日

生活習慣を伝える

着替えや片付け、食事やトイレといった基本的な生活習慣は、教えてやらせようとすると、なかなか身につきません。子どもは大好きな愛着を持つ大人のあらゆることを真似しようとします。ですから、大人の方が意識してお手本になれば、子どもは必要なことを身に着けていきます。子どもは必ず「自分のことは自分でやりたい」という強い意識を持つ時期があります。
お手本となるときには、「ゆっくり、正確に動く」ことを心がけます。そして動作は動作のみ、言葉は言葉のみで伝えるようにします。動作を言葉で説明しながら教えてしまいがちですが、基本的に人間は言葉の解釈と動作の解釈を同時にできません。動作を見せるときには声をかけないこと、言葉を聞いてほしい時には言葉以外の刺激を極力除くことがコツです。いっぺんに全部を伝えようとせず、細かく動作を区切って、子どもの「できた!」という経験や「分かった」という気持ちをコツコツと重ねることも有効な伝え方です。
生活習慣を身に着けるということは、身体面で言えば多様な動きを獲得するということです。幼児期の先の成長に備えた土台は、基本的な生活習慣の中に最も多彩に含まれています。それは生きるための動作だからです。人間的で社会的な生活習慣を身に着けることは、その後を生きるための土台を獲得するということに他なりません。正しく身体を使うことで、正しい身体の使い方を獲得し、次のより高度な身体活動の獲得への備えをすることができます。
知恵も力も、人間は現在到達しているところからしか、次の段階へと出発できません。今立っているところからジャンプして先に進む子もいれば、一歩一歩確実に歩みを進める子もいます。それは個性ですが、いずれにせよ今現在到達しているところを出発点にするしかないのです。現在の到達点を無視した手本や言葉は「雑音」でしかありません。ですから目先の「できる」「できない」にこだわり他児と比較して焦ることは意味がありません。
できないのは、いつもやってもらってきたので自分でする必要を理解していないのかもしれません。語彙が少なくて伝えたことが十分に受け取れないのかもしれません。生活習慣を実現するための筋肉の動きを再現する神経系の発達を待たないといけないのかもしれません。単純に筋力がないのかもしれません。「できない」ことの中に道しるべがあります。
ですから、子どもの育ちに向き合って、段階にあわせた手本を示すことが大人の重要な役割です。しかし、それを親が見守り、育ちのタイミングを逃さずに手本を示すということは、簡単なことではありません。そのために社会が準備した環境の一つが幼稚園です。
幼稚園に通うということは、子どもの成長を一緒に見てくれる人が増えるということです。不安なところがあったら、意識して教師に伝えたり、お願いしてみてください。そして一緒に大切な子どもがどう育っているのかを知り、大人自身の習慣についての考えや、関わり方を共有しながら、子どもにとってより良い手本となれれば、それはとても良いことだと思います。

2020年01月07日

自発的な試行から思考を豊かに

幼児期の思考の発達において著しい影響力があるのは、自発的で多様な動きです。運動と思考は別のものとしてとらえられがちですが、幼児期には、思考は運動に続いて発達します。私なりの捉え方をするならば、自発的な運動に思考の発達が従属するといった方がいいようにすら思っています。それほどに、この時期の自発的な動きは重要な意味を持ちます。
幼児期は大人から見ると理解できないような行動を見せます。状況を顧みない行動、迷惑と思える行動、突発的な行動が必ず見られます。幼児期の子どもが独り言をしゃべりながら活動をするのも、大声や奇声をあげたり、順番を待たずに話しかけて来たりといったことも思考と密接に関わっています。言葉が分かるから、語りかける言葉で全部通じるはずだと思うのは大間違いです。そこには子どもの思考に沿ったアプローチが決定的に不足するのです。幼児期の自発的な生き生きとした動きそのものが幼児期の思考の力です。いずれそれらは頭の中の思考へと移行していきます。しかし、幼児期には肉体的な活動を伴わない思考の発達はあり得ないものです。
このような時期がおおよそ小学校入学頃まで続きます。小学校入学後に授業公開などを見に行くと実に多くの子が体を動かしています。席を離れることは稀であっても、唇を触り続けたり、髪の毛を触り続けたりといった自分の体への刺激を伴って先生の話を聞いています。チック症状であれば別ですが、子どもが自分の体に触れるのは思考をしている証拠でもあります。動きをやめろというのは、子どもにとって考えるな、命じられているのと同じ意味になります。大人にとっては迷惑なことと思われるかもしれませんが、そういうものなのですから、子どもの発達に向かい合って、大人の方が工夫しなければなりません。
先日子どもたちが木登りをしているのを見て、驚いておられた方がいました。最近は怪我をさせないためや、木を保護するために木登りを禁止している幼稚園も多いのでしょう。実際、私が園長となる前、木登りは禁止されていました。しかし、木登りは一見すると思考とは無関係な腕白に思えますが、総合的な思考へとつながる試行の場面です。私は、「木登りの良さはいい意味で子どもの期待を自然が裏切ってくれること」だとお話をしています。子どもは、時間をかけて試行錯誤しながら木に登れるようになります。簡単に木は登らせてくれないのです。最初の枝に手が届くために体が大きくならないと届かないことがあります。木はそのように育ったのですから、文句を言っても無駄です。既に登れる年長児を見上げながら、自分が上る様を想像(思考)します。他児の経験から自己の経験を育てているのです。やがて、背伸びして手が届くようになると、大人の手を借りずに登っていきます。自分に都合のいい場所に枝が出ているとは限りません。見えていない幹の裏側に足場があるかもしれません。観察し、先を見通し、安全な枝はどれかといったことを、手足を動かして試行して、思考の力を働かせて学んでいきます。そうやって高く上った木の枝の間から見える世界は、他では経験できない魅力をもっています。小さな子どたちにとって、大人を見下ろすということも新しい経験への出発点になるでしょう。プラスチックのムラのない色彩やにおいに対して、多様な変化を見せ、時には自ら危険を警告する色やにおいを発して対話してくる自然への施行から得られる思考の力は多彩で多様で深く大きいものです。
自発的な試行を豊かに経験することは、決して無駄にはなりません。すぐに結果を伴わなくても、その子の内に思考力は確実に育っていきます。

2020年01月08日

手足の感覚から養われるもの

木製の大型積み木が痛んで使えなくなっていたので、今年度、高反発素材のより安全な大型積み木を購入しました。カラフルな大型積み木です。
大型積み木を使って自分より大きな立体物をつくるのも、かなり思考力を養います。自分より背丈が高いものを積むというのは、大人でも苦手な方がおられるほど難しい作業です。足元を確かなものとして積み上げ、常に崩れないように全体のバランスを取らなければなりません。また、そのためには、積み上げるための道理(ルール)を獲得しなければなりません。小さなものの上に大きなものを積み上げれば容易に崩れます。大きくて安定した形のものを下に置き、安定している形から順に積み上げなければなりません。大型積み荷を抱えて、手先だけでなく腕と足も動かすことは感覚を養うと共に心の安定にも良いことです。理想としては、大型積み木をさらに増やして、普段から大型積み木のできる部屋を用意して自由に遊べるような環境を整えたいと思っています。
大型積み木は高価ですが、段ボール積み木を作るというのもいいでしょう。宅配などできた段ボールを潰さずに、空のまま箱にします。登って遊ぶことはできませんが、形は様々で、軽いので安定性が悪いからこそより計画性と見通しの力を使います。バランス感覚も必要になります。段ボールですから、積み上げてから怪獣になって壊すという遊びもできます。大きな段ボールならば、子ども自身が箱の中に入って遊ぶこともできるでしょう。
一方で、手先を使う動きは、指先の繊細な感覚を通して集中力を養い、思考の忍耐力を育てます。幼稚園では画用紙を細く切ったものをたくさん用意しています。折ったり、組み合わせたり、目的をもって工作をしたりといったことが美しく仕上げたり、「半分に折る」、「編む」といったことから、身体感覚として図形や数学の感覚につながっていきます。
遊びの後には、片づけがあります。種類に分けて分類し、元の場所に収めたり、重ねたり、収納したりといったことは、秩序感覚を養い、見通しを養います。それらはやがて秩序を表す数式のような記号に出会う時に真価を発揮します。
子どもの動きに注目すると、生活も遊びも子どもの思考力を養う試行の機会がたくさんあります。だからこそ、子どもたちが自発的に試行できる環境と十分な時間が用意することが大事なことになります。大人が意識的にこれらの感覚の育ちのために環境を整えることで、子どもは試行からこれらの感覚を育てていけます。

2020年01月09日

互いに相手を優れた者と思いなさい

子どもにとって最もいい学びのスタートは、自分で「やる気」になった時です。「やる気」になって始めたことを「やり遂げる」ことが一番の学びのタイミングです。ですから、子どもの「やる気」に気がつく「観察」と、「やり遂げる」ための「見守り」が大人の側の課題になります。
幼稚園に入園するということは、集団の一員としての新しい経験に挑戦する機会です。多様で複雑な場面で、ことばと行動を通しての意思表示や、イエスとノーを区別すること、一人の課題や、一緒なって担い合う課題への取り組みなど、高度で複雑な思考と判断力を身につける必要があります。これらは、子ども自身が経験を重ねることでしか身に着きません。
そこで、大人は子どもが「やりたい」という意思表示をした時に、言い出したことを存分にやらせる度量が試されます。うまくいくときも、うまくいかないときもあるでしょう。時間がかかったり、壊したり、汚すといった、大人にとって都合の悪いことも出てきます。その時こそ見守るべき時なのです。
子どもが自分で「やる」と決めたことは、どんなに時間がかかってもやり遂げることを大事にすべきです。「やる気」が「やり遂げた」に向かった経験こそが、子どもに自分自身への信頼を育てます。これが心の力となります。心の力に支えられて思考は育ち、意思は明確になります。ですから、子どもが取り組んでいることを、先取りしてやってしまったり、せきたててしまったり、中断してしまったり、肩代わりをしてしまうということは、子どもにとって不愉快で、不満を感じさせてしまいます。やる気が削がれてしまいます。
ただし、見守りは放置とは違います。見守りは、適度に見本を示し、助言をするかかわりを保ちます。「やる気」を不安から守るのが「見守り」です。そうやって子どもの成長に立ち会うと、子どもの力に驚くと共に、やり遂げる姿に尊敬を感じることもあります。
聖書に、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(聖書 ローマの信徒への手紙12章10節)という言葉があります。これは大人同士だけでなく、子どもを見守り、一緒の時を生きるところで大切にしたい心構えです。

2020年01月10日

松居和先生 掲載論文紹介

昨年、杉並区私立幼稚園父母の会連合会で、講演会の講師としてお招きした松居和先生の論文が、衆議院調査局が年に一度発行する「RESEARCH BUREAU 論究 第16号 2019.12」に提言論文として掲載され、年末に発刊されました。衆議院のホームページで読むことができます。ぜひご一読ください。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/63da430ca66f6757492574180016fd6e/b3bb20d8d63d8d67492584d9002f58a7/$FILE/2019ron16.pdf

冊子は政策を作る参考資料として、衆議院議員全員に配られたそうです。
同意してもらえなくても、現実を知ってもらい、そこから幼児を優先しない社会が壊れ始めていることを実感してほしい、という先生の願いをお知らせくださいました。
なるべくたくさんの人に目を通してもらいたく思います。

2020年01月14日

真似して育つ

子どもは真似(観察学習)をすることで世界を理解していきます。その第一歩は「笑顔」だそうです。赤ちゃんの時に、おかあさんの笑った顔を見て、それを真似して笑顔を作るのだそうです。本能的なステップであっても、考えてみるとこれはすごいことです。
何より、赤ちゃんは自分を見て、正しく真似できているかを確認できません。手や足を動かすのなら、自分で見ることができます。言葉も、耳で聞いて確認できます。しかし、自分からは決して見えない顔の動きをどうやって真似ているのでしょうか。真似の第一歩として笑顔を真似るときから、人間の真似る能力はずば抜けています。素晴らしい神さまの贈り物です。
経験則ですが、真似をするときのお手本は、自分よりも2~3歳くらい年上の子が適していると言われます。兄姉のいる子の成長が、他の子よりもスムーズに感じたり、早く感じるのは身近に最適な見本となる存在がいるからでしょう。ですから、幼稚園でも異年齢の子と一緒に過ごすということが発達の助けになります。
真似をすることは、手本となる存在が属している社会規範を学ぶということです。挨拶する姿を見て、自分も挨拶を始めて、お辞儀を覚え、挨拶の言葉を覚える、等です。横断歩道の渡り方とか、手の洗い方とか、生活習慣を真似していきます。それは社会の一員として成長しているということです。
また、真似することで集団への帰属意識が育ちます。一体感を感じたり、相手に好感を持ったりといったことが起こります。幼稚園で歌を一緒に歌ったり、お遊戯をしたりして、みんなで同じことをすることで、いつの間にか仲良くなっていたりします。
真似をすることは社会生活を送るための基礎作りに大変に適した学習方法なのです。
(参考:雑誌「クーヨン」2018年4月号特集)

2020年01月16日

真似しないということ

真似が発達すると、「真似しない」という学習ができるようになります。ある子が過ったことをしたときに、一緒になって繰り返してそれを真似する子がいますが、一方で先生に注意されている子を見て、同じ過ちはしないようにしようと構える子がいます。真似をするのとは逆のことです。恐らく、子どもたちの幼児期以降の育ちと今後の社会生活においてより重要なのは、「真似しない」ということの方でしょう。
 幼稚園の子どもたちでもテレビで報道された不正事件や凶悪犯罪のことを覚えています。その時に、「真似をしてはいけない」という啓発をしっかりと受け止めることが大事です。「真似しない」という選択を始めた子たちは、善悪の感覚も鋭敏になってきます。たとえ親や先生であっても、誤っていたら容赦なく指摘してきます。これは「真似してはいけない」という意識が発達しているからでしょう。口うるさい子は、大事な学習をしているのです。
牧師でテノール歌手、そしてカウンセラーとしても活動されている、うどにしつとむさんによると、人には大きく分けて三つの生き方があるのだそうです(参考 日本講演新聞2817号)。
 まずは「製品的人生」。これは、たとえばフランチャイズのハンバーガーの味がどの店でも変わらないように、「みんなと同じように生きたい」というものです。これが「真似する」ことによって作られる生き方です。良い点は、最短距離で目標とする事柄に到達できる可能性が高い点です。また、社会規範や感情理解という点では皆が違う基準を持つというのは好ましくない事態を招きます。重要な生き方の選択の一つです。悪い点は、自分自身の行動について自主自立と責任感を欠きやすいということでしょう。言い換えるとコントロールされやすいのです。「みんなやっている」という無意味な理由に流されます。
 次に「商品的人生」。これは、相手から受け入れられることに価値を置く生き方です。でも、すべての人に完全に好かれる人なんていません。だから「ある程度は嫌われて仕方がない」と思うことが大切です。相手の要求に応えることばかり考えていると心が疲れてしまいます。無駄と思えることも多いことでしょう。そこで力を発揮するのが「真似しない」という選択を持った学習です。「真似しない」ことが、人格と人生を守る砦となり、また挑むと決めた人生の課題へ向かわせます。
 三つ目は「作品的人生」。これは「誰とも同じではない、私だけのオンリー・ワンの人生」です。この「作品的人生」を生きる秘訣は自己受容です。育ってきた背景や歴史、性格さえもすべて「今の私をつくるのに必要だった」と受け入れることが大切です。「真似する」と「真似しない」を自在に生きる先に見えてくる、一流の人間の姿ではないかと思います。

2020年01月17日

真似と笑顔

「真似」が、神様からいただいている人間の素晴らしい能力であるとすれば、「真似することは心地よい」ということを経験することが一層この能力を発展させ、幸せを招くことになるでしょう。
その時に大事なことは、「笑顔」です。私たちの真似の力の原点は、笑顔を真似することだそうです。言い換えると、赤ちゃんの時から笑顔は真似を呼び起こす特別な「何か」であるということでしょう。
幼稚園の先生の資質は様々あげられるでしょうが、笑顔が魅力的であることはとても大事だと思っています。裏表のない笑顔は、子どもの心を信頼で満たします。優しい笑顔が、子どもを慰めてくれます。朗らかな笑顔が、幸せを伝えてくれます。そういった笑顔が子どもの力をサポートしています。
真似そのものは、あらかじめ人間に与えられている力ですが、この力を十分に使えるかどうかは子どもたち自身の意欲に関わっています。「真似をするのはいいこと」、「真似をすると喜んでもらえる」、逆に「真似しないことは正しい」ということを、真似をした子どもの周囲が笑顔で受け入れることが大切なのです。子どもは笑顔に受け入れられて、真似する手本へのアンテナを敏感にして、ますます「真似してみよう」と意欲を持てるでしょう。子どもと過ごす時に、子どもは「真似する」ということをしっかり覚えておきたいと思います。
手本になるのが上手い子は、真似をするのもスムーズな子です。
また、そうした子は目に見えないものを多彩に真似しています。それは感情です。相手の心の真似をすることができるのです。これを共感と呼びます。聖書に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(聖書 ローマの信徒への手紙12章15節)という言葉があります。悲しい物語を聞いて悲しい気持ちになるのは心の真似である共感が発揮されるからです。うれしい、たのしい、かなしい等、心は目に見えません。手で触れません。しかし、私たちはそれらを知り、同じように理解します。やがて、子どもたちは最も深い心である「愛」を知るようになります。「幸せ」を感じるようになります。子どもたちの真似が、次の時代へと愛を育てているのです。そのために、ぜひ笑顔を向けてあげてください。幸せな大人を真似させてあげてください。

2020年01月20日

幸せを求める姿を手本に

おままごとをしていた子どの会話です。お父さん役の子が仕事から帰って来て怒鳴ります。
「なんだ、ちっともテーブルが片付いてないじゃないか!」
すると、お料理をしていたお母さん役の子は、手を止めず、振り向きもせずに、
「あら、ごめんなさ~い。」
お父さんの役の子が何を言っても、顔も見ずに、
「あら、ごめんなさ~い。」
延々と、顔を見ない「あら、ごめんなさ~い」の会話が続いていました。
見ていた私は面白かったのですが、おそらく親が見たら、随分と居心地の悪い思いをしたことでしょう。子どもが真似をすることは必ずしも良いことばかりではありません。大人にとって都合の悪いことにも及びます。
子どもは手本となる大人の動作を真似するだけではありません。偏見や差別心、価値観などもそのまま真似します。子どもに悪意はありません。しかし私たちが何気なく繰り返している言葉や所作に潜むものも「忠実に」真似します。それは時に、大人の醜い世界や取り繕い、誤魔化しや冷酷さを、お返しのように大人に見せつけます。
子どもが大人の全てを真似すると言うと、何だか恐ろしく感じられるかもしれません。その感覚は、手本となることへ意識を向けるきっかけとして大事です。
完璧な人間はいません。私自身もダメなところが多い人間として、大人のダメなところも含めて真似して自分を作り上げてきました。それで不幸なのかというと、決してそうではありません。途方にくれたり、自分自身に自信が持てない中でも、よりよく生きていこうとしている大人の姿を、子どもは見ています。苦手なことにイヤイヤ取り組みながら、その中に楽しみを見つけようと工夫する姿を、子どもは見ています。がっかりした中から、気持ちを奮い立たせる様を、子どもは見ています。自分で楽しみを見つけたり生み出していく力は、子どもの人生を刺激し、豊かにすると信じています。
大人が子どもに「幸せになってほしい」と願うのは当然です。それならば、私たち自身が「子どもに幸せであってほしい」と願っている理想の姿に近づくように、自分自身を幸せにするように、自分自身を振り返る時をもつことはとても大事なのではないかと思います。
子どもにとって大事な手本は、「よくできた大人」ではなく、「幸せを感じさせる大人」です。

2020年01月21日

静かにする時間

「聞く」と「話す」を人間は同時にできません。話し合いというのは、「聞く」と「話す」の両方が必要です。どんなに強力に「話す(発信)」ができても「聞く(受容)」ことができない人とは話し合いは成立しません。
聖書にこんな一節があります。「たとえ地上のすべての言語や天使の言語を話しても、愛が無ければ、やかましいシンバルや煩い銅鑼も同様です」(コリントの信徒への手紙一 13章1節の私訳)。
「聞く」というのは、話している人を大切にするということです。人の話を聞く時間と自分が話す時間を交互に経験して、「話が通じた」という感覚が成立します。ですから、話をしている人の時間を奪わない、という意味を子どもたちに伝えることが大事になります。
私は週に1回、各クラスに赴いて聖書のお話をします。私が教室に入ると、教師が子どもたちに、「園長先生がお話に来てくれたよ。お話を聞くときはどうするんだった?」と話しかけてくれます。そうすると、子どもたちは「静かに聞く」とか、「園長先生のお顔を見る」というふうに答えています。ちゃんと声をかけて確認をするだけで、子どもたちはしっかりと「話を聞く」ことができます。
たとえ一時的に騒がしくなっても、「今は、私がお話をする時間だからね」、「今は、誰がお話をする時間かな?」といった声をかけると子どもたちはハッとして、静かになっていきます。「聞きなさい」、「静かにしなさい」という命令よりも、話している人を尊重することを伝えた方が、自分から話を聞く姿勢に戻っていく力が養われています。
話を聞くのは、一義的には興味があるからです。私も聖書のお話をするときに、子どもたちに興味を持ってもらえるように工夫をします。
相手に興味をもって「聞く」こととは違いますが、内容に関わらず静かにしなければならない、「静かにする場面」を体験することも大事です。例えばコンサートや図書館、公共の乗り物の中やレストラン等です。長時間は難しいでしょうが、幼児期であっても、「静かにするべき場」があることを教え、体験していくことは大事なことです。

2020年01月22日

比較するなら過去と今

幼児期の子どもは、年齢だけでなく月齢でも随分成長程度が異なります。4月生まれの子どもと3月生まれの子どもでは、大変な差を感じることでしょう。また、兄姉がいるのか。お父さん、お母さんと過ごせる時間。祖父・祖母や叔父・叔母の関りがあるかないか。些細な環境の違いで、得意不得意や興味関心や成長の違いができます。ですから幼稚園では、他の子と比較をすることに意味がありません。
しかし、人間というのは比較して状況を把握しようとする能力が秀でています。ですから、どうしても気持ちが比べてしまうことに向かってしまうのは仕方のないことです。それならば、比較の対象を変えればよいのではないでしょうか。
私は、比較するなら「昨日の子」と「今日の子」の姿を比べるということを土台にするのがいいと思っています。子どもと毎日一緒に過ごしていると、かえって昨日と今日の成長には鈍感になりがちです。その分意識して見ることを心がけると子どもを観察する目が養われます。毎日でなくても、先月と今月、春と夏、去年の誕生日と今年の誕生日でどれだけ成長しているかを比較してみるとよいでしょう。過去と今を比較するのです。そうすると、子どもの頑張ってきたことや、興味の移り変わりや、葛藤や、友だち関係の発達や、得意なこと、今は苦手に思っていること等、色々なことに気がつきます。
他の子と比較してわかるのは「できる・できない」だけです。しかし過去と今を比較すれば、明日のための「課題」が見えます。子どもが頑張る課題と共に、子どものサポーターである親の課題も見えてきます。昨日のどんな自分の態度や言葉に子どもが勇気を得たのか、喜んだのか、嫌だったのか、悲しかったのか。そんなことにも思いが向くようになるでしょう。子どもが人を親へと育ててくれます。それが子どもの「仕事」なのかもしれません。
ですから、他の親と自分を比べることも意味がありません。人間は神様ではないのです。必ず出来ないことがあります。どんなに子どもに要求されても応えてあげられないことがあります。みんな違うのは当然です。親としての自分を考える時にも、昨日の自分と今日の自分を比べる程度で十分です。過去と今を比べてみると、親の方も大した親として育っているのです。

2020年01月23日

会話を膨らませる

話し合いのスキルは、これからの時代に一層重要なものとなるでしょう。その時に、会話が膨らむことは大事なことです。対話を継続する術が必要になります。
会話が膨らむためには、受け取った言葉を上手に投げ返すことが大事になります。ですから人と話をするときには、何かしらの形で返すのが礼儀です。黙殺や発言を馬鹿にするようなことはしてはいけません。子どもと話す時にもこの原則は守られているでしょうか。
子どもが大人に話しかけるときは、話の結論や正解を欲しているというよりも、アピールや共感であることの方が多いです。
大人がよくやってしまうのが、正解を教えてしまうことです。これですと、会話は終わってしまいます。多くの場合、子どもは不満を感じます。大人は結論や正解が分かっても、会話の最後は子どもに譲るように会話を継続することを目指す方が、子どものためになります。質問を重ねて、答えを知っているつもりの子どもが、黙って自分の知っているはずの答えについて考え始めてしまうようになる方がいいのです。知らないことが沢山ある、という感覚こそ成長の力です。「知っている」と思ったところで、終わるのは、会話も成長も同じです。
「それでどうしたの?」とか「それからどうなったの?」とか聞いてみたり、子どもが言ったことを「逆上がりができたんだね」、と言葉をそのまま返したり、頷いたり、相槌を打つだけでも相手の話を促すことができます。促して話すことで、互いに相乗効果をもって内容は高まり、深まり、広がり、思いもかけない世界へと進んでいきます。
幼稚園で子どもたちを見ていると気がつくことですが、子どもはお友だちの呼びかけや先生の話を、かなりの場面で「無視」しています。興味のあることに集中していて聞こえないから、結果的に呼びかけに応えられないということはあります。しかし問題は、明らかに意図的に無視をしている場面が意外なほど多くあることです。つまり継続の術ではなく、無視する術を発達させているのです。
会話も、無視も、子どもが手本としているのは大人です。それも最も身近な大人である親です。大人が意識して子どもとの会話を繋げていかないと、話を続ける術を子どもは学べません。子どもの話をおもしろがる。楽しむ。もっと知りたいと思う。そんな心をもって子どもと会話をしていきたいと思います。

2020年01月24日

自分をどこかへ預ける

精神科医の香山リカ氏が、若者の変化についてこんなことを語っていました(朝日新聞2017年12月31日)。
診察室を訪れた若者が「つらいんです」と言います。どういう風につらいのですか?と聞くと、「つらいってことです」と答える。そして、「この『感じ』がとれる薬をください」と。手っ取り早く薬だけ欲しがる若者が気になる。そこで香山リカ氏は、「自分の内面を掘り下げ、ことばで表現する力が落ちているように思う」と語ります。大学で学生と接していても、「『私』をどこかに預けている感じがする」とも言います。そして、どうしてそのような若者が見られるようになったのかということについて、「自分の弱さと向き合うのはとても苦しいことだから、でしょうね」と分析していました。
聞いた話で恐縮ですが、現代の若者はほんの数日で江戸時代の人の一生分の情報に触れてしまうそうです。それほどに膨大な情報が溢れています。しかし、一方でその溢れる情報をコピペすることで大学の卒論もできてしまいます。
最近の書籍のタイトルや表紙は、ぞっとするほど同じ体裁の同じような言葉で構成されています。「できる!○○をする3つの方法」といった具合のテンプレート化されたものが増えました。マーケティングに裏付けされた通りの言葉をつなぎ合わせると、なんとなく文章ができてしまいます。
一方で、自分自身と向き合って、不器用であっても自分の感情や状況を自分の言葉で表現することができない若者が存在します。言葉は溢れているのに、唯一の自分、大切な自分を語ることができないで、どこかの誰かに預けてしまう。それは、自分にしかわからない自分自身の気持ちや内面を、誰かが語ってくれるのを待っているのでしょうか?あるいは表現そのものを諦めているのでしょうか。
自分を表現する方法は言葉だけではありません。音楽や映像、劇…様々あります。しかし、やはり人間にとって言葉は特別なツールです。自分を表現して、相手に気持ちを伝える手段をとして言葉を磨くことは、自分自身を愛することです。自分自身を愛することを「どこかへ預けてしまう」ことで、やがて他人や世界への興味すら失ってしまうのではないでしょうか。

2020年01月27日

言葉という生きていく力

子育ての目的は、子どもが生きる力をつけることです。親の保護から巣立って、自分で生活の糧を得て自立していく力を持つことです。
自立とは、自分で身の回りのことができて、経済的に自活できることを指すことが多いのです。しかし一人で生活できるということだけでは、自立は孤立と化してしまします。
人間の生きる力というのは、社会の営みの中で、一人で何でもできることではなく、多くの人間と関わって生きるということです。それは単純に、友人を持つとか、家族を持つことを意味しません。友人というカテゴリーが必ずしも「親愛」を保障するものではありません。家庭が「裁き」の場となることがあります。いくらでも孤立の可能性のある世界の中で、コミュニケーションし、時には決断して「頼ったり」、時には譲って「頼られたり」しながら、赦したり赦されたり、許したり許されたりしながら、周りの人々との関係を平和というバランスをとりながら生きていくことへの挑戦ができるのが、人間の自立です。
気持ちよく人と生きていこうと思うならば、自己を表現する力と、他者を理解するための解析力は欠かせません。その時に、現在のところ言葉以上に明晰に自己を伝え、他者を解析するためのツールは開発されていません。表現の可能性は様々あります。図や表、イラストもあります。しかし今のところ、それらの解釈にも言葉が使われます。表現と意味を結び付けるために言葉が必要です。つまり、言葉に代わり得る解析力を持ったツールが見当たらないのです。コミュニケーションのテクノロジーは、言葉化を容易にするためのツールの開発と、言葉の活躍場面を拡大する方向に向かっています。
気持ち良く生きていくために、言葉の力は欠かせません。その力を磨くことは、人が生きていくために欠かせない武器を磨くということです。言葉は生まれつき持っている才能ではなく、後天的に身に着けていくものです。磨けば研ぎ澄まされます。置いておけば錆びつきます。
私は子どもたちと話す時、良く正確な言葉を使うことを促します。「壊れた」のではなく、「壊した」とか、「鉛筆ちょうだい」ではなく「鉛筆を貸してください」とか、言い直させて、子どもにとっては面倒な大人をやっています。それは、子どもたちが将来、自分たちの人生を、自分自身が主人公となって、預けることをせずに歩むということが、自分の言葉を駆使することと深く関わっていると考えるからです。心で思っているだけでは得られません。与えられません。自分も相手も大切にして生きていくためにも、言葉の力を磨くことを大事にしたいからです。

2020年01月28日

自分に自信を持つために

日本には「以心伝心」や「察し合う」といった文化があります。それはとても穏やかな良い文化であると思います。しかし、それだけで済まされる時代ではないことは、もう明らかです。しかし職場でも、教育現場でも「空気を読む」、「周りに合わせる」ことが、自己発信の能力よりも人間関係において重視され続けるのは何故でしょうか。
幼稚園教育要領では、幼稚園教育にいて育みたい資質・能力について領域ごとに簡潔にまとめています。その中の「人間関係」は、「他の人々と親しみ、支え合って生活するために、自立心を育て、人と関わる力を養う」と記しています。そして、その後に「言葉」という領域があり、「経験したことや考えたことなどを自分なりの言葉で表現し、相手の話す言葉を聞こうとする意欲や態度を育て、言葉に対する感覚や言葉で表現する力を養う」と示しています。分けていますが、それは理解のためであって、どちらが重要ということではありません。
「自分を表現し、相手の気持ちを理解する」という子どもの姿を目指すならば、伝え、応答するコミュニケーション力を問うときに「壁」があることに気が付く必要があります。それは英語が話せるとかいうこととは違う、相手を知り、相手に知らせようとする人間の営みの上達に伴う「壁」です。
「以心伝心」や「察し合う」という文化が日本の中で重視されるのは、逆にそれほど要求しなくても育ちやすい環境があるということです。一方の、言葉で明白に伝え合うことに重点を置く文化と交わるためには、意識して練習しなければならないということです。風土と伝統の中で育てられるコミュニケーションと共に、練習することで上達するコミュニケーション力があります。その代表が言葉の技術です。
子どもたちは言葉の発信を好みます。きちんと聞いてくれる練習相手がいればどんどんと言葉の力を上達させていきます。子どもの言葉が変わると、必ず聞く力もついていきます。何よりも目の輝きが変わります。自分を言葉で伝えることで「壁」を克服するごとに、自分という存在に自信を持つのではないかと思います。言葉で伝えてくれるので、大人も子どもの気持ちがわかります。大人の表情を見て、子どもは更にやる気が出ます。
幼児期の子どもの言葉の出るタイミングは大人の都合の通りとはいきません。言葉はあらゆる意味で練習して上達します。迷惑をかけながら上達していきます。
日本には素晴らしい「以心伝心」と「察し合う」という文化があるために、察することが巧みな大人によって、子どもが言葉を発する前に大人が言ってしまったり、言葉を発することを「悪いこと」とされてしまうことが多いのではないかと思います。子どもは、もしかしたら言葉の「壁」の感触に気づくこともできないのではないかと感じてしまうのです。
察すればこそ、幼児期の子どもにはしっかりと過剰なほどに言葉を発することを許してあげたいのです。迷惑をかけてしまうことから子どもの育ちを守るのが、大人の寛容ではないかと思います。

2020年01月29日

こども時間

子どもたちと過ごしていると、時間の感覚のズレを感じることがあります。時間というのは、皆で同じ時間で統一されているから意味を持つと考えると、個人でバラバラの時計で動いていたら大変です。多くの約束が成り立ちません。無秩序状態です。しかし、恐ろしいことに、子ども時間はバラバラです。
私たち大人の体内時計は、子どもの体内時計に比べると、正確な電波時計のようです。社会全体の時間としっかりとシンクロしています。ずれていたら、自分で時計を見て合わせることもできます。とても高性能です。
一方で「子ども時計」は、実に自己中心的です。時間の進み方が、傍で見ていると早くなったり、遅くなったり、まちまちです。
面白くないことが起きると、猛スピードで時間が進みます。反対に自分の好きなこと、やりたいことについては、とてもゆっくりと時間が流れているようです。むしろ彼らにとって時間は止まっているかのようです。いわゆる「夢中」です。夢から覚めると、周りが暗くなっていたり、実は何回も何回も、「もう帰りますよ!」とか「もうおしまい!」と声をかけられていたりします。
辛うじて呼びかけに反応しても、「あと、もう少し」の長さは、私たち大人とは違います。「あと少し」は実に長いのです。大人の時間で計った「あと少し」で満足できる子は、まずいません。子どもは大人と時間が違います。もう、そういうものと腹を決めるしかないのです。
子ども時間は、ほぼ常に「今」を指しています。嫌なことは早く過ぎ去り、「夢中」な時間をたっぷりと体感できるからこそ、幼児期の貴重で膨大な経験の吸収が可能なのです。
大人の正確に時間を刻むことで見える時計のような時間観念を「クロノス」と呼びます。一方である意味を持つ「時」という観念を「カイロス」と言います。
以前、NHKの番組で「その時歴史が動いた」という番組がありました。歴史の岐路となった事件を扱った番組でしたが、この場合の「時」は「カイロス」です。何時何分に、何時間かけて行われたかを報告するのではなく、歴史の岐路としての意味を持ったと考えられる「時」があったことが取り上げられた番組でした。
子ども時間は間違いなく「カイロス(意味のある時)」の積み重ねです。だから「今」しかないのです。「クロノス(時間)」はあいまいです。過去から現在へという流れに、さほどの価値を感じないのです。むしろ意味を持った(興味のある、楽しい、面白い)「今」が大事なのです。
「もう少し」というときには、「その時○○が動いた!」という大事件が子どもの中で起こっているのかもしれません。そんな期待に慰められて、「もう少し」待たされることに寛容になりたいものです。

2020年01月30日

今しかないから、逃がさない

子どもに注意を促す時に、「前にも言ったでしょ」という言葉を、大人は頻繁に言います。しかし、その度に子どもは初めて聞いたような顔をします。別に誤魔化しているのではなく、本当に前に言われた過去が彼らにとって存在していないのです。なぜなら、それは彼らにとって何度言われてもまた繰り返してしまう程度に、意味を感じない時だったからです。
時には、カイロス(意味を持つ時)とクロノス(時計的な時間)という大きく分けて二つの観念があります。子どもにとっては圧倒的にカイロスが大事です。叱ったり、注意をするときには、カイロスとなるように工夫しないと子どもにとって「無かったこと」になってしまうのです。昔を思い出してため息をつく大人から見ると、ある意味羨ましい、実に自分の都合に忠実な時を重ねて「今」に至っているのです。
ただし、この子ども時間の特徴は、意味を持つ「今」しかないので、「今」を「未来」へと繋げて行くことが苦手だということです。「いつも言ってるでしょう」、「何度言ったら分かるの」「またやったの?!」と過去を持ち出しても伝わらないように、「もう二度とやったらだめだよ」「今度やったらゆるさないよ」という言葉も、「今できないと後で困るよ」、「小学校に行ったら、自分でやらないといけないんだよ」等の言葉も、未来につなげて行くことが苦手なので通じません。「今」しかないのです。
ですから、注意したり叱る時に最大の効果を期待するならば(その後も繰り返す必要が多いのですが)、その場で、スグに、です。後から叱っても、「そんな昔のことは知らない」ので、効果がありません。何か注意したり、叱らなければならないときには、その瞬間が勝負どころです。そこで、子どもにとってその時をカイロス(意味ある時)とすることが大事なのです。
勿論、衝動的に叱るということではありません。それでは怒りをぶつけてしまうことになります。大人の方は、瞬間を活用するために、「現行犯」を見逃さない心構えを前もってしておくことです。

2020年01月31日

叱る=メッセージを伝える

「叱る」というのは、何かのメッセージを伝えることです。伝えるという点を見失ったり、そこで感情のタガが外れると「怒る」に変わってしまいます。叱る時に、伝える側は第一に伝えたいメッセージを意識することが大切です。まずここが明確でないと、子どもには伝わりません。
例えば、子どものやめてほしい行動があった時には、「その行動をやめてほしい」が伝えたいメッセージになります。しかし分析すると大人の言葉は余計なメッセージ満たされています。
「やめなさい!何してるの!ちゃんとしなさい!ああもう、服も汚して!ちゃんと謝ったの?手を洗いなさい!ほら、早く。もう帰るわよ!いい加減にして!」
結構こういう畳みかける言い方を叱り方をしますが、伝えたいメッセージは最初の「やめなさい!」です。続く、「何してるの!」以降は、メッセージに「やめなさい」と「やりなさい」が出てきて、更に「考えろ」と「行動しろ」がでてきます。さらに「いい加減にして!」と感情を向けられたら、もうごちゃごちゃになります。これらのメッセージを同時に受け止めろと職場の上司に要求されたら、部下はどう思うでしょう。恐らく思考停止します。実際、子どもの思考は停止します。メッセージを受け入れるのは無理です。
こういった言い方を利用する世間の代表者は政治家や役所の広報担当者です。あれは意識していくつもの情報をいっぺんに組み合わせています。質問が「Aなのか、Bなのか」と2択を迫る時にわざとAもBも言って、更にC、D、E、Fと周辺情報を同時に出し、結果としてAもBも答えない、という手法です。聞く方はその場での分析に手間取り、さらに小出しにされたC、D、E、Fに気持ちが向いてしまって、本来求めるべき情報への思考が滞ってしまいます。一方で話した方は、義務は果たした、となります。情報量が多いということは、殆どの場合情報の価値を低めてしまいます。
いっぺんにあれこれと言いたくなる気持ちは分かります。しかし伝えられるメッセージはひとつだけ、と思ってシンプルにした方が効果的です。
「やめなさい。………ちゃんとやめれたね」で、叱った目的は達せられているのです。

2020年02月03日

子ども語

子どもたちには何語が通じるでしょうか。当然、日本語、と思われるでしょう。違います。日本語に極めて近い、別の「子ども語」です。
これは大人が赤ちゃんに話しかける赤ちゃん語や、何にでも「お」をつけて、「お手て」とか「お顔」とか言う過剰な丁寧語とは違います。
たとえば、子どもと話していて、「ちょっと」とか「もう少し」とかいう言葉が「何か違う」と感じることはないでしょうか。「ちょっとだけだよ」とお菓子を出すと、「全部」食べてしまう。嫌いなニンジンなどを「ちょっとだけ」と食べるよう促すと、ものすごく小さい欠片を食べて、「食べたよ!」と得意げになっていたりします。一番に園庭に飛び出してくたくたになって休んでいた子が、「それじゃお片付けしましょう」と言われると「ちょっとしか遊んでない」、「ぜんぜん遊んでない」と腹を立てます。「もう少し」と約束してから、何十分も砂場を離れないということもあります。「後で」と言って、いつまでたっても妹弟に順番を譲ってくれません。
子どもたちは日本語という言語を駆使して、自分たちの意味や価値の中で生きているのです。「違うことを言っている」と理解して、子どもが知っている意味や言葉に近づく必要があります。ニュアンス程度の理解でいいので、意訳でいいという程度の通訳が必要になります。そのために、普段から子ども同士の会話を聞いてみたり、子どもと話してみて意味のすり合わせをしてみるといいでしょう。
謎の言葉を話しかけられて、一体それは何のことだろう?と曖昧なニコニコ顔で聞きながら、あれでもない、これでもないと子どもの興味や日常の姿を早送りで思い出しながら、記憶をひっくり返して考え込んでしまうことも、楽しいものです。子どもの理解度や興味や関心、話の方向性、たとえ話や言い換え等、メッセージをやり取りしたい子どもに合わせた形のものを考えていると、随分と子どもの育ちや成長に気がつきます。
ここで、「何それ、あり得ない!」となったら、子どもとは話が通じなくなると思ってください。当然、叱っても注意しても聞いてくれなくなります。こちらから近づく心構えが大事です。しかし実際に意味が理解できるかどうかは、運のようなものです。ハラハラの実に楽しいコミュニケーションです。

2020年02月04日

叱る表情

子どもは叱られている時に、叱っている大人の言葉をどの程度理解できているでしょうか。当然ですが、言葉の発達の未熟な幼い子ほど言葉の内容を聞いていません。
子どもたちの意識が集中しているのは「顔」です。ですから、叱られると、目を合わせようとしないという仕草は、幼い時から現れます。子どもたちは基本的に顔を意識し、表情を読み取ることに長けています。
ですから、「叱る」ことをお互いにとって有意義な時にするためには、表情を普段とは違う「叱る」という表情に変えて叱ることが大事です。大人は叱っているのに子どもはふざけて聞いていないという時には、表情に隙がある場合が多いです。子どもはその緩みを見逃さずに不愉快な時を別の意味の時に変えてしまいます。結果として、何度も同じことを叱らなければならないという悪循環に陥りやすくなります。
叱る時に限らず、人間の表情のポイントは目と口です。笑顔であれば、目尻が下がり口角が上がります。叱る時にはその反対の顔を意識します。つまり、目尻が上がり口角が下がります。叱ることが苦手な方というのは、この叱り顔を作るのが苦手のようです。叱り顔ではなく、「困った顔」になってしまうのです。困った顔というのは人によっては「苦笑い」になって、笑っているように見えてしまいます。
叱るということは、叱る側も叱られる側も何度も繰り返したい時ではありません。効果的に叱るために、表情を意識してみると良いと思います。

2020年02月05日

叱ることの限界

子どもを叱ることには即効性が見られます。子どもは叱られるとすぐに行動を止めます。
叱る側の目的は、問題であった行動を止め、改めてもらうことです。一方、叱られる側の目的は、叱られている時間と場所から一刻も早く逃げることです。そこで叱られると、何が問題であったのかを理解することなく行動を止めて、「叱られた風」を見せるということを身に着けていきます。
一見すると、分かってくれたように見えます。しかし、改めることができないのですから、同じことが繰り返されます。また、叱ります。叱るという行動は、回数を重ねるごとにだんだんと効かなくなるのは、子どもが、叱られることに慣れてしまい、その回避方法を身に着けてしまうからです。そうすると、今度は叱る方もより強く叱らなければならなくなります。そして、あるところで怒りを覚えて、超えてはならない限界を超えてしまう恐れがあります。
そこで、叱る時には強く「自分は、今、叱っている」という自覚を持つことと、感情に任せずに「叱ることをいつでも止められる」という叱る側の自省と制約が必要になります。
子どもにとって、叱られることはエマジェンシーに過ぎません。本当に理解してもらいたいことを伝えるには、一回では足りません。何回も繰り返さないといけません。そしてやがて効果はなくなります。子どもに無視されるようになります。叱る側は怒りに囚われ、叱られる側は無視を覚える。ここに叱るという行動の限界があります。
問題となる行動を改めることが目的です。そのためには、「叱る」ことが唯一の手段ではありません。別の方法でも問題行動を改めるための関りはできるという視野を持つことも必要です。

2020年02月06日

子どもが受け入れにくい言葉

子どもにメッセージを伝えようとする時に避けるべき重要な点を挙げるなら二つです。
ひとつは、「プライドを尊重する」ことです。子どもは、育ってきた自分にプライドを持っています。それを貶めるような言葉は受け入れられません。
「男の子のくせに」とか、「女の子なんだから」といった言葉は受け入れにくい言葉です。同じように、「お兄(姉)ちゃんだから」、「もう年長さんなのに」、「~ちゃんはできているのに」といった言い方も受け入れにくい言葉です。こういった言い方は子どもに対する期待の裏返しなのでしょうが、行き過ぎた言葉です。
ふたつめは、「こどもの宝物を尊重する」ことです。子どもは大人から見るとガラクタにしか見えないものを大切にしています。
大人から見ると、どう見てもガラクタにしか見えない空き箱で作った“何か”を捨ててしまったら、子どもは猛烈な怒りを表します。大泣きします。どうしても読み取れない“何か”をとても大切な手紙としていつまでもカバンのポケットに入れています。小石や落ち葉、虫の死骸まで大切に持っています。
子どもたちの大切なものの基準が分かりにくいと思われるかもしれません。一つ一つのものに目を向けると意味不明なものがありますが、子どもの身体との距離で測ると分かりやすいと思います。彼らの大切なものは、すべて手の届く身の回りで得たものです。日常に根ざしている発見と様々な関りが子どもたちの宝なのです。それらは大切にしてあげましょう。

2020年02月10日

ちゃんとしなさい

「ちゃんとしなさい」という言葉を子どもはいったい何回聞いていることでしょう。その時、「ちゃんとする」ということは、具体的にどんなイメージになるでしょうか。
言われたことに文句を言わずに対応する子でしょうか。ダメと言われたらすぐに止めることができる子でしょうか。ふざけないで真剣に話を聞く子どもでしょうか。叱っている側の悲しみや苛立ちを理解できる子どもでしょうか。
大人の発する「ちゃんとしなさい」のうち、半数以上は実は具体的イメージを持っていないのではないかと思います。具体的イメージがないままに、「自分を困らせないで」というメッセージを発しているのではないでしょうか。つまり、具体的どうすべきかは、子どもが判断しなければなりません。
「ちゃんとする」の「ちゃん」とは、語源としての意味は「すぐに」とか「早く」といった意味になるそうです。つまり、「ちゃんとしなさい」というのは、「さっさとやりなさい」ということです。
これは幼い子どもにはなかなか難しい要求です。なぜなら、幼児期の子は極端な転換が得意ではありません。いわゆる「切り替えが苦手」なのです。また叱られた時などの緊張感も苦手です。「空気を読む」ことにまだまだ長けていないからです。
ですから、大人が真剣であればあるほど、場の空気を読まずにふざけます。叱られているのに笑います。そんな時に周りが笑ってくれたら、調子に乗ってしまいます。どんどんエスカレートします。彼らにしてみると、分かりやすい期待に応えているだけです。
「ちゃんとしなさい」と言われて、期待されている「ちゃんとしている」イメージ通りに応えるためには、「ちゃんとしなさい」と要求する大人よりも、広い心と深い洞察と強い自制を持っていなければならないのです。
あいまいな「ちゃんとしなさい」に応える幼児を見たなら、おそらく私は感心するよりも心配してしまうことでしょう。それは既に子どもの生き方とは思えないからです。

2020年02月12日

衝動と悪化

子どもと一緒に過ごしていると、突然の予想できない動作に出会います。個人差がありますが、おおむね子どもたちの行動には衝動的なものが多く見られます。それらは時として怪我やトラブルにつながります。
さらに、行動がドンドンとエスカレートします。調子に乗るということでしょうが、ふざけてしまったり、力が入り過ぎたり、嫌がられても何度も続けて他の子とトラブルになります。
これらの行動の原因には、特定のホルモンが関わっているとか、進化の過程で身に着けた性質とか、諸説あるようですが、ともかく子どもは衝動的に行動し、行動をエスカレートさせて、困った事態を自ら招く、そういった存在だと理解しておいた方がよいと思います。
戦いごっこはいつの間にかケンカに発展します。機嫌よく遊んでいたと思ったら、目の前を通りかかった子にいきなりパンチをします。滑り台の上から、突然ジャンプします。ニコニコ笑って、人の顔に砂を投げつけます。お札もティッシュも関係なくビリビリと破いてしまいます。鼻の穴や耳の中にドングリやビー玉を入れます。なぜそんなことをするのかについて、子ども自身に理由を尋ねてもわかりません。体が勝手に動くと捉えた方がよいと思います。
実は、不慮の事故で亡くなる子どもは、病気で亡くなる子よりずっと多いのです。子ども特有の衝動性や行動を悪化させてしまう性向とが事故原因と結びついていることが多いと思われます。
子どもは衝動的な行動をとり、行動をエスカレートさせることが「当たり前」の存在だと理解して、予想と備えをできるだけ広げることが必要です。
幼稚園では、園外に出るときには必ず手をつないで道を歩きます。その際、年齢の低い子に車道側を歩かせないようにします。止まっている車であってもできるだけ避けます。特に普段から衝動性が強い子は、必ず教師が手をつなぎます。
「道を歩くときは手をつなぐ」というたった一つのルールが備えられて、守られるだけで子どもを多くの衝動的に起こる危険から守ることができます。衝動的な行動がみられる時期には、普段から、関わりや移動、遊びの中で安全を最優先に考え、目を離さず、できるだけ手の届く範囲で行動を見守ることが大事です。

2020年02月13日

幼児の自己中心性

ジャン・ピアジェは、20世紀スイスの心理学者で、認知発達や発達心理学の分野で最も影響力のある功績を残した心理学者です。現代でも彼の研究を検証し続けているといってもいいくらいでしょう。
彼の研究の一つに、幼児期の自己中心性に関するものがあります。自己中心性とは、いわゆる「ジコチュー」という性格のことではなく、自分以外の視点を持っていないことを言います。自分以外の視点が存在することがわからないために、周囲の人間も自分と同じように世界を知覚していると思っている状態のことです。およそ7歳以前の子どもは自分の視点が中心にあると言います。そして自分の視点で着目した特徴に執着します。
最近では、脳科学の発達もあり、様々な角度からピアジェが「幼児期の自己中心性」と呼んだものを検証しています。それらの研究では、おおむね7歳以降のかなりの年齢になっても自己中心性は私たちの中に残り続けるとされています。中には一生の間、自己中心性は私たちに重大な影響を与え続けるという主張もあります。つまり、人間の心理は完全な客観性を獲得することができないというのです。
私は心理学者でも脳科学者でもありませんから、これ以上の専門的な議論には踏み込めません。しかし「幼児期の自己中心性」が幼児教育の様々な取り組みに深く関わることは予想できると思います。
例えば、幼稚園の子どもたちが文字に興味を持つと、まずほとんどの子が「鏡文字」を書きます。器用な左右をひっくり返した文字です。これは、文字を書いている人を正面から見ていることを意味しています。子どもの視点からは、文字は鏡写しに逆に見えるのです。「幼児期の自己中心性」からは、子ども視点に合わせて見せることが必要になります。つまり正面ではなく隣で、さらに手を添えて一緒に動かせば、視点を合わせることができて、子どもはより理解しやすい環境を得ます。
ちょっとしたことですが、子どもの視点は自己中心的であることを前提にできると、子どもの行動や理解について、見守りや協力の際の工夫の仕方が見いだしやすくなると思います。

2020年02月14日

新型コロナウイルス感染症感染予防に伴う休園のお知らせ

新型コロナウイルス感染症感染予防に伴う休園のお知らせ
 日頃より幼稚園にご協力を賜りありがとうございます。
 先般、安倍内閣総理大臣による新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のために、全国の小・中・高・特別養護校への休校要請の発表がございました。この発表を受け、西荻学園幼稚園の感染拡大防止の対応を検討し、登園におきましても3月2日(月)から3月18日(水)までの休園を決定いたしました。
 保護者の皆さまには、多大なご負担となるご家庭もあろうと思います。これまでも、マスクによる飛沫防止、立ち入りの際の消毒、降園後の消毒作業などで感染拡大防止に努めてまいりました。これは小・中・高・特別養護校においても同様のことと思います。にもかかわらず、全国一律にこれらの学校に休校を要請する事態にいたっては、それらの学校の取り組む感染防止策では十分に感染拡大を抑えることができないとの判断があるものと考えます。ウイルス感染防止のために小・中・高校の十分な判断と行動のできる生徒を迎える学校に対してそのような要請が出るならば、幼児をお迎えする幼稚園にいたってはなおさらのことです。
 文科省は、「幼稚園は一律の休校要請対象に含まれない」と回答をしており、そのことは報道もされております。しかしながら、子どもたちを守り、かつご家族、また教職員への感染を防ぐために、当園では上記のように考え、独自で休園を決定いたしました。何卒、ご理解とご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。
 かかる事態の早期の収束を願い、進級、進学の喜びの時として新年度を子どもたちが元気に迎えることができるよう、またご家庭の皆さまも守られますよう、心よりお祈りしております。
2020年2月28日  西荻学園幼稚園  園長 有馬尊義

2020年02月28日

振り返り 新型コロナウイルス感染症への対応

新型コロナウイルス感染症の感染防止のために西荻学園幼稚園も休園としました。唐突な首相の小・中・高校および特別養護学校への休校要請の報道を受けて、各幼稚園の園長も対応を迫られました。首相の休校要請の夜、私のところに幾人かの園長先生からお電話がありました。「先生のところはどうしますか?」というお電話でした。すでに教職員と保護者会の幹事長に休園その他の基本方針をメールしていましたので、「休園にします」とお答えしました。その段階で考えていたことを記してみようと思います。
お分かりのように、幼稚園の室内保育環境は「濃厚接触」環境です。濃厚接触の危険は小・中・高校よりも高い環境です。そして濃厚接触の環境が保育環境の基本となっています。子どもたちと顔を合わせず、話しかけず、触れることなく保育を行うということは無理です。首相の言うように「これ以上の感染拡大を防ぐ」という点から言えば、真っ先に救援すべき環境です。しかしながら、文科省は「幼稚園は要請対象外」と回答し、「保育所は開所するように」という指示が回りました。こども園にも自治体から開所要請があったと聞いています。
前例のない事態でしたが、こうした場合の私の思考の道筋ははっきりしていて、「第一目的を達成するための最短のストーリーを構築する」ことです。

① 新型コロナウイルス感染症への対応の第一目的は「感染拡大防止」。
② 感染拡大防止によって守られるべき対象は、第1位が園児、第2位が教職員、第3位は保護者、第4位に園児及び教職員の家族、第5位に幼稚園近隣にお住いの方々。第3位以降は第1位、第2位を守ることで同時に感染拡大防止を図ることができる。
③ 感染を防ぐためには「濃厚接触」の機会を可能な限り減らすことです。

新型コロナウイルス感染症についての情報は決してクリアなものではありませんでしたが、この段階で西荻学園幼稚園をあずかるものとして注目していた情報がありました。
① 新型コロナウイルス感染症は、自覚する「風邪のような症状」が出る2日前から弱いが感染の可能性があること。
② 子どもが感染しても気がつかないかもしれないこと。
③ ご高齢の方、持病をお持ちの方が感染されると重篤な状態になる可能性が高くなる。最悪の場合死亡のリスクがあること。
④ 感染の可能性の観察に「2週間」という目安が示されていること。
⑤ 一度感染された後、回復され「陰性」が認められながら短期間で再度の感染が確認された人が複数出たこと。

対応すべき幼稚園の状況を確認すると、
① 幼稚園には高齢の方と同居なさってる家庭もあり、同居なさらずとも普段から親しく行き来しているご家庭もある。
② 預かりを希望している家庭があった。但し就労を理由に希望されている家庭は少数で、その他も小学校の関係での預かり希望であった。
③ マスク、消毒のアルコール等はまだあるが、今後の補充の目処はない。
④ 現在対応している以上の感染防止対策の準備はできない。
⑤ すでに自主的にお休みしている家庭がある。
最大の悩みは、卒園を控えた園児とそのために一所懸命にご準備をしてくださっていた保護者の方々のことでした。子どもたちの気持ちを思うと、卒園遠足、お別れ会というイベントが中止となります。保護者の方々も謝恩会をはじめ毎日のように集まって準備してくださっていました。しかし、命には代えられません。また、感染後の後遺症については不明です。全てが収束して「あんなに大げさにしなくてもよかったではないか」と非難されるならば、その方が良いでしょう。皆が無事にこの危機を乗り越えてこそ、非難も言えるのです。卒園式は規模を大幅に縮小して行うこととました。教職員はラッシュ時間をさけて出退勤時間変更を指示しました。
以上のことから、2月27日夜に休園をはじめ、基本的な対応を教職員に伝え、謝恩会の中止を幹事長に要請しました。翌28日朝に教職員の会議を開催して基本的な対応を正式に通達し、28日に各教室を園長が訪れて子どもたちにお休みとなることを伝えることにしました。事実上の終業式でした。教師たちはすぐに持ち帰りの荷物を整えてくれました。謝恩会をご準備くださった保護者には直接説明する機会を持てました。現在は、縮小する卒園式の準備を進めています。
保護者の皆さまは、突然の休園通達にも関わらず、積極的にご協力をくださり、幼稚園の対応で欠けたところを互いに補ってくださいました。西荻学園幼稚園は保護者の方々に恵まれていると深く感じました。心から感謝します。
28日午後に地区の幼稚園連合会事務局から対応についてのお問い合わせをいただきました。夕方に区役所から「参考」ということで杉並区内の小・中・高校の休校についての情報提供をいただきました。さらに、近隣の同じ教会に属するキリスト教系の幼稚園・保育園連絡会と情報交換をすることができました。情報収集と交換は現在も続いています。
ともかく、一日も早く収束の道筋を得て、新年度は元気な子どもたちを迎えられるように祈っています。

2020年03月03日

親の役割

親の役割をまとめると、次の3つにまとめられます。
① 悪いものは通さず、良いものは通すフィルターの役割
② 子ども発達に合わせて環境を整える役割
③ 子どもの模範となる役割
お母さんの胎内に宿った時から、子どもにとって最も影響力のある存在は親です。生殺与奪を親は握っています。親は、母乳かミルクかの選択、おもちゃ・幼稚園・習い事など、どんな環境を与えるか、与えないかを選択する権利があります。
子どもは親に「人間」の手本を見ます。親を真似ていきます。お友だちやテレビの影響で「悪い言葉を覚える」と聞きます。確かに言葉をどんどんと習得する子どもは、一旦は新しい言葉に飛びつきます。しかし、親がその言葉を使うことを「人間」として嫌うことを知れば、使わなくなります。知識として得た「悪い言葉」は、用いずとも知識として蓄えられて、やがて子どもが自分で自分を守るためのフィルターになります。親自身が子どもにとって最高のフィルターです。現代は、子どもにとって誘惑されるガジェットが溢れかえっています。その中で何を与え、何を与えないかの選択は親にゆだねられています。そこで親の役割であるフィルターとしての役割を上手に発揮することが大事です。
そのために、親はフィルターである自分を理解しようとする姿勢が大事です。私たちは「常識」、「善悪の基準」、「あるべき姿」、「許せる範囲」等々、様々な網目のフィルターを持っています。それに当てはめて判断します。自分がどんな知識や経験を持っていて、物事をどのように捉える癖があるのかを知っておくことで、親としての役割を一つずつ果たしていくための手がかりを得やすくなります。

2020年03月05日

子育ての目標

全国にたくさんの幼稚園がありますが、どこも例外なく必ず「幼稚園の方針」や「教育目標」があります。西荻学園幼稚園の方針は、「人格の基礎となる人間力を育て、人生を開拓し、世界に貢献する人へ」です。これは聖書の「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」という言葉に基づいています。さらに方針の下で「好奇心を育てる」「考える習慣を育てる」「自己主張を育てる」「協調性を育てる」「伸びしろを信じる」という教育目標があります。
方針や教育目標は、「この幼稚園では、こんなふうに子どもたちを迎え、こんな人に育つように教育をします」という「教育のビジョン」です。もちろん小学校、中学校、高校。大学も方針や教育目標を持っています。インターネットで調べればすぐに見つけられます。幼稚園や学校の教師は力を合わせて方針に従って教育目標の達成を目指しているわけです。
一方で、ご家庭ではなかなか「子育ての目標」として「どんな子に育てたいのか」という「子育てのビジョン」がなんとなく漠然としたものはあっても、家族の間で明文化されていないことが多いようです。保護者と面接をすると「うちの方針で~」と言われることが多いのですが、明文化されていないのでご両親でやや食い違った理解をしておられることもあります。「父親は~というほうしんなんですけれど、私としては~であって欲しいんです」という方もいます。
方針や目標がないというのは、いわば設計図なしで家を建てようとしているとか、目的地が分からないまま地図無しに初めての地を旅するようなものです。灯台の灯りがない暗闇の航海かもしれません。家の見栄えは良くでも土台がしっかりしていなかったり、同じところをぐるぐる回って立ち往生したり、取り返しのつかない事故を起こさないために「設計図」「地図」「灯台」となる方針や目標は家庭の中で明文化されることをお勧めします。
親としての役割を果たしていくために、どんなことを良いこととして子どもに与え、何を悪いこととして遠ざけるのかという判断は、その場の雰囲気や感情ではなく、明文化された方針と目標による方が、行き当たりばったりにならず一貫性のある親の態度を子どもに示すことができます。
親の大切にする方針と目標は、子どもにとって言葉よりも一貫性のある人間としての親の「模範」によって伝わります。ぜひ、ご家庭で方針と目標を一度は話し合ってみてください。決して無駄にはならないことです。

2020年03月06日

子育てのヴィジョン

先日、近隣の小学校が「あいさつ運動」をしました。幼稚園は小学校の通学路にあるのですが、園庭の掃除をしていたら通った小学生が挨拶をしてくれました。「これが大事」と心から思っていることを伝えられると、その方へと子どもたちは行動を起こし、成長していきます。教育目標を反映して、教師は具体的な働きかけをします。
これは子育てのヴィジョンにおいても同じです。親が心から大切に思っていることを明確にしたヴィジョンをもつことで、子どもはその方へと成長していきます。ヴィジョンによって褒めるべき姿と、叱らなければならない姿が親にも子にも明確になります。流行や周囲の価値観に脅かされずに、一貫して子どもたちに働きかけることができます。一貫性を持つことが、親が大切に思っていることを、子どもたちに「本当に」大事なことなのだと迫力をもって伝えることになります。また、ヴィジョンを持つことで、そのヴィジョンを達成するための情報も集まりやすくなります。
ヴィジョンはいくつかでてくるでしょう。例えば、「思いやりのある子」「元気で明るい子」「挨拶ができる子」等々です。話し合うと、いろいろ出てくるだろうと思います。その際、ヴィジョンが、「~だけできればいい」というアンバランスになるのは良くないと思っています。「知・体・心」のバランスをとるようにすると良いと思います。私自身は、そこに社会性を視野に入れることも大事だと思っています。
また可能ならば、いくつもあるヴィジョンを子どもたちにも分かりやすいキャッチフレーズのようにすると良いです。西荻学園幼稚園は、方針と教育目標はいくつかの項目がありますが、それを初代の園長は「元気で仲良く」と言って、入園式、始業式、終業式などでいつも子どもたちに話していたそうです。語呂よく言えると子ども自身も覚えやすくなります。

2020年03月09日

やすらげる場所

子どもがやすらげる家庭とはどういった場であればいいのでしょうか。
やすらげるには、まず素のままで受け入れられる必要があります。ただし、好き勝手できるということではありません。相手がどう思おうが、どんな気持ちでいようとも関係ないということではありません。このような場所では家族の誰かが居心地の悪い思いをします。居心地の悪い思いをする家族がいるところは、子どもにとって本当にやすらげる場所ではないだろうと思います。
もちろん、ケンカが絶えない環境もやすらげません。兄弟げんかが全くないということはないでしょうが、あまりにも頻繁で激しいようですと、家庭の外で過ごすのとは違う緊張感に子どもは囚われてしまいます。
また、急かしたり、注意や小言が多い家庭も、やすらぐ場所にはなりにくいでしょう。「早く片付けて」「早く食べなさい」と急かされては落ち着けません。子どものペースを尊重してあげる配慮も必要です。
子どもの話に関心を持たず、困ったことや悩み、楽しかったこと嬉しかったことを話せず、ただ同じ家にいて寝起きをするだけというように、家族が存在していてもそれぞれが孤立して関りがないところも、やすらぎの場所とは程遠いでしょう。
やすらぎの場所とは、好き勝手出来る場所ではなく、過干渉な場所でもなく、孤立した場所でもありません。やすらぎの場所とは、背伸びせず、委縮せず、本来の自分でいられる場所であり、お互いがお互いを思いやる場所です。

2020年03月10日

器を大きくする

先日、「親の役割」について記しました。読み返して一番大事なことが欠けていることに気がつきました。
子どもたちは毎日たくさんのものに触れて、遊んで、挑戦して、知識や情報、社会のルール、他の人とのコミュニケーション等の生きていくための力を身につけます。子どもたちが身につける生きていくための力を水にたとえると、子どもたち水を入れる器にあたります。
子どもの育ちを考えるときに、私たちは子どもたちに与える「水」について意識を向け、いかに水を子どもたちという器に注ぐかに力をいれてしまいがちです。しかし、本当に最も力を入れるべきことは、どうやって器を大きく育てるか、ということです。
器が小さいままでは、どれほど良質な水(習い事、知育、知識等)を一生懸命に、心を込めて注いでも溢れてしまいます。器が小さいままでは、また汲んできて注いでも溢れてしまいます。水を変えても、器が小さいままならば溢れてしまいます。せっかく良質な水を見つけ与えているのに溢れさせる子どもに、イライラしてくたびれてしまうかもしれません。水を与えても受け止められない子どもの方が「おかしい」、「普通じゃない」と感じてしまうかもしれません。
親の役割の第一は子どもの器を大きく育てることです。器が大きく育っていけば、フィルターとしての役割を果たした親の選んだ良い水を「もっと、もっと」と受け止めていきます。子どもには極めて強い育ちの欲求がありますから、子ども自身が自分の器をいっぱいにしようと自分自身で水を汲んできます。自分で必要なものを選んで、自分でそそぎます。「やりたい」「知りたい」という興味関心をもって身につけるものは、習得が圧倒的に早く、習熟も深くなります。悪いものに触れた時も、大海のように水を満たした器であれば、問題にはなりません。
それでは、子どもの器とは何でしょうか。大きく二つあります。一つは「体」に関心を向けることです。人間は「心」「体」が別々に存在していません。心と体の両方があって人間なのです。心と体が互いに影響を与えています。ですから、体が成長することで心も成長します。体が疲れていると、心も疲れます。ですから、良い食事や睡眠を与え、生活のリズムを整えることで器を育てます。
もう一つは「心」です。ただ「心」では漠然としていますので、最近では「自己肯定感」と呼ばれ、知っている方も多いと思います。自己肯定感とは、文字通り、自分を肯定しどんな自分も受け入れている状態のことです。また自分の存在を価値のあるものだという気持ち(自尊感情)を同時に持ちます。そして、自己肯定感が大きく育つほど、相手も受け入れることができるようになっていきます。人からの信頼や好感も高まり、逆境に強くなり、冷静に判断できるようになります。そのため、悩みや不安で落ち込むことが少なくなり、途中で挫折することもなくなっていきます。つまり、器が大きくなるのです。

2020年03月11日

自己肯定感を育てるために

自己肯定感を育てるためには、体と心へのアプローチが必要です。そして自己肯定感は幼いころが最も育ちやすい時期です。思春期を迎えるころには自己肯定感の成長は緩やかになっていきます。それは周囲の肯定的なアプローチよりも、自分の内的な批判の声に耳を向けるようになるからです。これは健全な成長の過程です。自分という存在への不信感を抱き、それまで育ってきた自分への信頼感と新たに気づいた不信感のせめぎあいの不安の中で、「自分は何者なのか」、「どこに帰属しているのか」、「他と何が違うのか」という自己同一性の確立がなされます。ですから、それまでに育てられる自己肯定感は自己同一性の確立に非常に大きな影響を与えます。
体に対しては、生活リズムを整え、十分に体を動かし、たっぷり遊び、健全な空腹を食事で満たし、十分な睡眠をとることです。当たり前のことですが、私たちの体はどんどんと細胞を入れ替えています(例外はあります)。食べたものを材料にして、代謝が行われます。そのためにホルモンの分泌等による絶妙な調整が行われます。そのために生活を整えることが一番有効な方法です。
一方の心に対しては、子どもが「自分は認められ、愛されている」ことを感じられるようにすることが必要です。一番子どもにとって大切なお母さんやお父さんから、長所も短所も丸ごと認められて、丸ごと愛されている、と実感できるかどうかが鍵です。そのために欠かせないのが、接触と言葉かけです。
「“つ”が付くまでは、膝の上」と言われます。子どもの年齢が「0歳」のときは抱っこして、「ひとつ(1歳)」~「ここのつ(9歳)」までは、膝の上にのせてあげてください。勿論、年齢が上になるにつれて子どもは親との接触が少なくなります。それは、子どもの行動範囲や興味関心が広がり始めるからです。しかし、そのような時こそ、安心して迎えてくれる「基地」が重要です。時にはぎゅっと抱きしめてあげることも必要でしょう。互いの顔を見て向かい合うこと、同じものを並んで見ること、そんな「一緒の時間」が自己肯定感を育てます。
中学生に「親に抱っこされてきてください」という課題が出されたそうです。どの子も初めはとても嫌そうな顔をしましたし、自分よりも大きくなっている子を抱っこするのをためらう親も多かったそうです。しかし、意を決して抱っこされると、「嫌だった」という子は一人もいませんでした。むしろ、どの子も実に柔らかい表情で話をしていました。また、親の方も不思議なもので大きくなったことは分かっていたのに、実際に抱っこしてみるとこんなにも大きくなったことを子どもに感謝する気持ちで一杯になったそうです。そして、それは他ならない親の人生が与えた大きさです。そこで新たな自己肯定感の成長を親が得るのです。親子は互いの自己肯定感を育て合うことができるかけがえのない関係です。
そして自己肯定感を育てるもう一つの道具は「言葉」です。自己肯定感を育てるための言葉は「子どもを認める」言葉です。私たち大人は、子どもを認めているようで、実際は多くの否定の言葉で子どもに接しています。教えているつもりで否定する言葉を使います。まず、子どものことを「全肯定」して受け止めることを会話のスタートにしてください。誤りは対話の中で子どもが納得できるように丁寧に伝えます。

2020年03月12日

試行錯誤の積極性

遊びがどれだけ子どもの発達にとって大切かについて改めて語るまでもないでしょう。
心理学者が、遊びにおける子どもの知能発達について以下のような実験をしたそうです。
幼児を3つのグループに分け、1つめにはペーパータオルやクリップといった日用品を大量に与えて自由に遊ばせます。2つめのグループには、大人がそれらの日用品を使うのを見てまねさせます。3つめには、クレヨンで好きに絵を描かせます。
その後で、3つのグループの子どもたちに日用品の一つを示し、「これは、いろんな使い方ができますよね。どんな使い方があるか、教えてくれませんか?」と質問しました。すると、その日用品で自由に遊んだ第一のグループの子どもたちが、圧倒的に多数の個性的な回答をしました。普通では考えられないような、自由な発想も多くでました。
このことから、ものを使って自由に遊ばせることは、子どもたちが試行錯誤しながら道具の性質を知り、自らそれを活かして新しい使用法を思いつく、つまり創造性や柔軟性を培うために有効だと考えられます。
遊びの中での子どもたちの試行錯誤について、ピアジェは「研究」にたとえました。子どもたちは手当たり次第に試しているのではなく、何らかの仮説を立て、その仮説に基づいた行動をしているのです。例えば、積み木を高く積み上げようとするときに、土台の部分を大きく作り、上に行くほど小さな積み木にしていく等です。子どもは遊びの中で試行錯誤をする中で、決して受け身の存在ではなく、積極的に事象に働きかけていて、その「在り方」を知ろうとするのです。幼児期の子は、新しいものを見ると「触らせて!」とせがみます。物によっては触るだけでなく口で咥えることもします。壊してみます。同じものがないか探しに行きます。試行錯誤ができると、子どもは積極的に世界を知ろうと活動します。そこから、思いもよらない私たちも知らなかった世界を見つけ出してくるのです。

2020年03月13日

子どもの質問に答えるべきか

子どもは、大人はどんなことを聞いても正しい答えを即座に出してくれる完璧な人間だと思っています。幼稚園でも、「園長先生なら分かるはず」という迷信があって、教師たちも答えに困ると、「じゃあ、園長先生に聞いてみようか」となることがあります。
「これは何?」、「どうして?」「なんで?」と尋ねてくる子に、私はつたない知識を絞り出して子どもの疑問に答えようとして頭をひねります。専門用語では子どもには通じないので、分かりやすく説明しようとすると、こんどは話が長くなって子どもが飽きてしまいます。
子どもが好奇心旺盛なことは素晴らしいことです。ですから、大人は何とか知識を伝えようとします。しかし限度があります。
「子どもの疑問にどうやって答えればいいのか」、というのはテクニックを問うことです。古くは「子ども電話相談」がありましたが、現代は様々なコンテンツで子どもの疑問に巧みに答えを提供してくれるものが多くあります。
一方で、子どもの疑問に逐一答えていると、「答えは尋ねれば教えてもらえる」という思い込みが強化されてしまいます。「知らないことは尋ねれば教えてもらえる」というアプローチも大事なのですが、そこから次のステップへと子どもを向かわせるきっかけにすることは、それ以上に大事です。
「なぜ?」と尋ねてきたら、「なぜだと思う?」と聞いてみてください。実は子ども自身が答えを知っていることもあります。全く分かっていない場合でも、「なぜだと思う?」と尋ねることで、疑問から、思考実験へと子どもを誘うことができます。
子どもにとって自分の手足を使っての試行錯誤と共に、実際に動かさず、目にすることなく、今ある知識を動員して思考の中で論理を積んでいくということも、大事な経験です。
子どもの疑問に対して、答えを提供するのではなく、疑問への「取り組み方」、「思考の立て方」、「思考の組み合わせ方」をもって応答するのです。それは子どもと一緒に疑問に取り組むということです。
これは「この花の名前は何?」といったことでも「調べ方」に一緒に取り組むことができます。文字をまだ多く読めない子どもに、図鑑を一緒に開きながら、「今は春だね?」、「何月だっけ?」、「それじゃあ、3月のお花のページを開けてみようか」、「その花は何色?」、「大きいお花?小さいお花?」、「葉っぱの形をよく見てみようか?」と一緒に探せば、「図鑑で花を調べる方法」をやがて子どもは取得します。図鑑を一緒にめくっていく中で、小さな「その他」の知識も子どもは得ることができます。
子どもにある程度の知識が蓄えられてきたら、子どもが受け身となってしまう「疑問と答え」を、子どもが積極的に取り組む試行錯誤へと導くきっかけにする方が大事になります。

2020年03月16日

卒園式

卒園式を本日することができました。31名の子どもたちが卒園していきました。
卒園式では「実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。」(テサロニケの信徒への手紙一2章20節)という聖書の言葉をもって、式辞としました。
新型コロナウイルス感染症のために休園としたので、卒園遠足もお別れ会も中止となりました。卒園式も窓を開け放った遊戯室で参列者を限定し、大幅に短縮して行いました。卒園と小学校への進学という大きな節目を迎える子どもたちにも保護者にも異例なことで、心配や不安もあった中、出来る限りの準備をし、お手伝いをいただきました。式場をきれいに飾ってくださったのは保護者の皆さんです。
保護者の皆さまのこれまでの多くのご協力を深く感謝いたします。小学校でますます知恵を深め、背丈も伸び、人を愛し、神と人に愛される子として成長されますよう、お祈りいたします。

2020年03月17日

愛着の形成

私たちは不安な時、誰かに頼り安心感を得たいと感じます。多くの子どもは親に抱っこしてもらうことで安心感を得ます。そういった他者との情緒的な結びつきを愛着関係(アタッチメント)と呼びます。愛着関係を乳幼児期に形成することは極めて重要なこととされています。愛着関係が形成されると、子どもにとって親は安全基地のようなものになると言われます。安全基地があれば、そこから出発して周りの世界に探検に出ていけます、何か怖いことがあっても、基地に戻れば安全と安心を得られ、子どもは元気を満たして次の探検に出発することができます。
愛着関係は実験から、本質は栄養補給ではないことが分かっています。抱っこのような身体的接触による温もりは重要です。しかしそれだけではありません。乳幼児期の子どもの愛着関係の形成に重要な要因は、乳幼児期の子どもが発する様々なサインが鍵となります。言葉を発する前の子でも、泣いたり、笑ったり、見つめたりという様々なサインを発しています。それらがどのくらい意図的かどうかは分かりません。反射的なものも多くあるでしょう。しかし重要なのは、サインを受け止める大人がいるという事実です。そして、サインを受け止めた大人がどのような行動をするかということです。
健全な関係であれば、子どもが泣いていたら、大人は子どもを無視するでしょうか。おむつか、ミルクか、それとも他のものが必要なのか、不愉快な何かを取り除くべきなのか、考えて応えようとするでしょう。「どうしたの?」と語りかけて抱っこするかもしれません。子どもが笑っていたら、子どもが笑顔というサインを意識的に出しているかどうかではなく、子どもの笑顔に魅かれて、自然と大人も笑顔になります。語りかけることもあるでしょう。
このように子どもがサインを出し、親はそのサインに対して反応を返します。親の反応に対して子どもが更に反応を返すことで、「やりとり」が積まれていき、関係が形成されていきます。そのような経過を赤ちゃんの時、幼児の時の成長に応じて重ねていくことで、強力な愛着関係が形成されていきます。
赤ちゃんは生後3か月から半年くらいまでは、どのような他者とも愛着関係を形成する可能性があるそうです。両親以外の相手にも、サインを向けます。そうやって自分の世話をしてくれるのが誰なのかを見極めているそうです。自分と過ごす時間が一番長いのは誰か。質の高い世話をしてくれるのは誰か、ということを見極めつつ、青着関係を形成する相手を決定していきます。3か月から半年は誰にでもサインを見せるものの、その後は特定の人に愛着を見せるようになります。その後、人見知りがでて見知らぬ人に対して警戒を見せる一方で、愛着関係を形成する人との関係をさらに求めるようになります。姿が見えなくなると泣いたり、後追いをするようになります。そうやって強い愛着関係を形成し安全基地を作った子は、短時間であれば離れても過ごすことができるようになり、仕草や表情は豊かになり、言葉を発し、お互いが協調してさらに愛着関係を深く強くすることができるようになります。(参考・「おさなごころを科学する」森口佑介著 新曜社)

2020年03月18日

疲れる保育

玉川大学准教授・東一の江幼稚園園長の田澤里喜先生の新聞連載(日本教育新聞2020年3月16日)を要約して紹介します。
田澤先生が幼稚園でクラス担任をしていた時に、子どもを多面的に見るという目的で、同じ4歳児のクラス担任を一日だけ入れ替えるというクラス交換が実施されました。一日の保育が終わり、自分の担任するクラスの子どもたちのことを入れ替わった先輩保育者に尋ねたところ、「田澤先生のクラスで保育をするのは疲れる」と言われて、驚いたそうです。
どういうことかというと、田澤先生のクラスの子どもたちは、小さなことでも先生に確認して来たり、自分たちで解決しようとしないことが多く、「先生、○○つかってもいい?」「先生、A君たちがケンカしてる」と聞いてくるというのです。こうした子どもたちの様子を「疲れる」という表現で先輩保育者は田澤先生に注意してくれたのだそうです。
田澤先生はご自分の保育を振り返って、普段子どもに指示をすることが多く、子どもたちの疑問に全て答えようとしていたことに気がつきました。それは子どもたち同士で解決すべきところにまで及んでいたと感じられました。そのために、田澤先生は確かに「疲れる保育」をしていました。保育者に余裕がなくなり、視野が狭くなり、先を考えて動けず、結果として保育の質が低下していました。保育者が疲れるだけでなく、指示をしたり、答えたりすることが多いために、子どもたちが自分自身で考える機会を奪っていたのだと気がつきました。
一方、先輩保育者のクラスでは、子どもたちが担任に確認することもなく、クラスにあるものを自由に使い、ケンカがあっても自分たちで解決しようとしていました。子どもたちが自分たちの力で生活をしようとしているので、「疲れる保育」になっていなかったのです。
教育とは、人の言うとおりにできるようにすることが主目的ではありません。自分で考えること、分からなかったり、困ったりしたら他者と協力できること、自分たちの力で歩む力を育むことです。

発達の主役は子ども自身です。その上で、どのような助けが必要とされているのかを考えています。幼稚園で子どもたちに応答する時、教師が子どもに代わって疑問や活動の主役になってはいけません。子ども自身の興味や関心に、自分のこととして取り組むように促し、励ますところに幼児教育の実践があります。それは主役を元気づける応援に似ています。主役に代わって舞台に上がってはいけないのです。

2020年03月19日

分かるほど教えられなくなる

例外はありますが、という前提で記します。
物事を知れば知るほど、深く理解している人ほど教え方が上手、という常識が教育の世界にはあります。そして、現在の教師養成や教員免許更新はこの「常識」に基づいてプログラムされています。しかし、これは全く根拠を持たない幻想です。
単純に考えて欲しいのですが、ご自身の経験で幼稚園、小学校、中学校、高校、大学で、最も理解不能な授業・講義をしていたのは誰だったでしょうか。私は大学教授の講義が最もひどいものだったと思っています。教え方が下手なのです。
何故下手なのでしょうか。それは、教える側にとって分かり切ったことを、分からない人がどうして分からないのか、どこが理解できないのかが分からないで教えようとするからです。教育の現場で、知識量は多いほど良い、分かるほど良いということと、良い教師であり、教え方が上手いということは比例していません。むしろ、教える側と教えられる側の理解のレベルが適度な開きを持っているときに最適な学習が成立します。
一番わかりやすい例は、子どもたちが活動や遊びの中で互いに教え合うことの方が、教師が教えるよりも格段に成果を上げることが実際にあるということです。虫のことを教えるのは、虫を知っている子が知らない子に教える方が格段に知識の吸収が容易です。遊びのルールを理解した子が、理解できない子を誘導した方が、教師が何度もルールを伝えるよりも時間短縮になります。教師よりも子どもの方が、理解の難しい子にとって良い教えてになれることが多いのです。
これに加えて、教師は分からない子に知識を与え、理解を得ようとします。しかし、それ以上に大切なことはその子の気持ちに寄り添うことです。分からなくてやる気を失ってる子に、「頑張って、きっとできるから」と、子どもにとってはるかな高みにいる教師から言われるのと、自分よりちょっとだけ上手な(あるいは下手な)親しい子から「いっしょにやって」と誘われるのとでは、どちらが子どものやる気を奮い立たせるでしょうか。やる気がなければ、いかなる取り組みも子どもの時間を浪費させるだけです。
また、教師は「みんなができる」ことを目指し、子どもの心理を読み解き、理解度を測り、子どものことを把握しようと懸命な努力をしています。その結果、「できる子」と「できない子」の二分割で教室を理解します。そして、「できない子」を「できる子」にするための素晴らしい教授法を求めて懸命に努力します。しかし実際は、教室は二分割されているのではありません。教室に30人の園児がいれば、「できる」から「できない」まで、30分割の現実があるのです。「できる子たち」も「できない子」も一人ひとり違うのです。できる子がもっとできるようになる方法は、一人ひとり違います。できない子ができるようなるための方法も、一人ひとり違います。そしてどの方法が最適かを知っているのは当人です。それを知るために、当人から「何が分からない」、「どこが難しい」、「教えて欲しい」という意欲と対話を引き出すことが必要です。そのためには向き合って沢山の対話を重ねなければなりません。しかし、教師と子どもの間だけでそれを成り立たせようとすると、一人の子どものために他の子どもたちは置き去りにされます。つまり膨大な取り返しのつかない時間の無駄が生じます。
これらの、浪費と無駄の時間から子どもたちを「学び」の時間で生きる喜びへと導くことが、本当に教師に求められていることではないでしょうか。

2020年03月24日

子どものつまずきと気遣い

幼いころに妹と遊んだタクシーごっこの記憶があります。当時中野区に住んでいて、タクシー運転手役の私が、「上野動物園ですか?中野動物園ですか?」と聞くと、お客さんの妹が「下の動物園でお願いします」と答えました。それを聞いていた母親が笑い出したのを覚えています。
これは小学生を対象に調べたデータですが、子どもたちは学習の際に、大人から見ると馬鹿馬鹿しいレベルでつまずいています。ある本で「国道って、道のこと?」と聞いている子を見て唖然としたと書いていました。考えてみると、普段子どもは国道という言葉を使いません。「国の道と書いているからわかるだろう」と思われるかもしれませんが、知らない子どもにとっては「北海道」のような地名のように思えるかもしれません。
小学生を調べると、子どもたちはこの程度のことでつまずいてしまうことが過半数であることが分かっています。これは、「ここを見ればわかる」と指し示すだけで解決します。ところが、それができないということが問題です。自由に「国道って、道のこと?」と発言したら、「空気の読めない子」と疑われます。子どもたちは教師の評価はさほど気にしませんが、「空気の読めない子」と同級生に思われることを恐れます。そのため、つまずいた子はそのことを隠して、学習を放棄します。授業開始5分で過半数の子が学習を放棄している可能性があります。これは大変な損失です。
一方で、最近の子どもたちの学習環境は、「教師からしか学べない」というものではありません。塾、予備校、通信教材、スマホアプリが沢山あります。また、保護者が高学歴になり、家庭学習も熱心です。魅力的な教材や学習環境の下で、どんどんと知識を豊かにしています。
その結果、クラスの何割かの子どもたちは、授業を受ける前に学習済みという状況が生まれます。そういった子は、授業を通して教師が何を言わせたいか、何をさせたいかを前もって分かっています。そして、心優しい子たちはそれを授業の最初に言うと先生が困ってしまうから、分からないふりをして、無駄な時間に付き合ってくれるのです。教師の方が気遣われているのです。
「教育は経済ではない」と言われるのも分かります。確かに自分たちの将来の金銭的投資として子どもの教育を語るのは行き過ぎでしょう。しかし子どもたちの「時間」の損失を、大人はどう考えているでしょうか。「若いからまだまだ大丈夫」、という感性の根拠は何に基づいているのでしょうか。そこを考え最善を探るのが教育者の経済感覚です。私たちは永遠の存在ではありません。時間は、世界中の富と引き換えにしても、1秒たりとも取り返せないのです。

2020年03月26日

幼稚園開園と自由登園について

幼稚園開園と自由登園について

西荻学園幼稚園では、新型コロナウイルス感染症の拡大を受けて、2月6日の始業式から無期限でお弁当なしの午前保育として幼稚園を開園します。この期間を自由登園期間としました。

この期間の設定に関して、園長の考えを箇条書きにしますので参考になさってください。

◆消毒と教職員のマスク着用等を徹底しますが、開園中の幼稚園が絶対に感染しない空間であることを保障することはできません。また、感染した幼児が重症化しないという根拠はありません。
◆それゆえに、感染防止には濃厚接触を避けることが最も重要であることに変わりはありません。感染防止の観点から、ご家庭の状況に応じて可能な限り園児の登園を自粛していただくことが望ましいと考えています。
◆一方で、子どもたちの休園中のストレスと保護者のご負担を鑑みると、それらの対処として不特定多数の人間が出入りする公園や屋内施設へ赴くより、登園前の体温計測などを徹底していただくことで出入りする人間を制限でき、在園児とって慣れている幼稚園園庭の方が子どもたちにとってより自由にかつ安心できる空間であると考えました。
◆新入園児について、入園式を行うことで子どもたちの日常に新しい生活のスタートを持たせ、幼稚園の仲間としての所属を得ることは大事なことです。今後、感染症の収束が見込まれない状況で、登園されるがどうかは保護者のお考えに寄りますが、登園可能な形で門を開いておくことが重要と考えました。
◆今後も長期にわたって感染症への対応を覚悟しなければならないようです。その中で、ご家庭の事情により、どうしてもお子さまを預けなければならない保護者のご負担を減らす努力をすべきと考えました。
◆上記に合わせて、長期にわたって感染症への対応に子どもたちも引き続き向かい合わなければなりません。幼稚園が開園していることで、わずかでも子どもたちのストレスを軽減し、教師たちやお友達と出会う「あたりまえの日常」を過ごすことができる機会を完全に閉ざすことは望ましくないと考えました。
◆一週間の登園日数を減らしたり、室内活動だけとなる雨天の際などはお休みなさるという判断も重要であると考えます。
◆既往症をもつお子様や保護者の方は、登園を自粛なさることが望ましいと考えています。朝の園庭での外遊びのみで早退なさるという判断も大事です。
◆今後の感染状況等に応じ、自治体の要請等により再び休園となる可能性がありますが、それまでは、幼稚園を開園したいと考えています。
◆園児や教職員が感染した場合には、速やかに臨時休園とします。

西荻学園幼稚園
園長 有馬尊義

2020年04月03日

命を与えた言葉

園長は西荻教会というキリスト教会の牧師でもあります。教会で毎月送っているお手紙を転載します。

主イエス・キリストにあってご挨拶いたします。新型コロナウイルス感染症のために教会も礼拝以外の活動をお休みしています。一日も早い収束を願っています。皆様に神さまのお守りが豊かにありますようお祈りします。
東日本大震災から9年目を迎えました。今も多くの方が困難な状況にあり、さらに昨年の台風で再び被災された方も多くおられます。今年も、被災された方を取材した記者の記事をご紹介したいと思います。萩尾信也さん(「生と死の記録―続・三陸物語」毎日新聞社)が伝えてくれた話です。
「津波で74歳のおばあちゃんを亡くした家族にも会いました。
震災が起こった時、家にはおばあちゃんとおじいちゃんとその次女、それから長女の娘がいました。長女の娘には障がいがありました。長女は保育園に勤めに出ていて留守でした。
大きな揺れが来て、家族は高台へ逃げようとします。おじいちゃんは家の前に車をつけました。エンジンをかけて待っています。次女は、長女の娘がパニックを起こさないように手を引いて一歩一歩誘導しました。おばあちゃんは携帯電話を探していたそうで、なかなか家から出てきません。やっと玄関から出てきた時、津波が後ろから防潮堤を乗り越えてやってきました。おばあちゃんはそれに気付きました。そして叫びました。『行げー! おらのことはいいがら振り向かねえで行げー!』
おじいちゃんはその瞬間にアクセルを踏みました。急発進した車は高台に走りました。後ろから聞こえたそうです。『生ぎろよー! ばんざーい! ばんざーい!』
それから数日後、長女は避難した3人と再会しました。しかしそれからずっと彼女は苦しみ続けます。『どうしてお母さんを置いて逃げたのか』という父と妹に対する怒り。『自分の娘に障がいがなかったらお母さんは助かったんじゃないか』という気持ち。それでずっと心が揺れ続けるのです。彼女は、亡くなった母親の後を追って死にたいとまで考えました。しかし、そう思った彼女を踏みとどまらせたのは、母親の最後の叫び声でした。お母さんは、自分の命を投げ出しても家族に『生ぎろよ』と言い、車に乗っていた3人に『行げ!』と言った。その言葉の先には自分がいたのではないか、と。時間とともに彼女の気持ちはそのように変化していきました。」
「地上にあるもので永遠なものは一つもない」「形あるものは必ず壊れる」「人は生きて死ぬ」、この三つは事実です。この事実の前で、自分自身を生かす言葉を持っているでしょうか。

2020年04月21日

「9月入学」の話題

いきなり出てきた「9月入学」の提案について、思うところがあったので記します。感情的なところはおゆるしください。あまりにも無責任な提案だと感じ、正直腹を立てました。
まず、新型コロナウイルス感染症がなければ、私は9月入学への移行について賛成です。ただし、今は新型コロナウイルス感染症との戦いの真っ最中です。
9月入学について、「コロナとは別問題」という考えに批判的な声を聴きますが、実際、別問題だと思います。今は無用な議論だと考えています。
9月入学ということは、これまでも意見を聞きながらそれでも実現できませんでした。9月入学という改革は、この状況の中で事実上3か月以内で可能な程度の「簡単な」取り組みなのでしょうか?大学受験改革すら満足に実行できなかった程度の人的資源と調整力しかない政府と役所で、本当に学生、学校、社会を「今後も」支え得るシステムが構築できるのですか。「やってみたけどダメでした」では済まない課題です。やるならば絶対に成功させなければならない改革です。
9月入学を今の学生たちのための救済策とすることは不可能です。そもそも9月にコロナウイルスの脅威は収束するのでしょうか。
こんなに医療も教育も保育も福祉も役所も会社も家庭も疲弊している中で、本気で9月入学の実務を担える人間がまだ、「いる」と思っているならおめでたいことです。AIにでもやらせますか?そのAIの開発は誰がするのでしょう?提案されたことを吟味するだけで浪費される時間と資源があり、実現のためにドミノ倒しに下部に位置する立場の人間を圧迫することを想像しておられるのでしょうか。
意見される方々は、自分は実務をやらないから何でも言えるのでしょう。一日この議論に政府を釘づけにして、数少ない役人を拘束することで、現在のこの国で何人が生きる術を失い、死を選ばざるを得なくなるか考えたうえで提案されたことなのですか?
現在の状況で緊急支援の一つも速やかに決められない、未だにPCR検査もろくに増やせない、国産治療薬の治験も満足に揃えられない、みえみえのごまかし答弁しかできない、そんな能力の足りない政府と役所を、この薄っぺらな提案と議論で1分たりとも拘束すべきではありません。ただでさえ少ない有益なキャパシティがさらに無くなります。その結果苦しむのは国民であり、学生です。それでも私たちが選んだ政府なのですから。敵前逃亡させずに上手に使い潰さないといけません。
コロナ収束後に9月入学賛成の方は「忘れずに」大きな声を出していくらでも働きかけてください。収束後に継続して速やかに動くべき議論であって、現在議論すべき話題ではありません。これに現在予算を割くべきではありません。
災害クラスの危機の中で大事なことは、「元の状態に戻す」ことです。「これを機会に新しい~」ということを言い始める方がいますが、新しいことというのは一体どのようなものなのか、何を準備すればいいのか、実は誰も知らないのです。各方面の共通理解を得ることができず、理解を得ることに時間を費やして肝心の助けるべき人々を放置してしまします。しかし、元に戻すということは、もともと知っている形に戻せばいいので共通理解の下で各分野が力を発揮しやすくなります。既に一度構築されたものを再現するので、ノウハウもあります。結果として早く回復します。回復した後で、災害の危機の中で新たに上がった問題点や課題を実現するために改善をするものです。この時期に新しいことを始めろというのは、東日本大震災やその後の災害を経験してきた日本のインテリジェンスあるはずの人々の発言とは思えません。
もっと喫緊の救済策をどんどん学生を救うために広く、分厚く、お金をかけてすべきです。「あなたがたの将来に、決して不利益を与えない!失われた世代には決してしない!」という断固としたメッセージと共に。

2020年04月30日

ようちえんすごろく

ようちえんがはじまるまで、もうすこしです。
ようちえんすごろくをつくりました。おうちのひとといっしょにやってみてください。
げんきなみんなを、おむかえできるのをたのしみにしています。
ようちえんすごろく(PDF形式 988KB)

2020年05月19日

目標を持つ

一般的に4歳ぐらいから子どもは目標を持つことができるようなると言われています。「~をする」、「~をやれる」という言葉が出るのは、大人から見ると直近の未来であっても、先のことを予想して自分が何かをしている姿を想像できるようになってきたということです。そこから自分なりの目標を意識し、それに向けて挑戦するということが始まります。専門家はこういう力を「自己安定感」と呼びます。
「自己安定感」があるから、子どもは新しいスキルを得ていく道を選びます。例えば縄跳びや鉄棒に挑戦をします。ボールを投げたり蹴ったりキャッチしたりできるようになります。縄跳びも鉄棒もはじめはうまくいきません。転んだり、鉄棒から落っこちたり、痛い思いもします。しかしそれにひるまずに挑戦を繰り返し、やがて自分の目標を達成します。「自己安定感」は努力する力です。
目標を達成する過程を分析してみると、育ちの重要な要素が見えてきます。
①目標を発見する
②目標を定める
③やり方を計画する
④予測する
⑤実験する
⑥修正する
⑦目標を達成する
目標を達成するためには、目標としたいと思える興味を引く発見が必要です(環境)。発見した目標を自分の目標に定めて後、達成するためのやり方を考え、計画を立てる必要があります。自分で考えることが必要ですし、「自分だけでは難しい」と判断したときに相談することもあります(サポート)。こうして計画を立てることで目標を達成する力を蓄えていきます。
計画を実現するためには、集中力と持続力が必要です(環境)。実行しても失敗することがあるでしょう。もう一度前述の計画を立てるところに戻り、修正し、第2計画を立てて実験します。例えば縄跳びという運動は、できる者には何でもないのですが、初めて挑戦する子どもにとっては簡単ではありません。「できない」という実験結果に出会ったときに、そこであきらめない力、立ち直る力が必要です。そこで立ち止まっているようなら、少し手伝う必要があります(サポート)。「私はダメだ」と思い込ませないためです。
目標を達成することで、スキルはもちろんのこと、「自分はできる」という自己肯定と、次の目標達成のための方法を知ることができます。さらに、目標達成のプロセスは、「与えられた課題を達成する」力を同時に養います。それは言い換えるなら「約束を守る」力を養うのです。
幼稚園の先生は、上記の(環境)、(サポート)を適切に行うエキスパートであってほしいと思います。

2020年08月06日

頭足画

頭足画
子どもがクレヨンやマーカーを持てるようになる時期に紙を与えると、なぐり書きを始めます。大人が見るとぐるぐるの線にしか見えなくても、それは「ママ」であり、絵に「ママ」とタイトルをつけます。やがて、大人から見て人を描いているとわかる絵へと発達していくのですが、その最初期に「頭足画」と呼ばれる興味深い形態の人を描きます。
頭足画は、胴体がなく頭から手足が出ているという人の絵です。19世紀末に欧米で子どもの絵の研究が始まったときに最も関心を持たれたのが頭足画でした。
子どもがどうして胴体のない頭足画を描くのかは大きな謎で、答えは未だ出ていません。大人から見ると頭足画はとても変な絵です。そこで、様々な手段で胴体を描くように促したらどうなるのか、という実験的な研究が行われました。例えば胴体のある絵をお手本にして同じ絵を描かせたらどうなるか。絵描き歌のように顔からはじめて、「次はお腹を描いて」と指示したり、年長の子が胴体のある絵を描いているのを模倣させたりしました。結果は、大した効果がないものでした。実験中は胴体のある絵を促されて描いても、実験を離れるとすぐに頭足画を描き始めたそうです。
それでも、いくらかの推測を得ました。絵描き歌を使った実験では、「お腹」を顔の中の口の下に小さなマークを描く絵が最も多かったそうです。そのことから、大人が「顔」と定めている部分に子どもは胴体の意味を込めているらしいということが分かりました。
絵というと、写真のように写実的な認知を想像してしまうのですが、子どもに人間が頭足画のように見えているわけではありません。人に対して持っている知識やイメージ(表象)がもとになって絵が描かれていると考えられるようになりました。それは視覚だけでなく身体感覚や運動感覚も混ざったものではないかと考えられています。人に限らず、子どもが生き物を描くときに丸から線がイガイガのように放射状に出たものを描いたり、電車やバスを描くと車体の輪郭の下(輪郭の外)に車輪にあたる丸を描くのと同じことだと考えられています。触れたり操作したりする手足や車輪という部分とそれをコントロールする部分としての頭と胴体が一体の部分として知識として分類されイメージされていると思われます。
幼児期の子どもたちにとって、視覚的に認識する写実の世界よりも、心象内の思い描いている表象の方が優先順位が高いということです。大人の指示や注意に子どもが納得するためには、強固な心象内の表象に対して写実的な事実が優先される必要があるということです。子どもにとっての正しさ、こだわり、嘘といったことへのアプローチを考える時に、この心象内表象の優先という特徴は重要なことです。
ところで、頭足画からいつごろ胴体のある絵へと転換するのでしょうか。「胴体が描かれていなくてはおかしい」と思うようになるには、内的表象と写実的事実との順位の逆転が必要です。そのような変化が起きるためには、胴体のある絵を見る機会を十分に得ることが必要です。「絵」が変わるには「絵」を見ることが必要です。つまり「絵」への関心によって変化の時期は異なることになります。それでも7~8歳には視覚的情報に基づく絵を描くようになると言われています。
(参考 発達教育2020年8月号 特集「子どもの絵はどのように発達するか」鈴木忠)

2020年08月07日

生活者としての子どもを信じて

教育は誰かの言う通りに実行できる人間を製造することが目的ではありません。自分自身で考えて、困ったり、悩んだりする中で人と協力し、行動できる人を育むことです。
子どもたちに「丁寧で、手厚い」保育をしている幼稚園は、気が付くと先生が指示を出し、答えを教えることで、子ども自身が考えなくなり、自分から行動しなくなることが起こります。結果として、先生も疲れてしまいます。こうしたことにならないためにどうしたらいいのでしょうか。
大前提は、「子どもを信じる」ことです。指示を出し、答えを教えるのは、「子どもだからできないだろう」という思いがあるからです。指示を出す方が子どもには生活しやすい安全で過ごしやすい環境を作ることになる思うのは、勘違いです。それではいつまでたっても「生活者」として子どもは育たず、安心と安全は常に大人にくっついている時だけということになってしまいます。
経験のないことで最初から100点満点の結果を出せるはずはありません。しかし、子どもは自分で生活しようとしています。できないことを減点的に問題視するのではなく、できるように意欲を認め、できたことを認め、一緒に喜ぶだけで子どもの生活者としての主体性は育ちます。そのことを大人が信じられるかどうかが、大前提です。
その上で、大人の役割は環境の整え方の工夫です。子どもだけで使うのが危険と思われる物は許可なく取り出せないように収納しておく。一方、子どもの手の届くところには自由に使えるように物を配置するといったことです。
新型コロナウイルス感染症の感染対策として出された緊急事態宣言の下で、幼稚園も休園を余儀なくされました。6月に再開する時には、様々な感染予防の準備をし、子どもたちへ伝える感染予防のための指示を先生たちと確認しました。それは子どもたちを安全に迎えるための当然のことです。
しかし、ある幼稚園取り組みを聞いて、ハッとさせられました。それは中国の幼稚園再開についての報道でした。再開した幼稚園では子どもたちを検温し、手指消毒を行って園内に子どもたちを迎えていました。それは私たちの幼稚園と同じです。ところが、教室で一通りの朝の準備が終わると、先生が子どもたちに語りかけたのです。新型コロナウイルス感染症の予防のために「あなたたちは何をしたらいいと思う?」、「何があればいいと思う?」、「どうしたら皆が感染予防のルールを守れる?」
この幼稚園の再開後最初の保育は、幼稚園という環境の生活者としての子どもたちに、自分たちの生活の場所を守ることを考えさせることでした。実際に必要なことは前もって十分に先生たちは準備しています。しかし、生活者としての子どもたちが、自分たちで幼稚園の新しい生活習慣を作り上げることを期待したのです。
幼稚園の子どもたちに「新型コロナウイルス感染症にかからないためにどうしたらいい?」と問えば、「手洗い!」、「消毒!」、「うがい!」といったことを元気に答えます。ただ、その後に「だから、~~しましょうね」と指示するのと、それを実現していく生活者として実現のために「どうしたらいいか」を問い、考えることを育むことは、本質的に全く別の育ちをもたらすのではないでしょうか。ほんのちょっとの質問の違いが重要なのではないでしょうか。先生が幼稚園において「守る者ー守られる者」の関係を保ちながら、「共に生きる生活者」として子どもを迎える姿に教えられました。

2020年08月12日

「刺激」の誘惑

「登園して、先生と挨拶、教室に行って鞄をかけ、シール帳にシールを張る。当番の日は、当番バッチを着けて、カラー帽子をかぶって園庭に遊びに行く。~くんがいたらサッカーをしよう。」こんな風に、登園してきた後の行動を、日々の積み重ねと周りの様子を見ながら、、指示がなくても「次は~~」、「次は~~」と、自分の動きをモニタリングしつつ、自分の行動をコントロールしていくクラスがあります。個性の集団ですからトラブルが皆無とはいきませんが、普段は落ち着いたクラスです。
一方で、お友達との戦いごっこに夢中でいつまでたっても周りの状況に気づけなかったり、毎日同じことを繰り返しているのに指示がなければ行動を起こせないクラスがあります。ほとんどの場合、クラス全体が騒然としていて落ち着きのないクラスと言われてしまいます。そこにはクラスを構成する子どもたちの発達特性もありますが、むしろクラス環境や大人の対応によって、落ち着きのない子や手のかかる子を増やして悪循環に陥ってしまうことがあります。
日々の積み重ねの中で行動を予測して動くクラスは、指示がなくても自ら行動を始めます。しかし大人からの指示という「刺激」をきっかけとするクラスは、何人かが着席を始めても、廊下で走り回っていたり、おんぶや抱っこを求めたり、「やって、やって、わかんない」の声に応じて個別対応による製作指導を行う等、誰にとっても達成感のない活動が繰り返されます。
おそらく子どもとの関係を深めたいと思うあまり、子どもの持つ「自分の行動をコントロールする力」を妨げてしまうのです。「子どもを大切にしたい。個別に対応してあげたい。関りを求めてきた子を全て受け止めて安心を与えてあげたい。不安をなくしてあげたい。」という強い思いが先生にはあります。その思いは尊いのですが、それよりも大事なのは「どのような子に成長してもらいたいのか」、「先生と園児の信頼関係のあるべき形」という保育観を先生が意識する事こそ重要です。
また、子どもを刺激で誘惑するものに教室環境があります。クラスの掲示や備品、おもちゃなどが、いかにも「触って、はがして、手に取って、崩して、壊して」と刺激への反応を誘引していないか点検しなければなりません。片付けるたびに別の場所に置かれていないか?ブロックの箱にぬいぐるみを入れて「片付けた」ことにしていないか?あるべきところから取り出し、あるべきところへと返すという本来の整い方で整うような環境づくりが大切です。
「子どもたちを喜ばせたい。楽しませたい。」という思いが、「刺激を与えたい」ということに容易につながってしまいます。しかし、先生は園児を喜ばせたり、楽しませたりするためにいる芸人ではありません。先生は園児たちが夢中になれるように、活き活きと本気で取り組める活動を「自分で」楽しめるようにするプロデューサーです。教室は遊園地ではなく、生活の場です。
個別対応は諸刃の剣です。一見、「丁寧で、心の籠った」保育に見えてしまいます。しかし子どもの力が育つ機会を奪ってしまうことがあるのです。常に子どもの傍にいて、頻繁に声をかける先生は慕われます。しかし過度の声掛けは、先生を「面白い人」であり、「まとわりついたり、甘えたりできる人」としてしまい、望まれる先生と園児の信頼関係が築けなくなるのです。
最善の子どもとの関係構築は子どもを愛する幼稚園教師にとって悩みの尽きないの課題です。しかしこのことに悩みながら、学び続け、改善を重ね、安易な刺激でごまかさない先生を子どもたちは確実に信頼し、先生と子どもたちが落ち着きの中で生き生きとクラスを動かしていきます。

2020年08月13日

自ら機能するクラス

幼稚園教育要領の示す「領域」と「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」を参照すると、幼稚園のクラスの理想像が見えてきます。それは自らをコントロールする力を持った子どもたちが、自ら気づき、行動できるクラスです。この文章の中では「自ら機能するクラス」と呼んでみます。理想像ですが、幼稚園の先生は「自ら機能するクラス」へとクラスを作り上げるために日々、あらゆる点で工夫しています。
例えば、子どもたちは持ち物としてティッシュを持っています。ティッシュで鼻をかんだらどうするでしょうか。恐らくご家庭ですとゴミ箱へ捨てる子どもが多いのでしょうが、幼稚園では違います。鼻をかんだ子は、その場で床にティッシュを落として平気な顔をしています。新年度間もない降園後の園庭には沢山のティッシュが落ちています。ご家庭では、ご両親や兄姉が鼻をかんだらティッシュをいつもの場所にあるゴミ箱に捨てる、という動作を幾度も見たでしょうし、説明もされていることでしょう。そこで大人は環境が変わっても応用してできるはずだと考えます。しかし幼児にとって環境の変化は、別の惑星に行ったようなものです。ゴミ箱はどこ?目の前にあっても自分の知っているゴミ箱とデザインが違えば、そもそもゴミ箱と認識しません。以前、「頭足画」で記したように、心象内の表象が優先されるからです。見えていても納得にいたっていないのです。
そこで、先生はまずゴミ箱を置く場所を定めます。幼稚園には何種類かのデザインのゴミ箱がありますが、その中から教室内に置くごみ箱を決めます。こうしてまず環境を定めます。そして、定めた環境を裏切らないで子どもに説明をして経験させます。「鼻をかんだティッシュ→あそこのゴミ箱」という心象内の理解ができます。これがさらに、工作の時のゴミや、見つけて拾ったゴミ等へと、定められた環境が子どもを裏切らずに整えられていることで「ゴミはゴミ箱へ」という応用範囲が広がっていきます。大事なのは定めた環境が子どもを裏切らないこと、一度は説明し経験させることです。
そして、ここからが自ら機能するクラスへのステップとして大事なところです。それは、「一度説明し、経験させた行動に対し、繰り返しの指示や個別対応を控える」ということです。これによって、子どもが自ら機能することを促し強化します。もし子どもが気づいていないときには、「~~くん。ティッシュで鼻をかんで、あそこのゴミ箱に捨てて」と指示するのではなく、「~~くん」と呼び止め、先生のジェスチャー等で子ども自身に気が付かせて行動を起こさせる働きかけが大事になります。ここを丁寧にすることが本当の「個別指導」なのです。声をかけ、常に指示することが個別指導なのではありません。
このようなやり取りのためには、先生自身が「定位置」を持つことも大事になります。クラスの子どもたちが期待する動きを定着させていく様子に視線を送り、一方で教室環境が子どもたちを裏切っていないかを確認します。自ら考え動くための手がかりに気づかない子に気づかせ、戸惑っている子のアイコンタクトに応じて必要な手がかりを示していく取り組みを日々重ねていきます。
登園した子どもたちが見通しを持てるようにスケジュールを黒板に準備したり、シール帳を置く場所、シールが用意されている場所、水筒を入れる場所、カバンをかける場所、おもちゃの収納、掲示物等々を、子どもの視線と動線を考慮して環境を整え、その中で全体の動きと個々の園児の動きを捉えることのできるように、しかるべき位置でモニターすること姿勢が求められます。優れた教師は「後ろにも目がある」と言われますが、それはこうした日々の積み重ねの中で養われています。
こうした先生と子どもたちの取り組みの積み重ねの中で、徐々に子どもは先生の視線と定位置に意識を向けるようになります。困ったときには、振り返るとヒントをくれる先生がいます。正しいのかわからないときに、アイコンタクトで「できてるよ!」と教えてくれる先生が決まったところにいます。新しいことを始めたときに、「OK!やってごらん」と励ましてくれる先生が定位置にいます。分からないことは定位置の先生のところに子どもが自ら近づいて聞きに来ます。
結果として、先生からが子どもに「関わる」という個別対応の動きと指示の連続から、子ども方が自ら「行って戻る、行って戻る」という「自ら機能するクラス」へと育っていきます。

2020年08月14日

性分を直すのは難しい

マイペース、飽きっぽい、だらしない、怠け者、落ち着きがない等々、どうも私たち大人は子どもの困った性分に目が行きがちです。そして、何とか「直す」ことができないか、と考えます。「鉄は熱いうちに打て」とばかりに、「子どものうちなら困った性格を直すことができる」と思われるかもしれませんが、子どもが自分の性分を(大人が描く望ましい方に)変えるのは相当難しいことです。
大人になって大変な失敗を経験した後に、「この性分を直さないと取り返しのつかないことになる」と自覚したり、「この人の生き方に感動した。自分もこうなりたい」というような、強烈な経験とモチベーションを得なければ、大人でも難しいことでしょう。
まして、幼児期の子どもにとって最も重要なのは「今」です。子どもは「今」を生きています。将来を見通して性分を変える必要性を感じるということは無いでしょう。叱られるたびに困ったりしても、改善の必要性を感じることはありません。
子どもは3歳になれば、母国語をかなり巧みに使えるようになります。自転車の練習をすれば、一日もかからず乗れるようになります。縄跳びもフラフープも見事に上達します。好きなことにとんでもない集中力を発揮して、幼児期は乾いたスポンジが水を吸うように、新しいものを次々と吸収していきます。そのような子どもの姿を見ていると、「吸収力と成長力が抜群の子どもうちなら、困った性分も直せるだろう」と思ってしまうのです。
しかし、新しいことを吸収し成長することと、性分を直すことは、人間にとって全く別の事柄です。
性分というのは、つまり個性です。持って生まれた資質であって、それを変えるというのは、新しいもので上書きすることはできないのです。いかに困った性分であっても、個性を変えろ(直せ)と要求されて応じられるはずがありません。むしろ、要求されて簡単に個性を変えてしまう人間がいたら、その人間はかなり危険です。
困った性格は子どものうちには直らない、という事実をまず受け止めることが大事です。そのうえで、困った性格のもたらす「困ってしまうこと」を補う工夫を考えたいと思います。「こうあるべきだ」という勝手な期待をあきらめて、ありのままを認めることからはじめ、気持ちよく手助けしていくことが肝心でしょう。困った性分を直すよりも、それを失敗につなげないように補う手段を学び、吸収する方が、人間は得意です。
マイペースな子は、他人に惑わされずに自分のペースを着実に進める子です。飽きっぽい子は、次々と好奇心が湧いてくる子です。だらしない子は、細かいことにこだわらない大らかな子です。怠け者というのは、楽天的で図太い性格ということです。落ち着きがない子は、それだけ生きるエネルギーがたくさんあるということです。
今は気休めに思われるかもしれませんが、実際、人の長所や短所はいつも裏表の関係で、「困った性分」の裏側にすばらしい力があるものです。それは往々にして主体的に生きる力につながっています。主体的であるということは、自分でやりたいことを、自分で見つけて、自分でどんどんとやっていくという実現力をもった姿のことです。そういう力こそ生きていくうえで重要です。

2020年08月17日

実習生

新型コロナウイルス感染症のために文科省は教員を目指す学生に実習免除を決め、それに代わる手段を講じることを求めました。
https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/mext_00288.html
西荻学園幼稚園は、休園明け初日の6月1日から実習生1名を迎える予定が入っていました。さらに6月中にもう1名の実習生の受け入れを予定していました。緊急事態宣言後に心配したことの一つが実習生を約束通り受け入れられるかということでした。先生たちには、「今年は日程を変更することは難しはずだから、再開してすぐで、しかも新型コロナウイルス感染症のために例年と違う保育を工夫する中で大変だろうけれども、必ず実習生を受け入れます」、と伝えていました。実習生との事前打ち合わせはWeb会議ツールを使いました。幸い予定通りの日程で実習生を受け入れることができ、お弁当なしの午前保育という環境でしたが、実習期間を終えることができました。2学期にも2名の実習生を受け入れる予定でいますが、文科省の決定を受けて中止されるかもしれません。
実習生について園長同士の会話で話題になることもあります。また、最近は実習生を送り出している学校との合同懇談の時も準備されています。実習生を送り出している学校の先生は、実習生を受け入れた園の保育者から「実習が終わってからも見返すような日誌を書いてほしい」と言われたそうです。実習期間が終わったらおしまいではなく、実習の終了が学び続ける保育者のスタートであってほしいということだったそうです。
それでは、実習が終わってからも見返すような日誌を学生が書けるために必要なものは何でしょうか?それは子どもが成長するときの原動力と同じく、「楽しい」と感じられることです。もちろんこの場合の楽しさとは、テレビのバラエティーショーのような消費される楽しさではなく、子どもの日々の成長に驚いたり、子どもの育とうとする力のたくましさに感動したり、子どもの興味や関心に寄り添う先生の姿に手本を見つけたりといった、心が動いた経験です。それを「楽しい」と感じ、思い出してもっと保育を深めたい、もっと子どもたちと出会いたいと思えることです。
「実習が楽しいだけでは、現場で通用しない」という意見もあります。保育現場では時につらい経験もすることがあります。しかし保育現場の「楽しい」を感じない人が、どうしてそのようなつらい出来事を克服できるでしょうか。いろいろな出来事があっても、やっぱり「楽しい」仕事だという思いがあるからこそ、次の日を迎えることができるのです。
学校関係者に聞くと、実習がつらい経験で終わってしまう学生がいます。とても残念なことです。こうした学生の多くは重箱の隅をつつくような指導や、園の雑務の担い手として消費されて、「楽しい」と感じる余裕を失ってしまうようです。厳しさやつらさだけが残って、実習での出来事を振り返る気にはならないでしょう。それどころか、せっかく何年も夢を抱いて学んできた道を捨て、幼稚園教師となることを諦めてしまうことだってあるでしょう。
私たちの幼稚園で実習をされる学生が、保育者だけに与えられる「子供の成長の瞬間を一緒に喜ぶ」ような「楽しい」経験をしてもらえるように、迎える幼稚園の質が問われます。「楽しい」を知っている保育者を生むような実習を行える幼稚園は、そもそもきっと「楽しい」に充ちた幼稚園なのだろうと思います。

2020年08月18日

見守るということ

「見守る」というのは、日本独特の保育における表現だと聞いたことがあります。おそらく外国語に翻訳すると「見ているだけで、何もしない」という意味合いで考えられてしまうのではないかと思います。もちろんそうではありません。大事なのは、「守る」という言葉の持つ意味です。「見守る」という言葉が保育における表現となった時に、そこには「応援する」という意味があるのだと思います。
これは、子どもの主体性の問題とも関係すると思います。子どもの主体性を奪い取るような干渉は望ましくありませんが、しかし干渉しないことが「見守る」ではありません。子どもが大好きな先生と一緒に遊びたいと思ったり、不安な時に手を握ってほしいと思ったり、分からないことを一緒に調べてほしいと思ったりしている時に、先生が何もしてくれなかったら子どもはどう思うでしょうか。そこでは「守る」ことが損なわれ、子どもの育ちが妨げられることになります。
子どもは、自分の思いが誰かにしっかりと受け止めてもらって、初めて主体的に動き出すことができます。自分の思いが受け止められて実現したときに、安定した時間を得ます。その中で豊かな育ちが守られます。こういった子どもに向き合うことが保育としての「見守る」です。
幼稚園でいると「見て!見て!」という姿にいつも出会います。こんなことがありました。「数えて!」と言ってフラフープをして見せてくれた子がいました。そして、「すごいでしょ!」と言います。私たちはこの「すごいでしょ!」という姿の中で自己肯定感が豊かに育まれていることを知っています。だから、何度同じような場面で「すごいでしょ!」を見ても、それを尊重し、丁寧に受け止め、認めて、関わるということを絶えずします。
しかし、毎日のように「すごいでしょ!」という場面に出会っていると、だんだん受け答えが簡単になっている自分に気が付いて反省する瞬間があります。倉橋惣三は「驚く心が失せたとき、詩も教育も、形だけが美しい殻になる」(「育ての心」倉橋惣三著)と記しています。子どもの一つ一つの言動に、心が動き、そこに丁寧な関係を生み出そうとするのです。ここに「見守る」を保育の姿と表現できる大事な心があるのではないかと思います。
フラフープを見せてくれた子に、「14回もできた!」と驚くと、その子は「昨日、○○先生と一緒にした」と教えてくれました。ちなみにその先生はフラフープは上手ではなかったはずです。しかし先生はその子を見守って、「一緒にやる」という方法で、丁寧に関係を生み出してくれていたのです。子どもが教えてくれた、大変にうれしい「報告」でした。

2020年08月19日

表情を見せる大切さ

新型コロナウイルス感染症の感染予防のために幼稚園の教職員はずっとマスクをして保育をしています。子どもの安全のために必要なことですが、幼児教育に関わる者としては、先生たちが子どもとコミュニケーションをとる際に、目元しか見えないことに不安を感じることがあります。
日本小児科医会は「乳幼児のマスク着用には危険があります。特に2歳未満の子どもでは、気をつけましょう」と乳幼児のマスク着用の考え方を示しています。
http://www.jpeds.or.jp/modules/guidelines/index.php?content_id=117
また、保育現場にいると幼児期の3~6歳の子どもであっても、マスクを着用し続けることは発達上のリスクもあって困難だと感じます。一方で、先生たちは自分自身が感染源にならないように常にマスクを着用して保育を行うことが当然となっています。先日、感染者が確認された保育所で、保育士が常にマスクをしていたことから「濃厚接触者なし」と保健所が判断したことが行政のホームページで報告されていました。
そのような中で、こういった事例が報告されました。保育所の乳児クラスでのことです。その保育所でも保育士は常にマスクをして子どもたちに接していました。乳児クラスでマスクをした保育士が離乳食を食べさせていると、食べ物をかまずに飲み込んでしまう子が出てきたというのです。そこで、保育士がマスクを外して「かむ」姿の見本を見せたところ、子どもたちは保育者の口元の動きを真似て、上手に食べる姿が見られたそうです。
教師や保育士が乳幼児にマスクをして接することについての問題は、新型コロナウイルス感染症以前から課題を指摘されてきたものです。現在はそのようなことはありませんが、マスクをして保育を行うことを禁止する幼稚園もありました。子どもの安全と心身の健全な発達の両面を同時に保障できるかが問われてきた事例の一つが「マスク問題」なのです。
乳幼児期の子どもにとって「表情」は大事な情報です。子どもは顔が好きで、大人の表情をよく見ています。大人の顔に触るのが好きな子もいます。大きな興味を持っているのです。そこからその人を認識し、感情を読み取り、覚えていくと言われています。その時に、大人がマスクをしていると、表情が読み取れずに、コミュニケーションが難しくなることが指摘されてきました。
子どもは、顔の中でも比較的「目」を見る傾向があると言われているので、できるだけ目だけで表情を表現しようと努力している先生もいるそうです。西荻学園幼稚園では、透明なマウスシールドやフェイスシールドを使用して、ずっとマスクを着用して子どもと関わることを避けるように工夫しています。どんな方法が安全と健全な成長のバランスの中で最適なのかを模索しています。マスク問題を通して、先生が子どもとコミュニケーションをする上で、顔の表情を通して伝えられる関りが大切なことを再認識させられています。
どうやって子どもの安全と心身の健全な発達の両面を同時に保障するかが、毎日問われています。

2020年08月20日

片付けないという選択

様々な保育事例の中に、子どもたちが大きなものを作ったりするような遊びを何日にもわたって続けているものがあります。そのような事例が紹介されると、必ず出る質問が「片付けはどうしているんですか?」です。幼稚園では「元通りに片付ける」という生活のルールがあるからです。幼稚園の規模によっては、昼食を食べたりするために片付けをして場所を確保しなければならないという事情もあります。
片付けは大事な日常のルールですから軽視するつもりはありません。しかし、幼稚園ならではの遊びの中には、「また明日続きをしよう」という子どもの気持ちを実現する工夫も大事ではないでしょうか。
以前研修で聞いた事例の中では、5歳児の男の子数人が、ブロックの車を走らせる道路や駐車場を作る遊びを始めたそうです。毎日のように遊びを続ける中で、立体駐車場ができ、トンネルができ、ガソリンスタンドがあり、そこでガソリンを入れて橋を渡ってその先の島に行くといった物語も生まれたそうです。実に数か月にわたって子どもたちが作り続けた結果、保育室の三分の一が彼らの作った「世界」になったそうです。
もし毎日元通りに片付けていたらどうでしょうか。おそらく道路は広がらず、物語も生まれなかったでしょう。それどころか、いつまでたってもブロックの車を床で走らせるだけで終わっていた可能性もあります。
全部を片付けずに、遊びの続きが保障されるからこそ、次から次へと子どもたちの内からアイデアが出てくるようになります。数か月にわたって道路をつなぎ町を作り上げていった様子が一大プロジェクトの進行を見るようです。材料にするための空き箱や廃材を家から持ってくる子、知っている子が知らない子に町の建物を教えたり標識を教えたりする知識の「教え合い」、アイデアの取捨選択の話し合い、物語の共有、計画を立てるという未来予想等、どれほど非認知能力が刺激を受け、育ったことだろうかと思います。さらに、作ったものが保育室に残ることで、周りの子どもたちが見て「すごいの作ってる!」と驚いている声を聞き、自己肯定感が増します。「こうしたら」というアドバイスも起こって、周囲にも影響が広がっていきます。こういう関係性もとても大切なことです。
こういった継続的な遊びのためには、遊びを残すための工夫が必要です。紹介された事例では、昼食の場所を作るために道路を固定しないで移動可能にすることがルールになっていました。昼食の時には保育室の隅に子どもたちが移動させていました。
全く別の主題の講演でしたが、そこで紹介された幼稚園では、遊びの続きをするために片付けられたり壊されたりしないように「つづき」と書かれた札を準備していました。おそらく子どもたち自身で造らせたものだと思います。園庭で作った山や何かのオブジェ?に「つづき札」を置いて遊びを「保存」しているのです。これも面白い方法だと思いました。(一般社団法人木造施設協議会「子どもの育ちを支える保育環境」講演:村上博文http://mokuzoushisetsu.or.jp/opinion/opinion-1868/
子どもは結果ではなく、過程の中で育つものです。過程が長ければ、それだけ多様な学びの機会が保障されるという面が確かにあるのです。先生側からすると、片付けをする方が保育室も園庭も「見栄え」がいいですし、管理も楽です。事例のように数か月もの遊びの継続を保障し見守るのは容易な決断ではありません。しかし子どもたちが「明日もこの続きをしようよ」と約束して、明日を楽しみにできることはとても多様で深い育ちの機会を与えます。

2020年08月21日

あまのじゃくな子

「着替えて」と言うと「着替えない」。「食べて」と言うと「食べない」。好きな遊びに誘っても「やらない」。褒めても喜ばない。そんな「あまのじゃく」な子どもがいます。
「あまのじゃく」な子というと、何でも反対のことを言いたがる性格というイメージがありますが、中には気持ちがつまずくと物事を進めることができなくなる子もいます。直ぐにすべてを解決することはできませんが、成長する中であまのじゃくな面は減っていきます。「あまのじゃく」が現れるのがどんなタイミングかで、発達を促す取り組みも少しずつ違います。
たとえば、疲れが原因となることがあります。元気に遊んでいてもその直後に疲れが出て、あまのじゃくになってしまうのです。朝の時間に弱い子もいます。十分に覚醒していないのです。
幼い時には少し頑張ると疲れ、少し休むと回復するというサイクルが繰り返されるので、あまのじゃくにあるタイミングが分かりにくいかもしれませんが、その場合はまず、生活のリズムを整えることから始めます。朝はゆとりをもって起こし、夜は早く寝かせる。たっぷりと寝る。車や自転車の移動を少し減らして歩いて幼稚園へ行く。小さな事のようですが、生活のリズムが整い、少し頑張ったら少し休憩ということを心がけていくと、次第に体力がついて、脳の働きも活性化し、疲れからくるあまのじゃくは減っていきます。
一方、切り替えが苦手であまのじゃくになってしまう子もいます。「これから着替えます」ということは、簡単なように思いますが、大人の都合やスケジュールに合わせてすぐに行動を切り替えるのは、子どもは苦手です。
できるだけ、子ども自身が見通しが立てやすいように、一日の流れを基本的に同じにします。つまり、この場合も生活リズムを整えることからはじまります。見通しを立てるために絵や写真を用いるのも良いと思います。「すぐ」に切り替えることが苦手なので、余裕をもって声をかけてゆとりを持たせます。
あまのじゃくな子は困らせたいのではなく、実は一番子ども自身が困っています。あまのじゃくになったときには、大人の側がどれだけ慌てずにいられるかが大事です。しばらく間をおくことで、気分が立ち直り、子どもも落ち着いてすべきことに心を向けられます。「しばらく間を置く」気分転換は大人にも子どもにも良いことです。着替えや食事、歯磨きなどを気分よく行えた時には沢山褒めてあげてください。自信がついて、上手になり、自分から行うようになればあまのじゃくも減っていきます。

2020年08月24日

不安の強い子

子どもたちと接していると、その中には人一倍不安になりやすい子や緊張しやすい子、引っ込み思案な子がいます。
「不安」とは何でしょうか。心理学では、不安は将来の脅威を予測してそれに備えるものであるとされます。その時の予測があまり具体的ではないことが不安の特徴です。「よくわからないけど不安」というのが、不安の現れ方です。こういった不安が続くと、不安の理由がなくても、「不安な状況が起きるかもしれない」と予測して、不安の状態が起こります。
不安によく似ていて、不安と同時に起こることが多いのが「焦り」です。焦りの気持ちが強い時には、「何かをしないといけない気がする。だけどどうしたらいいのかわからない」と感じています。
また、不安と似ていますが異なっているものとして「恐怖」があります。恐怖は不安と異なり、具体的で、現実的で、差し迫った脅威に対する反応です。「注射が怖い」「高いところが怖い」「蛇が怖い」「虫が怖い」といったように、はっきりとした物事に対して起こってくる反応を「恐怖」といいます。
こうした不安や焦り、恐怖は心だけでなく、身体にも影響が現れます。不安や焦り、恐怖の気持ちがあると、胸がどきどきして、息苦しくなったり、気持ちが悪くなったり、筋肉がこわばったり、その場から逃げ出してしまうこともあります。このように身体に影響が出ることで、不安や焦り、恐怖がますます強くなることもあります。
子どもたちの不安には、周囲から見て分かりやすいものと分かりにくいものと両方あります。本人が「心配だ」「怖い」と説明できれば、それが一番分かりやすいのですが、幼児はうまく説明できないことが多いでしょう。しかし、その場ではっきりと固まってしまうとか、行動するのを嫌がる、その場から離れようとするなどの不安や恐怖を示す行動があると周囲は気づくことができます。
しかし、静かに目立たない仕方で不安や恐怖に耐えてしまう子もいます。不安を感じたときに、急におしゃべりになったり、落ち着かなくなったり、羽目を外してはしゃぎだすこともあります。こうした不安の表現は、自分自身に置き換えると「そういうこともある」と気づけるのですが、子どもの行動を見た中ではなかなかそれに気づけないものです。
このような不安は少なければ少ないほど、人生は楽しく、良いものになるのでしょうか。もちろんそんなことはありません。一切の不安や恐怖が無くなってしまったら、人間は極めて危険な状況に気づくことができません。忘れ物が増えたり、怪我をすることが増え、病気にもかかりやすくなるでしょう。人との関係で失敗をしたり、犯罪被害に遭う可能性も高まります。
不安は、人間が正しく自分を守り、日々の生活を安全に送るために欠かせないものです。しかし、不安が強すぎるとかえって生活しづらくなってしまいます。特に不安や恐怖が強くなる傾向のある子とどのように関わればよいでしょうか。
失敗を繰り返したり、不快な思いにさらされ過ぎたり、怖い思いを重ねたりといった「過ぎた」環境を変えることが大事です。そのためには、子どもの得意なことと苦手なこと、今どこまでできるのか、どんなものを好んでどんなものを嫌いなのかを把握することが必要になります。難しすぎる課題を与えたり、慣れさせるつもりで不快な感覚を与えたり、失敗したときに怒られて怖い思いをするといったことが重なり過ぎることを避けます。
もう一つ、子どもが先の見通しをもつことができる状況を準備することも不安を減らす助けになります。次に何が起こるのか、次に何をすることを期待されているのか、うまくいかないときに誰がどのように助けてくれるのか。こういったことが子どもに十分に「伝わっている」と安心して活動に取り組むことができます。
不安の強い子に接するときに、大人は何とかして不安をなくしてあげようと思い、不安さえなければ上手くいくのにと思ってしまいがちです。結果として不安材料そのものを取り除いてしまうこともあります。しかし、不安をなくすということで取り組むとなかなか上手くいきません。それは、不安になるのには理由があって、しかもその不安は役に立つことが多いからです。不安は不安のまま抱えて挑戦できるということが望ましいことです。不安を無くすことを目標にすると、子どもは不安だから「回避」するということを身に着けてしまいます。本当に問題となるのは不安だから行動を制限し、挑戦を失ってくことです。
挑戦を回避することを減らすためには、「成功したら褒める」のではなく、大人が願っているのは「やり始めること」や「やり続けること」だということを子どもに実感してもらうのです。そのためには、子どもが何かに取り組み始めたとき、取り組み続けている時にこそ励ましの声をかけ、喜びをあらわします。そして、達成したときにはむしろあっさりとした声をかけ、本人が自分で感じている達成感や満足感に身を委ねさせるということが必要なこともあります。
そして、大人も失敗する。でも平気な顔でもう一度挑戦するし、挑戦していると成功することがある。失敗しても平気なんだということを、子ども自身の世界の中に受け取ってもらえると、さらに良いと思います。
参考「不安の強い子どもたち」吉川徹(『発達教育』2018年4月号特集)

2020年08月25日

教育は時代で変わる

時代の変化と共に、教育の目標は変わっていきます。価値観が変わるからです。例えば私が学生時代を過ごした頃には、「誰もができることを、誰もができるようにする」という教育の平等が重視されていました。その中で優秀とされた子は、「誰もができることを、誰よりも優れてできる」ことが求められました。成績は「知識量」「問題処理の速さ」「正確さ」で測られていました。教科書や参考書に書いてることを全て知識として記憶し、テストで高得点を取る子が「優秀」とされていました。そうした人を社会は求め、幸せな人生を与えていました。
しかし、社会の仕組みは変わっています。当然、価値観の変化は「優れた人間」「社会に求められる人間」を変化させていきます。しかし、教育はその変化に目を背けてきたのか、それとも知っていて抵抗してきたのか、相変わらず「みんな同じ」という価値観の中に泥で足をとらわれているかのように停滞していました。新型コロナウイルス感染症は、そのような教育の古びた価値観に支配されている事実を剥き出しにしました。
新型コロナウイルス感染症で学校が休校となったとき、課題として問われたことの一つは、教育のICTの導入でした。識者が「全ての子どもに”平等”な教育を受けさせるためにICT化を進めなければならない」「一人一台タブレットを配給しなければならない」といった意見を表明しました。しかし、これらの意見が実は何十年も前の「平等」思想を古典として引用していることに気が付きました。そして、それら支持した人々は、「学校がないと、子どもが勉強をしない」「休校で子どもの学習が遅れる」「受験にも配慮が必要だ」と言うのです。
一方で、私が注目したのは、休校を幸いとして学力を圧倒的に伸ばし、あるいは全く違う分野で力を発揮している子どもたちがいたことでした。彼らは言うのです。「学校がリモートで授業をしてくれなくて良かった」「これで余計な時間を学校で使わずに勉強できる」「これでやりたいことをやれる」。
過激なことを言いますが、もしも今後大学が卒業重視の体制に移行するということなく、現在の状況で受験の試験科目を減らしたり、出題範囲を狭めたりする学校は教育機関として失格です。それが大学であったら、なおさらです。教育と人道主義と商業主義を見分けられない程度の知性しかないか、単なる「商売」の手段として教育を選んでいるだけだからです。そもそも英知の先端たる大学が、大量の学生を集めることで金銭を集めるというビジネスモデルから離れられないのは問題です。だから「配慮」という名の安売りを始めるのです。本当に学ぶ力を持った子は学校の配慮などそもそも期待しません。常に問うのは、「自分自身」の力だからです。
社会の仕組みは大きく変わりました。「誰もができることを、誰もができるように」という中で求められたことはテクノロジー(AI、SNS等の技術)が肩代わりしてくれるようになりました。これはAIが人々にとって代わるという課題ではなくて、そういった技術を「当たり前」とした上で人間に求められるものが変わっていることを意味します。AIが人間に取って代わることはできません。しかし、人間が変わることは要求されます。テレワークを経験する中で、極端なことを言えば、人は組織に所属する必要はなく、得意分野と熱意さえあれば、仕事をして食べていけるということを感じた方も多いのではないでしょうか。
そのように社会の仕組みが変わったということは、つまり「子育てにおいて心配すべきポイントが変わった」ということに、教育者は気が付かなければなりません。これまでの心配事の重心は「周りの子と”比べて”、自分の子にできないことや足りないことがあること」でした。しかし今や「周りと同じ」であることは必ずしも価値にはなりません。むしろ、「あなたは何ができるのか?」を問われた時に自分の強みを発揮できるかどうかです。
言い換えると「苦手なことはあるけれど、誰にも負けたくないものを持っている」ということの方が大事です。もちろんその得意分野で世界一であればすごいでしょうが、それはいつの時代もただ一人です。だからこそ「誰にも負けたくない」というものを自分の強みとして社会で発揮できることが求められます。それは、自分自身を持っているということです。経験や価値観に基づいて、自分なりの価値を持っているということです。知識量はまだ未熟でも、ゆっくりでも、間違っていると思うなら何度もやり直して、自分の持っているツール(知識・技術・得意)を駆使して自分なりの答えを出せることが求められています。
「みんな同じ」はもはや教育の重要課題ではありません。だから、「同じ」であることを求める教育環境も変わらざるを得ません。自分を偽らせず、無理な背伸びを要求せず、ありのままの自分が出せることが教育環境となる時代が来ているのです。すでにそのように世界は変わっているのです。

2020年08月26日

今日の姿を見る

「見守る」ということについて以前「守る」ということから記しました。それでは、保育としての「見守る」時の「見る」は何を見るのでしょうか。子どもに危険がないかを見ることは当たり前のことです。それ以外の何に気持ちを向けて「見る」ことが、子どもの育ちに大切なのかということです。
幼児教育において「見守る」という時の「見る」とは、どこまでを助けたり補ったりするのか、どこからを子どもたちを信頼して任せるかを選びなおすために行います。子どもの今日の姿を見て、子どもとの関りを選んでいくことです。子どもは日々成長し変わっていきます。体調や気分も違います。それに合わせて大人が関りを見直す必要があります。
分かりやすい例としては、子どもが道を歩くことを考えてみます。歩けない乳児の時は抱っこしたり、ベビーカーに乗せます。子どもが歩けるようになると、手をつないで歩き、曲がり角では大人が危なくないか注意をして曲がります。しばらくすると、手をつないで歩く必要がなくなりますが、まだ一人で歩かせるのは危険なので大人が一緒に歩きます。さらに子どもが成長すると、一人で大丈夫だと信頼できるようになって、一緒に歩く必要が無くなっていきます。ただしそれは、今日の子どもの姿によって行ったり来たりすることがあります。もう手をつながなくても大丈夫な年齢であっても、初めての道を行くときにはつないであげる必要があるかもしれません。そこで、今日の姿をしっかりと「見る」ことが大事なのです。今日の子どもの姿を見て、どこまでを任せ、どこから「守る」のかを選ぶことが「見守る」ということです。
子どもが好きで、子どもを守りたいという気持ちが強い人はこの点で過保護になるかもしれません。その結果、「見守る」ことが「監視」になってしまいます。そうなると、子どもの行動にいちいち口を出し、結果として「それはダメ」という否定ばかりが子どもに届くことになります。あるいは、子どもが「あとちょっとでできる」「もうちょっと頑張れる」、そういったことを先回りして手を出して「やってしまう」ことで、子どもの育ちを邪魔してしまうかもしれません。
子どもが育つときに、「成功体験」が重要なのは言うまでもありません。小さな成功体験の積み重ねが子どもに自信を与えます。だから、「この子は靴を自分で持ってくることはできる。それなら私はかかとを入れるときにちょっとだけお手伝いすればいいかな」、「この子は伝えれば、自分でコップを持ってこれる。私は麦茶を注いであげればいいのだな」、「この子は”何が食べたい?”と聞くと困ってしまうようだけど、”ハンバーグとコロッケのどっちが食べたい?”と聞くと自分で選べるんだな」というように、子どもの成長に応じて、大人の手助けを決めていきます。大人の手助けを「どこまで減らせるか」を考えるのです。
子どもの成長はきれいなグラフで表せるような単純なものではありません。時には逆戻りもします。先週できても、今週はできないということも起こります。だから、「見守る」ことで、今日の子どもの姿に合ったサポートを定めるのです。
このことを意識すると、子どもの得意・不得意が見えるだけでなく、見守られる子どもの中にも、見守る大人の中にも、互いへの信頼感が育っていきます。この点が育たないと、信頼されない子どもは「お父さん、お母さん(あるいは先生)の機嫌がよくなることがいいことだ」と考えてしまい、大人の顔色を伺うことになります。それは決して望ましい姿ではありません。信頼よって支えられる人間関係を作り上げていくのが、望ましい「見守り」です。

2020年08月27日

ごめんなさいが言えない子

友だちともめ事があったときに、叩いてしまうことが起こります。そして、そうした子どもは叩いてしまった後に謝ることができないで、目をそらしたり、下を向いたまま黙っていたりすることがあります。どうしても「ごめんなさい」が言えないのです、。
友だちとのもめ事で、衝動的に叩いてしまうこともありますが、自分の気持ちを適切に表現できない状態によって叩くという行動になってしまうことがあります。自分の気持ちを適切に表現する手段がなかったり、表現するために感情をコントロールすることが未熟であったりして、結果として不平や不満がある時や、何か要求が生じると、言葉以外の表現をすることになります。例えば、一つのおもちゃの取り合いになった時に、適切な言葉で自分の気持ちを表現して交渉することができないために、奪い取ってしまうことになります。
また、気持ちを伝える言葉や手段があっても、人との付き合い方で緊張してしまい、結果として自分の思いを表現できなかったり、固まってしまうこともあります。
こうした子には、まず日頃から自分の気持ちを表現しても大丈夫という関係を作ることが大切です。失敗やトラブルを起こしたときに素直に「ごめんなさい」と言っても大丈夫という思いが持てないと、謝ることはできません。謝っても大丈夫という思いが持てないと、トラブルを起こした事実を認めず、場合によっては嘘をついたり黙り込んだりします。
失敗やトラブルに対して「あなたの存在が悪い」という理解を与えないように気を付けなくてはいけません。こうなると、ごめんなさいを言うことは、自分という存在が悪いということを認めることになってしまいます。
また、トラブルがあった時に、「ごめんなさい」と言わせることを優先すると、謝ることで事を済ませてしまおうという態度につながります。「とりあえず謝っとけ」というわけです。トラブルに対して謝ることができるのは、正しい状況の認識の下で「自分の方が悪かった」と意識し、「ごめんなさい」を言う必要性を理解して、ようやく素直に謝ることができるのです。ですから、事実の確認や本人の思いの確認にこそ助けが必要なのです。
トラブルを起こした直後は、興奮していたり、緊張していたりして、感情が乱れているときです。私たちはよくそうした場面で「どうしたの」という質問をしてしまいますが、それに応答するのは子どもには難しい場面であることが多いのです。「どうした」とか「どんな」というような方向性のない質問は曖昧過ぎるのです。
そこで、感情を整える上でも、子どもが状況を認識する上でも、自分の気持ちを表現できるように質問に方向性を持たせる工夫をしてみましょう。実際、多くの場面では大人は状況を察することができます。他の子どもたちが起こったことを教えてくれることもあります。そこで、「〇〇されたのが嫌だったの?」、「このおもちゃが使いたいのね?」と、本人の認識を代弁してみます。日頃から自分の気持ちを表現しても大丈夫という関係性があれば、うなずいたりして、自分を表現できます。うなずくことで、本人が気持ちや認識を表現したということが大事です。
感情についての理解がある子であれば、「今の気持ちは、悔しいかな?悲しいかな?」と、選択肢を与えて本人に選んでもらうのも、気持ちを表現する初歩をうながす方法となります。繰り返しますが、本人が気持ちや認識を表現するということが大事です。それが、やがて自分から正しく、素直に「ごめんなさい」と謝る自律へとつながっていくのです。

2020年08月28日

待つ=信じて任せる

子どもは色々と不器用です。始めから手際よく活動できる子はいません。そこで、大人の側に子どもができるまで「待つ」ことが要求されます。
待つことで、子どもは自分でやり切ったという達成感を得ます。達成感は自信を与え、またやってみようという気持ちにさせます。もう一度やってみると前よりも上手になります。そうやって活動をより高度にしていきます。「待つ」ということが子どもの成長を加速させるわけです。
こういった待つことの大切さは、「わかっているけれど、待てない」と思われる方もおられるのだろうと思います。その場合、「待つ」ことを「我慢する」ことと思っていないでしょうか。あるいは、親の都合に子どもをはめ込もうとしていないでしょうか。
「待つ」とは、子どもを「信じて任せる」ということです。決して「我慢する」ことではありません。子どもは、何ができるのか、何ができないのか、何をしたいと思っているのか、何に不安を感じるのか。そういったことを見て取る必要があります。その上で、確信が無くても信頼して任せるのです。「以前、出来ていたから」というのではなく、「自分の信じた子だから、できる」というくらいの信頼をもって任せてみて欲しいと思います。こういったところから大人の方の「待つ」心も育っていくのです。
もう一つ、「待つ」ことは「放置する」こととも違います。どうしても「ここは手伝ってほしい」というサインを子どもが出すことがあります。その時には手伝ってあげる必要があります。
待つことで子どもの成長のプラスになるのは、待てば結果にたどり着けるという場合です。言い換えると、結果にたどり着く道筋を子どもが理解している時です。「何をどうしたらいいのかわからない」という状態にいつまでも放置されるのは、大変な苦痛です。それでは取り組んでいることに興味を持続できないばかりか、もう二度とやりたくないと思うことでしょう。
今の力では対処できないようなことに子どもが困っていたら、助けることが必要です。全部を代わってやってしまう必要はありません。子どもが道筋を得られればいいのですから、「ここはちょっと難しかったね」というところを手伝ってあげれば、あとは子ども自身でできるということもあります。「待つ」ことは単に大人が待機している状態のことではなく、大人の側の手を出さず、子どもを見守り続けるという積極的な子どもへの関与なのです。
しかし、そのように子どものために大人が都合よく自分の時間を与えることができない事もあります。例えば、幼稚園へ9時に子どもを連れて行って、9時15分の電車で会社に向かわなけれならないということもあるでしょう。その時に、子どもが大人の事情を汲み取ってくれず、なかなか準備を進めないので、「もう待てない!」ということもあるはずです。
この場合は、「子どもが自分の力でやろうとしているのに、大人が手を出してやってしまう」、ということとは違います。子どもの行動が遅いために、大人の方が予定を変えなければならないことからくる「待てない」状態です。しかし、誰かの都合に合わせて動くというのは、結構大変な行動ことです。子どもには子どもの精一杯のペースがあって、大抵の子は自分のことで手一杯です。
ですから、こういった「待てない」を少なくするためには、「この子のペースだと、どれくらい前に仕度を促すべきか」を大人の方が逆算しておかなければなりません。そもそも、子どもになぜ急がなければならないのかを説明して、理解してもらっているでしょうか。
「会社に遅刻するわけにはいかないから、9時には幼稚園に着いていないといけない。そのためには家を8時45分には出たいんだ。協力してほしい」と「大人の事情」を説明すると、子どもは大人のお願いをかなえようと協力してくれることも多いのです。
この子どもへの説明を理解してもらうところが「待つ」ポイントなのです。「わたしの信じたこの子なら、協力してくれる」という信頼をもって任せるという「待つ」心が鍵なのです。

2020年08月31日

否定=嫌われた

人間は意外なほどに投げかけられた言葉をそのまま受け取ります。特にコミュニケーションの経験が少ない子どもはそうです。
大人である私たちでも、「ダメ」と言われると、「きっと自分を思っての言葉だ」と思っても、やっぱり落ち込んでしまうものです。大人に対しても否定の言葉はとても強い言葉なのです。まして、子どもに「ダメ」という言葉の裏にある、大人の期待や心配を理解してもらうことはできません。
私たち大人の言葉というのは、かなり気を付けないと「否定」の言葉が多くあります。私自身、幼稚園に関わるようになって、意識して否定の言葉を言わないようにしたら、それまでたくさんの否定の言葉を発していたことに気がつきました。
こちらの思い通りに動いてくれない子に「~ちゃん、ダメ」と言うと、子どもは額面通りに「自分はダメだ」と受け取ります。
まして、親の発する否定の言葉であると、子どもは額面通りに言葉を受け取って「嫌われた」と感じてしまいます。子どもにとって親に嫌われることくらい不安をもたらすものはありません。
親からすると、子どもの存在そのものを否定する気は全くないはずです。子どもの誤った行動、あるいは失敗を訂正してあげたいという気持ちが言葉になっているだけです。子どもの行動に向かって「ダメ」と言っているつもりです。しかし、子どもの方は自分の全てが「ダメ」ととらえてしまいます。そして嫌われたという不安に落ち込んでしまいます。
大人は「うまくなって喜ぶ子どもの顔が見たい」とか、「子どもが持っている力をもっと発揮させてあげたい」とか、「怪我をしてほしくない」というような、子どもの幸せや安全を願って声をかけています。同時に私たちは、私たち自身が安心したいという気持ちがあるのではないかと思います。どうしたら、この思いを否定の言葉を使わずに伝えられるでしょうか。
ある学校で「廊下を走るな」という張り紙を「廊下は歩きましょう」へと変更したら、「廊下は歩きましょう」と書かれていた方が、子どもが廊下を走る割合が圧倒的に少なくなったそうです。
「~してはダメ」ではなく「~しよう」と肯定的に伝えた方が子どもはそのまま受け取って行動しやすくなります。否定の言葉を取り除くことを意識すると、最初は何と声をかけていいのか戸惑うと思います。子どもの「いいところ」や「心地よいこと」を伝えることを意識して見てください。それから、最後に一つだけ、「○○も~のようにできるともっといいね」と伝えることから始めてみてください。
大事なことは、こうした声掛けの後に、直ちに子どもが改善できなくても「否定」しないことが大事です。ここは、「待つ=信じて任せる」場面です。子どもはおとうさん・おかあさんが大好きですから、協力してくれるようになります。

2020年09月01日

”やってみよう”を育てる

本来、子どもは大人と違って、「やる前から諦める」ということはありません。ところが、何度も上手くいかない経験をしたり、周りの大人から「それはやめなさい」「こっちをやりなさい」と否定されると、やってみようとする気持ちが急速に無くなっていきます。大人の助言は、子どもの成長を妨げる「毒」にもなります。
子どもは好きなことに自由に取り組んでいると、どんどんそれが得意になっていきます。この「好き」と「得意」が育っている時が、子どもが神様からいただいている才能がぐんぐん育っている時です。
時間を忘れて、夢中になって取り組んでいる時が、子どもにとってのゴールデンタイムです。そこに子どもの本来の姿も現れてきます。ゴールデンタイムを豊かに持つためには、子どもの「やってみよう」という気持ちをどんどん増やしていくとよいのです。
「やってみよう」という気持ちの前には、「自分にもできそう」とか、「面白そう」という予感があるはずです。そこは大人も子どもも違いはないと思います。何かできそうなワクワクした気持ちがあるからこそ、やってみたくなります。「大変そうだ」とか「めんどくさそう」とか思ったら、できるだけ後回しにしたくなります。
「できそう」という予感を増やすには、何でもいいから新しいことに挑戦させるのではなく、日常的に子どもが「できる」とわかっていることから、ちょっとだけステップアップさせる方が効果的です。
そして結果にはこだわらないことが大事です。「ちゃんとやらないから、うまくいかないんだよ」という言葉は「できた」、「できない」で判断するので、結果として否定的な言葉になってしまいがちです。結果として、その時は、上手くいかなかったとしても、本人が頑張ったことや、本人なりの工夫をしたことなどを褒めてあげると、「もう一回やろう」という気持ちになりやすいのです。
大人から見ると「以前も出来たから、今回も出来て当たり前」のことでも、子どもが出来たことを無視せずに、褒めたり、ねぎらってあげると、子どもの挑戦はステップアップしていきやすくなります。
大人の世界は、「ダメ」の多い世界です。しかし、失敗したことを「ダメ」というのは、簡単なことです。しかし、「(結果的に失敗していても)ここは上手に出来てるね」と褒めて、「もう一度、やってごらん」と促してあげられるかどうかに、大人の「人間の器」が問われるように思います。

2020年09月02日

間違った褒め方

どんな当たり前のことでも褒めると、子どもは当たり前のことを「ちゃんと当たり前に出来る」子に育ちます。大人が「こんな程度のこと」と思えることでも、「いつも出来ていること」でも、どんどん褒めてあげて欲しいと思います。お手伝いをしてくれたら「ありがとう」を伝えます。小さなことを褒められることで、子どもは大きなことに挑戦する心が養われます。
このように、褒めることは子どもの育ちにとってとても大事な栄養ですが、何でもかんでも褒めればいいという訳ではありません。褒める時に気を付けたいポイントがあります。

1.他人と比較しない
「○○ちゃんより上手いね」とか、「クラスで一番だね」という褒めた方は、今すぐやめて、金輪際しないと心に決めて欲しいと思います。大人のこういった「比べる癖」が、他人と比較して褒める言葉から子どもへと伝わっていきます。
子どもは、大人の「褒めるポイント」に敏感です。他人と自分を比べる癖がつくと、周りの子の出来・不出来にばかり心を奪われるようになります。自分よりできない子を見下したり、自分が劣っていると思うことには挑戦できなくなります。

2.本人が喜んでいない時は慎重に
運動会のかけっこで1番を目指していたのに、2番になってしまった時など、子どもが心から悔しがっているのに、「頑張ったじゃない。すごかったよ」と褒めるのは、あまりお勧めしません。
褒められることが、なぜ子どもの成長の栄養になるのかと言うと、本人の感じた手ごたえを自信に変えることをサポートするからです。本人が手ごたえを感じていない、あるいは「ダメだった」と悔しがっている時には、かえって子どものプライドを傷つけるかもしれません。
子どもが頑張ったことを褒めてあげたいと思うのであれば、こういう言い方にしてみてはどうでしょう。「お父さんは、すごいと思った」、「お母さんは、頑張っていたあなたがかっこいいと思った」というように、「わたしは思った」という伝え方にしてみてください。
子どもは納得していなくても、「わたしはあなたの頑張りを誇らしく思う」という伝え方は、子どもの存在の肯定です。悔しさを次の挑戦に繋げるため、子どもを受け止めるのクッションのようなものです。

3.倫理やルールを逸脱したことは褒めない
子どもが他の子を叩いておもちゃを奪い取ったのを見て、「力が強いね、よくやった」と褒めることはないはずです。絶対に褒めないでください。
倫理や社会のルールを逸脱したときには、毅然とした態度を示さなければなりません。その時に気を付けるべきことは、子どもの存在そのものを否定はしないようにすることです。
ここでも、「わたしはとても悲しいと感じた」、「お母さんは、強い力でお母さんを手伝ってくれるあなたが大好き。お友だちをたたくのに力を使ってほしいと思わない」というように「わたしは~だと思う」という伝え方で子どもに言い聞かせて欲しいと思います。

4.アドバイスは子どもが聞きたいときに
褒めるだけでなく、次はもっと上手にできるようにアドバイスを伝えたいときもあります。そのような時は、子どもを褒めた後で、「もっとうまくいく方法を、聞きたい?」と尋ねて、子どもが乗ってきた時に伝えるようにしましょう。
子どもは、何度も同じ結果を楽しもうとすることがあります。子どもから「もう一回」と飽きずに何度もせがまれたことがあると思います。
そんな時のアドバイスは押し付けになってしまいます。アドバイスは、子どもが「聞きたい」と求めている時にすることが大事です。

2020年09月03日

インターネットで調べもの

今の子どもたちは触れられる情報の量が非常に多くあります。子ども向けの図鑑や読み物も豊富ですし、漫画を通して価値ある情報が得られます。しかし、何より親世代との決定的な違いはインターネット上のWebコンテンツの豊富さです。「気になったら直ぐに検索」ということが当たり前になっています。

多くの情報に触れることが容易なことは良いことですが、情報に流されてしまう危険もあります。そこで、自分に必要な情報だけを得られるように、情報を取り入れる技術を教える必要があります。

「知りたい」という気持ちは、必要な情報を能動的に得ようとする大事なきっかけです。「夏は何で暑いの?」と聞かれて、直ぐに答えを与えるのではなく、「何でだろうね。一緒に調べてみようか」とか「何でだろう。調べて教えてくれる?」といって「わかった!」と子どもが張り切って取り組んだ時に、貴重な体験が始まります。

子どもが調べたことを教えてくれたら、「そうだったんだ!たくさん調べて、すごいね。教えてくれてありがとう」と感謝し、ほめることが肝心です。

このようなことを、子どもは、知りたいことを調べる方法を得、調べたことを教えると喜ばれる、という体験も得ます。そうして、知りたいことを自分でどんどん調べるようになっていきます。

調べものをするときには、事典や辞典、図鑑、地図などの他に、現在ではインターネットがあります。幼児期の子どもでも、何度か経験すると自分で操作できる、というのが現在のスマート機器の操作レベルです。インターネットでの検索も年長児であれば、できても驚くにはあたりません。

ただし、インターネット上の情報は数を増しても減ることはまずありません。一日ごとに膨大な情報が蓄積されてきます。そこで、インターネットでの調べものをするときに気を付けたいことがあります。それが「次に表示されているお勧め情報を見続けない」ということです。

これはお勧めの関連情報を表示することを「レコメンド機能」と言います。検索をしたり閲覧したりした情報がサイトの運営側に蓄積されます。そして、「あなたへのおすすめ」として、どんどん提供されていきます。インターネット上での情報取得においてこれにはまると、「一日中Youtubeを見ていた」ということが容易に起こります。そのような状態に、人を誘導するためにある機能だからです。

たとえば子どもが「ティラノサウルスの化石が見たい」と思い立って、サイトを検索してスミソニアン博物館のティラノサウルスの化石を映した動画にたどりつきます。動画の中で、ティラノサウルスについての最新の情報に触れられるかもしれません。そこに、「おすすめ」にこんな動画はどうですか、というふうにたくさんのおすすめ動画が提示されます。

それは、別の恐竜の化石を紹介するコンテンツかもしれません。アニメかもしれません。映画の宣伝かもしれません。着ぐるみを来た子ども向けのコンテンツかもしれません。一つクリックすれば、動画の終わる前に次のおすすめが提示されます。

しかも「レコメンド機能」は、使用を続ける中で「閲覧者」の好みを情報として蓄積していきます。結果として、「おすすめ」が「好み」に固定されていきます。調べたい情報と全く関係のないと思われるサイトがおすすめされるのは、検索ワードに関連が無くても、調べている人間の好みにマッチするからです。自分の好きなキャラクターが次々と「おすすめ」されれば、子どもの「知りたい」は消滅してしまいます。

最初にたどりついたサイトは、子どもの「知りたい」という気持ちから見つけ出したものですから、有益な情報です。しかしその後の「おすすめ」の情報を次々と見続けることは、よいことではありません。

子どもは、知識を身につけ、そこに疑問が生まれ、答えを見つけ、次の疑問を生み・・・ということで知恵を深めていきます。しかし「おすすめ」に身を任せているのときには、大事な「疑問を生む」ことができないのです。子どもが疑問を持つ前に、「答え」の方がどんどんと与えられます。一見すると知識が増えるからいいと思いがちですが、知識の量は賢さとイコールではないのです。

取り分け、これからの時代は「疑問を生む」ことができる人が求められます。「これはどういうことだろう?」という「知りたいという気持ち」、「これを解決するために、調べるべき疑問点は何か?」という「疑問を生む/見いだす力」、それこそが人間の力として問われます。疑問を生む力があれば、インターネットはこれまで人類が手にしてきた中で最も手軽で、最も情報量の豊富な検索ツールです。賢い使い方をして、「知りたい」という思いを、どんどんと育てていってほしいと思います。

2020年09月04日

子育ての焦り

子どもの育ちについて「焦り」が生じることがあります。子どもを大切に思っているからこそ湧き上がる「焦り」です。

たとえば、「子どもに失敗をさせたくない」という思いが強くなります。これは、教師も感じることです。そこから、子どもの挑戦の機会を奪ってしまう事につながることがあります。

「危ないから、もっと安全なこっちにしなさい」、「そんなことは得にならないからやめなさい」といったふうに大人の判断で子どもの挑戦に介入します。失敗しないように、親の方が子どもの先回りをしてしまうのです。そして、進むも退くも親が決めてしまいます。

子ども時代にしっかり味わうべきことは「失敗」です。「失敗から学ぶ」という経験です。しかし、先回りされて、進むと退くを決められてしまうと、この経験を積むことができません。

子ども時代に失敗を回避してきた人は、ちょっとした失敗ですぐに諦めてしまう傾向があります。ささやかなミスでもう嫌になり、僅かなミスを訂正されるだけで人格攻撃と受け止めます。必死に失敗を隠そうとします。失敗を必要以上に重大なこととして受け止め、大きな挫折と痛みを感じてしまうのです。

子どもが、テストの点を親に隠すようになります。最悪の場合は、いじめ等の深刻な事態を相談できなくなるかもしれません。

親が先回りをすることなく、幼いころから、できたり、できなかったりする経験をしていると、失敗は悪いことではないという心情が育ちます。失敗は一つの結果であり、結果をそのまま受け止めて、工夫し、見通しを立てて、乗り越えようとします。

先回りされて失敗を取り除かれるよりも、失敗をした後に、「失敗することは悪いことではない」、「やめてもいいけど、頑張ったのに嫌な気持ちのままおしまいにするより、もう一回だけ一緒にやってみよう」と、自分の気持ちに寄り添ってもらう方が、子どもにとって有意義です。

困難を乗り越えていくためには「失敗しても、次がある」、「転んだら立ち上がればいい」ということを身をもって知っているかどうかが大事です。そのために、大人がしっかりと愛情をもって見守っている時に、「失敗」を経験することが必要なのです。そうやって、困難という峠を越えてく心の足腰を鍛えていくのです。

2020年09月07日

失敗からしか学べない事

子どもが失敗したときに、極力避けたい対応は、「○○ちゃんには、難しかったね」と、子どもから取り組みそのものを取り上げてしまうことです。

大人の様々な事情があるのでしょうが、要するに子どもが失敗することに耐えられないのです。時間がないのかもしれませんし、これ以上失敗されると何らかの損失があると考えたのかもしれません。子どもが傷つくのではないかと心配したのかもしれません。しかし、子どもか出来ないことを「マイナス」と判断して取り上げてしまったことには違いありません。

時間がない時には、前もって「○○時にはお出かけするから、△△分になったらおしまいにしようね」と伝えておいたり、「折り紙はあと一枚しかないから、今日はそれで最後にしようね」と伝えておくことで、失敗をマイナスとしないで、改めて次の挑戦の機会を得られます。前もって、「次」へとつなげる準備をするのです。

問題は、子どもの失敗を直視することができない状態の時です。「これ以上失敗したら、子どもがかわいそうだ」と思って取り上げているのでしょうが、この場合守られているのは、子どもではなくて、子どもの失敗から目を背けたい大人の方です。子どもは、信頼する大人をがっかりさせてしまったことを感じ取って、失敗は悪いことだと覚えます。これは望ましいことではありません。

失敗は決して悪いことではありません。人間は、失敗するところから学びを得るからです。

「失敗は成功のもと」と言われるように、実際に世の中にあるもので、失敗を経験しなかった成功はありません。できない、うまくいかない、その経験から、次のやり方を考えてきたから成功があるのです。成熟があるのです。発展があるのです。進歩があるのです。

失敗の経験が、次のやり方を考えるチャンスです。それを子どもから取り上げて失敗させないようにすると、次にどうすればいいのかという観察、推察、推測、類推、計画といった分析知能を育てる機会を奪います。いわゆる「考える力」が養われないのです。さらに、何度も試してみる忍耐力や集中力も養われません。失敗して落ち込んだ気持ちをどう整えるのかという訓練も失われます。

こういった失敗しないとでいない訓練や養いがないと、小鳥のひなが口を開けて親鳥が運ぶ食べ物を待つように、口ばかりやかましく他人が成功を施してくれるのを待つばかりとなります。当然ですが、世の中はそのように都合よく成功を譲ったり、施してくれることはありません。不平と不満で心が満たされていきます。

失敗を経験することのもう一つのメリットは、「今の自分にはできないが、できる人がいる」ということは気づくということです。他の人の優れた点に、良いところに気がつくというのは、生きるために重要な力です。素直に「おとうさん、すごい」「おかあさん、すごい」「お兄ちゃん、すごい」「お姉ちゃん、すごい」「○○ちゃん、すごい」と感じられるのは、子どもにとって大切なことです。

他者への敬意を持っている人は、周囲も気持ちよく助けたいと思います。他者への敬意を豊かに持った人は、魅力的なのです。これは大事な生きる力です。

失敗は決して損なことではありません。失敗から立ち直る経験を積み、困難を乗り越えるしなやかで強い心、他者への敬意を持った魅力的な人格を育てたいのです。

2020年09月08日

日常というイベント

プログラミングスクールの体験教室や、博物館や美術館の特別展、科学館の実験コーナー、スポーツイベントやファミリー向けコンサート等、子ども向けのイベントが沢山あります。

そういったイベントの情報を見て、「特別な体験、有意義な体験を子どもにさせてあげたい」と思われる方は多いと思います。

しかし、幼児期の子どもにとって、毎日の日常も、大人が思う以上の刺激に満ちた時間です。子どもにとって、お父さんやお母さんの日常を一緒に体験するだけで、立派な有意義な体験になります。

例えば、料理をしているときに「そこのキャベツを取って」とお願いして、気を付けながら一緒にキャベツを包丁で切ってみたり、包丁がまだ危ないようでしたら一緒にちぎってみます。それを子どもも見えるように台を準備して、フライパンの中で「ジュー」と音をたてながら炒めると、だんだん野菜から湯気が出てきて小さくなっていきます。大げさに思われるかもしれませんが、こうした体験が、化学でいう「物質の三態変化(固体・液体・気体)」を学んだ時に、水が氷になったり、湯気になったりという変化を「ああ、あのことか!」と合点できるようになります。

大人の生きる日常は、子どもにとって体験の宝庫です。経験の少ない子どもにとって、新しいことが沢山あるのです。商社に勤める親が、「今日はアフリカの○○という国の人と、△△のことで話をした」という話を食卓で聞くと、子どもは知らない事ばかりでワクワクします。新しい家電を買う時に、一緒にパンフレットを広げて検討する様子を見ると、子どもはそこからいろいろなことを学びます。

大人が思う以上に、子どもは大人の日常に触れることで貴重な、有意義な体験をして、刺激を受けています。もっと自信をもって、大人は自分たちの生き方の中に、子どもに伝えてあげたい有意義な体験が沢山あることに気付いてほしいと思います。大人が自分のことを教えると、子どもはその分賢くなっていくのです。

もちろん、参加費を払うようなイベントに行かない方がいいということではありません。そこでは、親と子が一緒に有意義な時間を体験できるものが多くあります。その点では、特に最近のイベントは実に練り込まれ、準備の行き届いたものが多くあります。大人にとっても学びの時、有意義なものが必ずあります。

最後に、子どもの育ちに重要なのはイベントそのものではありません。体験からくる刺激を受けた子どもが、自由に感性を働かせる時間を与えることが大事です。言い換えると「自由時間」が大事なのです。それは、日常での体験であれ、参加したイベントの体験であれ同じです。次から次へと刺激が続くようでは、せっかくの貴重な体験が子どもの中に感性を育てる前に、押し流されてしまいます。

イベントを体験したときは、ぜひ育ちの力を信じて、「自由時間」を与えてください。

2020年09月09日

情報を吟味する

インターネット上には、様々な子育てについての情報が発信されています。誰もが同じ情報を受け取れる便利な社会になった反面、情報の真偽について吟味する力を身に着けないと、情報に踊らされることになります。

ここでは、特に子育てに関する情報について吟味することを考えてみます。

まず、知っていただきたのは、世の中に出ている情報は「上手くいった人の結果論」でしかないということです。上手くいったという結果を前提にして、他と何が違ったのかを問うて方法論としています。

その際に、私たちが気を付けたいのは、特定の人は上手くいったが、その陰に脱落したり淘汰された存在がいるということです。例えば、大変なスパルタ指導に耐え抜いたスポーツ選手が抜群の成績を残した時、この成功を前提にして、「ご両親は子ども時代に~を与えていた」とか、「学生時代にスパルタ指導を受けていた」、だから「今の成功がある」。このような循環型の論理が展開されます。でも、その裏にはスパルタ指導に耐えきれなかった数多くの故障者がいる、ということもあるのです。

特定の方法論を評価する時に、私たちには「生存バイアス」という偏りが生じます。淘汰された失敗事例を見ないで、成功(生存)している一部のみを見て、判断してしまうことです。ダイエットやサプリメントの広告なども、こういった私たちの傾向を巧みに利用しています。

ある子育て論が、全ての子どもに効果を発揮するわけではありません。そこで、子育てについて読んだら、「この人は、こういうやり方で育て方をしているんだな」、「この人の家庭だから、こういう結果になったのだな」という、ちょっと引いた受け取り方をしてみるといいと思います。

その上で、心惹かれる考え方や、共感できるところがあったり、自分と環境が似ているなと感じられたなら、そういうところを取り入れれば良いのだろうと思います。

だから、「これが正解」とは思わず、「人は人、私は私」という心で、一歩引いて、「よそよそしく」受け止めてみてください。それでも、気になることや、「我が家(自分)も同じだな」という情報を受け取ればよいのです。

一番危険なのは経歴を見て、「○○先生が言っているから」と、あなたのお子さんを知らない「権威のある専門家」に委ねてしまうことです。あなたのお子さんについて、あなた以上に知っている人はいないのです。あなたこそ愛する我が子の専門家なのです。自信をもって情報を捨ててしまってください。それでも残るものが、吟味された本当に必要としている情報なのです。

2020年09月10日

テレビ・ビデオは見せてもいいのか

子どもたちはテレビのヒーローやヒロイン、プリンセスやアイドルが大好きです。毎日のように、ウルトラマンや何とかレンジャーになった子どもたちに私は攻撃されています。それもまた、大事な体験です。そのことを通して、様々な抽象的な概念を子どもたちは遊びの中で獲得していきます。

ところで、幼児期の子どもに何分くらいテレビ等の映像を見せていいのか、ということについては、日本小児科医会が提言を発表しています。https://www.jpa-web.org/dcms_media/other/media2006_poster01.pdf

「2歳までのテレビ・ビデオの視聴は控えましょう」、「授乳中、食事中のテレビ・ビデオの視聴はやめましょう」、「すべてのメディアへ接触する総時間を制限することが重要です。1日2時間までを目安と考えます。テレビゲームは1日30分までを目安と考えます」、その他、全部で5つの提言があります。

子どもが映像などを見て反応したり、感動したりというように、頭と心を働かせることのできる時間は30分程度が限界です。それ以上になると、流れている映像を見ているだけ、の状態になります。

テレビやゲームの映像を視聴することは私たちの脳に快感をもたらします。そのため子どもは静かに没頭して何時間でも見ることが可能ですが、それは「何も考えないで、快感に引き込まれている時間」を過ごしているということです。幼児期にそういった時間が長時間に及ぶことは、良いことではありません。

映像にせよ何にせよ、子どもにとって経験が良いものとなるかどうかは、経験した後の余韻ともいうべき時間を持てるかどうかが鍵です。刺激から解放された「自由時間」が、与えられた刺激を価値あるものにするかどうかを決める大事な時間なのです。

自然番組のを視聴した後に、動物に興味をもって調べるかもしれません。親子で一緒に旅行番組を見て、旅先の国のことについて色々と聞きたがるかもしれません。映像を見て、自分の体験と結び付けて話を膨らませてお話を作るかもしれません。

テレビを視聴した後に、すぐに食事やお風呂などで、子どもの関心や活動の時間を待たずに、すぐに次のことに移ってしまうのは、もったいないかもしれません。

テレビ等については、日本小児科医会の提言を参考に、「テレビ等の映像を見る時間」と「余韻を楽しむ時間」をセットにして考えられると最も良いと思います。それが一日にいくつかあっても、それは構わないと考えています。

2020年09月11日

自分で判断させるために

乳幼児期の子どもたちは、「拾っちゃダメ」と言っても地面に落ちているものを拾おうとしたり、「来ちゃダメ」と言っても近づいて来たりします。人間というのは、幼いころは指示を聞きません。

「指示待ち人間」という言葉が流行りました。しかし、生まれつき誰かの指示がないと決断・行動ができない「指示待ち」の人はいません。育っていく中で、何年もかけて「指示待ち」に育てられてしまうのです。人は勝手に「指示待ち人間」になるのではありません。

子どもが「指示待ち」に育っていく原因は、大人の「命令」の多さです。もちろん大人は子どもを従えようと考えているわけではありません。危ない所から遠ざけるために、集団から落ちこぼれにしないように、周りの空気から外れないように、ちゃんと先生の言うことを聞くように、等々の心配から、アドバイスのつもりで「命令」してしまいます。

「子どもはたくさんの友だちを持ち、元気に交流すべき」といった「こうあるべき」という気持ちが強いと、特に「命令」に傾きます。「3歳だから出来るべき」、「5歳だからやめるべき」といった思いから発せられる大人の言葉は子どもには強い圧力です。

命令を発する大人には「自分の期待通りではない」という思いが隠れています。そのことを子どもは感じ取って、顔色を伺うようになります。そうして、自分から興味を持ったものに近づくことをしなくなります。親からの指示待ちが常態化します。

大人の命令には、優しい言葉がついています。命じた大人は、自分が「優しい言葉」をかけたことを覚えています。ですから、命令しているつもりはありません。しかし、子どもに届くのは「命令」の方です。

子どもが「自律した人」、「自分自身で判断できる人」へと育つために、特に私たちのような教師は「命令」を自分が発していることに敏感でありたいと思います。

大人から見て「上手くいっていない状態」を「おかしい」とか「悪いこと」ととらえるのをやめるようにしましょう。子どもにとっては、ただ単に「まだ準備が出来ていない」だけかもしれません。今は友だちと遊ぶより、一人で遊ぶ方を「選んでいる」だけかもしれません。子どもは、本来、人の指示を聞きません。幼くても幼いなりに「こうやりたい」、「こう生きたい」という思いがあります。それも、子ども自身の育ちの力なのです。

以前、園長になりたての頃、幼稚園で子どもと朝の挨拶をするときに「おはようの挨拶をしましょう」と声をかけていました。「挨拶をさせるべき」と考えていたからです。しかし今は「おはようの挨拶をしようか?」、あるいは「先生のおはようの挨拶を聞いてくれる?」と言葉を変え、挨拶をする・しないの判断を委ねるようにしています。私の方は必ず挨拶をします。その時に、挨拶をしてくれなくても全く問題とは思っていません。挨拶をする、しないを状況から子どもが判断し、決められるように育つことが大事だからです。

命令せずにすませるためには、命令しなければならない状況になる前に、子どもに何をすべきかの情報を与えておく必要があります。情報を与えておけば、子どもの方が納得すれば自分から気づき、動けるようになります。挨拶についても、「園長先生は皆に挨拶をしてもらうとうれしいと感じる」ことを話します。そうすると、必ず「挨拶ごっこ」を始める子どもたちが出てきます。そうして、挨拶を自分からすべき時を判断して、挨拶をするようになるのです。

挨拶一つであっても、「子どものタイミング」を信じて任せると、子どもは自分で判断して行うことができるようになります。遠くから私を見つけて「園長先生、おはよう」と挨拶をしてくれたり、「バイバーイ」と大きく手を振ってくれることがあります。とてもうれしいことです。

2020年09月14日

聞く力を育てる

幼い時に「聞く力」を育てることは、その後の生涯全体にわたる大きな財産になります。それは「対話力」の基礎となる重要な力だからです。

聴力があれば、人は話しを聞くことができると考えるのは間違いです。人は「聞きたいこと」しか聞きません。あとは全て雑音として記憶に残ることはありません。聞くことは、人の話に集中し、よく理解するための重要な「スキル」です。スキルは磨くことができます。

聞く力を育てるためには、まず原則として、子どもと向き合って話すことが大事です。子どもは、まず自分の話を聞いてもらう経験から、「聞く」というスキルに出会います。大人が自分の話を聞いてくれる姿から、人の話を聞くとはどういうことかを学びます。ですから、子どもが話しかけてきたら、振り向いて、あるいはしゃがんで目線を合わせて、子どもの顔を見て聞くことが大事です。

子どもは大人からすると何が面白いのかわからない話や、いつまでたっても結論のないとりとめのない話をします。そういった話であっても、大人が言葉で「関心」を示すことが大切です。それらを子どもは聞いてもらうことで、安心や落ち着きを得ます。また、聞いてもらえたことが自己肯定感も育てます。

だいたい、子どもの話題について5回やりとりをするようにすると、子どもは沢山しゃべることができます。子どもに質問する時には、できるだけ具体的に聞いてみてください。例えば、幼稚園の様子を聞こうとするときには、「今日は幼稚園はどうだった?」と聞かれても子どもは答えようがありません。「今日のお弁当は誰と一緒に食べたの?」とか、「今日か○○君と何をして遊んだの?」という

「聞く」ことの第一歩は、話が楽しいと感じることです。「話すことが楽しい」、「話すと面白い」、そんな感じ方が子どもを「対話」の世界に誘います。まずは、子どもの表現を丁寧に受け止めることが、「聞く力」を養う土台となります。

そして、聞くことの楽しさを伝える際に、昔から進められているのは「読み聞かせ」です。楽しい「読み聞かせ」の時間は、子どもが「聞く力」を育てる大きな力になります。初めは絵本のように絵が多く文章が短い本からはじめて、成長するにしたがって絵が少なく文章が多い本を選びます。さらに、少しずつ長い話を選ぶようにします。

正確に「聞く」ことは「伝える」ことで育ちます。幼児期であれば伝言ゲームのようなことや、家族への「言伝」をお願いしてみます。伝えてくれたら、ありがとうと忘れずに伝えてください。

やがて「聞く力」は「対話」を通して深められれていきます。対話は話すと聞くの組み合わせですが、話したいときでも相手の話を「聞く」ことが大事になります。「聞く」ことから、次の自分の話を構成していきます。

それを通してそれぞれの得意なこと、大切にしていること等を理解したり、補ったり、反対したりして新しいアイデアや知恵を拓いていきます。一日に10分程度でいいので、大人がきちんと子どもの方を向いて会話をすることで、「対話」の経験を深めることができます。

2020年09月15日

読み聞かせ

心を落ち着かせ、言語能力や想像力や情緒を育てる、と聞くと大げさなようですが、これらの成長に「読み聞かせ」はとても力を発揮します。

読み聞かせをするとき、子どもの脳のどこが活発になっているかを調べた研究を紹介した本があります(『読み聞かせは心の脳に届く』 泰羅雅登著 くもん出版)。それによると、脳の深部にある感情や意欲、本能に関係する部分が活性化していたそうです。

感情や意欲、本能に関係するところが活発になるということは、それらが育まれるということです。感情を「教える」というのは、なかなか難しいことですが、人間には「共感」という素晴らしい能力が与えられています。「読み聞かせ」は「共感」を呼び起こしやすい方法です。物語と読み手に共感して、嬉しい、楽しい、悲しい、怖いといった感情がわかる子どもに育てます。感情の成長が意欲や道徳感にもつながっています。

もちろん、読み聞かせは子どもの言葉の発達を促します。また、聞く力を育てます。親子の間で読み聞かせが行われると、「共感」によって親子の気持ちが通い、落ち着いた関係を構築しやすくなります。

読み聞かせのコツをいくつか紹介します。

①タイミングを決めて日課にする
幼稚園では、降園前の10~15分に先生が読み聞かせをしています。年少であれば文字より絵の多い絵本からはじめて、少しずつストーリーが分かりやすいもの、主人公の感情表現が豊かな絵本へと進んでいきます。年中や年長の頃には、「ロボットカミィ」や「エルマーと竜」等の毎日続きを読み聞かせる物語にしています。ご家庭であれば、夕食の後や寝る前など読み聞かせのタイミングを決めて日課とされると良いと思います。その際、子どもの聞きたがっている本を選ぶことができれば、子どもに選ばせてあげると良いと思います。

②静かな環境を心がける
周りに音や光があると子どもの集中が妨げられますので、テレビや音楽を消して読み聞かせをしましょう。子どもの疲れや気分によって集中が続かないこともありますが、「聞きなさい」と強要したり、中断しておしまいにしてしまわずに、決めたところを最後までいつもと同じように読んであげます。幼稚園でも集中が続かず、歩き回ったり、寝転んだりする子もいます。読み聞かせの前に約束として、「部屋から出ないこと」を伝えておけば、聞いていないように見えても、聞いていることが多いのです。

③ゆっくり、はっきり
物語の登場人物を必ずしも演じる必要はありません。普段通りの声で読み聞かせをすれば十分です。子どもが聞いた言葉を味わい、想像したりできるように、早口ではなくゆっくり、はっきりと読みます。

④子どもが聞きたがる本を何度でも
子どもは気に入った本を何度でも繰り返し聞きたがります。大人でもそうですが、子どもは特に何度でも読んで、その度に新しい発見や経験をします。常に新しい本を読む必要はありません。子どもが気に入っていたら、何度でも読んであげてください。

⑤学習効果を目的にしない
読み聞かせをしていくうちに、文字に興味を覚えて、自分で読んでみたいと思うようになります。うれしい成長ですが、無理をして読めない字を覚えさせようとしない方が良いと思います。せっかく本の楽しさを知ったのですから、本を楽しんでもらうことを目的として、「これ何て読むの?」と聞かれたら、その都度教えてあげればよいのです。「まず、字が読めるように」と「あいうえお表」の学習を優先すると、本を楽しめなくなります。楽しい時が、最も知識の吸収も盛んな時です。

⑥いつまで読み聞かせをするか
読み聞かせは、文字を十分に読めない子ども時代のことと思われるかもしれませんが、小学校卒業まで日課として継続しても、問題ではありませんし、むしろ良い効果があるようです。最初の話に戻りますが、読み聞かせは「感情」を育てます。感情が十分に育つことで、他者の心情を慮ることができます。また、言葉の世界はまだまだ大きく広がっています。新しい言葉や表現に触れて、新しい興味や関心を広げるきっかけにもなります。

これは子どもに読み聞かせをせがまれる立場になってみて感じたことですが、読み聞かせは、子どもが育つだけでなく、声を出す大人の方にも成長をもたらしてくれる気がします。聞いている子どもの表情の中に、その子の秘めた興味が見えて驚かされることも度々あります。ぜひ、読み聞かせを親子で楽しんでいただきたいと思います。

2020年09月16日

注意を伝える

子どもの「聞く力」を育てるためには、話しかける大人の言葉も伝わる言葉であることが望ましいです。

例えば、無理に話を聞かせようとして「聞きなさい」と命令してしまうと、かえって子どもは心を閉ざしてしまいます。頑なに抵抗する子もいるでしょう。そうなっては、聴力は音として声をとらえても、意味のない雑音として無視されてしまいます。

そうすると、大人の方も気持ちがヒートアップして、本当に伝えたいメッセージを伝えられずに終わってしまうかもしれません。

そこで、伝えることをしっかりと伝えるための幾つかの心構えを持っておくと、知っておくと、大人も子どももお互いに話しやすく、聞きやすい関係を築けるだろうと思います。そういった関係は、ごく自然な尊敬し合う関係の構築にも繋がります。

①ありのままに伝える
子どもに注意をするときには、実際に起こっているありのままの出来事だけを伝えます。始めから「ダメ」とか「あなたが悪い」といった言い方をされると、子どもは反抗したくなります。「悪い」と指摘するよりも、ありのままに伝えて、子ども自身に何をすべきかを考えさせる方が効果があります。「悪い」という評価が無くても、子どもはありのままの状況を言葉にしてもらうことで、自分で問題を解決しやすくなります。

②未来を伝える
「AをするとBが起こる」というように、「どうなってしまうか」という情報を伝えます。「片づけないと、失くしてしまうよ」といったことや、「手伝ってくれたら、とってもうれしくなる」といったことです。この場合も、責めるような言葉や、「悪い」と決めつける言葉は使わないようにしましょう。

③注意は、短い言葉で
時に、伝わる言葉には優しさだけでなく、「権威」が必要です。特にルールを守らなかったことを指摘するときは、短いひとことで、伝える方が効果的です。その際、「○○ちゃん、AをBしなさい!」だと長いですし、命令になってしまいます。「聞く力」は「考える力」へと繋がっていくことが望ましいです。例えばボールを片付けないで部屋に戻ってきたら、「○○ちゃん、ボール!」と一言で決めるのです。

④感情を伝える
注意を伝えるときには、感情を伝えることも必要な時があります。感情を言葉にすることが、子どもたちは未熟です。また、感情というのは見たり、手に取って確認したりという具体的な感触がありません。ある感情の湧き上がる前の状況も合わせて、「Aという状況があると、Bという事が起こって、Cという感情が起こる」という状況と接続させた理解が必要になります。そこで、感情を教えていくために「お手伝いをお願いした(A)のに、誰もやってくれなかった(B)ので悲しかった(C)」というように、何に対してなぜそう感じるのかを具体的に伝えるようにします。もう一つは、子ども自身が自分の感情を表現できない時に、同じように「あのお人形を貸してと言った(A)のに、貸してもらえなかった(B)から、怒っている(C)のね」というように、言葉として状況と感情を具体化してあげると伝わります。

大人は子どもに大切なことをたくさん伝えなければなりません。その中には、子どもが「聞きたくない」と思う事柄もあります。そのような時に、伝える側も聞く側もストレスを少なくやり取りができれば、関係もより良くなっていきます。

2020年09月17日

”子どものケンカ”という学び

かつて、子どもの成長は親や家庭で決まると言われていました。しかし、子どもは親や家庭だけでなく、その他の集団の中で自ら学び、世界から様々な影響を受けています。その中で、特に年齢の近い子ども同士は、互いに大きな影響を与え合っています。

白梅学園大学の増田修治先生(臨床教育学)は、3歳から小学校低学年くらいまでに経験するケンカの体験は重要だといいます。

子どもは泣いたり泣かされたり、手を出したり出されたりして、心や体の痛みを通して力加減を学びます。ケンカを経験しないままで相手の体を損なえるほどの力を得る年齢になると、力加減が分からず、相手に大けがを負わせることになるかもしれません。重犯罪に繋がることもあります。

ケンカを無秩序な暴力ではなく、ルールと教育の下で経験させ、「仲直り」を経た新しい人間関係を形づくるためにはどうすればいいでしょうか。

まず、「守るべきルール」は明確に伝える必要があります。「首から上は叩かない」、「噛まない」、「爪を立てない」、「物で叩かない」、「物を投げない」といった、相手に一生残る傷を負わせることのないように、理解させる必要があります。子ども自身に、暴力を振るうリスクを理解させる必要があります。

それは言葉も同じです。相手の克服できないコンプレックスを責めることを禁じます。それは相手の心に傷を残し、「仲直り」の可能性を著しく損なうリスクを理解させます。

次に、ケンカそのものを考えてみます。ケンカとは暴力を指すのではなく、「互いの主張のぶつかり合い」です。「互いの主張のぶつかり合い」では、最後まで主張を言い切らせることが大事です。しかし、言葉に詰まって、互いの主張が暴力へと発展することもあります。相手を傷つけるリスクを理解するまで、暴力は大人が止めなければなりません。

言葉でとことん言い合いをして、もう言うことが無くなって、子どもたちの気持ちも落ち着きを取り戻して来たら、「原因は何か」、「何が嫌だったのか」、「どうすればケンカを防げたか」について問いかけます。子どもたち自身にケンカについて考えさせるのです。

主張は、お互いに言い切ったと納得感を得るまで言わせると、達成感を得ることができます。そして、最後は必ず「仲直り」で終わらせます。子どもはケンカと仲直りを繰り返して、何が相手を傷つけてしまうのか、逆にどうすれば相手に嫌なことを止めてもらえるかを学んでいきます。

子どものケンカは、予測できないきっかけではじまります。ケンカを大人が仲裁する時には、「言い切らせること」、「行き過ぎた暴力は断固として止める」、「子ども自身に考えさせる」、「最後は仲直りで終わらせる」という仲裁のルールを持っておくと良いと思います。

人間は10人いれば10通りの主張を持ちます。そこに主張のぶつかり合いは起こるべくして、起こります。ケンカを回避することが正解とは限りません。いつでも譲ることは謙遜ではありません。相手を力ずくで屈服させることは正義ではありません。暴力に頼るものは社会から排除されてしまいます。言葉で相手を傷つけることを好む人は社会から見捨てられます。

幼稚園の子どもたちはケンカを学ぶ途上にいます。適切な仲裁によって、ケンカという機会を学びとして、子どもたち自身を守る力を育てるために、大人は知恵を働かせるのです。

2020年09月18日

好奇心のために

好奇心は活動と思考の源です。ワクワクした気持ちは、人に意欲を与えます。

OECDによる成人を対象とした調査(2012年)では、20歳の日本人の好奇心は65歳のスウェーデン人並だったそうです。(参照『OECD「国際成人力調査」の概要と日本の成人力 』坂口緑(明治学院大学) http://www.j-lifelong.org/wp-content/uploads/2015/06/36-10-1.pdf )

現代は、2012年と比較して、さらに様々な情報に容易に手に入れられる時代になりました。しかし、手軽さが逆に好奇心を妨げているとも言えます。知らないことを知ろうとする意欲や、もっと深く知りたいという気持ちが弱まっています。

子どもたちは、本来好奇心そのものの様な存在です。新しいことを知り、挑戦することに意欲的で、知らないことを知った喜びから、学ぶことは楽しいと思えるようになります。本来的にワクワクしないところに高く、深く、広い学びはないのです。子どもたちの好奇心を維持し、さらに好奇心を育てるために、どうしたら良いでしょうか。

子どもたちのワクワクを維持し、好奇心の満たされる感動を体験させるには、「すぐに教えない」ことです。知りたいことはインターネットで検索すればすぐに分かります。関連するリンクを次々とクリックすると、どんどん情報は拡がっていきます。そうすると、子どもの疑問に答えを与えることが出来て、大人は満足するかもしれません。しかし、そこで子どもの好奇心は枯れていきます。

ワクワクした好奇心は、もやもやとした「知りたい」、「やってみたい」という欲求と結びついています。そのような好奇心が本当に満たされるのは、「自分で得た」時です。与えられた時ではありません。ですから、答えを与えるのではなく、好奇心を自分で満たすように導くことがいちばん大事なのです。

そのためには、あえて時間をかけて、「自分の手と足」で確かめさせるのです。図鑑を持ってきて「与える」のではありません。「○○の図鑑があるから持っておいで」と、子ども自身に持ってこさせるのです。索引からさっさと目的のページを開いてあげるのではなく、調べ方を教え、子ども自身にページをめくらせます。読めない字は読んであげても良いですが、どこを読むのかは子ども自身に聞きます。とにかく、「自分で調べた」、「自分で得た」という体験をサポートします。子どもが調べたり、色々試す様子は、大人から見るともどかしく思えるものです。しかし、そのもどかしい時間が、好奇心を育てるために必要なのです。

そして、調べたり試したりする子どもの好奇心の対象に、サポートする大人も興味を持つようにできるとよいです。子どもが調べて教えてくれたことに、大人もワクワクした関心を示します。子どもが調べたことを「教えて」とお願いして、話してもらいます。人に教えることで知識は定着し、新しい疑問という好奇心が生まれたり、さらに深く知りたいという意欲がわきます。

一方で、子どもは驚くほど早く好奇心を手放してしまうことがあります。好奇心をすぐに与えられたもので満たしてきた子は、もやもやとした調べる時間や試す時間が嫌いです。与えられないと好奇心そのものを放棄します。

しかし、そのような子でも、何かに夢中になることがあります。テレビのヒーローやポケモンのようなものでもいいのです。そこでとことん夢中になって、好奇心を刺激されていきます。自分で調べるようになります。ヒーロー物やポケモンなどには、元ネタというべきものがあります。生き物だったり、宇宙だったり、そういったことへ興味をつなげていくことができます。

2020年09月23日

B組(年中)の新しい仲間

9月に入ってから、毎日少しずつ”ロボットカミイ”の本を読んできました。読み進めるうちに「カミイを作ろうよ!」と子どもたちから声があがり、読み終わったタイミングでみんなで協力して作りました。今日からB組の仲間入りです。立ち上がった時は大歓声があがりました!!!

2020年09月24日

誰かの役に立つ経験

子どもは、家族のおまけでもお荷物でもなく、家族の重要な一員です。かつては子どもが家事労働や弟妹の面倒を見たりして、子どもが積極的に家族の中で役割を果たすことがなければ、家庭を運営することは困難でした。

しかし、今日では両親ともに働く家庭が増え、余程意識して機会を与えないと、子どもは家庭の中に出番がありません。要求されるのは「静かにしていること」、「指示に直ぐに従うこと」であることが多く、その意味で家族の役に立つという経験が非常に少ない子どもたちが多くいます。

令和元年版の内閣府の子供・若者白書によると、「日本の若者は諸外国の若者と比べて、自分自身に満足していたり自分には長所があると思ったりするなど、自身を肯定的に捉えている若者の割合が低い傾向にあり、こうした自己肯定感の低さには自分が役に立たないと感じる自己有用感の低さが関わっている点に、諸外国の若者にはみられない日本の若者の独自性がみられる」と分析が記されています。
(令和元年版 子供・若者白書 概要版 https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/r01gaiyou/s0_1.html )

「誰かの役に立つ」という経験は、自分をこの世界に固定する錨のようなものです。忙しい大人からすると、子どもに手伝ってもらうよりも自分でやってしまった方が「効率がいい」かもしれません。しかし、お手伝いは子どもにとって「誰かの役に立つ」ことを経験できる、今や貴重な機会です。お手伝いの経験から、自己肯定感が育ちます。是非、意識して子どもにお手伝いの機会を与えて欲しいと思います。

子どもに手伝ってもらうことは、いわば「細々とした家事」で十分です。そういったところで子どもは十分に力を発揮できます。「玄関の靴をそろえる」、「おもちゃを片づける」、「脱いだ服を洗濯籠に入れる」などの小さな仕事がよいでしょう。

子どもにお手伝いを任せるときには、最初にやり方の見本を示し、子どもが始めたらば、思い切って口や手を出すことはやめましょう。幼稚園で遊具を片付ける子どもたちの間で良く起こるのが、遊具を運んでいる子に、他の子が手や口を出すと大抵トラブルになります。任された仕事に口や手を出されることを子どもは嫌います。過剰な口出しや手出しは子どもの達成感を損ないます。

子どもがお手伝いの中で、失敗したり、くじけたりするのも大事な経験です。子どもなりに工夫したり、考えたりしながら、自分の力でお手伝いに対処できると、自分の力に自信を持つことができます。

手伝いをしてくれたなら、その結果に対してではなく、手伝ってくれたことにいつも「ありがとう」を伝えましょう。子どものすることですから、慣れない手伝いであれば、大人から見てまだまだということもあります。しかしまず、「ありがとう。助かった」です。認められることで、子どもの自己肯定感は育ちます。現代では、手伝いの機会を自己肯定感を育てる家庭教育の機会としてより強く意識して子どもに用意することが大事なのでしょう。

2020年09月25日

観察する目

子どもたちが園庭で虫を捕まえてくると、何という名前の虫かを調べ始めます。まだ、字を読むことが得意ではないので一緒に図鑑を開きながら、「この虫かな?」、「ちょっと違う。この虫には白い小さい点がない」、「この虫かな?」、「違う。うすーく茶色の線がある」、というような会話が起こります。私などは視力の衰えもありますから、子どもに言われてはじめて気がつく小さな特徴です。子どもにはとても優れた観察力があると感じます。

一方で、「これだよ!」とよく見もせずに虫の名前を決めてしまう子どももいます。やはりその子にとって重要なのは早く決まった正解を求めることです。結果として、観察することなく、目の前の開かれたページの中に「正解がある」という根拠のない解釈の中で、答えを決めてしまいます。そのページの中に同じ特徴を持つ虫がいない、ということを自分で確認しないのです。正解を求める中で、正解を得ることが至上の目的となると、人間は観察を止めてしまうようです。

見ることと、観察をすることは違うと思います。何かを視界に納めたということが「見る」だとすると、そこから情報を読み取ろうと積極的に関わろうとすることが「観察」です。観察を通して、新しいことに気が付いたり、そこから課題を得たりすることができます。

子どもに様々な体験や経験をしてほしいと多くの方は思うはずです。そういった体験や経験を自分自身の養いにするために何かを「観察」する力は大きな影響を与えます。新しい遊びや活動になかなか積極的に加わらないで、離れて見ていることを選ぶ子どもがいます。大人としては、直ぐにでも加わって欲しいと思います。「この子は引っ込み思案で」とか「臆病で」と評価することもあろうと思います。もちろん、そうした性格的な面もあると思いますが、そうした時には、直ぐに誘うことをしないで、しばらく子ども自身に「観察」する時間を与えてあげるとよいと思います。

遊びや活動に加わることは、子ども自身の選択する課題です。その課題のために、観察し考える時間を与え、その上で加わる、加わらないを子どもが判断します。そうした時間がなければ、不安と恐怖の中で「怒る・泣く」以外の選択肢がなくなります。特に新しい環境に入る時には、ある境界線の向こうから観察して踏み込むことを決断します。その時に「早く、早く」と急かされると、不安と恐怖が増していきます。じっくりと待つ時間が必要です。それは分単位ではなく、何日も、何回も、ということもあります。

幼児期の観察力を養うには、やはり変化に富んだ外に出るのが一番です。特に自然には多彩な刺激があります。毎日同じ場所へ行っても、自然は日々変化しています。その時に感じたことや気付いたことを言葉にします。言葉で表現することで、僅かな変化にも意識が向きやすくなります。そして、「なんでだろうね?」というような疑問を抱くように促すことで、「知りたい」という気持ちが刺激され、さらに熱心に観察する気持ちがわいてきます。

観察は「決断」とか「判断」とか「意欲」いう力と結びつきます。人々の言葉に表さない意識を推察するコミュニケーション力にも関わります。幼い時の観察力の養いは、その後も子どもを支える太い根となるはずです。

2020年09月28日

”考える”を促す

以前「人間にはもともと、『なぜだろう?』と繰り返して問い、分析を深める力が備わっている」というような意味の言葉を聞いたことがあります。

先日、子ども自身に考えることをさせる大切さについて書きながら「答えは一つ」という「思い込み」の中にいる子どもたちとのエピソードを思い浮かべていました。

「答えは一つ」という思い込みの中に押し込められた人は、とにかく早く正解を知りたいと要求します。子どもになぞなぞを出します。すると「答えは一つ」と思い込んでいる子は、考えることそのものを放棄して「答えは何!」と怒鳴りつけてきます。そういう時は、のらりくらりと交わして子ども自身が考え始めるように促します。

答えが一つであるならば、最短の正解への道は「知っている人間から聞き出す」ことです。単純に「正解を得る」ということを手段として突き詰めると、正解は「教えてもらうもの」であって、「考えるもの」ではないのです。最も省エネの手段です。

どうしてそのようになるのでしょうか。一つは思考を楽しむ手段を経験していないのではないかと思います。思考の原点は「沈思」ではなく、「対話」です。「なぜだろう?」という対話を繰り返し、ある根拠に基づいた「自分は○○と考える」という解答を生み、それを批判する別の根拠に基づく解答にであって、さらに「なぜだろう?」という問いに関わる分析を深めます。考えることができる人は、この過程を楽しめる人です。

考えることが重要なのであって、そのために「なぜ?」と問い、自分の意見を持つことが目的です。「考える」と「正解を得る」とを必ずしもイコールでつなぐ必要なないのではないかと思います。

「考える」ことを優先する時には、幼さはあっても、子どもが根拠を持って答えた言葉は一つの正解です。そこから正答に向かって行くときに、大人が質問をどのようにするかが大事です。

その時にできればしたい質問のスタイルは、「イエスかノー」のような2択の質問ではなく、「そうすると~はどうなるのかな」というような質問をすることです。イエスかノーではなく、もう一度根拠を持って考えを組み立てなければ、伝えることはできません。そうして考えることを促すのです。

何かをするときには、「できるかできないか」の2択ではなく、「どうしたらできるだろうか」を尋ねます。あるいは「もし~だったら、○○はできるかな」と尋ねます。できないことを考えるのではなく、できる方へと質問を広げるのです。こういった質問に促されて、新しいことに気が付いたり、自分でもっといい方法はないかと考えることもできます。

時には、真逆の意見をぶつけてみるのもよいでしょう。子どもの考えたことが正解であるように、他の人には他の答えがあることを考えさせます。

考える力を養うことには時間はかかりますが、決して子どもの人生にとって無駄にはならないはずです。

2020年09月29日

落書き・落描き

子どもは落書き(落描き)が好きです。隙あらば、何にでも落書きをします。小学生になって、教科書に落書きをした経験がある方もおられると思います。壁やテーブルに油性マジックで落書きをして叱られた経験のある方もおられるでしょうか。

落書きはいたずらというイメージがありますが、最近では、落書きは脳をリラックスさせ、想像力を発揮させる方法の一つであると言われるようになりました。

しばらく前に、イベントなどのデザイナーとして活躍される方の打ち合わせ会議の様子を知りました。その方は、席に着くと何でもいいのでメモを取る紙を用意されます。無ければ裏紙でもいいからと要求します。そして会議の間、ずっとメモを取っていますが、会議が終わるとメモをそのまま置いて行ってしまうのです。つまり、メモは備忘録としてではなく、会議の間、アイデアを出し、深めるためのものだったのです。残されたメモは「落書き」としか言いようのないものだったそうです。

落書きのような、集中していない時間をとることで、むしろ時間は効率的に用いられるとも言われます。落書きをして、脳をリラックスさせ、その後ふたたび集中することで創造力や思考力が高まり、結果として短時間で課題を終わらせるからです。

子どもに自由に落書きをさせようとすると、大がかりなことを言えば、壁一面を黒板やホワイトボードにしてしまうという手があります。最近は手軽にできる壁紙が売っています。写真は幼稚園の黒板に子どもがした落描きです。「顔が漢字の人」だそうです。

落書きの中で覚えたての「字」を書いたりします。何人かが一緒に落書きをして互いに字を教え合う姿もあります。一緒に黒板に書きながら、あるいは描きながら、会話のような、独り言のような、不思議なやり取りの中で物語を創造し、空想を膨らませています。

このように、「書く」とか「描く」ということで、リラックスし、無意識のうちに集中した状態を招き、意識しない自分の可能性を呼び覚ますことがあるのです。こういう時間は子どもにとって大事な時間です。

もちろん、紙を用意して上げることでもよいのです。ただ、幼児期の子どもでよくあるこだわりは、「真っ白い」紙でないとダメということがあります。両面共に使用していない新品の紙でないと落書きができないという子は、たくさんいます。端っこにちょこっと描いただけで、残りのスペースに描くことをしないのです。それが、親へのプレゼントになれば良い方で、そのままゴミ箱行きということが殆どです。

もったいないと大人は感じるのですが、そこで「もったいないじゃない」と言うと子どもの気持ちが萎えてしまいます。ここは、効率化を計っては逆効果です。もったいないとか、そんなことを意識せずに、無意識にやる時間が大事なのです。せめてそんな時は、「これ私がもらってもいい?」と聞いて、捨てられる前に大人が自分の落描きやメモ書きのために利用することを考えておきましょう。

2020年09月30日

ものを作る

幼稚園では、ご家庭に協力していただいて空き箱を集めています。子どもたちはそれらを使って自由に工作をしています。今のところ、箱そのものを切ったりして加工することはできず、テープで貼り合わせるところで技術的には留まっています。さらに環境を工夫し、また手本を見せて次の段階へ進めていけたらいいなと思います。

私の祖父は書籍の金文字などを箔押しする工場を家族で営んでいました。そこには手ごろな厚紙がいつも沢山あって、祖父の所に行くとそれらの紙を使っていくらでも工作をすることができました。幼稚園に通っていたころからハサミも糊もカッターナイフも自由に使わせてくれました。家では父がのこぎりの使い方や釘の打ち方を教えてくれました。竹トンボや船の模型など、竹や木を使って無数に作りました。端材を手にして、その形から何を作るか考えて、動く仕掛けを工夫したりしました。今思い出すと、大変に恵まれた環境で育ったのだと感謝しています。

何かを作る経験を通して、知識や技術はもちろん、視野を広げ、成長していく学びが実践的に得られます。一枚の厚紙から何を作るかの正解は一つではありません。どういう手順で作るかも正解はありません。試行錯誤の中で、自分なりのやり方と正解を見つけ出していきます。

忍耐強く試行錯誤できる力は、どんな時代でも重要な力です。物を作り、ミスを発見して、改善し、また作ってみるという一連の体験をします。必要なものが手元になければ、手に入れるために試行錯誤します。そのときには要求や交渉という試行錯誤を経験します。

充実した物を作る経験をするためには、私の祖父や父が与えてくれたように、大人が環境を整える必要があります。

まず場所を用意します。子どもが自由に自分の手で試行錯誤するために、汚してもいいし、散らかしてもいい物を作るための専用の場所を決めておきます。私は、祖父の所では祖父の仕事場の片隅を与えられました。

父は自転車を止めて置ける家の外のスペースを与えてくれて、どこからか端材を集めてくれていました。画材や空き箱、厚紙や折り紙など子どもが材料にできそうなものをいつも与えたスペースに置いておきます。

幼児期の子には、刃物は必ず許可をもらってから使用し、使い終わったら最初に必ず元の場所へ戻すように約束を徹底させましょう。刃物は大人の元で普段は管理することが望ましいです。

そして、子どもが作ることに基本的に口出しをしません。子どもがしようとすることに「それは無理」とか、「この方が上手くいく」といった判断を大人が言うと、作る楽しみは減り、子どもの創造力が萎えてしまいます。自分で好きなようにやらせることが大事です。急かすことも、途中で中断させることも望ましくありません。

出来上がったものについて、その出来の善し悪しも大人は判断しません。大人が出来の善し悪しを判断すると、そこで試行錯誤はゴールを迎えてしまいます。子どもが作品を見せてくれたら「随分一生懸命作ってたね」と物を作ったことを褒め、子どもを満足感にたっぷりと浸らせてください。それから、「どんな工夫をしたのか」、「次は何を作るの?」という試行錯誤を連続させる質問をします。比較するならば、子どもの作った以前の作品と比較してどこが良くなっているかを話すとよいでしょう。

作った子ども自身が満足感を得ると、今度は「もっと上手に」、「もっと沢山」というように、子ども自身が次の目標を立てます。不思議なもので、どんなに苦労して作ったものでも、作った子ども自身が「ここが良くない」、「こうした方がもっといい」と気がつき、やがて作品に不満を持つようになります。そうやって自分自身で何度も修正しながらやり抜く力を発揮していきます。

2020年10月01日

無駄を大切にする

パブロ・ピカソは「子どもは誰でも芸術家です。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかです」という言葉を語りました。

すべての子どもに想像力はあります。遊んでいる子どもたちは、どんな遊びの中でも何らかの想像力を働かせています。想像力は創造力へと繋がっています。子どもたちには、想像力を育み、やがて創造力へと繋ぎ、未来を創る力を得て欲しいと思います。

それでは、未来を創る源泉となる想像力はどのように育まれるのでしょうか。経験からくる認識ですが、子どもの想像力は遊びの中でこそ生まれ、育まれています。遊びというのは、後付けで大人は遊びの意味のようなことを考えますが、遊んでいる当の本人である子どもにとっては、大人の考えるような意味などないのです。

鬼ごっこをすることで、脚力と耐久力を鍛えようと考える子はいません。砂場で遊びながら、将来建築関係に進むための経験を積んでいると考える子はいません。他人から見ると、刹那的で、無目的で、無意味な行いが遊びです。しかし、遊んでいる当人は、想像力で本人にしか分からない世界を創造しています。想像力で色付けした創造世界で子どもたちは自由に、自分にしか分からない秩序をもって過ごします。

こういった子どもの遊びの時間は、最近注目される「アート思考」(参考「13歳からのアート思考」末永幸歩著、2020年ダイヤモンド社」)そのものの時間です。

想像力を育む遊びは、子ども自身が選んだ遊びであることが大事です。そして子どものペースで楽しみ遊ぶ時間を奪わないことです。

もう一つは、子どもの思考を束縛しないことです。たとえば、知育玩具というものがあります。それはとても良く考え抜かれたデザインの玩具です。しかし、こと想像力という点では、空き箱や空き缶、洗濯物を干すピンチやハンガー、布切れのような物の方が想像力をかきたてます。あまり充実したおもちゃや、使用方法の決まった玩具は、想像力を育む点ではあまり向いていないと思います。

さらに友だちと遊んだり、何かを一緒に作る時に、協力したり、物を共有したり、互いの想像をおしゃべりして刺激を与え合うと、さらに想像力は膨らんでいくでしょう。想像力には、言葉の発達が密接に関わります。お互いの想像したものを対話を通じてやり取りすることで、言葉の世界は豊かになり、それは想像の世界を広げていくことに繋がります。

その点では、子どもの語彙を豊かにすることも想像力を育てます。読み聞かせや読書もすばらしい想像体験を与えてくれます。

子どもの活動は一見すると無駄なことのように見えても、子どもはその活動をそれまでの経験の蓄積から作り出しています。想像力は何も土台のない所では発揮できません。一見すると無駄に思える遊びも、経験も、子どもにとっては未来を創る力を育む栄養なのです。

2020年10月02日

ぼんやりする時間

少し前から「マインドフルネス」や「瞑想」ということが注目されました。世界の先端で活躍する人々がそれらを日常に取り入れて、活躍していると報じられたからです。

私自身、牧師として学ぶ中で「黙想」とか「メディテーション」、「沈黙の時間」といった瞑想に通じる事柄に触れることができました。今も15分間の「黙想」の時間を持っています。わたしの実感ですが、昼食を抜いてもパフォーマンスは落ちませんが、15分間の
「黙想」の時間がないと、午後のパフォーマンスは確実に落ち、疲労感も大きく感じています。

脳は一日の消費エネルギーの20%を使うそうです。その中で、さらに60%以上がDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)という脳回路で使われるそうです。

DMNは、意識的な活動をせずに「ぼんやり」しているときに働いている領域です。この後の活動に備えて、脳内の情報をまとめあげる重要な領域だと言われています。

さらに、DMNの働きが、脳の中の情報(記憶)の断片を繋ぎ合わせ、思いもよらない「アイデア」を生み出しているのではないかとも考えられています。

このような重要な働きが、表面上は「ぼんやり」しているときに脳内で行われています。私たちは、「ぼんやり」していると「時間がもったいない」と感じてしまいます。しかし、「ぼんやり」することこそ、脳にとって貴重な情報整理の時間であることを知って対応すべきでしょう。

例えば、子どもが何もしないで「ぼんやり」していると、思わず声をかけたくなりますし、新しい活動に誘いたくなります。しかし、幼児期の子どもが一日の中で触れる情報量は極めて膨大です。さらに現代の子どもが触れる情報量は、江戸時代の子どもの数百倍ともいわれています。つまり、子どもたちの脳は一日の間に大変な疲労を感じています。

受け取る情報を抑え、ぼんやりする時間は決して無駄な時間ではなく、子どもにとって充実した時間だということです。

ぼんやりする時間は、厳密に決めることは難しいと思います。ぼんやりすることが無くても一日を過ごせることもあるでしょう。しかし、それでもぼんやりする時間を確保することには意味があると思います。ぼんやりして過ごす中で、子どもは楽しい時間を過ごすことができるからです。ぼんやりすることで、情報の断片が繋ぎ合わされていくということが、子どもの内に「空想」を生むからです。

ぼんやりする時間は、子どもの完全自由時間です、寝転がって過ごそうと、絵を描いていようと、何だか大人の目から見て何を目的としているのか分からない活動であっても、せいぜい20分程度そんな時間を過ごさせるだけで、随分と疲労感が減ります。こういった時間の後には、集中力も体の活動のパフォーマンスも上がります。結果として子どもは達成感のある時間を迎えることができます。

2020年10月05日

読書のすすめ

「マタイ効果」という言葉があります。聖書のマタイによる福音書25章29節、「だれでも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」、という言葉になぞらえた、教育効果についての言葉です。

マタイ効果が存在するとされる能力に、「読解力」があります。読解力は、特に最近の学生たちに不足している能力と言われます。読解力は、字が読めるとかいう他の発達に紛れて幼い時には目立ちませんが、年齢とともに読解力の差は大きくなっていきます。

読解力は、文章を読むことで育ちます。本を読むか読まないかです。読書をすればするほど確実に読解力は高まり、さらに高められた読解力が読書への意欲を増します。そのように読解力を増す子どもがいる一方で、読書をしないためにどんどんと理解力が追いつかなくなる子どもがいて、その差はどんどんと拡がっていきます。

本を読むことで、「語彙」も増していきます。私たちの思考は言語と深く結びついています。子どもの自由な発想とか、自由な活動は大切ですが、その土台となる知識の中であればあるほど有利な知識は「語彙」です。語彙が豊かであり、それがどのような文章の中で用いられているかを理解する読解力があれば、新しい知識を得るときのハードルは低くなることは明らかです。

また、読書を通じて子どもの「視野」が拡がります。子どもは「決めつける」ことへ流れやすい思考をしています。「こだわり」と見られる行動は、視野が限定されていることでも生じます。本の中の魅力的なキャラクターや新しい興味を見つけてワクワクした思いを抱きます。読書は想像力の栄養です。

さらに、情緒的な発達も豊かになります。読書量の多い子ども時代を過ごした人は、思いやりや社会貢献といったことに意識が高い傾向が見られるそうです。

ユダヤ人は、迫害の中で、いつ住まいを奪われ権利を奪われるか分からない歴史を生きてきました。その中で、彼らは「現金を得るために手放してもいい財産は家、土地、証券、宝石。最後まで手放してはならないのは本」という意味の格言を伝えています。どこへ行くことになろうとも、どんな貧しさの不幸に襲われても、決して盗まれることがない財産は「知恵」であり、それを育てる本を大切にしてきたのです。

読書は「読み聞かせ」と合わさって相乗的に読解力を育てます。子どもが最初に獲得するのは「聞く力」です。中学生ぐらいまでは読む力よりも聞く力の方が発達しています。ですから、子どもに読書の楽しさを伝えるには、読み聞かせをして物語の面白さに触れさせることもいいことです。また、家庭で大人が読書をする姿を多く見ている子どもは読書が好きになる傾向があります。

時には、子どもと同じ本を呼んで、読書の後に互いの感想や考えを交換したりする時間があれば、思考力や文章力も育ちます。読書を通して刺激を受け、育っていく力は、子どもがどんな将来を生きるとしても、本当に自由に自主的に生きようとするときに、また自分自身で自分の人生をまもるためにも、極めて重要な土台となる力です。

ぜひ、子どもの成長に見合った豊かな読書の経験をもたれることをお勧めします。

2020年10月08日

子どもとの距離感

新型コロナウイルス感染症に脅かされる中で、「同調圧力」という言葉がマスコミで繰り返されました。地域や職場での合意形成に対して、少数者に多数派に同調することを、脅迫を含めた様々な手段で強要し、合意へ誘導することを指す言葉です。

同調圧力とは本質的に違いますが、子どもは大人への「同意」を求める圧力に常にさらされています。

自分の子どもに対して、親は「こんな子であってほしい」という理想を持ちます。それは尊いことなのですが、その理想から子どもが外れたと感じると、言葉や態度を通して子どもに圧力を感じさせることがあります。勿論親は子どもが大切で心配だからそういった行動をとってしまうのですが、親としては励ましたり、助けたりしているつもりでも、子どもにとっては親の理想の圧力を感じることになります。

子どもの気持ちを考えずに突き放し、「そんなことで泣いちゃだめ」、「その程度で怒っちゃだめ」、「それでいいと思っているの?」、「あなたお兄ちゃん(お姉ちゃん)だから譲りなさい」、「許してあげないとだめ」、「できて当たり前」、「さっきはやるって約束したでしょ」、「あなたはきっとできるはず」等、正論としてこういった言葉を押しつけられれば、子どもは親の思いに同調できない自分の感情や存在そのものに罪悪感を感じます。子どもはそうした圧力を言葉として整理し、跳ね返し、感情を表す術が未熟です。そうして本当の気持ちを隠すか、いずれ言葉にできなかった感情を爆発させてしまいます。

反対に、親が子どもとの距離を近く持ちすぎて、あれもこれも代わってやってしまうというのも問題です。「この子はまだできないから代わってやってあげる」と考えて、子どもの試練や不快や苦しみを先回りして取り除き、防いでしまいます。そのために「できるようになる」ための経験が奪われ、子ども自身が自分の能力に気づき、それを育む機会が失われてしまいます。子ども自身の自尊感情は育ちにくくなります。自分を尊べないために、他者を尊重することも未熟なままとなります。

大人と子どもの距離感というのは難しいものです。「近過ぎず、放し過ぎず」の加減を考える意識を持つことが大事なのですが、そのための大人の側の子どもに対する見守り方を工夫します。少なくとも、子どもを自在に扱うような「魔法の言葉」に頼るような思考はやめましょう。

ベターなのは、「時間をかけて子ども自身の問題を探る」ことです。子どもが何かを嫌がってどうしてもできない時に、なぜ嫌なのか、子どもの気持ちや思い、考えをじっくりと引き出します。気持ちの問題なのか、まだできない発達段階にあるのか、やり方が分からないのか、知らないのか、求められていることが理解できていないのか。子どもの「現在」にじっくりと寄り添い、一緒に考えることで、子どもに共感することを目指します。

その時に、「できない」、「いや」という子どもの気持ちに、「まだ、できないんだね」、「今は、いやなんだね」という風に、出来るようになるための道のりの途中にいるということに意識を向けます。失敗を恐れているようなら、失敗は成功のための道のりの途中であることを意識します。

また、他の子はもちろん、大人自身の子ども時代とも比べないことが大事です。子どもは気持ちが前向きの時もあれば、ほんの些細なきっかけで後ろ向きになることもあります。子どもの気持ちは複雑に動いています。成長も一人ひとり違います。自分が成功してきたことだから、自分の子どもも同じレールの上を進むと安全だと考えたり、自分がかなえられなかったことを子どもに託したい気持ちは大変良く分かります。しかし、子ども自身の幸せは、子ども自身が自分の人生の中で見つけ、自分自身をかけて手に入れるべきものです。大人の成功体験が必ずしも未来の子どもの幸せを保障しないことを大人はわきまえていなければなりません。

私たちは「近過ぎず、放ち過ぎず」に子どもとの距離感を大切にしながら、子どもが自分自身で生きていく力を得るための、ひと時のパートナー、共感者、サポーターです。そして、将来、子ども自身が自分の力で、自分自身の幸せのために歩き出した時に、その歩みを祝福する存在でありたいと思います。

2020年10月09日

甘えの大切さ

『「甘え」の構造』(土居健郎著 1971年)という書物があります。私は学生時代に父に勧められて読みました。名著だと思います。「甘え」と「甘ったれ・甘やかし」を峻別し、かつては「甘え」が潤滑油となって社会集団をまとめていたが、近代では社会が「甘え」を許さない代わりに、一方的な「甘やかし」と独りよがりな「甘ったれ」が生じたことを論じています。

子どもにとって望ましい環境を英語では「safe」という語で表現されることが多いです。直訳すると「安全」ですが、むしろ「無条件に存在できる」という「甘え」を含むニュアンスを持つ言葉です。子どもにとっての「甘え」を許される環境とは、どのようなものでしょうか。

故・佐々木正美先生は、著書『子どもの心の育て方』の中で、「どうぞ子どもを甘やかすことを厭わず、一生懸命にかわいがって育ててあげてください」と記しています。佐々木先生は過保護を決して悪いこととは言われませんでした。子どもは愛情をたっぷりと受けて、自分に対しても、周囲に対しても信頼感を抱きます。そこから自律心が育つということを語っています。しかし、佐々木先生は過保護と過干渉は違うことを指摘しています。過干渉は子どもの主体性を損なうと指摘されます。

過干渉は、子どもが行動する前に、子どもに代わって言葉を言ったり、子どもの代わりに行動してあげることを言います。それは一方的な大人の干渉です。言い換えるならば一方的な「甘やかし」です。過干渉は、子どもの自立の機会を奪います。「ああしろ、こうしろ」という指示を与えられないと自分がやりことが何なのかわからなくなります。

子どもにとっての「甘え」の許される環境とは、子どもが安心して自分自身の言葉を発し、自分自身で行動することを受け入れてくれる環境です。つねに「だめ」と言われ続ければ、「こんなことを言ったら嫌われるのではないか」、「こんなことをしたら怒られるのではないか」といった不安が起こります。この場合の許される「甘え」とは、完璧を要求されないということです。

子どもにとって「甘え」を妨げるものとは、大人の否定的な態度です。周囲と同じでないと受け入れてもらえないという圧力や、失敗を許してもらえないこと、間違いを悪いこととして責めること等です。子どもにとって、それらは全て成長の道半ばの姿であって、成功のための失敗であり、正しいことを身に着けるための間違いなのです。そこで、子ども自身の取り組みや試行錯誤を否定されると、自分に自信が持てなくなります。

もう一つ、身近な人間の会話が否定的なものや他人を蔑んだりするようなことばかりだと、子どもは自分が悪くないのに、自分が悪いと感じるようになります。これは本当で、以前、他の子が先生と話をしていたら、「ごめんなさい、ごめんなさい」と突然あやまりはじめた子がいました。担任がびっくりして、「大丈夫だよ。誰も怒ってないよ。大丈夫だよ。誰も叱られtないよ」と抱きしめていた光景がありました。

子どもが安心して本音を言い、自分自身のやりたいことを試せるように、大人は勇気をもって子どもの「甘え」を受け止めたいと思います。そこに、社会の急激な変化の中で疲れている大人自身の「甘え」を受け入れてもらえる幸せも生まれてくるのではないかと思います。

2020年10月12日

従順と自立の矛盾

将来子どもに、「どのような人になって欲しいか」と問われた時に、最も多くの答えが「自立した人」なのだと聞いたことがあります。

一方で、今子どもに、「どのような子どもであって欲しいか」と問われると、「親の言うことを聞く、従順な子」であることを望む人が多いのだそうです。

これは、矛盾しているのではないかと思います。大人になった時の生き方は、子どもの時代の連続線上にあります。子ども時代に従順であることを求められ、従順に生きてきた人が、大人になったら「自立しろ」と要求されて、対応できるのでしょうか?

私は、教育の果は、教育を受けたことによって、一人の人生が満足できる人生となったか、で判断されると考えています。様々な教育理論があり、それらの評価にその教育をもって成功している人が紹介されます。しかし、人生は教育のみによってもたらされるのではなく、様々な外的要因に影響を受けます。

その外的要因の受け止め方が、矛盾しているのは、かみ合わせが悪いような気持ち悪さを感じます。独創性や好奇心を持つことは、場合によっては環境の破壊に繋がります。おもちゃを壊してみないと、どういう構造になっているのかわかりません。人間は死に触れなければ死の痛みを理解できません。恐怖を理解できません。自立するために、大人の期待に背くところで育つことはいくらでもあります。

大人は子どもに対して、自分の接し方が、自分の願っている人格の形成の助けとなっているのかを考える必要があります。

公共の場所で、「泣かないで静かに出来て、えらいね」と話しかける大人の姿を見ます。しかし、泣くべき場面で泣かない子どもは、大人によって何かを奪われているのです。子どものときは色々な感情を経験することが必要です。それを表現する経験が必要です。欲求を自分で伝えることができなければ、自立できません。

未来のために、本来の子どもの成長に合った行動をとっているのが子どもです。しかしそれは、多くの大人が無意識に「迷惑」と思っていることなのです。だから、静かにしていると「偉い」のです。迷惑をかけないから偉いと決めることは、子どもという存在に対する否定です。子どもが子どもとして果たしている未来への責任を「迷惑」とすることだからです。

子どもは大人の言うことを聞いていればいいという考え方のもと、従順を求めるのが未来につながるのか。意見を言う子どもに対して「言うことを聞けない、問題のある子」と決めることは、本当に未来のためになっているのか。

従順と自立の矛盾への挑戦が教育には欠かせません。大切なことは「子どもであれ、大人であれ、私と同じように自分自身を生きる尊い存在である」という普遍的な視点にいつでも立ち戻ることだと思っています。まさに、聖書が語る「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイによる福音書22章39節)こそ、教育実践の土台とすべきことです。

2020年10月13日

”みんな仲良く”の弊害

西荻学園幼稚園の教育目標として「元気で仲良く」という言葉が伝えられています。伝えられている説明によると、「元気の『元』は、天地のはじまる前からの、『はじめ』の意味。元気は万物の根本の精気。これを聖書に基づいて、あらゆるものの造り主である神の息、神の霊と理解して、造り主である神の力に守られ、その力に満ちていることを『元気』と言います。従って、『元気で仲良く』とは、『神である主を愛しなさい』、『隣人を自分のように愛しなさい』というキリスト・イエスの教える最高の生き方を幼児にわかりやすく伝え、幼児らが遊び(幼児にとっては生活、経験、学習)のうちにこれを経験し、自主と協同の生き方から、祝福されるような人生のスタートを身につけさせたいという願いを表したものです」とあります。

「仲良く」という言葉は、長い間「みんな仲良く」と読み替えられてきました。わたしは、その解釈には疑問を持ち続けていました。「みんな仲良く」ぐらい、自分自身の人生で経験してきた現実と離れたことはなかったからです。

誰もが無条件に仲良くあることを求められるというのはおかしいと感じていました。誰とでも仲良くなどなれません。一人ひとり性格が違いますし、どう頑張っても合う合わないということが起こります。また、誰が誰と仲良くなるかというのは、命令されることではないだろうと感じていました。

これは、私が牧師の家庭で育ったからこそかもしれません。どんなにいい人でも付き合うのが苦手な人間がいます。そもそも神様は、結構「えこ贔屓」です。神の民と呼ばれるイスラエルが生まれ大切にされるのは、「私が選んだから」と神様は言い切ります。神様の愛は徹底的に贔屓します。旧約聖書の「エサウとヤコブの兄弟の物語」や「サウル王とダビデ王の物語」を呼んでいると、そう感じます。愛するとは、「贔屓」なのです。

しかし、日本の教育は代々「みんな」仲良くしなさいと言ってきました。同じクラスだから仲良くしなさい。隣同士だから仲良くしなさい。これは子どもには意味のわからない圧力です。「仲良く」とは「私が選んだ」という愛の意志の下で生まれる平和なのです。

クラスは、たまたま集まった、全く異なる個性の集まりです。教育の原点はその個性に出会うことにあると思います。ところが「みんな」という言葉が「仲良く」に付けられると、個性が個性と出会うことよりも、集団であるクラスを調和させることが優先されます。そこで個性は後回しになるか、場合によっては「問題だ」と言われてしまいます。これは子どもにとって不幸なことではないでしょうか。

「みんな」を取り去って「仲良く」を求めたときに見えてくるのは、人間関係のルールです。個性は尊重され、集団としての調和はルールを守って成立するのが近代社会の仕組みです。

幼稚園は子どもが初めて踏み出す「社会」です。それは、将来子どもたちが生きるはるかにスケールの大きな「社会」に生きていく時と、同じ人間の限界をもっていることを教育者はわきまえなければなりません。子どもだからみんなと仲良くなれという幻想に子どもを追い込んではいけないのです。

「みんな」仲良くというのは、人間の個性と尊厳を無視した要求です。それは聖書の見つめる人間の姿に反します。

2020年10月15日

リーダーとしての大人

大人が良いリーダーとして子どもと接することは、子どもの心の安定につながります。

一般的に良いリーダーとは、自分の責任で決断をくだし、同時にそれをチームと共有して統率できる人を指します。反対に、上から支配する独裁者のようなリーダーや、何でも要求を受け入れてあげるリーダーは望ましくないとされます。

子どもにとっての良いリーダーとは、子どもに向き合い、気持ちに寄り添っても、必要な制限を設け、子どもに道標を示す様な大人のことです。良いリーダーは、子どもの「自分でやりたい」という気持ちを尊重します。同時に、自由に振舞うことに伴う責任の大切さを伝わるように示します。また、子どもをチームの一員として迎えているので、頭ごなしに批判したり、子どもの意見を軽んじたりせずに、向かい合って話し合う姿勢を持ちます。一緒に解決策を見つけ出そうとします。

子どもは叫んだり、叩いたり、蹴ったり、癇癪を起したりと、気持ちのコントロールができない事もあります。そのようなときにリーダーとして大人がしっかりと受け入れてくれると、子どもは安心感を得られます。

リーダーとして子どもと接する時の一つの心構えは、リーダーとして正しく期待し、正しく要求することを意識することです。

子どもは年齢や環境によってできることが異なります。一人ひとり違います。兄弟姉妹であっても違います。そこで、その子に合わない期待や要求をしないことが大切です。

生まれたばかりの子に走ることを要求することは、おかしなことです。これほど極端でなくても、大人の都合で非現実的な要求をすることは結構あります。特に、「ちゃんと」やることを要求してしまうことがあります。

子どもを信じることは大事なことです。しかし、非現実的な要求をすることは信じることとは違います。「~しなさい」、「~しない」と要求する前に、それが子どもの成長段階にあった期待と要求であるのかを考えてみることが大切です。

最後に、良いリーダーは目先の行動の成功失敗にではなく、それが子どもの将来にどう生かされていくかを考えたいと思います。つまり将来の子どもの姿に思いを向けます。自分の声掛けや行動が、子どもの将来に貢献するものとなるように、自分自身もリーダーとして成長することを期待してください。未来を創るために、子どもと一緒にチームを組んでいることを大切にしてください。

2020年10月19日

体験と達成の共有

新型コロナウイルス感染症への対策を取りながら、今年も運動会を開催することができました。運動会のようにずっと練習を重ねてきて、本番を達成感をもって終わった後、幼稚園の子どもたちに見られるのが、手を繋いだり、抱っこやおんぶといったことを求めることです。

これは甘えですが、子どもたちにとって大事な「甘え」です。決して赤ちゃんに戻ったわけではありません。大きなことを成し遂げた自分を受け止め、満足を共有して欲しいのです。運動会が終わったあとは、そんな子に「一番何が楽しかった?」とか「~~って難しくなかった?どれぐらい練習したの?」と質問をします。その会話は、長い時間ではありません。しかし、抱っこやおんぶを終えて、満足した様子で遊びに走っていきます。暫くの間そうした行動が続く子もいます。

褒めて伸ばすという子育ての大切さが多くの人に認知されるようになりました。子どもの自己肯定感を育むために、褒めることはとても大切なことです。

しかし必ず良い影響があるという訳ではありません。「すごいね!」とか「えらいね!」といったワンフレーズは特に要注意です。

子どもが必要とする「褒める」とは、ご褒美ではありません。それは、努力や達成の共有です。大人であれ子どもであれ、承認欲求があります。褒めるということは、その欲求への応答です。承認欲求とは、他人から認められたいという思いです。それは、結果を評価されることよりも、努力し、達成した満足を誰かと共有できたときに満たされます。つまり、存在そのものを受け止められることは、そのまま「褒める」ということに他ならないのです。

褒め方には色々ありますが、避けた方が良いのは、具体的な内容のない「すごいね」というようなワンフレーズでの褒め方や、性格や外見や能力を褒める褒め方です。「かわいいね」とか「頭いいね」といった評価です。

子どもの具体的な経験に興味を持たず、結果だけを評価されると、子どもは褒美として「すごいね」といったフレーズを目的とするようになります。言い換えると、子どもにとって努力や過程は重要ではないので、良い結果の時は報告し、悪い時は隠すということも起こります。さらに、外部から褒められることでしか自分の価値を見出すことができなくなります。

また、褒められることを目的として、良い結果だけを求めるようになると、最初は興味関心をもって取り組んでいた活動や挑戦に楽しさを感じなくなります。そのため、楽しかった活動を止めてしまうこともあります。

出来ることだけをするということは、新しいことに挑戦しなくなるということです。失敗を恐れて、失敗を避けるために挑戦をためらうようになります。かといって、いつでも「すごい!すごい!」と言われていては、努力して達成するという意義を知ることができません。

「すごい!」と心から思ったときには「すごい!」と言っても良いのです。ただ、それだけにせず、絵であれば具体的にどこがすごいと思ったのか、「いろんな色を使って虹みたいに綺麗だと思う」とか、「お父さんの口がにっこりしていて、おとうさんの嬉しい気持ちが伝わってくるみたい」とかいう言葉を添えます。

絵を描いた努力や過程を共有する時に、言葉がなかなか出てこないこともあろうと思います。子どもの頑張りや努力を見ていないのに、「頑張って描いたんだね」というのは、誠実ではありません。そういう時は、子どもに質問をします。「~ちゃんは、どこが一番好き?」とか質問をして、子どもが達成したことにどんな思いを持っているのかを聞きます。その際も、〇×ではなく子どもが自分の頑張りを振り返ることができるような質問が望ましいです。ささやかなことですが、質問に「一番」という言葉をつけると漠然とした質問を具体的な質問へとすることができます。

子どもが何かを達成したとき求めているのは、本来評価ではなく、大好きな人とそれを共有することです。

2020年10月21日

ちょっとだけ、前進

褒める子育てについて記しましたが、大人も生身の人間ですから完璧にすることはできません。イライラしたり、怒ったりすることがあります。

人間には感情がありますし、体力には限界があります。ひたすら我慢するとか、無限に褒め言葉が湧いてくるとかは、絶対にありえません。

しかし、「ちょとだけ」ならば、以前の自分よりも、ましな自分に出会えるかもしれません。思わず大きな声で怒ってしまうことも、ずっと同じ状態が続くと大人も子どもも辛くなってしまいます。だから、以前の自分よりも「半歩前進」くらいの歩幅を努力目標にするのが良いと思います。

あくまで努力目標です。義務にしたら、また辛くなってしまいます。劇的改善などあり得ません。ほんのちょっとずつです。ほんのちょっとずつの繰り返しで、いつの間にかそれ以上のことは「しょうがない」と思えるようになります。

これはつまり、今の「子ども」と「自分」を受け入れるようになるということです。イライラや、怒りも、実際子どものことをとても大事に思っているからこそ湧き上がってきます。そんな自分に自己嫌悪を感じてしまうのも、子どもを思っているからこそです。一生懸命、子どもと向き合っている証拠です。

私たちは完璧にはなれません。ちょっとだけ得意なこともあるし、苦手なこともあって、そんなでこぼこした人格で「個性」を育んできました。どんな人にも、どんなに努力してもできない事があります。

大人にも子どもにも、単純に努力で乗り越えられないことはあります。体力にも気力にも、財力にも限界があります。それは個性です。子どもへの愛情が無限に湧くというのは幻想です。そんな存在が一生懸命子育てをしているから、尊いのです。

自分は親として足りない、ダメだと思う時は、むしろ親として頑張りすぎるくらい頑張っている時です。そんな時必要なのは、休息です。

家事や育児など、「この仕事を果たしてからでないと、自分のことはできない」と思っておられる方もいると思います。しかし、そんな思いに追い詰められそうなときに、むしろ自分のために休み、自分のやりたいことをやってしまうほうが、やるべきと思っていることも上手くいきます。

私も反省するところですが、世の中の教育や育児についての教えは、過剰な理想像に偏って見えると思います。そういうものは、「そういうやりかたもあるか」、「一度試してみるか」程度に受け止めて欲しいと思います。

子どもを育てるというのは、幻想ではありません。きれいごとでもありません。気に食わない子育て論は、捨ててしまってください。子育て論は、人類全員が語ることができますが、所詮、私論であって、万能の論理などありません。

子育て論に傷つけられたら、おいしいものを食べて、たっぷり眠って、頑張っている自分の心と体に栄養を蓄えてください。家族が元気に朝目覚められたら、それで十分ではないかと思います。

2020年10月22日

違いは受け入れる

子どもたちは、「同じこと」が大好きです。これは人間の本能的な感性なのではないかと思います。
お弁当の時、「おにぎりのひとー!」と聞きます。そうすると、その日のお弁当がおにぎりだった子たちが、「わたしも!」、「ぼくも!」と競って答えます。あるいは、仲の良いお友だちや教師のお弁当を見て、自分と同じものが入っているととてもうれしそうにします。
ブロックで車を作る子がいると、自分も車を作り出します。先生の質問に誰かが答えると、次々と同じ答えが続きます。
子どもたちは、違いを受け入れることについて大人よりもハードルが低いと感じるのは、違いを認識していないからです。違いに気づく成長を得ると、途端に落ち着かなくなります。おそらく、人間は同じであることに無意識に安心感を覚えるのだろうと思います。
一方でこれから子どもたちは、多様な価値観や人種、文化との出会いから学び、成長する力が求められる世界を生きていきます。そのような力が育つための鍵は、「理解」より先に「受け入れる」ことです。自分には理解できないけれども、そういう生き方、考え方、やり方があることを受け入れることから始めるのです。
漫画家・タレントの星野ルネさんは、日本人のお父さんとアフリカのカメルーンにある村の村長の娘であるお母さんとの間に生まれました。その方の講演の記事を読みました。
『子どもの頃に家族で出掛けた時の話です。僕たちの車は山道を走っていました。僕は車の中でバナナを食べていて、食べ終わった時、お母さんに「この皮、どうする?」と聞いたら、「窓から捨てていいわよ」って言うんです。そしたらお父さんが慌てて、「バナナの皮を窓から捨てたらダメだよ」って言うんです。・・・お父さんの主張は皆さん分かると思います。日本人として当たり前の主張です。一方、アフリカのカメルーン出身のお母さんの主張は「バナナの皮はゴミではない」です。「バナナの皮を森に投げたら小さな虫や動物が食べる。これを燃やすほうがおかしいでしょう」と言うんです。』
『東京のある高校でのお話です。ある日、女の子のお母さんがお弁当にお箸を入れるのを忘れてしまいました。女の子は「もう最悪。今日ご飯食べられな~い」と言ってました。そこはインターナショナルな学校で、その中にアフリカのザンビア出身の子がいました。ザンビアには手で食べる地方もあって、彼女はお弁当を手で食べていました。その子が「お箸忘れたんだったら私が手で食べる方法を教えてあげるよ」と言ったんです。お箸を忘れた子はその日、ザンビアスタイルでお弁当を食べたのです。それがすごく楽しくて、家に帰ってお母さんに伝えました。「お箸を忘れた最悪な1日のはずが、ザンビアの子のおかげでいつもと違った感じでおいしく食べられた」って。その日は家庭でもザンビアスタイルでご飯を食べたそうです。日本人の価値観しか知らないとその日は「最悪の日」です。でも違う風土から来た人が違うアイデアを投げ掛けてくることでそれが「最高の日」に変わることもあるんですね。』
(日本講演新聞 2842号、2844号 星野ルネ「多様性って何なんだ!」より)
多様性のある世界は神様が望まれて造られた世界です。そこでは、「理解」よりも「受け入れる」ことがより大切です。別のやり方や考え方があることを「受け入れ」、そして一緒に新しいもの得るのです。

「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(聖書 コロサイの信徒への手紙3章9~10節)

2020年10月26日

余計なことは言わない

子どもと話をすると、何か評価を伝えたり、とにかく話を繋げようとしてしまいがちです。子どもに何かを伝えないと居心地が悪くなって、罪悪感を覚える人もいます。そこで、「上手!」とか「すごい!」とか「かわいい!」を繰り返して、何とか子どもの成果を持ち上げようと躍起になります。

しかし、子どもが求めるのは評価ではなく、何かをやり遂げたり、何かを発見したりした時の、嬉しさを共有したいのです。人間には、喜びや興奮や驚きなどの感情を、大切な人と共有することで、自分の居場所があることを知り、幸福感を持ちます。

子どもが伝える喜びや驚きを共有する時には、言葉だけにこだわる必要はありません。頷くだけでもいいし、笑顔を返すだけでもよいのです。それで、子どもは自分の居場所を知り、安心します。

同じように、余計な声かけをしてしまう場面として、子どもが何かに集中的に取り組んでいる時があります。子どもが何かを集中してしているときには、集中力を妨げないように声をかけない方がよいでしょう。子どもにとって助けが必要な時には、子どもの方がアドバイスを求めて大人の方を見ます。子どもが助けを必要とする時を共有すれば、アドバイスは余計なものとはならないでしょう。

子どもの伝えてきたことが本当にすごいことだと思ったら、「すごい!」を伝えるのも良いことです。誰もが経験することですが、どんなに美辞麗句を与えられても、心がない言葉に人は不快を感じたり、時には傷ついたりします。それは子どもも同じです。

子ども自身が努力していない、頑張っていないと自覚しているのに「がんばったね」と言われるのは、混乱を招きます。自分自身の自分への評価と、他人の自分に対する評価に明らかに違いがあると、共有の反対の事態が起こります。

褒め方が大げさすぎたり、逆に過小評価されたと感じると、子どもの気持ちは冷めます。自然にウソ偽りなく「すごい!」と褒められるのは良いのですが、褒め方で子どもをコントロールしようとすると、かえって良くない結果となります。

子どもへは本音で声をかけることを心がけ、余計な言葉に頼って子どもをコントロールしようとしないことが大切です。

これは、子どもを褒める時だけでなく、子どもを叱らなければならない時も同じです。子どものことを思って叱る言葉は、決して子どもを傷つけません。

叱る時に、怒鳴ってしまったり、大声で脅かしたり、子どもから楽しみを取り上げて言うことを聞かせようとするのは、子どもをコントロールしようという下心が見えてきて、やがて通用しなくなります。そういった場面になると、不愉快な場をしのぐことが目的となり、とりあえず「ごめんなさい」と言って、行動の改善について考えることはありません。

一方で、言葉は少なくても、大人が自分自身の本音として子どもに伝わる声量で「わたしは、それは良いこととは思っていない。そんなことをする人と一緒にいたくない」ということを短く伝えるだけで十分です。

悪い行いや楽しみは、私はあなたと共有できないということを伝えるのです。それは子どもに、自分自身の行動を改善するために考えることを促します。子ども自身が考えなければ、子どもの問題を共有できません。

怒鳴られたり、脅かされてきた子は、叱られるとよそ見をして、話を聞いてくれないと思うことが続くと思います。しかし、何度でも「本音」で伝えます。怒鳴ったり、脅かしたりせずに伝える大人の真摯な態度は、子どもに伝わります。

そして、そうして自分に本音で向き合う大人の元に、子どもは自分の居場所を見つけていきます。叱ることがあっても、子どもとの関係は損なわれることはありません。

2020年10月27日

褒美と罰の本質は同じ

子どもをコントロールする方法という点で、褒美と罰は同じものです。大人の都合にあわせて褒めたり罰を与えるのは、子どもを操作しようという意図があります。褒美と罰は見た目が異なるようで、大人による条件づけという実体は同じものです。

しかし、子どもを行動をコントロールするために使っている言葉は、本音ではないことを子どもに見透かされます。

褒美と罰は、条件付けであるため、与え続けないといけないという事態に陥ります。子どもを罰しても、同じことを繰り返したり、もっと行動が悪化することはよくあります。行動が悪化すればまた別の罰を与えることになるでしょう。

褒美も同じことが起こります。与えれば褒美への依存が強くなっていきます。褒美を与え続ければ、褒美の内容も際限なく上がっていきます。

褒美と罰によっておこるもう一つの問題は、子どもに自己中心的な考え方が根づいてしまうことです。褒美をもらい続けると、褒美を得ることが目的となります。その結果、自分の行動が相手に与える影響を考えなくなり、自分のことだけを考えます。

例えば、幼稚園に朝一番にくる子に、「偉いね」とか「すごいね」というようなおざなりな誉め言葉をかけてしまいがちです。そうすると、一番になって褒められる自分の都合を考えます。そうすると一番になれなかったときに、お父さんやお母さんがバッチをつけるのが遅いとか、荷物を持ってくれなかったからとか、周囲に原因を押しつけて、自分のことだけを優先するように要求し始めます。

罰はさらに深刻です。説明や話し合いをせずに一方的に与えられる罰は、問題とされた好意との関係が子どもにとって明確ではありません。そのため反省を促すことにならず、自分が間違った行動をとったことを考えずに、罰を与える相手が悪いと思うようになります。罰を与える相手に怒りと憎しみを抱きます。親子関係では、罰は子どもにとって最も信頼できる存在であった親からの裏切り行為として、子どもの心を混乱させます。やがて、親が信頼できない存在という思いが強くなると、子どもは心を閉ざすほか無くなります。

そうなれば、どうやって罰を逃れるかに意識が向いていきます。罰の場合も、相手への影響を考えずに、自分の損得だけを考えるような自己中心的な考えが育っていきます。

さらに、罰を与えられると、問題が起こった時に、暴力や圧力で解決することが子どもの中で正当化されていきます。罰を与えることは問題は暴力と圧力で解決することができるという考えに洗脳していくことです。一方的に力を振るう行動が模範であった子どもに、平和的な解決を選ぶことは困難になっていきます。そうした存在となった子どもは周囲から孤立していきます。

罰の連鎖は、さらに世代を超えていきます。子ども自身が親になった時に、自分が経験してきたことを嫌いながら、しかし同じように子どもに接してしまうことが多いと言われています。

褒めることと叱ることは、子どもの育ちにおいて最も重要な大人の関与です。そして安易な方法は子どもの中に望ましくない影響を与えます。

2020年10月29日

叱るというコミュニケーション

子どもを叱ることは、子どもに社会生活に適応する必要な知識や技術を教えるためです。罰によって子どもの行動をコントロールすることが目的ではありません。

それだけに、叱るというのは難しいことです。褒めることよりも難しいと思います。子ども特有のこだわりや、頑固、癇癪を起こしている時には、何を言って聞いてくれず、イライラしてしまって感情的な対応をしてしまうこともあるでしょう。

子どもを叱ることについて、前もって気持ちの準備をしておくことが大事だと思います。「自分は子どもを信じているから、叱らなければならない」存在であることを受け止めて心構えを準備する必要があります。子どもを叱るということは、子どもを信じているからできることです。子どもを信じられなくなった時に、諦めてしまいます。叱ることから罰を与えることに目的が移ってしまいます。

叱る時の基本的な心構えは褒める時と似ています。

①「だめ」、「違う」、「やめて」をできるだけ使わない。

道路に飛び出すなどの危険な状況では「だめ!」と強く言ってまず行動を止める必要があります。しかし、叱るというのは、行動を止めることが目的ではなく、子どもが好ましくない行動を改めて社会に適応する知識や技術を得させることが目的です。「だめ」「違う」「やめて」という言葉に対して脳は脅威を感じると言われています。そうすると、身を守るために反発して、話を聞く状態ではなくなってしまいます。

叱る時の導入は、何をしていたのか(目に見える事実)をそのまま伝えて、子ども自身が本来やりたかった気持ちを受け入れます。「そうしたかったのね」とか「気持ちはわかるよ」というような気持ちの肯定は、子どもの我儘を野放しにするという意味ではありません。子どもと話をする環境を準備することが目的です。

②結果よりも、過程に目を向ける。

褒める時も叱る時も、子どもの人格や能力、欠点や短所を責めることは避けます。実際に起こしてしまった事柄を前にして、そこに至る過程と努力、やり方に不足や間違いはなかったかを、子どもと一緒に振り返って検証します。何が原因で好ましくない行動に繋がったのかを子どもと確認し、共有します。

③好ましくない行動の理由を伝える。

子どもに、自分の行動が、子ども自身や他者にとって、どんな影響を与えたのかということを、社会的適応としての規範や道徳に焦点を当てて具体的に説明します。具体的というのは、子どもの行動と結果との因果関係を理解させるということです。例えば「お友だちの許可なくおもちゃをとった」→「お友だちが泣いた」ということの「→」を明確にします。これは子どもに好ましくない行動をとらないように事前に注意を与える時にも、大事なことです。

④気持ちを正直に伝える。

好ましくない行動に対する気持ちを正直に伝えます。大人が子どもに対する気持ちを正直に示すことは、子どもが自己中心から、他者との共存へと、人間関係に関わる力を育てることに繋がります。そして、最後に「提案」をしてみます。「おもちゃを順番に使える方法をみんなで考えてみよう」というものです。

叱るというのは感情をぶつけて突き放すことではなく、子どもとの重要なコミュニケーション(交流)なのです。いきなり上手にはできません。だからこそ、前もって心構えをもっておくことは大事なのです。

2020年10月30日

迷った時には前へ進め

「やればできる」という気持ちは大切ですが、行き過ぎると「できない可能性」から逃げるようになります。しかし、成長は限界に挑戦して得られるものです。

「やればできる」という考えは、成功した経験に基づいています、しかし、いつまでも成功することばかりをしていては成長しません。深まりません。大きくなりません。過去の経験が役に立たないところに向かって挑戦しなければならない時に、成功体験だけを糧に育った自身だけでは行動に移せないことが多くなります。

そこで、もう一歩進んで「やれば少しはマシになる」、「できるかどうかわからないけれども、ともかくやってみよう」という気持ちへと進んでいけると良いと思います。

「ともかくやってみよう」という気持ちは、やろうとすることそのものに好奇心を強く持ったときや、やることで自分の力が伸びると思える時(鉄棒など)、そしてやることに意味や価値があると感じる時(お手伝いなど)、そういった時に育っていきます。

言い換えると、結果ではなくプロセスや行為の意味に成長や価値を感じる人は「とりあえずやってみよう」という気持ちを育てるのです。

プロセスや行為そのものの意味に価値があるのであれば、結果が希望を下回っていても失敗とはなりません。プロセスの途中でしかないからです。失敗は予想していたプロセスの修正を教えてくれるものであって、むしろ意味ある行為です。

「ともかくやってみよう」という思いから始めたことは、簡単には諦めない気持ちを育てます。プロセスを価値とすることで見えてくるのは、0(失敗)か1(成功)かで自分の価値が決まるのではなく、1にも満たない小さな影響であっても0ではない、という自分の行動が与える影響の実感を伴うからです。自分に価値を見出す「自己肯定感」へとつながります。

「迷った時には前へ進め」は、私の基本的な生き方です。新型コロナウイルス感染症のために今年は様々に迷うことが多くあります。

感染症の危険が報じられ、私たちには知識も備えも不十分であったときには、速やかに休園を決めることが当時の「前進」でした。マスクも消毒薬も手に入りにくい中でコツコツとルートを探して十分な量を備え、対策のための道具や機器を整え、少しずつ報じられる知識を自園の環境に合わせて生かすことを考えてきました。

休園とはいっても、毎日幼稚園をおとずれ、どのタイミングで、どの様な体制で再開するかを試行錯誤しました。環境を組み換え、「ともかくやってみて」子どもに向かない、幼稚園の日常の保育にそぐわないことを除き、さらに必要なものをどう理解して受け入れてもらうかをシュミレーションしました。その中で使えない、今では無駄となってしまった物も多くあります。

しかし、「ともかくやってみて」試行錯誤したことで、新しい「前進」へと進むことができました。新型コロナウイルス感染症を理由に、様々な活動を止めてしまうことは簡単です。しかし、「やる」と決めて、どうすればできるかを考え、一回限りの本番へ向けて、無駄となることも承知で様々な備えをします。刻一刻と変わる状況の中で、プロセスを常に修正し、実現への道を再設定します。今も迷いはありますが、「前へ進め」を実践しています。

「ともかくやってみよう」という気持ちを子どもたちも育てて欲しいともいます。経験のない速度で世界は変化し、状況は変わります。失敗や成功を経験する前に、次のプロセスと移り、新しい意味を生きる必要に迫られます。その様な中で、「ともかくやってみる」気持ちは、大事な力になると思います。

2020年11月06日

失敗と成功のベクトル

「あなたはやればできる子だよ」という言葉は、あなたのことを信じているよ、というメッセージのように思われます。しかし、実際は「今はできていない」というメッセージになります。子どもを認めているようで、実は認めていない言葉になります。

 今はできていないという子には、「やればできるようになるよ」、「まずは、やってみよう」というような、「今はできていない」というところから出発を促す言葉をかけると良いと思います。子どもに受け取って欲しいメッセージは「挑戦することに一番意味がある」ということです。

 できれば伝えない方が良いメッセージは、成功や結果に価値があるというメッセージです。「やればできる」という言葉は、挑戦を促すようで、実際に求めているのは成功と結果です。
 
 大人として仕事をする際には、プロセスよりも結果です。それが報酬を受け取る仕事の責任です。プロセスをどんなに頑張っても報酬には繋がりません。成功しなければならないのです。

 しかし、子どもの育ちの中での挑戦には、本質的に「失敗」はありません。何故ならすべてが同じ方向を向いて繋がっているからです。成功と結果に縛られざるを得ない大人の目からは、子どもの挑戦は無駄が多く、失敗続きに見えます。しかし、失敗続きでもいいのです。実際に、いつまでたっても成功しないことはいくらもあります。いい結果を出せなくて、放り出すこともあるでしょう。

 子どもが成功と結果に捕らえられてしまったしまった時には、「やってみよう。成長しているよ。工夫してみよう」と伝えることが大切です。失敗は終着点ではなく、一過程なのだと受け取ることができれば、また取り組むことができます。失敗と成功のベクトルは同じ方向を向いています。

 子どもは、「自分はできる」という自信を持っています。子どもにはもともと「やってみたい」という強い力があります。その力がそのまま発揮できるように言葉と環境を与えればよいのです。

 子どもに「やってみたい」という強い欲求があっても、言葉をかけることに意味がなくなるわけではありません。「やってみたい」という思いを認められ、それが大切なことだと伝えてくれる言葉は、子どもたち心を支えます。子どもたちの価値の順位を、成功と結果をよりも挑戦を上位に考えるようになります。

 この価値の変化は、自分を客観視するメタ認知を育てることにも繋がります。そして、成功と結果を求められるようになった時に、成功と結果へと繋がる「プロセス」を創造し、改良し、仕事の質を向上させる力に繋がります。

2020年11月09日

ごっこ遊び

幼稚園では今「鬼滅の刃」のごっこ遊びが年長・年中の子どもたちの間で流行っています。ごっこ遊びは、幼児期の遊びの中でも、特に重要な遊びです。

ごっこ遊びは、想像力なしには成り立ちません。例えば、憧れのヒーローやヒロインのポーズをとるのは、自分では見えていない自分自身の姿にヒーローやヒロインを重ねる想像力が欠かせません。

目の前に存在しないものを想像し、行為を思い描き、そこにあるものを何かに見立てて広げられていくごっこ遊びの中で想像力は、どんどんと実際の活動へと反映させて遊びを発展させていきます。

ごっこ遊びは、はじめはヒーローなりヒロインのポーズをとっていれば満足します。しかし、ごっこ遊びを重ねると、武器を作ったり、小物を作ったりして、物語の役に浸る劇場型の遊びへと発展します。ごっこ遊びは、没頭すればするほど遊びを変容させていきます。

そして、「ポーズをとる」から「武器などを身に着ける」の間に、「製作」という技術的体験を経験します。その中身も多彩です。最初は「作ってもらう」ことを要求することから始まるでしょう。やがて、自分自身で作る事を始めます。製作のために必要な材料を求め、道具を駆使し、製作物は作るたびに完成度を増していきます。

さらに、ここバラバラに「ポーズをとる」という遊びから、一緒に遊ぶ仲間の中で役回りが決められていきます。それぞれバラバラだった振舞いやセリフが、想像力によってストーリーの中に配置されていきます。自分自身を巧みに用いて役を深めていきます。時にはどういう役をしているのかを説明してくれます。そしてどんなリアクションをすべきかを指導してくれます。一つの劇場が幼稚園に現れてきます。

表現力、会話力、交渉力、語彙力、手先の操作、動きの大きな身体の操作、色彩感覚、物に対する見立て等、極めて多彩な能力が総合的に育まれていきます。しかし大事なことは、子どもは単におもしろいから遊んでいる、という遊びの原点です。

つまり、ごっこ遊びの発展と没頭、それに伴って能力が育まれていくためには、「おもしろさ」が続く環境が最も大事だということです。逆に言えば、ごっこ遊びが充実し発展する保育環境を整えることが重要です。適切な援助をする幼稚園教師、製作に集中できる環境、それらが適切であれば子どもは自分自身で遊びの段階を発展させていきます。ごっこ遊びは、保育環境が適切であるかを探る重要な要素です。

また、ごっこ遊びがヒーローやヒロインの模倣から、自分たちの劇場へと展開していくときには、日常生活の中で様々な物や生物に触れ、多くの他者に接し、いろいろな状況を体験するといった豊かな経験が大切です。

想像力は、それなしには人間的生活は成り立たない程、極めて重要な人間の力です。どんな学習でも想像力なしには成り立ちません。その意味でも、幼児期からのごっこ遊びの意味は極めて重要です。

どうか、「またやってる」とあきれずに、子どもたちのごっこ遊びを見守って欲しいと思います。

2020年11月10日

見立ての世界

子どもの遊びには、「見立て」が欠かせません。この場合の「見立て」というのは、モノを何かになぞらえることです。積み木一つが机になれば、新幹線や車にもなります。

折り紙は、「見立て」の世界です。多くの方が折ったことのある「やっこさん」や「折り鶴」は、見立てが成り立たなければ「やっこ」にも「鶴」にも見えません。見立てのためのモノへの観察力と発想力は大変重要な力です。

モノは遊びをわかりやすく誘導する媒介です。持ち、見立て、使う、作る、身に着ける、といった活動を誘導し、援助してくれます。

子どもの遊びは、はじめは既成のモノを持つことからはじまります。砂場の型抜きや食器などは、子どもに「お料理する」とか「ケーキを作る」といった日常生活の場面を想起させ、再現へと誘導します。同じように電車のおもちゃは子どもの手で操作できる小さなものですが、実際の電車への興味を満たします。

やがて、既成の道具に誘導されるだけでなく、モノを見立てて使うということが始まります。それは手に収まるモノだけでなく、テーブルやベンチがお店になり、滑り台はお城になり、ジャングルジムはお家になります。木登りをすれば、そこは秘密基地になります。教師はヒーローにやられる怪獣にされ、警察に逮捕されるどろぼうにされます。園庭の隅は時に牢屋になり、ダンスを披露するステージに見立てられます。カートはバスや電車になってお友だちを乗せて園庭を周回します。

やがて、自分で遊びに必要なモノを作るようになります。ここでも、見立ては重要な力です。砂で作ったお団子、ケーキ。粘土で作った虫や蛇、クッキー。空き箱を使った乗り物や、カバン、スマートフォン。折り紙や厚紙を使って作るヒーローやヒロインの使う武器、衣装。お面を作ったり、髪飾りを作ったりします。それらは、子どもに教えてもらわないと何なのか分からないことも多くあります。しかし、子どもたちにとっては紛れもなく目的を満たしたモノなのです。

いろいろなモノを作るためには、道具の扱いや材料についての知識が欠かせません。そのために幼稚園でモノを作る教師の姿がモデルとなり、製作の経験が材料についての知識を豊かにします。しかし、それらを駆使して作るものを「見立てる」ことで遊びが次の発展を得ます。

見立ては、一人の子どもの中でだけ起こることではなく、「ごっこ遊び」等を通して他の子と共有することができます。見立てた場所を共有することで、遊びの拠点が構成され、遊びが拡がったり、収束したりして、さらに他の子を遊びへと呼び込むこともあります。

見立ては人の根本的な力であり、幼児期における育ちを促す強い力となります。

2020年11月11日

よいところは伝えましょう

人間には、「感情」、「思考」、「行動」という三つの要素があり、それらを一致させようとする心理があると聞きました。思考が行動に直接影響し、感情が思考を支配するというような影響があるということになります。

幼児期の子どもは、集中して事柄に取り組む事が苦手なものです。その様子は、落ち着きがなく見えます。その時に、「あなたは、落ち着きがない」、「何度言っても、できない」と言われ続けると、「自分は落ち着きがない」、「自分は何度言われてもできない」と思考し、それに感情も行動も一致させてしまうということが起こります。つまり、本物の「落ち着きのない人」、「何度言ってもできない人」になってしまいます。

逆に、なかなか集中できた場面が見られなくても、10秒程度のほんの短い時間であっても集中していたら、「今、すごい集中していたね」と声をかけると、集中する人として自分の感情と思考と行動を一致させるようになるということです。

全く集中する時がない子というのはいません。好きなことをする時には多くの子が集中しています。子どもに影響力のある人から「夢中になって工作をしていたね。集中する力があるんだね」と言われると、「自分には集中する力がある」という理解から、本当に集中できる子へと、理解と行動を一致させていきます。はじめは数秒の集中も、少しずつ長く、そして多彩な場面で集中力を発揮できるようになります。

以前、どうしても怖くて鉄棒の前回りができない子がいました。しかし、本人はできるようになりたいと思っていたようで、たびたび「見ていて」、「手伝って」と言われました。「もう少しで出来そうだけど、〇〇ちゃんは、どうしてできないんだと思う?」と聞くと、「怖いんだよ!」と言いました。そこで「怖いのに、挑戦してたんだ!〇〇ちゃんには、勇気があるんだね」と言いました。「もうここまで出来てるから、あとちょっとの勇気だね。できると私は思うよ」と声を掛けて、その日は終わりました。

その後、一週間も経ない頃でした。ふと見たら、その子が鉄棒で前回りをしていました。近づくと、「もう怖くない」と言っていました。ほんのちょっとでも「できる」と思うと挑戦しがんばるので、「ほんのちょっとの勇気」でできると理解した子が、実際の行動に勇気ある自分を一致させ、出来てしまったのです。

今は9割できないことでも、1割できていたら、その良い所を伝えてあげると、良いイメージへと子どもが自分を押し出すとても力強い励ましになります。

大人は子どものできないこと、悪いことを指摘することが多くなってしまいがちですが、今はほんの僅かであっても、よい行動が見られたら、そのよいところを伝えてあげるほうが、「できない」ことを指摘されるよりも改善ははるかに早いです。

2020年11月16日

ダメな所が気になる時

子どもの良い所を褒めようと思っていても、ダメな所ばかりが気になって、結局注意してばかりという事もあろうと思います。そんな状況が続けば、次第に注意の声も大きくなって、一日の終わりには声が枯れてしまうという人もおられるかもしれません。

欠点ばかりが目に付いてしまうというのは、実は自然なことです。異常なことではありません。人間は悪いところにこそ注目して、危機的な状況を回避しようとする働きを持っています。人間の生き延びるための本能のようなものです。

親は子どもをよく見ています。だからこそ、ダメなところがますます気になってしまうのです。愛情があるので、子どものダメなところを直さないと、子どもがこの先生き辛くなってしまうのではと心配になるのです。

子どもの出来ないところばかりを見て、その度に子どもを叱ってしまうからといって、自分のことをダメな親とは思わないでください。それは、子どもの幸せな生存を願うからこそ、親としてまず当然のことだと受け止めてください。

ただ、それを子どもに対してどうフィードバックしていくかについて幼児教育から学ぶ必要はあると思います。ダメと思えることに気づくことはしかたありません。しかし、それを指摘することが果たして改善になるのかどうかです。

人間はダメな所を指摘されると、反射的に心も体も身構えます。ネガティブな声掛けを信頼する人から聞くと、その通りに受け取ります。そして、「ダメだ、できない」という風に自分を捉えます。思考は行動に強く影響しますから、自信を失い、諦めてしまいます。改善して欲しいと思っていたところは、改善されずに残り続けることになります。

ほんの僅かでも良いところが見られたら、できて当たり前と思って流さずに、良いことこそ声をかけるように心がけてみましょう。子どもに、「あなたにはこんな強みがある」、「あなたはこんなうれしいことをしてくれる」と、子どもの自己理解に自分の強みや良い所を教えてあげてください。

それでも、どうしても良いところが見つからないと思う時でも、一呼吸置いて子どもへかける言葉を準備するようにしましょう。「いい加減にして!」とか「さっさとしなさい!」といった「反射的」な指摘ほど、双方にとって不利益をもたらす可能性が高いです。ほんの一呼吸でも置いてみてください。

子どもが何度も同じ失敗をしてしまう時にも、「以前よりも、できるようになっている。わたしはそう思うよ」という声掛けで指摘するようにします。この場合に、「わたしは~と思う」と伝える事がより良いです。本人が出来てないと思っていても、他の人からは良くなっていると見られているということを知らせるからです。そして、「次はきっともっとできるようなると、私は信じてるよ」と、次への期待を伝えてください。本人がどう思おうと、期待されていることを伝えるのです。

また、幼稚園でもよくあることですが、例えば子どもは「触らないで」と言われるとほぼ確実に触ります。人間の脳は「否定」を理解する事が苦手なのです。改善して欲しいことを「~しないで」と伝えるよりも、しない代わりに何をしてほしいのかを伝える方が効果があります。「触らないで」というのではなく、「手はおひざに置いておいてね」とか、「布巾を持ってきて」というふうに伝えるようにしています。

2020年11月19日

負けず嫌い

子どもたちは勝ち負けのある遊びをします。遊びの中で負けてしまうと、癇癪をおこす負けず嫌いの子がいます。負けず嫌いは、どの子にも見られるものです。ゆっくりとルールの理解が深まったり、勝ったり負けたりの経験の繰り返しの中で癇癪のようなことは少なくなっていきます。

子どもが負けて癇癪を起こした時、「このくらいのことで、怒らないの」とか「そんなに怒るなら、もうやらない」と言うよりも、「負けるのは、嫌だね。私もそう思ったことがあるよ。でも、負けることもあるんだよ」、「勝つことも負けることもあるってわかると、もっと楽しくなるよ。そういう気持ちの練習をしてみようね」といった感情の共有をする方が良いでしょう。

個人差のあることですが、幼児期の子どもは負けをうまく受け入れられません。幼児期の子どもの思考は「自己中心的」です。負けを受け入れられないために、怒ったり、泣いたり、ふてくされたりします。それを無理に変えさせようとする必要はありません。ルールを理解して遊べるようになった子どもが必ず経験する成長段階です。ただ、普段から能力や成果を褒められてばかりだと、負けを受け入れることが難しくなる傾向があります。

幼児期には、負けを受け入れることを強制するよりも、負けた時の約束を前もって伝える方が効果的かもしれません。「負けて怒ったり、叫んだりしたら、ゲームはおしまいにしようね」とか、「負けて怒ると、楽しく続けられないから、その時はおしまいにするね」と伝えてから遊びを始めます。

負けて怒ったり、泣いたり、癇癪を起すことを、子どもの性格や人格の問題だとして非難することはよくありません。幼児期は負けを受け入れることができなくても、そのうちできるようになります。「負け」を受け入れるためには、自分の視点と自分以外の人の視点の両方を考え、自己中心的な思考から、他者を受け入れる思考をもつようになる必要があると言われています。「負け」を受け入れるためには、自分の視点と自分以外の人の視点の両方を考え、自己中心的な思考から、他者を受け入れる思考をもつようになる必要があり、その発達はゆっくりと進むものと言われています。

負けず嫌いの他にも、幼児期にはおもちゃを貸してあげられないとか、独り占めするとかいう様子も必ず見られます。逆にお友だちから取ってしまったり、譲ってもらえないと相手を攻撃するような言葉や行動が出ることもあります。

我慢をする能力の発達は遅く、成人後まで続きます。負けず嫌いや自己中心的な考え方は成長の過程です。取り合いとなるおもちゃは最初からしまっておいたり、お菓子は始めから分けておいたりして、叱って止めなければならなくなるような状況にならないように前もって工夫することも大切でしょう。あとは、冷静に心の練習ができるような言葉を繰り返し伝えることです。

2020年11月24日

行動から気持ちへ

行動は目に見えるので、そのことに意識を奪われがちです。たとえば、子どもがお友だちを叩いてしまった時に「叩いた」という行動だけが前面に見えるので、大声を出して叱ってしまうことがあります。

しかし、その時の子どもたちにとって大切なことは、なぜその行動が出てしまったのか、ということです。言い換えると、「気持ち」や「感情」という見えないものに注目してあげることです。

その時には、大人はできるだけ冷静さをもって、その子がどうして「叩く」という行動を選んだのかを、気持ちを聞いて知ることがその後の「叩く」という行動を無くすために大切です。

「なんで叩いちゃったの?」、「その時、どんな気持ちがしたの?」、「次はどうしようか?」と尋ねます。「おもちゃを取られた」、「嫌なことを言った」、「聞いてくれなかった」など、何かしらの理由があります。この場合、その理由が叩いたという行動を正当化するものということではありません。しかし、行動が起こるには何らかの理由があって、そのことを共有することで「でもね」と、叩く以外の解決があることを考えるための準備ができます。

「おもちゃを取られたのね。そうか、それは嫌だったね。『でもね』、叩くのはダメだよ。叩いたら痛いよね。叩かれても、何がいけなかったのか、お友だちは分からないよね。」というように、「でもね」と続けて、なぜその行動がいけないのか、理由を説明することが大切です。そのために、まず気持ちを聞いて、その気持ちを感じたこといけないのではない、ということを認めることで、その後に続く言葉を子どもは受け入れやすくなります。

幼児期の子どもは、まだ気持ちを上手に言葉にできないかもしれません。その時は、「嫌だったの?」とか「くやしかったね」というように気持ちを言葉にすることで共感を示します。その上で、「でも、してはいけないことがある。その理由はこうだよ」と伝えます。

そして、「またおもちゃを取られたら、その時はまず先生に教えてね。お友だちに一緒にお話ししてあげるからね」というように、叩く以外の方法を示します。この時に大事なのは、その子を尊重することです。「まだあの子は小さいからゆるしてあげなさい」というようなことは、子どもにとって受け入れがたいことです。

子どもへのメッセージは「あなたのことが大切だから」ということから発せられるメッセージであることが大事です。あまり「あなたの方が我慢しなさい」とか「それぐらいで叩かないの」という子どもが自分が軽んじられているように感じてしまうメッセージは避けるべきです。また、言っても分からないから、と決めてしまうのは子どもの人格に対する侮辱です。それは絶対に避けましょう。人は侮辱に対して敏感な生き物です。そして、「目には目を」の言葉の通りに、自分を軽んじる人間を軽んじるようになります。

2020年11月25日

平等に扱うことをやめてみる

人は「みんな平等」ということが好きなようです。兄弟姉妹を育てておられる保護者の中には、子どもたちに平等に接することを大切にしている方もおられるでしょう。

しかし、ある人にプレゼントをあげたら、世界中の人にも同じプレゼントを配る必要があるでしょうか。寒い土地に住む人には熱いスープが喜ばれ、熱帯では涼をとる氷の方が喜ばれるのではないでしょうか。

人は一人ひとり必要や要求といった希望するものが違います。兄弟姉妹であっても、同じクラスの子どもたち同士であっても違います。これは多様性とも関係しています。現代は様々なカテゴリーの多様性に注目がありますが、突き詰めれば一人の人が生まれるたびに一つの多様性が生まれているのです。

人に対して公平であることは大切なことですが、多様な希望に対して、平等に扱うことが必ずしも正しいことにはなりません。

例えば兄弟の間でお菓子を一緒に食べたときに、「弟は2個食べた」と兄が言ったとします。そういった時に「お兄ちゃんも2個欲しかったのね」と言って、2個目をあげるということがあります。しかし、果たして兄の希望は「お菓子を2個もらう」ことだったのでしょうか。「お兄ちゃんはいくつ食べたいの?」と聞いたら、自分はもういらないと言うかもしれません。あるいは、自分は5個欲しいというかもしれません。平等に扱うことがいつも本人の希望と一致してるとは限らないのです。

そこで、平等から公平に考え方を変えてみましょう。お友だちが何かのキャラクターの持っていると話してきたら、持っている子と比較して平等に「あなたにも買ってあげるわ」ではなく、「あなたは何が欲しいの?」、「どうして?」と、子ども自身に向き合って希望を聞くようにしてみてください。案外、子どもの希望は同じものが欲しいということではないのです。

他の子が持っていて、自分が持っていないことからくる不安からの発言だったり、自分も必要なものを求めると得られるという安心感を求める思いからくる、子どもなりの主張であることが多いのです。そういった時に子どもの本当の希望は同じキャラクターのおもちゃではなく、「安心感」だということになります。

平等というのは、行き過ぎるとお互いを拘束し、状況の中で強制されるものとなります。
子どもを「平等に扱う」ことから、子どもに「公平に向き合う」ことへ気持ちをシフトすると、大人の方も気持ちが楽になります。公平さが与えられると、多様な希望を持ち、差異を持つ子どもたちの間に、互いの比較に根ざすのではなく、互いに違う人格に根ざした望ましい関係への道が拓かれると思います。

2020年11月26日

自分で決めさせる

子どもがなかなか片付けないので、思わず手を出して結局代わって片付けてしまう、という経験があるのではないでしょうか。そこで、手伝ってしまうから自分から片づけようとしないのではないかと考えて、手伝いを止めてみたということを試してみた方もあるのではないかと思います。他の人がやってくれないなら、嫌でも自分でやるようになるだろうと考えたのだろうと思います。私もそういった経験があります。

しかし、子どもの方は全く片付けるそぶりを見せず、散らかったままということになったのではないかと思います。これは片付けだけでなく、様々な場面でよくあることです。なぜそうなってしまうのでしょうか。

単純に言うと「やる気がない」からです。やる気を出すのに最も効果的なのは、「自分で決める」ということです。やる気は、自分で決めたことかどうかで大きく左右されるのです。

最初の例で言うと、子どもが「自分で片付けよう」と決めることと、「もう片づけを手伝わない」ということとの間に直接的な関係はありません。それで、「自分でやろう」というやる気が出ず、事態は全く変わらないのです。

まずは、いつものことですが、「片付けは面倒くさい」という子どもの気持ちを認めた上で、どうすれば片付けができるかを子どもに考えてもらうようにします。いきなり、全部を片付けさせようとしても難しいでしょう。少しずつ出来そうなことを提案して、子ども自身に、それを「やる」と決めさせてあげます。

人は、他人に何かを決められてしまうことを嫌います。自分のことを自分で決めたいという感覚があります。「自分で決めるんだよ」、「自分で決めていいんだよ」と支えてあげることで、子どもはやる気が出ます。そして、自分で決めたことを実行していくことを自律と言います。つまり、自分で「やってみる」と決めることから子どもの自律性が育っていきます。

子どものためを思ってやらせようとすることも、子ども自身にやる気が出てこなければ空回りです。「こうしなさい」とうるさく言われると、子どもは疎ましく思うのです。

こちらの方が、先に子どもをコントロールすることを止めてみることです。コントロールや制限がないと子どもは好き勝手するだけではないか、と思われるかもしれません。しかし、コントロールを止めてみるというのは、放任とは違います。何の制限もなく好きにさせることとは違います。やるべきことを責任として提示した上で、それを果たすための道筋を子どもに決めさせると言うことです。「やりたくない」という気持ちを共有し、その上で「やらなければならない」責任を持つ理由を説明します。

そして責任を果たすために「どうしたらいいのか」、「どこまでなら自分でできそうか」、「どこに手伝いが必要か」を子どもの決定を促します。子どもは自分で選び、自分で決めたことだから、「やる気」を得るのです。

2020年11月27日

いのちを伝え、死から守る(2020年11月25日 父母の会講演)

※11月25日の父母の会でお話しした内容を記しました。文章にするにあたって内容を整えています。


「鬼滅の刃」は幼稚園でも人気があって、年長、年中の子どもを中心に「ごっこ遊び」をしています。ごっこ遊びは、子どもの育ちの力を刺激するとても大切な遊びです。ごっこ遊びには、実に多彩な能力を引き出します。見立ての力、工作などの技能、交渉、スト―リーの創造、役割分担など、大好きなキャラクターになって遊ぶことを深めていく中で、子どもは成長していきます。

この時期の子どもたちは、自分を中心に理解しています。私たちから見ると、「ごっこ」であって、キャラクターを演じているように見えますが、決めポーズをとる自分を子どもたちはキャラクターそのものとして見立てています。ですから、ごっこ遊び中の子どもの名前を呼ぶと、「違う、わたしは○○なの!」と叱られます。子どもたちは自分の見聞きしたことを自分と分けて経験し理解するのではなく、「自分のこと」として理解していきます。

自分とそれ以外を分けるというのは、人間の成長の中では比較的遅く、またゆっくりと進むと言われています。およそ幼児期を過ぎ、小学校1~2年ぐらいから自分と他者を分けていき、「他者の視点」といったものの理解が完成するのは、22~23歳ぐらいとも言われます。中には、人は完全に「他者の視点」を理解することはできないという意見もあります。どうしても自分事に取り込まないと受け入れられないということです。

「鬼滅の刃」は、いわば現代風アレンジの鬼退治で、鬼の首を切ったり、人が殺されたり、家族の死や主要な人物の死が物語の重要なファクターとなっています。公開された映画は「PG12」というレイティングがつけられました。「PG12」というのは、「Parental Guidance 12」の略で、「小学生以下のお子様が視聴する際、保護者の助言・指導が必要」とされています。小学生以下の子どもにとっては不適切な表現が一部含まれていますが、あくまで「助言・指導が必要」であるため、子どもが見てはいけない、というものではありません。

映画倫理機構のサイトには、「この区分の映画で表現される主題又は題材とその取り扱い方は、刺激的で小学生の観覧には不適切な内容も一部含まれている。一般的に幼児・小学校低学年の観覧には不向きで、高学年の場合でも成長過程、知識、成熟度には個人差がみられることから、親又は保護者の助言・指導に期待する区分である」と記されています。

ちなみに、アマゾンのプライムビデオでテレビ放送されたものが視聴できます。しかし、端末に「子どもが使用する」ということで制限をかけるキッズプロフィール設定をすると、表示されなくなります。つまり、アマゾンはこれらの映像を子どもが視聴することを自主的に制限しているということです。キッズプロフィールの対象年齢は概ね12才以下と聞いたことがあります。

「鬼滅の刃」自体は、確かに面白く、ストーリーもキャラクターも子どもたちにとって魅力的です。原作は勿論、映画も含め、作品自体に問題を問うものはないと思います。最も重要なのは、保護者として何を助言・指導するのかということです。しかし、子どもたちにそれを視聴させる際に求められている「保護者の助言・指導」とは何を助言・指導する必要があるのでしょうか。

先日、幾人かの園長と「鬼滅の刃」のような作品を子どもに視聴させるにあたって、私たち教師はどのような助言・指導をしていくべきかということが話題になりました。ある園長は、この映画が「PG12」指定ということで、わざわざ自分自身で映画を視聴しに行かれたそうです。そして、映画館にたくさんの幼い子どもたちが来館していて驚いたそうです。

劇場版の「鬼滅の刃」の「PG12」指定の理由は、戦闘シーンで一部グロテスクな表現もあるからだと思われます。昭和の頃ですが、テレビをつけたまま父親が寝てしまったときに、たまたま深夜枠のグロテスクな映像を見た幼児が、眠れなくなってしまったという出来事が起こりました。幼児期の子どもは、自分の経験と他者の経験を本質的に区別していません。つまり、子どもに「あれは映画で、ウソのことなの。本当はそんな怖いことはないのよ」と伝えても、既に「自分のこととして経験した」子どもには通用しないのです。幼児期の子どもが、睡眠を奪われるということがどれほど成長に悪影響を及ぼすかは、容易に想像できると思います。

映画館でも、テレビとは違う大きなスクリーンと大音量に、鬼滅の刃を楽しみに来館した子どもたちが、大きな声を出したり、「鬼滅の刃キライ!」といって泣いたり、席を蹴ったりと、大変な様子が見られたそうです。ある意味「保護者の助言・指導」には、他のお客さんもいる映画館でのマナーの指導や、子どもが怯えたら直ちに劇場を出るといった判断も含まれるのでしょう。

さらに、「ごっこ遊び」が過激になって他児を傷つけることが無いように注意を与えることも大切でしょう。いわゆる「戦いごっこ」というのは男女を問わず、また特にアニメや特撮に触れなくても、ほぼ全ての子が経験します。ですが、ヒーローやヒロインを視聴した子どもたちに見られるのは、「急所」を狙い始めるということです。「鬼滅の刃」であれば、子どもたちが直ぐに折れてしまうチラシを丸めた刀で、首をねらってきます。あるいは目を狙ってきます。実際に怪我をするようなことは無くても、急所を狙い傷つけることの危険と、その行為が相手を「殺す」という意思表示に他ならないことを、どうやって幼児期の子どもに伝えたらよいのでしょうか。

それと深く関わるのが、最も大事な「生」と「死」をどう伝えるかということです。「鬼滅の刃」は、家族の死からストーリーが始まります。死から生を覗く物語であり、死から生を渇望する物語です。「生」を続ける苦しみがあり、死を選ばざるを得ない苦痛があります。潔く表現された「死」、美しく表現された「死」、残酷な「死」があります。繰り返しますが、幼児期の子どもはそれらの表現されたストーリーを「自分事」として記憶します。知識としては「お話の中のこと」と分かっています。いかに幼児期の子でも「あれはお話なんだから、本当にやったらダメよ」と言えば、子どもはバカにされていると感じるかもしれません。「そんなの当たり前」と思うことでしょう。しかし、全ては彼らにとって自己中心的に蓄積される記憶です。そして、その「自分の記憶」はその後のどんな経験や知識と結びついてどのように子どもたちに影響を与えるかは未知なのです。分からないのです。

今、子どもたちに「皆のいのちはいくつある?」と聞くと、多くの子が「10個!」「100個!」と答えます。そして、いくら払えばいのちが買えるか教えてくれます。お判りでしょうが、私は子どもたち自身の「いのち」を聞いていますが、子どもたちにとってのいのちとはゲームの「ライフ」なのです。虫や動物、そして人間のいのちや死は、子どもたちの中でプレイした「ゲームのライフ」の消費として理解されています。本質的に別のものである「私のいのち」と「ゲームのライフ」が分化されず、「取り戻せない」、「かけがえのない」という概念は育っていないのです。知識では理解しています。しかし、死の多くが病院で起こり、死が日常から遠くなった現代では、子どものいのちと死の理解は想像以上に未熟です。そのような中に、今年、新型コロナウイルス感染症という「死」が近づいてきたのです。

「生」と「死」を伝えることは、一言二言で、また一回二回の助言・指導ですませられるものではないでしょう。何度も、子どもの成長に沿って、子どもの経験に寄り添って伝えなければなりません。その時に、大事なことは、私たち自身も「死」の経験はないということです。私たちは「生」を語ることで「死」を教える他ありません。

是非子どもたちに、保護者の皆さんがお子さんを授かった時の「いのち」の物語を語ってあげてください。唯一の、かけがえのない、「いのち」を授かった時の喜びだけでなく、不安を感じたことでも良いのです。唯一で、何者も代わることのできない「いのち」の重さと大切さ、愛おしさを子どもたちのいのちの物語として伝えてあげてください。

繰り返しますが、子どもたちは聞くこと、見ることを「自分のこと」として、自己中心的に受け止めます。「死」を正しく恐れ、安易な「死」という選択をさせないために必要なのは、子どもたち自身の唯一のいのちの物語です。それを子どもたちに伝え、「自分のこと」として経験させることが、最も大事な助言となります。

以前、子どもにとって曾祖母にあたる方が死の床に疲れた時に、お母さまから幼児を臨終に同席させて良いのか、という質問を受けました。私の考えとして、「必ず、家族の一員として、年齢にかかわらず同席させてあげてください。死を見ることから遠ざけることが子どもを死から守るというものではありません。死から私たちを守るのは、きちんと自分のいのちの尊さを感じている経験です。家族が大切にしている人の死を、家族として見届けた経験は将来、自分のいのちについて考えるきっかけとなり、いのちを尊重する大切な経験になります。そして子ども自身のいのちがどんなにお母さんにとって大切かを、教えてあげてください。絶対に守るからね、と言ってあげてください。お父さんやお母さんは、お子さんを守る時に『絶対に』と言うことをためらわないでください」と答えました。

間もなく、クリスマスが来ます。クリスマスは、救い主であるイエス様がお生まれくださったことを祝う日です。それは誕生の物語ですが、同時に神様が独り子であるイエス様を、私たちの身代わりとして死に渡すためにお与えくださったことを伝えています。私たちにいのちをお与えくださる神様が私たちのために用意し、語りかけ、成し遂げられた、いのちと死の物語です。私たちのいのちがどれほど尊く、かけがえのない、失われてはならないものであるかを、神様がどんなに深く愛してくださっているかを証しする出来事です。

今年は新型コロナウイルス感染症のために、当たり前の日常が崩れ、新しいことへの不安もありました。いのちの脅かされる不安が私たちの日常を覆いました。死が日常に近づいた中でこそ、子どもたちのいのちの始まりを語ってあげて欲しいと思います。「鬼滅の刃」もまた、子どもたち自身にゲームのライフではない、唯一の自分のいのちに思いを向けるきっかけとなればと思います。無理に見せる必要はないでしょう。しかし、子どものいのちの物語を大切にしてくだされば、「死」を表現した映画を恐れることはないのです。

2020年12月02日

愛着―愛され、愛する関係―

子どもの中には、母親以外の抱っこを嫌がる「人見知り」な子がいます。あるいは、母親の足にしがみついてなかなか離れないということが続く子もいます。発表会などで子どもが、家でやる気を見せていても、実際にその場で動けなくなることはよくあることです。決して特別なことではありません。

なかなか離れようとしない子どもは叱らずに、安心させることを第一に考えるとよいでしょう。「親は子どもの安全基地」と言われます。無理に押し出さずに、子どもの安全基地になってあげるだけで十分です。

今は、安全基地の中で周りを伺っている子も、やがて自分から少しずつ安全基地の外へ出ていきます。そして、また戻り、安心という力を蓄えてまた出発します。少しずつ安全基地からより遠くへ、長い時間離れられるようになります。心構えとしては「他の子と比べて、焦らない」ということです。子どもの成長のペースは一律ではありません。自分に合ったペースで成長します。

安全基地というのは、未開の地に冒険に出発する探検家、あるいは未踏峰の頂に挑戦する登山家にとってのベースキャンプです。ベースキャンプから測ってどれぐらいのところに自分はいるのか。どの方向に向かっているのか。道に迷った時にベースキャンプが自分がどこにいるのかを示す基点になります。登山家も、山頂を目指すことを一旦断念しても、ベースキャンプがしっかりしていれば、再び挑戦するチャンスも訪れるでしょう。

人は関係性を築きたいという欲求があります。それは、「自分を認めて欲しい」というだけでなく、「相手を幸せにしたい」という思いも含みます。その欲求が満たされるためには、「愛されていると感じられる」、「自分で自分を愛する」という2つのことが必要になります。

問題は、親の方は愛していると思っていても、子どもにその愛が伝わっているかどうかです。(親が)愛すること・(親が)伝えること・(子どもが親の愛を)信じられることは、全て違うアクションです。親が心から子どもを愛しているのに、それが伝わっていないのは残念なことです。

伝わらない大きな原因は、子どもをへの声掛けが、子どもの成果を評価するような声掛けに偏ると、「褒められる」という報酬になってしまい「愛している」というメッセージにはなりません。また、子どもが話しているときに子どもの言葉の先回りして、子どもの話しを奪ってしまうと、子どもの中には満たされないものが残ります。

愛していることは、子どもが幼いほど伝わりやすいものです。一方で、幼い子には言葉だけでは伝わりません。そこで抱っこやおんぶといった接触が重要になります。何を言えばよいのか分からなくなったなら、いっそ手を繋いだり、膝に乗せたり、抱っこしたり、おんぶしたりといった接触をして、理由もなく「大好き」と伝える方が幼い子には愛が伝わります。

人には、関係性を持ちたいという欲求があります。それは「愛される」と同時に「愛する」という欲求です。子どもにとっての安全基地となる特別な人との関係は、「愛される」と「愛する」のどちら欲求も満たされることで確かなものになります。そうした特別な関係を「愛着」と言います。

2020年12月07日

自律と自立

日本語で発音するとどちらも「じりつ」なので、ごちゃごちゃになることもある「自律」と「自立」ですが、どう違うのでしょうか。またどう関係しているのでしょうか。

まず、「自律」は、大雑把に言えば「自分で決める」ということです。自分で考え、自分で目標を決め、自分で行動を選択することです。

人間は、生まれながらに「自分で決めたい」という欲求があります。それは基本的な欲求で、これが満たされないと心の健康が脅かされます。「自律」の反対は「他律」とか「制御」とか「統制」というもので、他からの命令や強制によって動くことです。そこには服従か反抗しか選択肢がありません。

「自立」は、経済的あるいは精神的に他に依存しないで生活していることです。ですから、「自立」の反対は「依存」になります。年齢的な成人という意味ではなく、成長という面で見れば、大人であるとは「自立」していることです。

「自律」と「自立」は、まず「自律」から始まります。「自分で決めて、他から支援を受ける」という子どもの育ちのありようは、自立はしていなくて、自律はしているという状態です。子育ての大目標は、子どもを大人へと育てることです。それは自立していくように支援することに他なりません。大事なことは、依存ではなく共生という健全な「自立」した生き方が成立するためには、しっかりとした「自律」の経験が不可欠ということです。

個人差はありますが、自律を妨げられる経験を重ねると、まず人は無気力になります。報酬や罰がなければ行動を起こせなくなります。不安感から負けたり失敗したりすることを極端に恐れ、成果を出せない自分の価値を極めて低く見なします。学生時代だと学業の成績が幸福感と結びついています。

自律の経験の出発点は、子どもの自発的な決心と思いがちですが、乳児期~幼児期の子どもは、基本的に殆どの生活時間を大人の決定の元で生きています。それは子どもたちが安全に成長するために必要なことですが、子どもを支援する側がいつまでも子どもを幼いと決めて、決定権を発揮し続けては、自律の機会がありません。

もう一度言いますが、自律的であろうとすることは人間の欲求です。その欲求は、たとえば食欲が食べないと満たされないように、また満たされなければ健康を損ねてしまうように、満たされなければ何らかの不健康な状態が心や体に起こります。

そこで、子どもの自律を支援する最初の一歩は、子どもをいつまでもコントロール下に置かないと生きていけない弱く信頼できない存在であるという思いから、この子は「できるようになる」という信頼へと、支援者である私たちのマインドを切り替えることです。

子どもへの信頼が、子どもの自律を支え、励まします。ただし注意したいのは、子どもを信頼することと、「自分のことは自分でやりなさい!」と突き放すことは違いますから、そこは注意しましょう。突き放すことにならないように、子どもを見守ることは不可欠です。「すぐにはできなくても、一緒に練習してみよう。きっとあなたは出来るようになると信じてる」と見守るのです。

2020年12月14日

控えめな存在

幼児期になると、子どもたちはあらゆることに疑問を持つようになります。「何?」に始まって、「なぜ?」、「どうして?」「どうやって?」といつも疑問を持っていきます。

こういうときに、大人はついつい答えを教えたくなります。しかし、子どもたちは大人に説明を求めているわけではありません。子どもと一緒なって「本当に不思議だね。どうしてかな?」と同じ疑問を持ってほしいのです。

大人としては、知識を増やしてあげたいと思って説明をはじめても、殆どの場合、子どもの興味は説明の最中に次へと移っています。ですから、長々と説明するよりも、子どもが「なぜ?」と疑問を持った気持ちに共感するだけでよいのです。

もしも、子どもがその後も同じ疑問を持ち続けていたら、その時に図鑑を開いたりして一緒に調べてみます。子どもが何かに疑問を持ったならば、大人は子ども自身が納得する答えを見つけられるように手伝います。疑問を解決するときにも、子ども自身が主役として活動できることが大切です。

疑問を持つということは、主体的に世界に関わっているということです。世界の中に自分がいることを手探りしているようなものです。幼児期の疑問から子どもの自主性は育ち始めます。疑問を持つことで、安全な親元から離れる距離と時間が少しずつ長くなり、自主的に世界に関わりはじめます。

ですから、子どもの疑問を聞いた時は、大人はできるだけ控えめな存在となれると良いのです。疑問への取り組みのために、一緒に調べても、「こっちが正しい」と結論を子どもから取り上げないために、最小限の手伝いに徹します。本当に知りたいことであれば、はじめは調べ方を一緒に繰り返して手伝っていても、そのうち子ども自身のやり方や、「何を使って調べればいいのか」、「どうやって調べればいいのか」を自分に合わせたやり方で進めていきます。

控えめな存在であるために大事なのは、子どもがやがて自分自身でできるように子どもの過ごす空間や時間、遊具や図鑑などの環境を整えることに心を砕くことです。子どもの成長によって子どもの「次の疑問」に備えた環境の組み換えも必要になるでしょう。理想は、最小の手伝いで、子どもが主役になって活動できる環境を作ることです。

そういう意味で、教師の仕事というのは、環境をつくることにあるといっても過言ではないと思います。整理整頓は勿論、足りない材料、道具がないように補充したり、季節の変化や子どもの興味の変化、技術や言葉の発達、活動の進み具合などで入れ替えたりします。

子どもの到達した結論が正しい答えであるのかどうかは、一緒に答え合わせをして確認させれば良いのです。その際は、可能なら専門家に聞くと良いです。専門家というのは喜んで子どもたちの疑問に答えてくれます。専門家の集まる協会や企業などに連絡を取ると丁寧に教えてくれることが多いです。その時に、子どもにはまだ分からない言葉があったときなどに、代わって「それは~ということですか?」と尋ねて、子どもの理解を手伝います。

2020年12月18日

家族の食卓でディベート

新型コロナウイルス感染症の感染拡大を食い止めるために、1都3県に再び緊急事態宣言が発出されました。飲食店に対して午後8時以降の営業自粛の要請がされ、午後8時以降の不要不急の外出も控えるように要請されています。
出社しておられたご家族も、テレワークなどの在宅勤務が再び増えることと思います。そうなると、ご家族で一緒に、ご家庭で食事をする機会も多くなるだろうと思います。
幼児期の子どもが一番コミュニケーション力を鍛える場面は、何と言ってもご家族との対話です。そして、家族で一緒する食事時間はもっともリラックスして子どもたちが対話に参加できる時間です。
日本人から見ると、諸外国の人々はコミュニケーション力が高いと感じられることも多いと思います。欧米の人は社交的だからと言う方もありますが、コミュニケーション力は性格ではなくスキルにあたります。内向的な性格の子でも高いコミュニケーション力を持つことができますし、反対に外交的な性格の子でも、コミュニケーションのやり方を知らなければ、人間関係を上手く構築できません。
例えば挨拶を促す時、「きちんと挨拶をしなさい」と教える家庭が多くあります。一方、「笑顔で挨拶をしなさい」と教え、笑顔で挨拶することの大切さを教えている家庭はどれぐらいあるでしょうか。しかし、笑顔一つで人間関係がいかにスムーズに始まるかはお分かりになるだろうと思います。笑顔があれば、多少変な挨拶になっても、人間関係はスムーズに構築できるはずです。求められるきちんとした挨拶の形は、その場のシチュエーションを理解していれば、自分から身につけようとします。
そのように実際に生きたコミュニケーション力を養うために、大きな役割を果たすのは、家族で食事を一緒にする時間です。その時間は単なる栄養補給の時間ではなく、重要な家族や友人や仲間とのコミュニケーションの時間でもあります。人の目を見て話す、人の話を最後まで聞く、共感し、感情を表現し、「はい」と「いいえ」を明確にする、自分の考えを根拠を示して表現するなど、十分な時間をとった食事の時間がそれらを毎日育てていきます。
コミュニケーション力の中で、特に意識してほしいのは「ディベート」の力です。日本語では「討論」と翻訳されるので、「口論」して相手を言い負かすことのように勘違いしてしまいがちです。特に「朝まで~」という番組は、専門家の意見の内容はともかく、ディベートそのもののレベルが非常に低いので、あれは手本になりません。また、本来ディベートの最高峰の場であるはずの国会審議における答弁も、お粗末な感が拭えません。
ディベートは、他者の意見を「尊重し」ながら、自分の考えを「しっかり伝える」というものです。相手を論破することが目的ではありません。ですから、感情的なったり、発言中の相手の言葉を遮るのはマナーをわきまえない下品な行為です。
食事の席は「楽しく」が一番大事です。それには「楽しい雰囲気」というものを守ることが大事です。感情的になって相手を攻撃したり、相手を論破することはできません。さらに、自分を受け入れてくれる家族が、時に笑顔で、時に真剣な顔で、しっかりと自分のことばに耳を傾けてくれるから自分の意見を発言することができるようになります。食事を楽しむ大人の対話を手本として、「人の意見を尊重すること」と「自分の考えをしっかりと表現する」というスキルが育てられます。

2021年01月12日

モラルを育むために

幼稚園で、幼いながらもルールを経験した子どもは、してはならないことをしてしまった時、罪悪感が湧き上がってきます。入園したての頃はともかく、半年以上幼稚園で過ごした子どもは、悪いことをしたという自覚を持っているという前提で向き合う必要があります。
子どもは「咎められる」、「叱られる」、「怒られる」ことにはじめは怖さを感じます。最初は行動にもつながるかもしれません。しかし、やがてそれらは子どもを制御できなくなります。叱られる時間を逃れるために嘘をついたり、言い訳ばかり巧みになり、行動に移れなくなります。話に耳を傾けなくなります。その時間を通過させ、子どもの内に何も残らないという不毛な浪費がはじまります。
子どもは「~はダメ!」という強い言葉や大声を聞くと、固まってしまうことが多いです。それは対処方法がわからない非常事態に遭遇したようなものです。どうすればいいのかわからないのです。そんな状況で話して聞かせても、聞けませんし、子どもの内に残るものはありません。
子どもの内には罪悪感があります。罪悪感というのは人間の行動を改善する時に強い助けとなる感情です。ですから、子どもが望ましくない行動をした時には、禁止するのではなく、できることを伝えるように心がけます。
お片付けをしないで教室に戻ろうとする子を、「あれ?」という顔で見つめるだけで十分な場合が多くあります。それから、「一番に並びたかったのかな?」と穏やかに声をかけてみます。「うん」と頷いてくれたりしたならば、「言ってくれてありがとう」と正直であったことを認めます。それから、「片付けないと、お弁当の後遊べなくなっちゃうね」と理由を伝えてから、その子が今「できること」を伝えます。「それじゃあ、砂場の道具は先生があっちに片付けるから、ボールと縄跳びをお願いするね」と話します。
砂場のシャベルを振り回している子には、「おやー」と声や表情を向けると大抵は罪悪感で止まります。それからシャベルで砂を掘って、「シャベルは振り回すものではなく、砂を掘るもの」とできることを示します。
騒いだら、子どものを見つめて「ひそひそ声でお話ができるね」と言います。ごみを放っていたらば、子どもを見つめて「ゴミはどこに捨てたらいいかな?」と尋ねます。
うなだれたり泣いたりした場合には、背中を抱いたり、さすったりして、その子が感じている強い罪悪感に寄り添います。
子どもの中の居心地の悪い罪悪感に寄り添うことによって、子どもの中に「モラル」が構築されていきます。怒られるからする、という他人を判断基準にして、見られている時にはちゃんとやる、褒められるためにやる、というものではなく、自分を基準として善し悪しを判断し、主体的にする・しないを選ぶことができるようになります。
自分の内に「モラル」を持つことは、主体的に生きるために大変大切なことです。モラルが自分で考え、判断し、行動することを促します。他人任せにせず、「自分でやる」という気持ちを育みます。

2021年01月13日

セルフ・コンパッション

自分自身をケアする方法として「セルフ・コンパッション」というメソッドを知りました。直訳すれば、「自分を思いやること」です。

これはテキサス大学のクリスティン・ネフ(教育心理学者)がまとめたものです。鬱、不安感、完璧主義などを緩和し、満足感や幸福感、好奇心などを高める効果があると言われています。その結果、逆境を跳ね返す「レジリエンス」も強まります。

ネフ自身の体験によると、自閉症の息子が激しい癇癪を公共の場で起こし、周りから非難の目を浴びたときにセルフ・コンパッションの効果を実感したそうです。その時に胸に手を当て、「この難しい状況で、私はよく頑張っている」と自分を思いやることで、穏やかに子どもに接することができ、子どもも落ち着いていったそうです。

セルフ・コンパッションとは、温かい言葉や態度で自分に向き合うことです。周りの視線や言葉に委縮して、自分で自分を否定しては袋小路に追い詰められていきます。しかし、自分で自分を思いやり、励ますことで、周りにも思いやりを向けることができるようになります。

セルフ・コンパッションの方法としては、辛いと感じたときに、自分で自分の身体に触れてみます。自分自身の体温を感じることで、「幸福感」に関わるホルモンであるオキシトシンの分泌量が上がるのだそうです。そして、自分に思いやりをもって話しかけます。「つらいね。でも私は、私にできることをしているよ。大丈夫」とか、「今日もよく頑張ったね」というふうに話しかけます。

逆に自分に話しかけないように避けるべきなのは、「最低だな」とか、「こんなこともできないなんて」、「皆はできているのに、私はできない」、「これじゃあ心配だ」というような自分を否定するような言葉や評価です。

自分に対しては、つい貶めたり、功績を矮小化したり、否定してしまいがちですが、自分自身の気持ちに寄り添って、励ますことを心がけます。

ここまでお読みの方はお気づきのことと思いますが、この「セルフ・コンパッション」は、わたしがお伝えしている子どもへの接し方をそのまま自分自身に向けているものです。自分自身に対することと、子どもや周囲に対することは深く関係しています。

聖書の中でイエス様も「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せ」と、自分を愛することと他者を愛することを、分かつことのない一つの愛の教えとして教えてくださっています。聖書の言う「愛する」とは感情ではありません。具体的に「大切にする」行動を伴います。

自分に対して温かく、大らかに、他と比較しないで、気持ちに寄り添い、受け入れることで、子どもに対してもそのようにできます。自分自身が求めている安心や幸福を、子どもは親や教師の体温や言葉の中に求めているのです。まず、自分自身を愛する子のように大切にすることで、自然に子どもにも周囲にも温かく大らかに接することができます。

2021年01月14日

躾(しつけ)の目的

子どもは、「走ってはいけません」と言われると走ってみたくなります。「取らないで」と言われると取っていきます。子どもにとって、未経験の出来事の本質はやってみないと理解できないからです。

多くの子どもにとって、最初の体験として、走ってはいけないところで走ることは楽しいことです。「取らないで」と言われて取ったときに、相手が困った様子を見せることは楽しいことです。人間には「良い思い」もあれば「悪い思い」もあります。どちらかを無しに人間について考えることは無意味であり、危険なことです。しかし人間は、人にぶつかったり、物を壊したり、転んで痛い思いをすると、「次は走るのをやめよう」と自制することを学びます。「良い思い」に従うか、「悪い思い」に委ねるかを決める力を育むことができます。

躾(しつけ)とは何か、という問いは、なかなか難しいものがあります。躾という言葉を英訳しようとすると、1対1で対応する単語はありません。例えば「training」でしょうか。しかし、日本語の「身を美しく」と表記される躾(しつけ)は、単なる技術の習得以上の広く深い意味を持ちます。

人間には「欲求」があります。「やる/やらない」は本来同等の価値です。最初から善悪に色分けされていません。ですから、「走ってはいけません」と言われたときに、子どもが走り出すのはおかしなことではありません。それを楽しいと感じることもおかしなことではありません。

躾の目的は、子どもが自律して生きることができるようにすることです。言い換えると、その場その場の「物事の判断を考えることができる」ようにすることです。人生を他人任せにしない生き方を育むことです。

先ほどの走ってはいけないところでどうするかは、「善悪」の判断になります。「取らないで」と言われてどうするかも、「善・悪」の判断です。判断は、怒られるから行動を抑制するのではなく、自分自身で決めて責任を伴った時にはじめて自律の意味を持ちます。

そこで、躾において大事にすべきことは、子ども自身に「善悪を考える」ように促すことです。子どもが自分自身の心の声に耳を傾けさせ、子ども自身に倫理観や道徳心に問いかけさせるのです。「叱られるから」、「褒められるから」という理由で行動を抑制するのではなく、自分の心が「よくないことだ」と判断するから自制するのです。

一方的な命令や威圧や誘導は、思い通りに子どもをコントロールすることであり、子ども自身が自分を制していることとは違います。

躾の前提は、子どもは一人前の独立した人格であり、親の所有物ではない、という当たり前の敬意に立つことです。人生の先達である大人が子どもに対し、人格を尊重し、敬意をもって接することから躾は始まります。そのような関係から、子どもも相手を信頼し、尊敬し、人格を尊重することを学びます。他者への敬意と尊重こそが子どもの内に「善・悪」を判断する自制を育みます。

2021年01月22日

「ことば」の環境

西荻学園幼稚園はキリスト教を保育の土台としてます。聖書の教えを土台としているということです。聖書が、私たちの持つものの中で、もっとも警戒し、恐れているものがあります。それが「ことば」です。

これまでの人類の歴史の中で、人が人を死に追いやるときに最も多く用いてきたものは何でしょうか。剣でしょうか、銃でしょうか、核爆弾でしょうか。ある人は「毒」だと言いました。しかし聖書は武器や兵器ではなく、人の腹から出てくる「ことば」、罪に支配され、制御されない舌こそ最も人を死に追いやってきたものだと受け止めています。「ことば」に苦しめられ、そそのかされ、誘惑され、傷つけられた人の間で最も多くの争いと「死」が生み出されてきました。

聖書は、私たちの罪に「ことば」が深く関わることを伝えています。創世記の原罪の物語は、神様との約束を破ってしまった物語ではなく、食べてはならない木の実を食べてしまったことを指摘された時に、男と女、人と世界、神と人との愛を、人が「ことば」をもって決定的に破壊してしまった物語です。「食べてはならない木の実を食べてしまったのは、私のせいではない。」「あなた(神様)が合わせてくださった女のせいです。」「あなた(神様)がお造りなった蛇のせいです。」そうやって愛を壊していきました。悔い改めるならば、神様は赦してくださったはずです。しかし、ことばを用いた時、神様との関係は壊れ、「死」が生まれました。そこで聖書は、人間が「ことば」を用いることについて、特に心を込めて戒め、教えています。

ことばについて教えている聖書の箇所は、実にたくさんあります。たとえば、知恵を伝えているとされる旧約聖書の「箴言」には、無数の教えがあります。その中の18章の言葉を紹介します。
「愚か者は英知を喜ばず 自分の心をさらけ出すことを喜ぶ。」(箴言18章2節、新共同訳)
「愚か者の唇は争いをもたらし、口は殴打を招く。
愚か者の口は破滅を 唇は罠を自分の魂にもたらす。
陰口は食べ物のように吞み込まれ 腹の隅々まに下って行く。」(箴言18章6~8節、新共同訳)
「一度背かれれば、兄弟は砦のように いさかいをすれば、城のかんぬきのようになる。
人の口の結ぶ実によって腹を満たし 唇のもたらすものによって飽き足りる。
死も生も舌の力に支配される。 舌を愛する者はその実りを食らう。」(箴言18章19~21節、新共同訳) 

もう一つ、代表的な聖書の言葉を紹介します。新約聖書のヤコブの手紙3章の言葉です。
「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。
御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。」(聖書 ヤコブの手紙3章1~12節、新共同訳)

ヤコブの手紙3章の言葉は、子どもたちを迎える私たち「教師」にとって刻み付けて心しなければならない教えです。まず最初に「多くの人が教師になってはいけません」という戒めから始まっています。教師は他の人よりも厳しい裁きを受けることになるからです。何よりも「ことば」を裁かれるのです。

教師は、「ことば」を用いて子どもたちと接します。子ども同士で諍いがあった時、どういう言葉を、誰からかけるのか。遊び相手が見つからない子を、どう励まし、促すのか。泣いている子を慰める言葉は何か。保育の様々な準備をしながら、一日を振り返って、「あの時の言葉は、よかったのか?」と考えます。「こういう時には、どういう言葉をかけるのがいいのか?」、「この場面では、むしろ声をかけてはいけないのではないか?」、教師は常に子どもたちに向ける言葉を準備しています。「ことば」は口から発するものだけではありません。表情やボディランゲージ等、私たちから発せられる様々な「ことば」を子どもたちは敏感に受け取っています。

「子ども時代こそ最も豊かで、成長することで失っていく」ということを青山学院大学の福岡新地教授(分子生物学者)の対談記事を読みました。その記事を紹介します。
「必要なものが組み合わさることで大人になるわけではないからなんです。むしろ逆に、生命の基本は、まず過剰さを与えられ、それを刈り取っていきます。脳のニューロンは生まれた直後に多数の網目ができ、よく使われるものは強化され、使われないものは刈り取られます。大人になるということは、実は何かを失っていく過程なんですよ。免疫システムも胎児の期間が最も豊穣で、自己免疫疾患にならないように自分自身に反応する免疫システムがなくなり、外敵と戦うものだけが残ります。引き算なんですね。必然的に、子どもは豊かで大人はプアだということになります。」「子ども時代は五感が敏感です。嗅覚や視覚も良く、森に行けば匂いの変化がわかり、光の輪郭や蝶の羽、カミキリムシの輝きなどもとてもよく見えます。聴覚も子どものほうが広範囲で、高い音が聞けます。子どもは豊かな外部に対するプローブをもっているわけです。そこで知り得たことが大事で、多感な子どもたちに多様な体験を与えて、その中で自分にとって大事なものを自ら選び取ってもらう時期として、子ども時代があると思います。」(保育ナビ2021年2月号、フレーベル館)

新型コロナウイルス感染症のために、教師は全員マスクをして子どもたちと接しています。幼児期の子どもたちは、相手の表情から得る情報の7~8割を相手の目から感じ取っているそうです。もともと子どもたちは目から「ことば」を感じ取る力が豊かです。その子どもたちと、私たち教師はもう一つの大事な表情を伝える口元を覆って接しています。先ほどの福岡教授の言われるとおりであるならば、必然的に、子どもたちの目から情報を得る力は衰えることなく、むしろ強化されています。そこで、言葉をもって補うことは、とても大事なこととなっています。これまで以上に、舌の制御が、教師にとって大切になっています。子どもが相手だからと「ことば」を疎かにすることはできません。「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(ヤコブの手紙3章6節、新共同訳)。

私たちは今、もう一度自分の「ことば」を発することの恐ろしさを知るべきでしょう。特に、私たちの「ことば」を子どもたちが感じ取っていることを、深く知るべきです。発せられた言葉だけでなく、メールやラインを打つ人の「ことば」を、その目を子どもたちは見ています。そこで、火のように森を焼く様な言葉が発せられていることを、子どもたちは感じ取ります。

聖書は、神様が「ことば」によって世界を創造されたと記します。聖書において「ことば」は単なる響きではなく、そこに発した者の「実(じつ)」があると考えます。ことばには重みがあります。たった一つのことばが、人生全体に大きな影響を与えます。言葉が正しく用いられないと、自分や他の人々の人生を破壊することもあるのです。

私たちは言葉をもって主張します。そのような時こそ言葉を制御しなくてはいけません。主張は、容易に「勝ち負け」の問題となり、攻撃的になり、残酷になります。だから私たちはそういう時こそ黙ることを心しなければなりません。正義の主張、傷ついたという主張、過ちに対する言い訳をするときくらい自分の言葉に支配されてしまう時はないのです。言葉に支配された時、事柄ではなく人間への攻撃がはじまります。自分を正当化し、味方を得るために何でもします。先ほど紹介した創世記の原罪の物語がまさにそうなのです。だから、聖書は次のように語ります。言葉は最小にして、生き方で示すべきだと教えています。

「あなた方の中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。・・・ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブの手紙3章13~18節、新共同訳)

子どもたちを迎える教師として、ヤコブの手紙は大切なことを教えてくれています。また、イエス・キリストも言葉について教えておられます。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12章2~3節、新共同訳)

SNSの発達は、新しい言葉のフィールドを開拓すると共に、そこにも癒しがたい亀裂があることを教えています。仲間内の噂話はもはや隠れることができません。陰口は隠せません。個人への攻撃も隠せません。SNSは匿名の世界ではなく、この世で最も正確に発言者を追い詰めることのできるところです。

子どもたちは見ています。私たち大人の「ことば」の世界を見ています。聞いています。子どもに何かを与えるよりも、子どもの前で「ことば」を制御することのほうがはるかに大事なことです。子どもたちの言葉が攻撃的なるのは、私たちの日常に響いている「ことば」がそのようになっているからです。言い訳的になるのであれば、そのような「ことば」に接するからです。「ことば」は子どもの中に勝手に湧き上がるものではありません。どこかで獲得し、使い方を身に着けていくのです。現在のコロナ禍において、世間に響いている「ことば」は、子どもたちにとって潤いあるものはなくなっているように感じています。

幼児教育において、子どもたちの過ごす環境を整えることは重要な課題です。それは、おもちゃや遊具、調度にとどまらず、子どもたちの語る言葉、聞く言葉にも十分に心を配っていきたいと思います。「人の口の言葉は深い水。知恵の源から大河のように流れ出る。」(箴言18章4節、新共同訳)子どもたちの心を潤す「ことば」で幼稚園が満たされることを願っています。

(2021年2月父母の会の園長の話から)

2021年02月09日

この子が生きている世界に寄り添う

子育てをしている親は、我が子の個性に悩むことがあります。その特性の強さに「育てにくさ」を感じて苦しむこともあるでしょう。

そうした親は「この先どうなるのか。今、何かをしてあげなければならないのではないか。手遅れになるのではないか」と、必死な思いで情報を集めます。そんなときに孤独と消沈の中にあることも少なくありません。そうした苦しい状況の親にとって幼稚園が心の支えになることはできるのでしょうか。

幼稚園の先生も「こうすれば大丈夫」と安易にいえるものはありません。また、外部の専門機関に繋ぐことだけでは、十分な解決と安心に繋がるとは限りません。

幼稚園の先生に求められるのは、「この子には、こんな思いがあり、こんな良さや重要な意味があります。この子のこういう素晴らしいところを大切にしましょう」と子どもの育ちに伴走してくれることではないかと思っています。

現在が充実した先により良い未来が待っています。とはいえ、今現在、苦しむ親には簡単に理解できるものではないでしょう。先のことは、誰も断定的に答えることはできません。しかし、今、この子が生きている世界を肯定し、この子の世界を大切にして寄り添ってくれる人との出会いは、大きな支えとなるはずです。

そうした幼稚園でのやり取りの中で、似た悩みを持つ親と出会うことも助けになります。悩みを知ってくれる支え合いが、卒園後も続くこともあるでしょう。同じような悩みを抱えた当事者でなければ気付けない思いや、かけられない言葉もあるはずです。

子育ては幼児期だけの問題ではありません。長期戦です。時には子や親に対する周囲の誤った見方にも耐えながら、我が子が我が子らしくあることを支えるのは簡単ではありません。周囲の理解が得られるとは限りません。

そうしたときに、困った時には話してみよう、と思っていただける親子にとっての安全基地としての幼稚園でありたいと思っています。その子らしさを大事にされた子は、時間はかかっても自尊心のある生き方を得ていきます。幼児教育とは、将来までその子の成長に重要な役割を果たす可能性を持っています

2021年06月14日