ブログ一覧

幼児期にはタイムリミットがある

0~6歳は「人格形成期」と言われます。それは人生の終焉まで大きな影響を与える時期ということです。この時期にはタイムリミットがあります。「0~6歳」までなのです。体の器官の成長や、筋肉や感覚器の発達は人格形成に深くかかわります。もちろん個人差はありますが6歳までに歯が生え変わり始めます。内臓器官の発達の40%が6歳までに行われます。感情や情動を司る脳は6歳までにほぼつくられます。体も心も、幼児から少年期、さらに大人へと変化しているのが0~6歳です。この時期に形成された「人格」の上に学習による知識、経験、行動原理や社会や人とのかかわり方といったものが築かれます。

つまり、幼児期とは人生の大樹が力を蓄える根っこが育つときであり、人生という家の土台が据えられるときです。据えられた土台を無視して家を建て上げることはできません。幼児期こそ親世代が子のために時間と知恵と労力を注ぐべき時です。

「時は金なり」という言葉がありますが、時は金より貴重な取り返せない「いのち」そのものと思ったほうが良いのです。「時はいのちなり」です。

2018年08月30日

人間力

ご自分のお子さまは将来どんな人として生きているでしょうか。弱いよりは「強い人」、いじわるよりは「優しい人」、いいかげんよりは「責任を果たす人」、無気力な人よりは「意欲のある人」、優柔不断よりは「決断できる人」、口先ばかりの人よりは「行動する人」、孤独よりは「人と交流できる人」等々。少なくとも幸せな人であってほしいと皆さん願っておられるはずです。

最近「人間力」という言葉が使われるようになりました。「人間力」があるというのは、つまり何なのでしょう。それは、「あなたにいて欲しい」と思われる人格、言い換えるならば「愛される」力ということです。実はお子さまに対して抱いている「将来こういう人であって欲しい」という保護者の皆さまの純粋な願いこそ「人間力」の土台なのです。

本当に「強く優しい」人は、「意志」があり「行動」を伴い「決断」をする「責任」を負い、人と力を合わせて限界を超えて進む道を拓く人です。

幼児期は人格形成期です。この時期に自覚して「意志」、「行動」、「決断」、「責任」、「交渉」といった将来の力の根っこを育てることが重要であり、根っこの成長を阻害するものは、どんなに世間が勧めても取り除くことが幼児教育の基礎的な志向でなければならないと思います。

 

2018年08月30日

2学期がはじまります

 長かった夏休みも終わりが近づき、夏期保育のために登園した子どもたちの元気な声が幼稚園に響きました。久しぶりに「おはようございます」の挨拶をすると、夏の間にひとまわり大きくなったように感じました。大変な猛暑でしたが、子どもたちは充実した夏を過ごしてきたことと思い、うれしく感じました。長い休みの中、大切にされてきた子どもたちは再びはじまる幼稚園生活にためらいやとまどいを感じ、登園をしぶったり、泣いたりすることがあるかもしれません。子どもたちを見守り、送りだしてくださるようお願いします。また、夏休みの中で身に着けたお手伝いや早寝早起きなどの良い習慣は、これからも続けていけるようにご家庭でも励ましていただきたいと思います。
 2学期は運動会やクリスマスなど大きな行事があります。お友だちとのかかわりを深め、特別な成功や充実といった大きな経験を子どもたちが得られるように、ご家庭のご協力をいただいてまいりました。今年も寛大なお心でご協力をいただけますよう、どうぞよろしくお願いいたします。
(2018年9月 園だよりより)

2018年08月31日

「失敗」はない

教育の目的は「生きる力」を獲得させることです。もっと生々しい言葉で表現すると「食べていける、食わせていける、稼げる、養える」人にすることです。親によって、先輩によって、教師によって、一期一会の出会いの中で教えられることがあります。知識や経験を通して与えられるものが教育であるならば、必ず次の世代が生きていくための力となるべきなのです。幼稚園は教育をするところです。その目的は「卒園」させることではありません。将来、独立して生きることになる子どもたちの生きる力の獲得に幼児期にふさわしく貢献することです。

子どもたちが生きていく世界ーーそれはそのまま親世代である私たちが生きている世界の延長ですがーー、そこはいつでも成功できるドリームランドではありません。いつでも褒めてもらえるところでもありません。必ず自分に同調し、同情してくれるところでもありません。努力が報われるとも限りません。「うまくいかないこと」でいっぱいです。「生きる力」という点から考えるならば、「うまくいかないこと」こそ「学び」の機会です。そして幼児期というのは「うまくいかない」経験を保護の元で得ることのできる時期です。

子どもたちは型押しされた工業製品ではありません。神さまの愛のこもった命であり、世界に唯一のご両親から生まれた命です。皆違うのですから、隣り合えばぶつかることがあります。いつでもぴったり寄り添える筈がありません。ケンカを経験します。勝ち負けが生まれます。一つしかないおもちゃを二人の子どもが欲しがれば、当然「得た者」、「失った者」に区別されます。上手に作れなかったり、早く走れなかったり、登れなかったり、捕まえられなかったり、色々な「うまくいかない」経験に泣く子がいます。いらだつ子がいます。

この時こそ幼児期特有の保護の元で教育が問われるのです。うまくいったなら何も教える必要はないのです。うまくいかなかったときに、それを「失敗」「挫折」としてあきらめの中で枯らせてしまうか、次へとつなげる「学び」の時として「生きる力」の養いとできるかで、教育が決まります。しっかりとした保護の元で多彩な経験を「成功」と「学び」として蓄えることと、「成功」と「失敗」として取捨することのどちらが生きる力に必要でしょうか。私は「成功」と「学び」として蓄えることだと考えています。

うまくいかなかった一つ一つの経験も生きる力を引き出します。一つしかないおもちゃで遊べなかった子に、可哀そうだからともう一つおもちゃを用意することが教育なのか、悔しい思いをした子に寄り添って一緒に時間を割いて悔しい思いを受け止め、一緒に課題を考えることが教育なのか、子どもの内に育まれてきた生きる力の成長を信じて黙って我慢して待つのが良いのか。教育が問われる時です。そのとき、生きる力を得るという課題は、保護者の課題でも教師の課題でもなく、子ども自身の命の課題であることを忘れてはならないと思います。

例えば、 一つしかないおもちゃで遊べなかった子は、「明日は一番に幼稚園に行く」と宣言して帰り、次の日お母さんを急かして登園してきました。おもちゃを真っ先に使うためです。しかしそれも一日だけのことで、一つのおもちゃに他のおもちゃを組み合わせて、一緒に遊べる工夫を始めるようになりました。朝一番に登園するという解決を得るために教師のサポートやお母さんの協力があったのですが、一緒に遊べる工夫を始めたのは子どもたち自身です。安易な慰めで課題を取り上げられたり、大人の正解に同調させることで思考や感情を奪われたりせず、しっかりとしたサポートを得られた子どもたちの経験に「失敗」はありません。

 

 

2018年09月01日

子どもの役割

先日、バスに乗っていたところ、こんな光景に遭遇しました。

混んでいるバスの入り口付近に見るからに近づきがたい雰囲気の険しい顔つきの青年がいました。足を投げ出すように寄りかかって立っているので、通路が塞がれています。そこにベビーカーにお子さんをのせたお母さんが乗車してきました。「ごめんなさい」と言いながら奥に進もうと若者の傍を通りました。若者は明らかに迷惑そうに足を引っ込めました。しかし、混んでいるため奥に進めず、お母さんは若者の傍にベビーカーを押さえながら立ちました。丁度スマホをいじる若者の視線に、ベビーカーのお子さんが見える位置でした。

若者は相変わらず険しい顔でスマホをいじっていましたが、バスが動き出してしばらくしたらスマホから視線を外して、ちらちらとベビーカーのお子さんに視線が動くようになりました。そしてさらにしばらくしたら、何と近寄りがたい険しい顔をしていた若者が百面相をはじめたのです。唇をつきだしたり、笑ってみたり、しかめっ面をおもしろくやったり…。大変失礼ですが、とてもそんな表情を人前で見せるように思えなかったので、とても印象的でした。もちろん可笑しなものと感じませんでした。善いものを見たという思いがありました。

松居和先生(元埼玉県教育委員長)の講演で伺ったことがあります。それは社会において0歳には0歳の子どもにしかできない仕事があるというお話です。それは、「人の善いものを引き出す」ことで、私たちは0歳の子どもによって「善い人間」に育ててもらうのだと話されました。先ほどの光景からそのことを思い出しました。子どもの求めていることや心はわからないことがいっぱいあります。しかしその「わからない」相手の心や気持ちを理解しようとするために、忍耐やコミュニケーション力が引き出されてくるのです。それも周りにいる人を引き付けるほどの幸せと共にです。そして人は自分自身を「善い人」と感じ取るのではないでしょうか。0歳は0歳にしか出来ない仕方で家庭を守り、社会を守る仕事を果たしているのです。そんなことを思わされた光景でした。

 

 

2018年09月02日

たっぷり外遊びをしましょう

 園庭から子どもたちの元気な声が聞こえてきます。雨が上がって久しぶりに外で遊ぶので、今日はいつも以上に元気が溢れています。朝一番に登園してきた子は、もう一時間以上遊んでいます。けれどもまだまだお部屋に入るつもりはないでしょう。お日さまと風と土や砂、草木や花、鉄の遊具や木の遊具が子どもたちを誘っています。西荻学園幼稚園の園庭は大きさを自慢できるものでありませんが、自由に遊べる園庭があるのは本当に大事なことです。

外遊びをすることは子どもにとてもよい刺激があります。何といっても、成長期にある身体が強くなります。外遊びには身体を強くする要素が沢山あります。

恵まれた日本の自然の与える感覚は最高の刺激です。どろんこ遊び、砂遊び。花のや葉っぱの色を見る。匂いを感じる。感触を楽しむ。常に違う風や雨や雷を感じる。虫に刺されるといったことも危険を学ぶことになります。良い刺激を受ける中で「感受性」も育まれます。本当に危険な虫などは幼稚園では直ちに駆除し、防疫に努めています。
五感への刺激は、脳の中でも前頭葉を刺激します。外遊びを通して子どもの脳は発達します。前頭葉は感情や意思にかかわるところで、その発達によって集中力も増します。
以外に思われるかもしれませんが、「算数」に代表される「見えないもの」へのイメージを育てているのは実際に体験した体感覚です。五感を駆使して遊んだ体験が、現実には見えないものへの想像力を培います。「かくれんぼ」や「おにごっこ」は「空間認識力」を発達させます。座っているよりも、体を動かして遊び尽くした経験が算数に取り組むときに重要な「試行錯誤」や「発見」を身につけます。
走ったり、登ったりといった全身の運動は肺機能を発達させます。基礎的な運動能力を発達させます。筋肉を鍛え姿勢が良くなり、集中力を増します。結果として雑菌への抵抗力がつきます。皮膚が丈夫になり、骨が丈夫になります。免疫機能も強くなりますから、風邪をひいても治りやすくなります。
太陽の光を浴びることで、体内時計がリセットされます。生活リズムが整いますから、課題に取り組む意欲や情緒の安定が得られます。

沢山の外遊びの経験は子どもの成長にマイナスになることはありません。天気の良い日、たっぷりと外遊びをしましょう。

2018年09月05日

命と死と

 西荻学園幼稚園はキリスト教会が設立したキリスト教主義の幼稚園です。園長の私は、牧師と園長を兼務しています。今週は牧師としてお二人の方のご葬儀をしました。お二人ともお子さんたちに見守られて息を引き取られました。ご葬儀は、故人へのお子さんたちの感謝の思いで満たされた涙のご葬儀でした。朝、命の輝きにあふれる子どもたちを元気に幼稚園に迎え、その後死者を涙をもって教会から送るというのは牧師と園長を兼務しているからこその経験です。

 人の死は、その人の生を写し出します。牧師として沢山の方の死に立ち会う機会がありました。社会的に大変な成功を収めた人が、「死んだら呼んでください」と言われて、子どもから捨てられて死んでいく様を見ました。亡くなったことを知らせたら、「面倒なので適当にしておいてください」と言われた施設の方のお話も聞いたことがあります。

 「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いたでしょう。だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送りなさい。」(アメリカ先住民のことば)

 幼稚園の子どもたちはもちろん、保護者の方々も今は若く、老いや死は実感のないものでしょう。しかし、誰にでも衰える時があり、死を迎える時があります。自分のことを委ねなければならない時が来ます。これは私の経験から確信をもって言いますが、その時には、本当の親子の関係が暴露されます。「愛」が言葉だけであったのか、時と身を与え互いに愛してきたのかがあらわれてきます。

 幼稚園に集う子どもたちも保護者の方々も、教職員たちも、「あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送」ることを心から願っています。幼児期に育つ生きる力の根っこが、そんな人生を終わりまで支える根っことなるように、心してまた命の輝きに満ちた子どもたちを迎えたいと思います。

2018年09月08日

幼児期の課題―「愛着形成」

 幼児期の愛着形成は、その後の成長に大きな影響を与えます。特に人が自発的な動機で物事を始められるかどうかに深く影響を与えると言われています。自発的な動機を持たない人間は、外部から動機を与えられないと動けないということです。いわゆる「指示待ち人間」を思い描いていただければよいと思います。

 「愛着」はボウルビィ(Bowlby.j.)によって提唱された概念です。子どもはある特定の養育者(多くは母親)との間に親密な関係を維持しなければ、社会的、心理的な問題を抱えるようになる、というものです。子どもはたった一人の養育者(父親には申し訳ありませんが、殆どの場合母親です)を心の拠り所として、その人との間に愛着を形成することで、課題に挑戦する意欲が湧いてくるのだと言います。たった一人の養育者に対して、子どもは「自分は無条件で愛されているか」、「誰よりも優先して庇護されているか」を常に推し量るのです。その条件が満たされないと、子どもは成長する中で他者への関心を正しく抱けず、さらに熱心にたった一人の養育者の関心を引くことに傾くために、新しい課題に挑戦する意志が湧いてこないのです。自発的な動機が芽吹かないのです。

 「愛着」を作るための子どもの努力は生後6か月頃から始まり2歳頃まで活発に現れます。その間、養育者の注意を引くために泣いたり、微笑んだり、声を出したり、身振りを示したり、しがみついたり、後ろを追いかけたり、聞き分けのない態度をとったり、わざと嫌いと言ってみたり、様々な行動を通して養育者が自分に関心をもって傍にいるのかどうかを確認します。私の見てきた幼稚園の子どもたちは、まさしくこのような行動を取ります。このような行動によって「愛」を求める子どもに養育者が応えるというやり取りの中で「愛着」は形成されます。この形成のタイムリミットが「6歳頃まで」と言われるのです。

 日本には、「つの付くまでは膝の上」という言葉があります。ひとつ、ふたつ、みっつ、と歳を数えて「九つ」(9歳)までは子どもの求めに応えて膝の上に座らせてあげなさい、という意味の言葉です。6歳どころか9歳までかけて大事に育てるのが「愛着」だと理解されていたのです。明治維新の頃、まだ江戸を訪れた外国人は、子どもたちの求めに大人が喜んで応えて膝の上に座らせ、子どもたちが幸福を感じてのびのびと安心して遊んでいる姿を見たとき、「ここは楽園だ」と本国に報告したそうです。

 今の時代の流れは、子ども自身が選んだ「たった一人の養育者」から、あまりにも早く子どもを引き離そうとしています。福祉は今を満足させ、依存させることが目的ではなく、福祉によって幸福な未来を獲得し、自立的自発的な人生を生きることが目的であるはずです。そうであるならば、乳幼児期の福祉とは愛着形成を親子が安心して行える環境を整えることです。

 幼稚園まではお子さんとの関りを増やすことを考えてください。あせって自立させる必要などないのです。愛着形成が十分にされれば、子どもは安心して親元から離れて遊びまわる姿を見せてくれます。むしろ、愛着形成が不十分な時期に刺激を与えようとして習い事を始めるというのは、私自身はお勧めしません。それは愛着形成後の次のステップです。まず幼稚園の頃までは愛着形成を十分にするべきです。

2018年09月10日

甘え上手な子はリーダーの素質があります

「先生、見ててね!」、「ママはわたしといなさい!」、こんな風に母親や先生にくっついて離そうとしない子が必ずいます。心配して早く引き離す必要はありません。たっぷりと甘えさせてください。甘えさせるのは、何歳まででもいいのです。べったりと甘えていた子も、ある時を境に親や先生からどんどん離れて「ママは見なくていいの」「先生は向こうへ行きなさい」等と言って自分からお友達の中に入っていきます。しかもやがてお友達同士の遊びの中でリーダー的な存在になります。

思うに、甘えていた自分をどのように接して助けてくれたか、守ってくれたかを肌感覚でスキルとして覚えていくのではないかと思います。自分が頼りとされたときに、お友達を助け、喜ばせる接し方を選ぶことができるようになるのです。甘える子は、とても面倒見がよい子になります。

エリクソンという学者は、無条件の愛を受けた基本的信頼が自己への信頼を育てる、という趣旨のことを語っています。甘える自分を受け止めてもらったいくつもの経験は、他者への思いやりにつながります。ですから、子どもが甘えてきたらむしろ喜んで欲しいと思います。しっかりと甘える子の中で他人と協働する力が育っていると思ってほしいです。

しっかり甘えることができた子の育てるリーダーの素質は成長にともない大きな影響を持つようになります。一人で何でもやるのではなく、周りの力を借り、皆の力を束ねて、一人では達成できない難しい課題を乗り越えていくからです。これは集団知を形成することで、一人の天才を超える力を発揮して殆どの歴史を重ねてきた人類にとって極めて重要な素質です。

最近の小学校では「1/2成人式」というのをします。その時にある小学校では宿題として「親に抱っこされる」という課題を出す、という話を聞いたことがあります。小学校の高学年ともなれば、「抱っこして」と言うのも恥ずかしかったでしょうし、親の方もためらうこともあったでしょう。しかし実際に抱っこされた子は皆、満足した表情を見せ、「嫌だった」という子はいないそうです。逆に現代は、抱っこをねだるのも抱き上げるのもためらう必要のない幼児期に甘えきることができずに心の不安定さを持つ子どもたちが見られるということなのかもしれません。

いつまでもご自分にくっついて離れようとしないお子さんを「このままでは皆の中で孤立してしまうのでは?」と心配されたり「お友達と遊んで来なさい」と無理に押し出す必要はありません。お子さんが満足するまで甘えさせてください。子どもはいずれ必ず親を置いて離れていきます。

2018年09月11日

一人遊び

「お友達と一緒に遊べてますか?」というご心配をよく聞きます。保護者はお子さんとお友達のとの関係をとても気にされます。そのお気持ちはよくわかります。しかし、子ども同士の間で不和があったり、ケンカしたり、無視したりといった葛藤とトラブルがあるのが普通です。保護者や先生の見守りとサポートがある時期に基本的な人間関係の葛藤を経験しておいた方がいいと思っています。

成長とともに子どもの動きは大きく活発になって、保護者とすれば走り回る姿を見て衝突しないかとハラハラし、皆と離れて一人で大人しくしていると「いじめられてないか」と心配してしまうのが幼児期です。この時期の子どもたちは、周りからは友達同士で遊んでいるように見えても、実際は「一人遊び」の延長線上でかかわっている時期です。同年代ではなく大人との一対一の関係を求める子もいます。幼児期はどんどん視野を広げていきますが、発達心理の面からは、まだ主観と客観の区別が未分化だと言われます。物事を自分の視点や経験を中心にして捉えるため、自分があ集団の一員であるという自覚はあるのですが、他の人のことを客観的に見ることができないために相手の「気持ち」を理解できる段階には至っていないのです。9~10歳ごろまで自分と周囲を区別できないという意見もあります(ルドルフ・シュタイナー)。

「一人遊び」は主観の中で生きる子どもにとって必然的な遊びの形です。無理にお友達と遊ぶことを強要されずに「一人遊び」に没頭していた子の方が客観視を始めた後のお友達との関係が上手にできるようになるようです。「自分の世界」を一人遊びを通して構築した子は、周囲から魅力的に見える、と言われた先生の話を伺ったことがあります。

逆に一人遊びが中途半端に中断されてきた子は、他の子に興味を持ち始めると、遊んでいたおもちゃを勝手に取ったり、苦労して皆で作った砂山を勝手に触って壊してしまうといったことをします。他の子は自分の遊びを取り上げられたり壊されたりするのですから、いい気分がしないのは当然です。さらにネガティブな特徴として、集中力が続かない、すぐに投げ出す、情緒不安定といった面が見られます。「一人遊び」は字を読めるようになったり、テレビ等の情報を楽しめる年齢になると難しくなります。手指をつかって夢中になれるような環境がなくなっていくからです。

コミュニケーション能力を駆使したアクティブな人間関係を持つための力は、実は一人遊びに没頭する幼児期に力を蓄えているのです。

2018年09月12日

一緒に遊ぼう

幼稚園の園庭での出来事です。年長さんの女の子が2人、砂場でままごとをしていました。そこに年少の女の子がやって来て、「一緒に遊ぼう」と声を掛けました。年少の女の子はままごとに入れてもらいたかったのです。

「一緒に遊ぼう」「…」「一緒に遊ぼう」「…」、何度声をかけてもままごとをしている年長さん2人は一切応えませんでした。もちろん聞こえていないわけではありません。年少さんもあきらめません。「一緒に遊ぼう」「…」「一緒に遊ぼう」「…」「一緒に遊ぼう」「…」。

こういうやり取りを見ると、私たちは「聞こえないの」「ちゃんとお返事しなさい」「入れてあげなさい」と言ってしまいそうになります。年長さんのおねえさんなんだから、小さな子に親切にしなさいと「指示」したくなります。

しかし、ままごとに加わろうというのは年少さんの課題です。ままごとに入れてあげるか、拒絶するかは年長さんふたりの課題です。課題を奪ってはいけません。

「○○ちゃんは年長のおねえさんたちと一緒にやりたいんだね」と年少さんの思いを先生の声で年長さんに聞かせます。別の遊びに興味が向かないことも確認して年長さんにもわかるように確認します。ただし「入れてあげなさい」と先生は言いません。

黙っている年長さんは意地悪をして黙っているのではないのです。二人で作り上げている今の遊びの世界が大切なのです。壊されたくないのです。それは当然の心持ちです。どうしても入ってほしくない、というのも大事な選択です。しかし、小さな子の求めを無視することもできないのです。自分たちの遊びを維持しながら、新しい子をどう加えていくのか。彼らはとても難しい人間関係の課題に向き合っているのです。だから黙ってしまうのです。

年少さんは諦めずに「一緒に遊ぼう」と声をかけつづけました。年長さんは黙っていました。10分以上のやり取りです。こどもの遊び時間としては長く感じる時間です。年長さんの視野が狭くなって行き詰りそうなタイミングで、状況に目を向けさせるような声掛けを先生はします。年少さんを加えるためのきっかけとなるものに気づかせます。ついに「これを使っていい」と年長の一人が声を出しました。「こっちでやって」ともう一人が居場所を指示しました。ぎこちない中で3人でままごとが始まりました。3人の子どもがそれぞれの課題を達成しました。

「みんな仲良く」は大事なことです。でもそれは強制されたとたんに無価値なものになります。自分自身の課題の中で選択されるものです。安易な「仲良く」という指示は人間関係の課題を子どもから奪います。そんな時に大人に求められるのは「こうしてあげればいい」という解決策を出すことではなく、言いたくなる気持ちを抑えて、子どもの課題のサポーターとして同行することです。

 

 

2018年09月13日

「主体的」を守る

 私たちの国には幼児教育について示す文部科学省の発行する『幼稚園教育要領』という文書があります。平成29年度に改訂され文部科学省のホームページから全文と解説を見ることができます。これは幼児教育に携わる者にとって非常に重要な文書です。

 幼稚園教育要領の中に頻繁に出てくる言葉は「主体的」という言葉です。子ども自身の活動について記すところで使われています。他にも「自発的」、「自分で」「意欲的」という言葉が出てきます。幼稚園における子どもの活動は「主体的」であることが最重要だと伝えているのです。これは原型となった倉橋惣三らが中心となってつくられた『保育要領―幼児教育の手引き』(1948年刊行)から引き継がれている幼児教育の基本です。幼児期の子どもの活動は子ども自身が「主体的」であることが最重要なのです。

 「主体的」とは「自分の意志・判断に基づいて行動するさま」という意味です。これはある場面では厄介なものです。例えば、園庭での集団遊びなど「みんな」で行う活動をしようとします。先生が「今日は~をしましょう」と呼びかけると「やったー」と喜んで参加する子がいる一方、「やらない」、「いや」という子もいます。そこで先生は子どもたちを「まとめる」ということに悩まされます。しかしこれは当たり前です。やりたくないことを無理強いされれば大人でも抵抗します。「みんなと同じことができないはおかしい」という価値観が「主体的」であろうとする子どもを妨げるのです。

 「みんなと一緒」を強いられ続ければ、子どもは主体的に生きることを諦めるようになります。かつて集団に誘われると加わるのですが、こっそり私のところに来て「どうせやらせるんでしょ」と言う子がいました。「そんなことはしないよ」、「やりたくないんだね」、「他に何をやりたい?」「ここで一緒にいようか」と、何回もそんなやり取りをしました。

 「やりたくないことでも周りに合わせてやらなければならない」ということも大事です。しかし集団への帰属意識や状況の客観視が未熟な幼児期に「みんなと一緒にできないとおかしい」と強制を繰り返すことは、長い目で見てマイナス面が大きいと思います。幼児園教育要領に「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なもの」とあります。人格形成の基礎において「主体的」であることを否定された子どもがどのようにその後の人生を生きていくのでしょうか。「主体的」であろうとする子を守り、やりたいことを見つけ、得意なことを伸ばしていくという力を育てることが幼児期には優先されるべきです。「やりたい、やりたくない」「好き、嫌い」…様々な主張が伴うのが個性です。満たされた個性の出会いによって「主体的に」形成される集団こそ素晴らしいのではありませんか。

 今日も幼稚園で一人一人の子どもの「主体的」な選択が守られること、それは時に大変な忍耐をもって子どもと向き合い、寄り添うことです。けれどもそれがこの国で幼稚園に求められている課題なのだと肝に銘じるところです。

2018年09月14日

子どもを主体的にする主体的教師

 幼稚園教育要領は、子どもの活動について「主体的」であることを求めています。「主体的」というのはつまり、子どもが主役になってするということですが、この言葉を聞くと「それでは子どもについていればいいのですか」、「子どものやりたいようにさせればいいのですか」という人がいます。これは「主体的」の具体的な姿を「放任」と翻訳して理解しているという証拠です。なぜそういうことになってしまうのかというと、「一斉型保育」が幼稚園の主流であった時代があるからです。当時は子ども数が多く、一クラス40人を一人の幼稚園教師が担任するということもありました。そのような状況では一斉型保育にせざるを得なかったのです。しかし今後はさらに少子化が進むことが予想されます。クラスの規模も少人数化に進んでいます。子どもの発達について、これまで経験則から予想されていた子どもが「主体的」であることの重要性が、目覚ましい研究によって科学的検証と実践をもって確認されてきました。それらを踏まえて学ぶ者にとって、今の保育の志向が一斉型保育の頃と同じであっていいわけがありません。私は一斉型保育の「小学校への接続のために」という迷信から早く日本の教育は解放されなければならないと思っています。現在の「小1プロブレム」の主たる原因は、子どもから主体的活動を奪う「一斉型保育」と「放任」にあると考えています。

子どもの「主体的」な活動というのは「放任」とは全く違います。「主体的」の具体的な方向性は「自責」ということです。一斉型保育が「先生に言われたから従う」という「他責」に根ざすのに対して、「自分で決めたから行う」という子どもの「自責」の活動ということです。「自責」は一昔前に使われた「自己責任」という切り捨て論理とも違います。他人のせいにはしない、という主体性です。自責のもとで、「何で遊ぶか」、「誰と遊ぶか」、「どんなルールで遊ぶか」等々、子どもは決断していきます。その時、子どもの「成長しよう」、「学ぼう」、「知ろう」、という生命の最大課題の欲求が発揮されているのです。そこから子ども自身が秩序を作り、規範を思考し、抑制を選択します。しかし、知識と経験のない子どもたちは自分の選択や決断に満足できる結果を引き寄せることができません。そこで極めて重要な存在となるのが子どもの決断をサポートする大人であり、幼稚園であれば教師の存在です。

子どもの主体的活動のサポーターとしての教師は、総合的な幼児教育の知識と経験が求められます。情熱だけでなく冷静な理論的裏付けをもって保育に当たらなければなりません。たやすく「放任」となりかねない状況を、子どもの欲求を察知し、適切な言葉としぐさをもって、必要な分だけを誘導し、子どもの主体的活動を妨げないというのは、大変な忍耐と体力、寛容と愛を必要とします。必然的に一人の教師の見れる子どもの数は少人数にならざるを得ません。

しかも、そこで一番大切なのは、教師自身が「主体的に動くことは楽しい」と実感していることです。主体的な大人だけが子どもの主体的活動をサポートできます。主体的に活動している子どもから学ぶことは大きいという実感のない人は、主体的な子どもの姿を大切にすることができません。教師自身の主体性が大切にされ、「子どもためにやってあげたい」と思えることが大切です。そのために「自責」の姿勢で学び続け、試行錯誤を重ね、昨日よりも今日、今日よりも明日、さらに成長しているのが主体的な教師です。園長としての素直な思いを言えば、このような教師は非常に高く評価されるべきです。出来ることなら給与を今の何倍も出して報いたいと思っています。

今日記したことは理想です。しかし、「進みゆく教師のみ人に教える権利あり」(小原國芳 玉川大学創始者)です。教師も園長も学び続ける主体的存在であることでのみ、子どもに、保護者に、人に教えることができるのです。

2018年09月17日

幼児教育のPDCAサイクル?

幼稚園教育要領の改訂に伴い、その解説も多く出版されました。文部科学省も解説を公開しています。その中に「カリキュラム・マネジメント」という言葉が登場しました。

カリキュラム・マネジメントについて文部科学省も含め一般にこのように解説されています。「カリキュラム・マネジメントとは、幼稚園の教育目標の実現に向けて、子どもの地域でや家庭での生活の実態を踏まえ、教育課程を編成、実施、評価し、その上で改善を図るという、教育課程の一連のPDCAサイクルを計画的・組織的に実施していくこと」(「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」無藤隆編著、東洋館出版社)。

ここで問題と感じているのが、幼稚園の教育についてのPDCAサイクルを実施すべきという理解です。Plan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Act(改善)というサイクルとして運営されるのがPDCAサイクルです。

幼稚園組織運営をPDCAサイクルで評価するという提言は、まだ理解できます(それですらも、近年の幼稚園を巡る環境の変化に対応するには不適切となった、と私は考えています)。しかしPDCAで毎日の保育を回せというのはナンセンスです。もちろん結果を振り返り、改善を継続的に行うことは大切です。例えば「ヒヤリハット」のような改善計画や避難訓練のような「幼児の意志」を無視してでも従わせなければならない計画に対してPDCAサイクルは有効でしょう。しかしPDCAサイクルは、「計画」をもとに評価改善するサイクルであって、刻一刻と変化し成長する子どもの姿や取り巻く環境を「後追い」しかできないということです。逆に「先回り」をした計画を実施するというなら、結局は旧来の「一斉型保育」にしか対応できないと言わざるを得ません。子どもを計画通りに動かせたかどうかが評価対象になり、改善の主たる面になってしまうからです。これは、どちらの場合も子どもの主体的活動のサポーターとしての役割を果たせないことになってしまいます。

幼稚園教師が直面するのは、刻一刻と変化する幼児期の子どもの成長欲求です。そこで求められるのは、子どもの姿を計画に合わせて強制することではありません。不安定で不確実で複雑で曖昧な状況です。そこで教師に求められるのは状況を観察し、直感的に状況判断を下すということです。大切なのは、行動の前の瞬時の状況判断です。この状況判断に、「幼稚園の教育目標や理念を共有する」教師の主体的判断が反映します。ここが大切です。

「計画通りにいかない」ことこそ、幼児期の子どもの世界なのです。遊びの面白さとはつまるところ、計画を離れた楽しさであり、これまで自分を定めていた「自分ルール」の逸脱なのです。そのとき本当に大切なのは、「ルールは変更しても良い」、ということです。そのとき「跳躍」と呼ぶべき幼児期の瞬発的かつ爆発的成長が見られるのです。跳躍した発想が、創造を促し、新しい発見やアイデアを生み出し、新しい価値や意味を子どもの内に生み出していくのです。幼児教育の場とは、子どもたちの成長欲求の発する「ルール変更」の要求に出会うところです。子どもたちの革命の場です。

そこで、改訂された幼稚園教育要領の実施に当たって有効なのは、今日ある考え方から導き出すならばPDCAサイクルではなく、OODAの考え方だと言えます。Observation(観察)→Orientation(判断)→Decision(意思決定)→Action(行動)という流れの考え方です。教師にしっかりと幼児教育者としての理念が浸透していることが前提ですが、この過程の中で教師の中に「何のために教師がいるのか」、「どこに向かっていくのか」という自分の主体性への問いが生まれることが大切なのだと思います。そこで、直感的な保育方法の創出が起こるのです。

2018年09月18日

小さな声でありがとう

子どもを褒めて育てる、という教育論が一頃流行りました。これは提唱された時は「褒めるだけ」の教育論ではなかったのですが、マスコミによって取り上げられている間に、いつの間にか「褒めるだけ」の極端なテクニックとして紹介されるようになり、弊害が問題視されるようになりました。幼少期から何かをすると褒められるという環境に置かれると、大人になってからも「褒められる」という外発的動機がなければ動けない人間になってしまうのです。子どもを都合よく「褒める」ことでコントロールできるというテクニックになってしまったのです。確かにこれは危険です。

 では、どうすればいいのでしょうか。橋井健司という園長先生がその著書(『世界基準の幼稚園』光文社)の中でこの「褒めて育てる」ことを取り上げてその危険性に触れて、自分は「そっとその子に近づいて『ありがとう』『先生、助かった』と小さな声で感謝の気持ちを伝えるようにしています。間違っても『えら~い!』と大げさにほめたり、みんなの前でその子のおこないを発表したりはしません」と書いていました。これは見倣うべき対応だと思います。特に「そっとその子に近づいて」というところがいいのです。園長先生とその子だけの小さな世界が満たされます。

 この方の著書を読んでいただくのが良いと思いますが、私なりに要約してお伝えすると、「えらい」とほめることと、「ありがとう」と感謝を伝えることの違いは、行動の結果が自分の利益になるか、他人への貢献となるかの違いです。この考え方に私も賛成します。自分の行いが誰かの役に立ったという、あの独特の充実感は子どもの内に自尊心を育てます。ぜひお子さんにそっと近づいて、小さな声で「ありがとう」、「助かった」と言ってみてください。

2018年09月20日

個性の輪郭

個性は、親や先生が「この子はこういう子である」と評価して決められるものではありません。そもそも人間は皆、個性的な存在として生まれています。神さまによって唯一の命を与えられている私たちは工業製品ではないのです。

問題は、個性的な存在である人間が何故個性を失うような事態がおこるのか、ということです。一つは幼児期の「善意からの抑圧」が関与しています。

「家族でハンバーグがおいしいと評判のレストランに食事にいきました。子どもに『何でも好きなものを注文していいのよ』と言ったところ、子どもは『エビフライ』を選びました。すると、『ここはハンバーグがおいしいお店だから、ハンバーグにしなさい』と言い、みんなでハンバーグを注文数することになりました。」

欲しいものを欲しい、好きなものを好き、嫌いなものを嫌いと表明したとたん、「こちらの方が良いから合わせなさい」とたしなめられるような環境で個性の輪郭は削り取られます。

「好きと嫌い」は、人の個性の輪郭を形づくる根っこの部分です。同じ5歳でも水遊びが好きな子もいれば嫌いな子もいます。人間は好きなものと嫌いなもの、得意なものと苦手なものがあって当たり前、という前提を身に着けることが大切です。日常的にふぞろいな世界が広がっていることを知り、不揃いな存在同士だということを身をもって経験する方が集団で合わせることの美しさよりも幼児期には貴重です。言い換えるならば、個性を尊重するとは「あなたと私は違っていて当然」ということです。それは良い悪いと評価されるものではありません。

大人はいつも世間体の方を子どもよりも大事にします。知らず知らずのうちに善意からそのことが現れてきます。例えば、父の日のプレゼントとして子どもが父親の顔を描き始めたときに黙って最後まで先生や母親が口出しせずにいられるか?案外できないものです。子どもの描く絵は「おかしい」のが当たり前です。それを見て、「お父さんの目はそんな色だっけ」とか「髪の毛がないけどいいの?」とか、「耳がないのはおかしい」とか。いかにも父親が見て「喜ぶ」ように善意から矯正してしまいます。実際、背の小さな子どもの目線から背の高い父親の顔は、おでこから上の髪の毛が見えないのです。幼児期は色覚も発達している最中ですし、目線が変われば光線の入り具合も変わるのは当然ですから黒や茶ではない色が見えることもあるのです。目を描くのに赤や緑を使いたいのです。しかし子どもが認識している父親が表現されるよりも、見栄えのいい、喜んでもらえる絵に「してあげる」ことを大事にしてしまいます。「それじゃあお父さんが悲しむよ」、「ちゃんとやらないとママが悲しくなるよ」、「みんなのパパやママが見てくれるのだから“ちゃんと”やろうね」と、善意から抑圧をちらつかせてしまうのです。

大事なことは、大人が幼児を学ぶことです。絵であれば、2~4歳の子に大人が一般的に持っているイメージに一致するものを求めるのは脳科学的に、そもそもおかしいのです。なぜなら、彼らは自分の心象に映るものが全てだからです。人の顔は「こういうもの」という一般的な枠と関係なく人の顔を認識しているのですから、大人にとって都合のいい絵など描けるわけがないのです。

大人と子どもはこんなに違う。私たちは不揃いな世界に一緒に生きているのです。そこに個性があります。

2018年09月24日

習い事・おけいこごと

保護者の方からお子さんの習い事について相談されることがあります。

最近のお子さんはピアノ、バレエ、ダンス、チアリーディング、英語、水泳、サッカー、空手、受験のための私塾など実に様々な習い事に通っていて、朝幼稚園に来ると「疲れたー」と言って先生に寄りかかって外遊びを嫌がるということも見られます。お子さんが習い事で疲れてしまうことは保護者の方も心配していて、どれを続けさせてどれをやめさせるかも悩みどころです。

私が習い事について考えたときに、大変参考にさせていただいた本を紹介します。杉山由美子氏の『お子様おけいこごと事情』(婦人生活社)という本です。この中で、最初は習い事をさせることに杉山さんは懐疑的でしたが、周りの子どもたちは皆習い事に通っていました。そこで、どんな習い事がいいのか様々な習い事や早期教育教室を取材してレポートしています。取材を続ける中で習い事に懐疑的だった杉山さんも、現代の子育てが習い事を必要としている背景が見えて、時代に逆らえないという思いを持たれます。「何のためにおけいこごとをさせるのか」「その子は将来良かったと思えるか」「おけいこごとを通してどんな大人になってほしいと自分は考えているのか」と杉山さんは自問します。そして、こう記しておられます。

「何のためにおけいこごとをさせるのかと言ったら、集中してひとつのことをする喜びを知るためである、と今は断言できる。その意味では何でもいいのだ。」

幼児期の子どもは、どんなことでもいいので夢中になって、没頭して取り組むことのできる体験こそが大切です。その意味では何の習い事を初めてもいいですし、始めたら続けなければならないということもありません。何かを夢中になって体験し、体験したことで成長を得ることが自信を育てます。習い事を専門的に極めるのは、成長の順序から言ってももっと先のことです。出来れば、初めて楽しさを知って、いったんやめてしまっても、またやりたくなって再開するというくらいの余裕があるといいのです。幼児期の体験は「浅く、広く」と考える方が良いのです。多種、多彩な経験こそ幼児期の最重要な経験です。習い事は親も子も縛るように感じたらやめてしまうくらいのつもりの方が良いと思います。また、一度の体験では興味を抱かなったことに、ある日突然取り組むようになるのが子どもたちです。

習い事は、親も子も縛られない程度に楽しんでください、というのが私の意見です。

2018年09月25日

段階をふんで育つ大切さ

「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

上記の言葉は、聖書のマルコによる福音書4章28~29節の言葉です。麦の成長には順序があって、それぞれの段階を疎かにしたり、ましてや順序を飛ばして豊かな収穫を得ることはできません。

人の成長においてもきちんと段階をふんで育つことが大切です。例えば子どもが歩くようになるには4つの重要な段階をふんでいきます。

第1段階 手足を動かすが、体を移動させるためには手足を使えない「移動しない運動」の段階。

第2段階 腹部を床に押し付けながら決まった方法で手足を動かしてAからBへと動けることを覚える「腹ばい」の段階。

第3段階 重力に逆らって、自分の手と膝で体を起こし、腹ばいより巧みな技術をもってAからBへと動き回るようになる「四つんばい(はいはい)」の段階。

第4段階 自分の脚で立ち上がり、歩くことを覚える「歩行」の段階。

この4つの段階は、各段階が次の段階に不可欠前提となっています。このことから成長において新しい段階を獲得できるかどうかは、その前段階を確実に終了できたかに全面的にかかっているということです。

早く自立させようと急かして歩かせる弊害について以前、前段階が十分に獲得できないままに次の段階への移行をを強制されると、前段階を獲得することで置き換えられるべき機能が残り続ける、ということを聞きました。どういうことかというと、例えば反射行動が「腹ばい」や「四つんばい」の状態の乳児のまま「歩行」の段階にいたってしまうと、その後の反射によって生じる運動は「腹ばい」や「四つんばい」の乳児が身を守ろうとする動きが残り続けることになります。そのため大きく激しくなる少年期の運動に適切に体がついていけないといったことや、転倒した時に頭や腹を守るために手をつくことができず、大怪我につながることもあるのです。

前回、習い事のことを記しました。やってみて楽しめればよいし、興味を示さないならやめた方が良い。そして将来興味を持ったならその時改めてはじめればいいと記したのは、この段階をふんだ成長という視点からも重要な態度だと考えるからです。興味を示し、楽しめるということはそこで得られるものを成長の段階として子どもが欲しているということです。興味を示さないのは、まだそれを得るべき段階にいたっていないということを示しているわけです。

段階をふんで成長し「豊かな実」を生きる力として獲得していく子どもたちにとって成長を急かされることは害の方が多いのです。興味を示さなかったり、うまくできなかったり、早くできないお子さんにイライラしてしまう時に、「まだ今の段階を十分に楽しみきっていないのだろう」と思っていただけるとうれしいです。

2018年09月27日

一緒にする経験

暑さがどれほど続くかと思いましたが、9月も半ばを過ぎると涼しい日が続くようになりました。秋の訪れを感じています。子どもたちは毎日、お友達と力を合わせて運動会の練習に励んでいます。C組にとっては、ラインに沿ってお友だちとまっすぐに走ることもおよそ初めての経験ですが、運動を楽しみながらお友だちを応援する声もだんだんと大きくなっていきます。A・B・C各クラスの練習を他のクラスの子が見ると、自分たちもやってみたいと思うようです。

幼い子どもたちは、他の人がしたことと自分自身がしたこととの間に区別をつけないということが時折起こります。これは経験を得て成長しようとするときの自然な姿です。家族や、お友だちがしていることや、やってくれたことを見て、あたかも自分自身がそれをしたかのように経験として蓄えるのです。経験というのは本来、未知の事への挑戦からはじまります。自分にとって未知のことを行っているお友だちに自分自身を重ねることで、未知を既知へと変え、実際に行う前に心構えと道筋を準備するのです。運動会の練習で、多くのお友だちの成功や失敗に共感する子どもたちは、そのことを通して自分自身を応援し、励まして、一所懸命に可能性を開拓しています。運動会まであとわずかです。子どもたちの健康が守られ、お天気に恵まれ楽しい運動会を迎えられるように願っています。

2018年09月28日

言葉は幸せな関係のためにある

先日行われた9月の父母の会でお話ししたことです。

日本語の言語学者の金田一秀穂先生がご講演の中で、言葉は「正しい言葉があるわけではなく、仲良くなるためにあるんです」とお話ししておられました。そして、「子どもは敬語をつかえなくていい」と言います。

例えば、おばちゃんが子どもに飴をあげました。もらった子は母親に「ありがとうって言いなさい」と言われて、「ありがとう」と言いました。そうしたら、おばちゃんは「いい子ね」とにっこり笑って褒めました。そこでもし、飴をもらった子が「この度は結構なものを頂戴いたしました。まことに恐れ入ります」と言ったら、気持ち悪いですね。もうそれは子どもの言葉ではないのです。おばちゃんと子どもの関係が居心地の悪いものになってしまいます。

そこで金田一先生は、「子どもというのは敬語が使えなくてよい、敬語が使えない子どもがいたら安心してください」と言われるのです。金田一先生は、「言葉というのはあくまでも道具であって、『正しい言葉』に私たちが従わなければいけないわけではない」とも言われました。そして、「敬語というのは一人前にならないと使えない言葉なんです。というか、一人前であることを示す言葉が敬語なんです。ですから子どもは敬語を使っちゃいけないんです。子ども扱いされる存在だから、敬語を使うことは許されないんです。でも、大人になったら一人前であることを示さなきゃいけませんから、必死に敬語を勉強しなければいけないんです。」「使われると気持ち悪い、自然に嫌だなと思う。その嫌だなと思う気持ちを大切にしてほしいんです。」この金田一先生の言われることはとても大切な視点だと思います。

私たちは言葉を使って何をしているのでしょうか。コミュニケーションです。人間同士が「いい関係」を作るため、互いに「仲良く」なるため、互いに「幸せ」になるために言葉という道具を使うのです。正しい言葉を使うことは大切です。しかし、正しい言葉でなければ使ってはならないということになったら、私たちは言葉を失ってしまうのではないでしょうか。人間関係は「正しい言葉」よりも大切なものです。言葉は幸せな人間関係のために使われるべきものです。

夏休みが終わって積極的に話し始める子がいます。とても良い「言葉の経験」をしてきたのでしょう。「この子がこんなにお話しするようになったのか」と驚き、うれしくなります。ただし必ずしも正しい言葉ではありません。乱暴な言葉、汚い言葉もつかいます。物の名前も間違っています。でもそこで直ちに「それは使ってはいけない言葉」、「それは間違ってる」と言われたらどうでしょう。言葉の初心者である子どもから言葉が失われてしまうかもしれません。言葉を道具として使った幸せな人間関係への可能性と将来に影をおとす方が恐ろしいことです。

ですから、たとえ間違った言葉でも、それで仲良くなれたら、人が互いに通じ合うことができたなら、それは「幸せの言葉」です。子どもの時には「幸せな言葉」の世界を守ってあげることが第一なのです。正しい言葉は、大人が「正しい言葉」を話す姿を見て覚えていきます。言葉は深い思考と理解の道具でもあるからです。

言葉はこの先も一生学び続けるものです。大人もマナー教室で敬語を学ぶ方がいるではありませんか。まだ始まったばかりの子どもの言葉の世界を、焦って「一人前の大人」へと引き上げるのは無理があります。

繰り返しますが、言葉は「幸せな関係」を作るためにあるのです。その視点から子どもの言葉の世界に耳を傾けてみてください。それから、ご自身の大人の使う「幸せな言葉」の世界を聞かせてあげてください。

※金田一秀穂先生の講演は、みやざき中央新聞2397号(2011/1/17)から連載された「九州PTA研究大会記念講演」を参照しています。

2018年09月29日

思いやりは喜びから

「思いやり」という相手に共感する感情は、人間が社会生活を他人と一緒に幸福に生きていこうとするならば、極めて重要な感情です。一般に、思いやりは幼いころから思いやられて育ってきたことが不可欠な前提だと言われます。思いやられるとは、具体的には喜びを与えられるということです。そのために喜ばせてもらう機会や時間が多いことが大切です。重要なのは、喜びの体験の重さや深さよりも、機会や時間といった「量」を必要とするということです。

発達心理学者の観察によると、母親に喜びを与えてくれることを要求する子どもは、同時に、母親自身も喜びを感じてほしいという高度な感情を抱いていくそうです。

人は、大事な人と喜びを一緒に体験したいと求めるのです。相手と一緒に喜びあうことが、より深い喜びとなるという経験を重ねていくと、やがて相手と悲しみを分かち合うことのできる「思いやり」の感情が芽生えてきます。そして、喜びと悲しみを共有することによって人間的なコミュニケーションが成立発展していきます。「思いやり」は、相手と悲しみすらも分かち合って生きることができる社会構築のための高度なコミュニケーションの土台となるものです。それは実は、最も身近な人と喜びを分かち合う経験が十分にあってこそ生まれ、育っていくのです。

このことを親の側から見ると、親自身が子育ての中で喜びを実感することが、子どもの中に「思いやり」を育てるということになります。

佐々木正美先生(児童精神科医)は、親自身が子どもに喜びを与えるということについて、「まず子どもが喜ぶことを何でもしっておかなくてはいけないでしょう。そして、そのうちのどんなことに、自分も喜びを感じながら行動できるかを、自然に無理なく見いだして、実行すればいいのです。親自身も喜ぶことができる活動なら、困難や苦痛があるはずありません」(佐々木正美著『はじまりは愛着から』福音館)と言われています。食事やおやつ、入浴など毎日の繰り返しの中に、素晴らしい時間があります。

最後に「思いやり」を育てる中で最も避けなければならないのは、子どもの「自尊心」を傷つけないことです。悲しむ子どもを決してからかってはいけません。悲しむ子にかける言葉がないのなら、黙って一緒にいることでも慰めになれるのが「親」という尊い存在です。

2018年10月01日

「ウソ」を考える

人間はだれでもウソをつきます。一つは自分自身を守るために、もう一つは相手を守るためです。例えば、自分のみじめなところを知られたくないので言い繕うことをします。また、そのまま伝えると相手を傷つけたり不愉快にするという時に言い繕います。私たちは普段、相手との関係を意識して言い方や内容を変えています。時には正反対のことを伝えたりします。つまりウソをつくのです。

言葉を相手との幸せな関係のために使うときにもウソは発生します。自分のためであれ、相手のためであれ、その後の関係を良いものにしたいという欲求として、悪意があって言うものではないですから、潔癖にウソを否定することは現実的ではないのではないでしょうか。

多くの場合、頭ごなしに「ウソはダメ!」、「違うでしょ!」と親の方は感情的になって、子どもなりの幸せへの気遣いを無視して自尊心を傷つけるような叱り方をしてしまいます。親として、子どもを嘘つきにしたくないという思いはとても良く分かるのですが、気遣いと自尊心を無視した叱り方を続けると、逆に子どもはウソが上手になっていきます。叱られた子は、次はばれないようなウソ、上手なウソをつくために努力を始めるのです。

繰り返しますが、子どもがウソをつく一番初めの理由は、自尊心が傷ついて自分が惨めにならないように、相手を傷つけて悲しませないためにという、どちらかというと美しい気持ちから始まっています。その点を受け入れてほしいと思います。

子どものウソは大人にはすぐに見分けられるものです。大切なのはウソだとわかっているということをどう子どもに伝えるかです。頭ごなしに感情をぶつけて叱りつけると会話が終わってしまいます。ウソへの対処には、できるだけ穏やかにウソとわかっていることを伝えて、さらに会話を継続させるようにすることが求められます。ウソを言われてむしろ悲しいと感じられたなら、そのことをできるだけ穏やかに伝えてください。繰り返しますが、幼い子は幸せな関係を成立させようとしてウソをついてしまっています。大人はそういった子どもの気持ちを受け入れていることをできるだけ穏やかに伝えるように努力してください。そうすれば、子どもは「悪意あるウソつき」になったりはしません。

2018年10月02日

根拠のない自信をたっぷり育てましょう

以前も紹介した児童精神科医の佐々木正美先生は「子どもを育てるときにもっとも大切なことは、子どもの心の内に、生きていくために必要な『根拠のない自信』をたっぷりと作ってあげることです」と記しています(佐々木正美著『はじまりは愛着から』福音館)。

「根拠のない自信」とは何のことだろうと訝しく思われるかもしれませんが、幼児教育の現場にいる者には、佐々木先生の言われることがとてもよくわかります。「根拠のない自信」の育っている子は、遊びが大好きで、そして上手です。「やってみたい」という思いがいつもあって、様々なことに挑戦しています。そして親に対して見事な「甘えん坊」です。言い換えるなら、幼児期を幼児として生き抜いているという意味で、「子どもらしい」のです。

「根拠のない自信」は第一段階として乳児期の「基本的信頼感」を意味します。やってほしいことを誰かにやってもらうことで、その相手を信じる力が育ちます。乳児期はやってほしいという要求ばかりです。母親や父親が要求を聞き入れてあげることで、人を信じる力がしっかりと身につきます。それは次に幼児期に人を信頼し、ひいては自分自身を信じていくことに繋がっていきます。

このように言うと「過保護」になりはしないかと心配されるかもしれません。しかし心配は無用です。「過保護」というのは、子どもが要求していないものを親の都合や満足を優先して過剰に押し付け、結果として子どもの生きる力が育つことを邪魔してしまうことです。ここで申し上げているのは、子どもの要求に応える、ということです。そのためには少なくとも0~2歳までの乳児期は子どもが信じる存在(ほとんどの場合は母親)が要求を常に聞けるように傍にいることが大事になります。いないということは、そのまま要求が無視されるということに繋がります。もちろん100%一緒にいて要求に応えることはできるはずがありません。しかし要求に応えようとすることこそ、乳児期の子の親の頑張りどころです。親が「自分は過保護ではないか」と思うくらいに子どもの要求に付き合うくらいがいいのです。

全面的に受容される時期が守られ、受容された経験があればあるほど、人間は自立していきます。

以前、幼稚園で本当に手がかかり、教師を悩ませたお子さんのお母さまから小学校での様子をお聞きしたときに、こんなことを言ってくださいました。「この子は、大人をはじめから信じています。(小学校の)先生のこともはなから信じていて、それが他の子と違うように感じるんです。」

大人は、「手のかからない子」を求めます。そんな子を「いい子」と判断します。これは教師も陥る罠です。しかしそれは大人にとって楽で、育てやすいというだけで決して「いい子」であるのではありません。かえって乳幼児期に大人に手をかけさせる子の方が、内に「根拠のない自信」を豊かに育んだ子、人を信じ、自分自身を信じる力を育んだ子であることが多いのです。

2018年10月03日

見ているだけの子

子どもたちには、遊びに入らずに「見ているだけ」の子がいます。かくいう私自身も幼稚園の頃は見ているだけのことが多い子だったそうで、「この子、大丈夫かしら」とずいぶん心配されたそうです。

先生が「さあ、~をしましょう」と誘っても加わらずに見ているだけです。こういう子がいると若い先生は遊びに加われるようにと様々に声をかけますが、うまくいきません。それで先生は自分の力不足を感じてしまい、親は心配してしまうのですが、これは先生の力不足の結果ではありません。「心配無用」です。

見ているだけの子どもの状態について学問的な解説をすると、発達心理学者のM・B・パーテンは、見ているだけで遊びに加わらない子を「傍観的状態」と呼んで、その先にある「協同あるいは組織的遊び」への第一歩と位置付けています。またバンデューラという心理学者は、学習は自分が体験しなくても、他者の行動を観察することによっても成り立つことを実証しています。

見ているだけの子は、決して気が弱いのでも、寂しい思いをしているのでもないのです。目の前の遊びを観察して学習し、そこに自分が加わるタイミングを自分で計っている最中なのです。「よし!」と決意が固まれば、自分から進んで「入れて」「やりたい」と明確に意思を表します。むしろ、見ているだけの状態をきっちりやらせた方が良いと考えています。「見ているだけじゃダメ!」と無理に誘って、強引に遊びに加えても子どもにとって良いことはないでしょう。また、「それなら別のことをする?」と別の遊びを促すというのもお勧めしません。それらは、見ているだけという準備段階の中にある子どもの興味関心を破壊してしまうことです。形ばかりは遊びに加わっても、そこに子どもの主体的行動はありませんからすぐに「やめた」となります。子どもがその遊びを通して得るものは不快感だけです。

子どもを見守るというのは忍耐のいることですが、子どものために何もしないという選択も大切なことです。「やりたくなったら、やるでしょう」というくらいに気長に楽観的に構えているのがいいのです。

2018年10月04日

詩 「強さ 弱さ」

「強さ 弱さ」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

お母さん怖いよ、と
しがみつく娘の頭をなでながら
「大丈夫よ、大丈夫。
あんなのちっともこわくないの」と
言い聞かせる

こうして私は彼女のために
一つずつこわいものを失って
少しずつ強くなる

だけどそれとは反対に
気づいていくのだ 彼女は
少しずつ少しずつ

安心しきって抱かれていたその腕が
ただの 弱い女のものだったということに

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「せんぱいママ」

「せんぱいママ」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

大切なのは
愛情よりも根性なのだと
その人は笑った

こぼれ落ちるほどの
愛情に満ちた笑顔で

根性のない愛なんて
ただの泣きごとなんだと
その人は笑った

まぶしい黄色のタンポポが
やわらかな綿毛に変わるように
その人はふいに笑うのをやめて
「だけど、私もいっぱい泣いたよ」と、
やさしく言った

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「一人でできることが」

「一人でできることが」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

「一人じゃなんにもできないくせに!」
そうののしった私を
幼いあなたは
決して忘れはしないでしょう

そして未来のあなたは私のことを
「一人じゃなんにもできない人だったのだ」と
そう思い出すでしょう

そうです
子供にそんなことを言う大人は
一人じゃなんにもできない人です
お母さんはそういう人でした
だけど あなたのおかげで
一人でできることが
一つずつ 一つずつ ふえていったよ

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「謝罪」

「謝罪」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

「おかあさん、ごめんなさい」
眉間のしわをうかがいながら
幼い娘は おびえた声をあげた

無力の者の謝罪はせつない
私は 後味の悪いつばを飲みこんだ

窓の外で 五時のチャイムが鳴っている
部屋の中に 夕闇がしのびこむ

あと数年で 未熟な母を飛びこえて
幼い娘は 成熟した子供になるだろう
そして私を見下ろして言うだろう
「お母さん、ごめんなさい」
その時私は
自分が無力の者になったことに気づく

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「重み」

「重み」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

自分が少し悲しむと
お母さんがすごく悲しむから
それがつらいと娘が言った

自分が泣いていると
お母さんがすごく気にするから
それが嫌なんだと 私をにらんだ

ああ こうして親たちは
やわらかな手かせ足かせとなるのだろう
あたたかな鎖をからませるのだろう

多くの子供たちが その重みで
何かを思いなおすのだろう
何かを思いとどまるのだろう
投げやりに進み始めた歩みは止めて
声をあげて引き返すのだろう

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「無駄」

「無駄」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

「私の人生に無駄なものなど一つもない」
そんな よく聞くセリフを言うような人は
傷つきやすい臆病な人間だ

散らかった部屋の真ん中で
うっかり赤ん坊と一緒に寝てしまい
目をさましてから 頭をかかえて後悔
流しの中に積まれた食器
かごいっぱいの洗濯物
そんなものさえ 
何かの糧になっているんだと思わなければやっていけない
そんな 自分を責めることに臆病な人間

私はそういう幸福な人間をめざそう
「無駄なものなど一つもない」
そう自分に言い聞かせながら
平安の日々を手に入れよう

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「抱きしめたくなる」

「抱きしめたくなる」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

お母さん、私
どうやったらまた 赤ちゃんに戻れる?
小さくなったら
ごはん食べさせてくれる?
だっこでねかせてくれる?

娘のそんなささやきを
哀しく思うし 愛しく思う
病院で初めて弟を見た時の
不安げな顔を思い出し
小さな体を ぎゅっと抱きしめたくなる

お母さん、私
どうやったら早く 大きくなれる?
一人で歩いて 幼稚園に行きたいの
一人で遊びに行きたいの

娘のそんなつぶやきを
寂しく思うし 嬉しく思う
漠然とした遠い何かに向かって
確実に進んでいるその小さな体を
「まだ行かないで」と
ぎゅっと抱きしめたくなる

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

詩 「よその家」

「よその家」
(詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より)

他人の子が
とてもかわいく見える時がある
聞きわけがよくて 素直で 優しくて 明るくて
まあ、なんてかわいいのかしら あの子は!

その時ふと
娘の視線の先に気づく
娘はよその子のママを見ている
きれいで やさしくて 歌やお話が上手なママを!

娘はそっと 私の手をにぎる
私もそっと 娘の手をにぎる

それから手をつないで 帰る

私たちのおうちへ

※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。

2018年10月05日

クリスチャンの家庭の子どもの育ち

西荻学園幼稚園はキリスト教主義の幼稚園ですから、クリスチャンのご家庭のお子さんがほぼ毎年入園されます。そこで、今回は特にクリスチャンのご家庭のお子さんの育ちについて、注意点を考えてみます。

聖書の語る人間観は大きく二つあります。一つは、人はみんな神さまによって命を与えられた尊い存在であるというものです。これは、人権の基礎であり、人間の尊厳を教える大事な人間観です。もう一つは、「罪」の理解からくる強い倫理観を伴う人間理解です。この二つ目の点が、場合によっては子どもを強く抑圧し、育ちの力そのものを委縮させてしまうことがあります。

子どもが育つというのは、それまで自分を定めていた「枠」を「自分の意志で」、「自分らしく」、乗り越えていくということです。その時に、強すぎる枠に囲まれると枠を乗り越えることがとても困難になります。「自分らしく生きる」という育ちの力に対して、「クリスチャンとして相応しく育て」という外部の強い力が働くからです。

現在の日本にはクリスチャンは1%程です。クリスチャンとして子どもを育てようと意識している家庭となると更に少ない数になります。これは、クリスチャンとして育てられている子どもは、絶対的な少数派に属するということです。念のため申しますと、少数派だからいけないということではありません。少数派であるという事実を受け止めなければいけないということです。少数派として、クリスチャンとしての自分を発揮することに慎重にならざるを得ない、という子どもの現実を重く受け止めてあげて欲しいと思うのです。

子ども同士の間であっても、クリスチャンであることが必ずしも肯定的に受け止められるわけではありません。教育された「罪」の意識からお友達を注意すると、「攻撃」していると相手にも、さらには教師にも受け止められかねません。自分らしく生きようとすると「クリスチャンのくせに」と攻撃されます。神さまを信じていることを馬鹿にされます。繰り返しますが、少数派であるということを理解してあげてください。程度の差はあれ、大人のクリスチャンが社会で経験する少数派の困難を子どもの世界でも経験する可能性が大いにあるのです。

家庭で「クリスチャンらしく」と言われ、外では少数派となってしまうとなると、いったいどこで子どもは「自分」を発揮して、ありのままに生きればよいのでしょうか。どこで「自分」を育てればいいのでしょうか。このままでは、いつも外的動機によって動く、顔色を伺って生きる人になりかねないということです。一見すると従順な「良い子」ですが、これほど聖書の祝福する人間の姿からかけ離れたものはありません。

そこで、クリスチャンのご家庭では、特に一層心がけて、「その子らしさ」を神から与えられた良いものとして注目することが大切です。子どもを「罪びと」と定めたり、受け入れがたい子ども行いを「罪」のせいにしてはいけません。その子らしい生き方は良いことだということを意識して伝えてあげてください。その上で、改善すべき点について「罪」と安易に結びつけて子どもの育ちの「もがき」を断ち切ってしまうことなく、その行いの先に子どもがどんな意図を実現しようとしていたのか、その点を尊重して対話することが重要になります。

2018年10月08日

おしゃべり=思考

幼児期の子どもは、いつでもどこでもしゃべり出します。「静かにしなさい」と言ったことのない親や保育者はいないのではないでしょうか。

幼児期の子どもにとって、しゃべるとはすなわち思考です。大人のように言葉を発せずに考えることができず、頭に浮かんだことをすぐに「おしゃべり」という形で表に出します。これは思考能力を得るための通過儀礼のようなものです。まず音声として外に言葉を出し、その繰り返しによって頭の中だけで言葉が操作できるようになります。

これは、逆に言えば幼児期の子どもに静寂を強制することは、すなわち「考えるな」と命令しているようなものだということです。これまでも何度も記しましたが、子育ては大変忍耐のいることです。それは苦痛に耐えるというよりも、大人から見ると「無意味」「無価値」に思える子どもの行動に「忍耐」して向き合うということです。子どものおしゃべりも大人から見ると、迷惑で、空気を読まない身勝手な「無価値」な行動に思えます。大人の方は、自分の予定通りにしないで勝手に話し始める子どもに腹を立てます。そして「静かにしなさい。今、何をする時ですか!よく考えてみなさい!」と叱るのです。しかし、それは子どもにとって、「考えるな」と命令されていることと同じです。

すこし柔和な大人ですと、「後でお話しを聞かせてね」と言って静かにするように促します。しかし実際に後でお話しをしてくれる子どもは極少数です。おしゃべりを封じられると思考を整理できないのですから、「後で」はそもそも無理な要求です。

「静かにしてね」が口癖になっていたら要注意です。大きな声で騒ぐとなれば「もう少し小さい声で話そうね」と注意します。それでも、また大きな声になるでしょう。それだけ思考が活発にされているということです。もう一度、「静かにお話ししようね」と声をかけます。何度も繰り返すとうんざりするでしょう。これが電車の中だったら周りの目が気になってしかたないでしょう。中には「何でもっと厳しく言わないの!」と余計な忠告をする他人がいます。それらに耐えて子どもと一緒に過ごすのは本当に大変です。でも、そこで思考する子どもを守るから「保護者」なのであり、「保育者」なのです。

お絵描きや工作、活動するときに「おしゃべり禁止」にしたら子どもたちの作品はつまらないものになるでしょう。創造性も主体性も工夫も何もかも奪われて「おもしろい」ものが生まれてくるはずがありません。そして、お絵描きも工作も、その他の活動も絶対に「嫌い」になります。

子どもたちに静かにしてほしい時には、「静かにしなさい」と命令するのでなく、子どもが静かにしたくなる環境をつくるのが最もよい方法です。例えば幼稚園の先生が行う保育技術にとして「わざと小さい声で話す」ことをします。すると子どもたちは静かになり耳を澄ませます。もう一つは、子どものエネルギーをできるだけ発散させてから静かにする時間を迎えさせることです。子どもは動きが活発で、わずかな距離でも駆け出したり、とにかく動きます。幼稚園の先生は「動」と「静」の切り替えを意識して、子どもたちの活動を工夫しています。特に一日の最初の活動を「動」として十分に身体を動かすと、その後落ち着いて「静」の活動に移ります。「動」と「静」の割合は7:3くらいです。これも保育技術の一つです。

2018年10月09日

しつけ―繰り返し、待つこと

アメリカの発達心理学者エリク・H・エリクソンは、幼児期の大切な発達課題を「自発的な表現」と考えました。親や先生の顔色を伺いながら、命じられたことをしぶしぶやるのではいけないということです。

例えばこれは「しつけ」を考えるときに大事な点を教えてくれます。「しつけ」は、先人が築き上げてきた価値や文化(この中に生活習慣や挨拶といった礼儀などが含まれます)を教えることです。何をしなければならないか、何をしてはいけないか、その具体的な判断のもとになる言葉と行動を伝えることです。そして、「しつけ」の目標点は、子どもがその伝えられたことを、やがて自発的・意欲的に実行できようになるということです。

では、どのように「しつけ」ればいいのでしょうか。

第一に気を付けたいのは伝える人です。「しつけ」を子どもに伝えることができるのは、子どもに信頼されている人です。大人でも、あの人の言うことなら聞こうとか、この人に言われると正しいとわかってても嫌な気持ちになるとかいうことがありますが、子どもの場合はなおさらです。だから幼児教育の場では「すべては愛着から」というのです。その点で、子どもの両親による「しつけ」が大切ですし、子どもの慕う祖父母や保育者も重要な存在になります。

第二に大切なことは伝え方です。「しつけ」として大切に思うことを、穏やかに、必要に応じて、必要な分だけ、折々に「繰り返し」伝えるということです。

そして第三の重要な点は、子どもが自発的に実行する時を「待つ」ということです。その時が来るまで、繰り返し伝え、手助けするということです。子ども本人がこれをやろうと決め、実行することを待つ中で、子どもの「自分を決める力」が育っていくのです。そこに自発・自立・自律・自主といったことが生きてくるのです。

「しつけ」をする立場の大人にとって最も気を付けたいのが「待つ」ことを意識することだと思います。「待つ」ことができるというのも個人差のある能力です。そこで「しつけ」の上手下手がでてくるのでしょう。

「しつけ」がうまくいかないというときに点検すべきなのは、「性急すぎていないか?」、「感情的な激しさで教えていないか?」という点です。出来るようになるまで待てずに、いらだって「早くしなさい」、「何度言えばわかるの」という言葉が多く出てきます。そして多くの場合こういう言葉は、非常に激しい攻撃的な響きをもって、子どもに威圧的に伝わってしまいます。伝える側があせると、子どもはもっとあせります。お互いが悪循環に陥ります。

「しつけ」に限らず、子どもに何か伝えるときのポイントは「穏やかに」、「繰り返し」、「できるまで待つ」ことです。待つことは、子どもを信頼していることを伝えることになり、子どもへの愛をもっともわかりやすく伝えることにもなるのです。

2018年10月14日

自分を主人公にして育つ

幼児期半ばまでの子どもの大きな特徴は、「自分が主人公」という生き方です。この「自分が主人公」という生き方が、心身非常に大きな影響を与え、成長を力強く引っ張っていきます。

例えば運動という面では、自分の意志の通りに体を動かして目的を達成しようとします。この時期の運動には特徴があるといわれます。

・ありとあらゆる動き方を身につけようとする
・どう動けばいいか、に強い関心を持ち、人の動きを真剣に見ている
・動き方を身につけるために精一杯努力する

これは大変貴重な時間です。一生に一回だけ人間が全力を出し切ることを惜しまないという珍しい時期なのです。その原動力となっているのが「自分が主人公」という生き方です。不思議なことに。この時期を過ぎたら、人間は力を倹約してなるべく「楽をしたい」と願い、動かないですむように工夫をはじめます。「怠ける」ことを優先するようになるのです。

このことは、子どもの自尊心の育ちを考える上でも、大変に重要なファクターです。幼児期の子どもは、全力で主人公として人生を生きているのです。そして自分を主人公としてサポートしてくれる人に愛着を抱きます。その人の関心を得るために懸命に呼びかけてきます。「見てて!」と。

これはストーリーを話せるようになると、更に拍車がかかります。自分の話を聞くように、他の子の話しを聞いていた先生の顔をつかんでグイっと自分の方に向かせたりします。それは結果として、文章構成と読解の能力を育むことにつながります。

この時期にしっかりと人生の主人公として見守られてきた子は、非常に強かな自尊心を育てると共に、自分から場の中心をあえて譲るという協調をやがて獲得します。しっかりと主人公として「大切に」されてきた子は、幼児期の終わりには、「~は○○ちゃんの方がよく似合うから、私はいい」、「○○くんの方が上手にできるから、僕は~の方をしてあげる」というような発言が聞かれるようになります。

この発言は、卑屈な発言ではありません。「自分が主人公」であることをしっかりと生きてきたからこそ、どこに自分の居場所をもっても自分らしくいられる安心感を持っている人間の発言です。これは自分一人で達成できない課題に出会ったときに、自分の役割を明確に自覚し、協力を得て課題を達成するという極めて高度な社会性の発現です。

人類の進歩は一人の天才によって刺激をあることはありますが、それが社会全体を動かす文明・文化の進歩へとつながるのは、実はこの高度な社会性の継続にかかっていると、私は考えています。

2018年10月16日

みんな一緒でなければならないのか

遊びの時間が終わってお片付けの声がかかると、子どもの中には一人か二人、それまでの遊びに区切りをつけられないでぐずる子が必ずいます。そんな時に、「ほら、みんなもうお片付けしてるよ!」、「もうみんなお部屋にいっちゃうよ!」、とじつに様々な「みんな」という言葉がバリエーション豊かに飛び交います。おそらく幼稚園や保育園で発せられる言葉のトップ3に入る言葉が「みんな」です。

子どもに社会訓練を与えるときに、「みんなにあわせる訓練が必要である」という意見があります。小学校に進学してから苦労させないために、集団生活に早くなれるように、「みんなに合わせて行動する子」を作り出そうと大人は四苦八苦、工夫の限りを凝らしています。

頭からこのことを否定するほど、「集団行動」に無意味さを感じているわけではありません。しかし教育にかかわるものとして、この「みんなに合わせる反復訓練」によって得られるのは「協調性ではない」という事実から目をそらしてはなりません。「みんなに合わせる反復訓練」から子どもが得るのは、似て非なるネガティブな「同調性」です。

協調性と同調性は、似たものと見られますがまったく別のものです。同調の出発点は「みんながそうしているから、あなたもしなさい」という外発的要因です。もっとはっきり言えば子どもに自己主張を「諦めろ」と伝えているということです。過激なようですが、分析すればそういうことになります。当然ながらこの経験が重なっていけば、やがて内発的な意欲は弱まっていきます。「みんなと一緒」を強制されるので、やがて大人に対して諦めてしまうからです。子どもによってははっきり言う子がいます。「どうせ、やらせるんでしょ!」何を言っても私の話は聞かないじゃない、と幼児期から大人を見限っているのです。あるいはいつも顔色を伺い、作品を作るといつも誰かのコピー作品となります。「好きにしていいのよ」と言われると困ってしまい、何もできなくなります。それを我が子の成長した姿として親は望まれるのでしょうか。

「良い子」の基準は国や文化によって異なります。日本では「言うことをきちんと聞ける子」、「指示に従える子」、「集団の和を乱さない子」が良い子として認識されます。逆に言うと、そういう子に育てる親こそ「立派な親」であり、そういう子にしつけた教師は「優れた教師」と評価されるということです。卒園近い年長児は先生から言われます。「もうすぐ一年生なんだから」、「もう一度年中さんになる?」と、周りに合わせられない子は追い立てられていきます。厄介なのは、この同調を求める大人の声が子どもへの「愛情」から発せられているということです。

だからこそ申します。その深い愛情をもって、子どもの目を見てください。みんなの方ではなく、あなたの愛する子の目を見てあげてください。子どもと目を合わせてみてください。「みんな」という言葉で論点を曖昧にすることなく、子どもの目を見て、「どうしてうまく切り替えることができないのか」を考えることに愛情を費やしてみてください。真剣に子どもから聞く姿勢で接してみてください。

はっきり言えば、これは時間も手間もかかります。うまくいかないという思いに何度も苦しみます。周りから「ちゃんと子どもにやらせなさい」という非難を浴びます。「みんな」という言葉にとらわれた人から冷笑されるでしょう。しかし、これを繰り返すことによって自発的な「集団への協調」が必ず育ちます。5歳頃には、子ども自身が集団の中で自分がすべきこと、すべきでないことの境界線を見つけていくようになります。集団で遊ぶ機会が増えれば、どうすれば集団の良好な関係を保つことができるか、目を合わせた知的な意見交換を学んでいきます。自分のやりたいことと集団が求めていることの誤差を意識し、その誤差を自分の物差しではかり、許容範囲を把握し、自分自身で自分を律していく力を得ていきます。

2018年10月17日

学ぶ―運動と知性によって

「自分が主人公」となって活動する時期である幼児期は、その発露として「様々な動きを身に着けたい」という望みがあり、そのために全力で取り組みます。そして、それと同時に心の中で燃え上がっているのが「知性」への情熱です。

人間の知性を非常に単純に言い表すと、「分ける」ということです。続いて、分けたものを「集める」、分けたものを「較べる」、分けたものを「合わせる」といったことがあります。これらの「分析」「集合」「比較」「対応」という論理的作業から、数学的知性が展開していきます。そして、これらも自発性に支えられて発展していきます。

「様々な動きを身に着けたい」と欲求するときも、子どもは滅茶苦茶に動くのではありません。「知性」に従って動きます。動き方を知るということは知性を用いて「学ぶ」ことに他なりません。子どもが自分の目で見て、動き方を「なるほど」と理解し、「自分でやってみて」、「どうすればうまくできるか」を試行し、ついに「動き方を獲得する」ということは、言い換えれば「学び方」を「学んだ」ということです。「学ぶ力」を育てたということです。だから知性を育てようと思うならば、子どもが自分で「動き方」をよく見て、自分で取り組めるような機会をたくさん与えることが大事です。

しかし、今日では幼児期に単に計算や読み書きができたことを「知性」の成長と思ったり、子どもが自分でできるように「動き方」を教えるかわりに、大人が代わってやってあげたり便利な道具で代替しようとします。しかしその時に「知性」と見えるものの本質は「学び」ではなく「暗記」です。

子どもは「もっと完全に、もっと大きく、もっと早く、もっと強く、もっと美しく動きたい」という心から湧き上がる熱情をもっているのです。そのために、「どうすればいいのか」を注意深い観察と「知性」の法則によって理解しようとしています。この強い望みと力が生き生きと発揮されることに手間をかけることが理にかなっていのではないでしょうか。

2018年10月19日

大人の共感

幼児期の発達は、それぞれが独立して発達するのではなく、必ず関連するものすべてが発達します。例えば一つの運動でも、それは単なる運動能力の発達ではなく、知的能力、社会性なども関連しながら発達していきます。

だから、どんな分野ものでも「やらなくてよい」ものと言うのは基本的にありません。外から判断できる子どもの興味や習熟には個人差があるので、大人が判断して「興味がなさそうだから」という理由で取り上げるのは、将来相互に関連して発達する要素をなくしてしまうことになるかもしれません。

では逆に、何でも体験の場を与えれば勝手に子どもは成長していくのでしょうか。それも違います。幼児期の子どもの好奇心は、大人との応答によって大きく育っていきます。子どもの発する「なんで?」は、自分の問いかけに向き合ってくれる、言い換えるなら共感してくれる相手に向けた信頼の言葉です。そういう相手がいなければ、「なんで?」と問うことをしなくなります。そこで子どもの興味は終わるのです。

これは大人も同じです。自分の興味や関心に応答してくれる相手がいれば、そこから更に新しい思考や発見が拡がっていきます。逆に、周りに共感や受け入れてくれる相手がいなければ、興味は広がりもしなければ深まりもしません。

子どもの育ちの原体験は信頼する大人とのやり取りにあります。共感され、受容され、応答されることが、子どもが体験してきた様々なことを子どもの中に刻み込みます。そして蓄えられた原体験がやがて新しい体験の刺激を受け、関連し合って子どもの全体的な発達につながっていきます。子どもたちにとって共感してくれる大人と、その大人への信頼はとても重要なことなのです。それは同時に、信頼する大人と一緒に過ごす時間が重要だということです。

2018年10月19日

ある日突然に力が出ます

昔から、スポーツの秋、芸術の秋、食欲の秋等々、秋は私たちを様々な意味で豊かにしてくれる季節です。夏休みとは違った様々なことをお子さまと一緒に体験される機会を持たれることだろうと思います。

子どもの興味や力は、いつどこで開花するかは分かりません。それまで見向きもしなかった様子だったのに、ある日突然のめり込んでいくということが起こります。幼稚園でもそうした姿を見ることがよくあります。

お絵描きに全く興味を示さなかった子が、マーブリングやデカルコマニーを経験して絵の具に夢中になるということがあります。あるいは、これまでは幼稚園が用意してきた画材を利用していたけれども、年長になって「自分の」画材を持つようになったら、俄然熱心に取り組むようになったということもあります。体操の時間はつまらなそうにしている子が、園庭遊びに飛び出すと真っ先に鉄棒に向かっていって前回りや逆上がりに黙々と一人で挑戦することがあります。大人が良かれと思って準備したものがある時には関心なさそうに見えたのに、ずいぶん後になって、自分から要求し、夢中になって取り組むようになるということはよくある光景です。まるで想定していなかった子が、どの子よりも興味を示して独占して取り組み始めるということも起こります。

大人の側は、その場で「興味なさそう」、「この子には向かないようだ」と子どもの個性を決めてしまいがちです。そうしなければ「やってられない」気分になります。しかし、幼稚園で子どもたちの成長を見守っていて思うのは、子どもの興味や力がいつ開花するか予想がつかないし、子どもの得意・不得意は実際には誰にも分らないということです。大人ができることは、この「いつ」「どこで」「何を」花開かせるか分からないもののために、「たくさんの機会を準備する」ことしかありません。そして、子どもが我を忘れてのめり込む対象に出会ったなら、それを継続できるように環境を守ってあげることが大人の役目です。

子どもの伸びる力は、何事も吸収していく力が強い幼児期に「幅広い原体験」を得、それらが相互に作用しあって生まれます。

運動についても、動きの多様性が幼児期の運動の課題ですから、単一のスポーツをさせるより、幼児期には遊びを通して「こんな動きもできるんだ」という様々な種類の動きを幅広く経験させる方が大事なことです。のちに一つのスポーツにのめり込んだ時に、それが地力として成長を支えます。

幼児期は、繰り返し練習させるようなドリル的な教育よりも、違う種類のものを沢山経験させる方が、将来良い影響を与えると感じています。そもそも、どんなに心を尽くして準備をして様々な体験を提供しても、幼児期に得るものよりも遥かに大きく多様な世界がこの後の人生に待っているのです。幼児期の姿から、「この子は人づきあいが苦手」、「この子はスポーツが苦手」などと個性を決めつけるのはおかしなことです。「『今は』お友だちとお話しするのが苦手のようですね」、「『今は』サッカーよりもお部屋で工作をしている方が好きな様子です」、こんなふうに幼稚園の先生たちは子どもの成長をとらえます。

今年の秋も沢山の原体験をされますように。そこに何一つ無意味なものや無駄な時間はありません。

2018年10月20日

失敗を伝える

先日届いた雑誌(『保育ナビ』2018年11月号)の記事に、こんな一節がありました。

「今の子どもの教育に必要なのは、『失敗と挫折』だと私は思っています。今のお母さんたちは『失敗してはいけない』『間違いなく』『キチンと、早く』と、失敗しないことにとても一生懸命です。でも、親が自分の経験した失敗や挫折を、どれだけ子どもに語れるかのほうが、実は大事なことなんですね」(大日向雅美先生 恵泉女学園大学学長)。

子どもの経験に失敗はありません。何度もこれは繰り返しお伝えしたいことです。「失敗」は「学び」です。必ず成長の糧になります。だから、勇気をもって、必ず失敗するだろうと思えることも、挑戦させることが大切です。

見込み通り失敗しても、その時に「ほら、やっぱりできなかったでしょう」と言われたら、再度挑戦する意欲を損ないます。ですから、「お母さんもできなかったことがある」、「お父さんもできなかったことがある」、と失敗の経験を伝えてあげでほしいです。失験は必ず誰にでもあることを伝えて、失敗は「悪」ではないことを教えることが大事です。失敗を続けて、それでも挑戦を重ねると、工夫が生まれます。改善が生まれます。これこそが「学び」です。

どんな挑戦であれ幼児期の子どもにとって全てが「本番」です。「失敗してもいい」と挑戦する子はいません。「これは遊び」、「これは真剣」、という区別はないのです。いつでも成功を目指す挑戦です。「遊び」は「遊び」という名の本番です。「練習」も「練習」という名の「本番」なのです。いつだって子どもは成功を目指しています。だからこそ、失敗を成長の糧にすることができます。

大日向先生は、教育には「失敗と挫折」が必要だと言われました。私も教育を与えられている期間に、たっぷりと失敗し、工夫と改善に熱心に取り組めることが大事だと考えています。「失敗させては可哀そう」と「できること」だけを与えられるということは、成長の機会を奪われているのに等しいのです。子どもにとって最大の成果は成長することです。成功することではありません。そして成長とは、これまでの枠を超える挑戦から得られるものです。できることというのは枠の中のものです。そこには成功はあっても成長はありません。しかし、成長するには失敗の可能性を引き受けて挑戦する必要があるのです。

この挑戦に向かう子どもにとって安心を与え、力を励ますのは、失敗し、挑戦を続けて成長を獲得した憧れの「大人」の姿なのです。

2018年10月22日

憧れを守る

「憧れ」は子どもの成長を促すとても大きな力を持つ感情です。親、家族、お友だちや先生等の人との関係性を発達させた子どもは「憧れる気持ち」を抱くようになります。その対象は多くの場合、原点に母親、そして父親があり、さらに人に限らずキャラクターや年齢が上の子どもなどに広がっていきます。

「憧れ」は単純に表現すると「~みたいになりたい」という気持ちです。それが自分を前進させるための大きな原動力になります。「~に憧れなさい」と子どもに指示したことのある人はいないと思います。「憧れ」は人に指示されずに自分の内側から取り組む内発的動機に属します。しかしそれと当時に憧れの対象から気持ちを引っ張り上げる外発的動機づけをもらうところもあります。内発的動機と外発的動機が結束して育ちの原動力である「憧れ」となります。そして、「憧れ」は子どもに自律性による行動の変化をもたらします。

育ちにおいて大きな力となる「憧れ」を守ってあげることは、大人の大切な義務です。そして、「憧れ」を通して多くのことを学び取っていくことを子どもの育ちのために用いない手はありません。「静かにしなさい!」と叱るかわりに「忍者になって行くよ。見つからないようにね」と声をかける方が子どもにとって行動が具体的に伝わります。

しかし乱用することは禁物です。小学校入学前の年長のお子さんに「もうすぐ一年生になるんだから、お弁当を残さず食べられるよね」とか「もう一年生になるんだから一人でできるよね」といった声掛けが頻繁に行われます。そこで注意して欲しいのは、「憧れ」を抱いている子は「憧れ」の対象にまだ追いついていない、ということです。頑張って憧れの対象に近づこうとしている子に、あまりにも憧れを刺激する言葉を乱用すると「一年生になりたくない」とむしろ幼さに戻ってしまうこともあります。

そして、これは同時に「憧れ」の対象に近づくために「失敗」をすることを恐れさせないことでもあります。「失敗」は「悪いこと」ではありません。「憧れ」に近づくためのステップです。過度に憧れを刺激することは、完璧主義に陥らせ、「失敗」を恐れさせることになり、やはり「憧れ」を失うことになりまねません。子どもの憧れの原点である母親や父親が、自分自身の失敗体験についてお話しできると良いと思います。何かを達成するというのは、いきなりできることばかりではないこと。何度も練習してできるようになること。時にはうまくいかなくて「諦め」なくてはならないこと。こういった経験はマイナスイメージでとらえられ、子どもにとってこれは「避けるべきもの」となります。そんなときに、誰でも最初はうまくできないということや、少しづつ上手になることを身近な大人が見せることができれば「憧れ」は守られます。

<参考>「発達教育2018.10」号特集『人と関わりたい気持ち、人に憧れる気持ちを育てる』安住ゆう子

 

2018年10月24日

余白をつくる

子どもに沢山の体験をさせることはとても大事なことですが、それと同時に「余白」を作ることも心に留めてほしいと思います。

「余白」とはスケジュールの「余白」です。子どもが活動や体験の間にのんびりと自分に向き合える時間という意味です。子どもの内発性や創造性を誘発するための時間的な余白ということです。子どもは幼児期に活動や体験に没頭して取り組むことが肝心です。だからこそ逆に、「何も計画されていない時間」が大事になります。そのような時間を十分に得た子は意欲的に活動に取り組む内的な力を蓄えます。

しかしこういった「余白」は、かなり自覚しないと作れないことが多いです。大人もそうですが、実は子どももスケジュールがいっぱいということはよくあります。幼稚園を降園したらすぐに習い事、次にお教室、家に帰って食事をしてお風呂に入って寝る時間。そこにある隙間時間は移動の時間ということがよくあるのです。大人のスケジュールに子どもを一緒に連れていくということもあるでしょう。だから、意識して子どものために「余白」を作る「気持ち」を持つことが大事です。それは同時に子どもと過ごす大人が子どもの「余白」を一緒に過ごすことに他なりません。

この「余白」は子どもたちの中に「楽しかった」「面白かった」という気持ちをゆっくりと浸透させる時間です。この時間が削り取られると、せっかくの体験を「やりたくない」と拒否し、主体性を失った活動にしてしまうことがあります。だから一日、一週間、一か月、一年といったスケジュールに「余白」を必ず設けるつもりでいるのが良いのです。西荻学園幼稚園は大胆な「余白」である「夏休み」「冬休み」「春休み」を持ち続けています。この期間は「預かり保育」をしません。一日の中でも、練習帳のような短時間の活動を幼稚園の主活動の「余白を埋める」ために使うということもしたくありません。自然体験のようなものを除けば、発表会のような行事は多すぎては良くありません。それらのために日常の幼稚園活動の「余白」が「余白」自体が大事な保育スケジュールの要素なのです。

子どもの育ちのために、大人である私たちには次々と「与えたいもの」、「見せたいもの」が沢山あります。しかし、何かを「しない」と決めることも与えることと同じくらい重要なのです。

2018年10月25日

子どもの挑戦を手伝う

子どもが何か活動に没頭しているとき大事なことは「口を出さない、手を出さない」ということです。見守ることが大事です。しかし、やがて子どもの挑戦が限界を迎えたときには、「お手伝いしようか?」と幼稚園の先生は声をかけます。

もちろん、そのお手伝いとは先生がやってしまうということではなく、例えば子どもの手を取って一緒に行うことなどを意味します。あるいは、課題を一つだけゆっくりと子どもが見られるようにやってみせるのです。

そういったタイミングはどうやって計るのかと思われるかもしれません。先生は一人につきっきりというわけにはいきませんし、子どももそれを求めているわけではありません。しかし、子どもの方からどうしても助けが必要な時にサインを出すのです。先生に声をかける子もいますし、「ふー」と大きくため息をつく子もいますし、きょろきょろと周りを見回す子もいます。サインは様々ですが、これまで没頭していたものから視線が外れるといった様子が出ます。その時に「お手伝いしようか?」と声をかけるのがちょうどよいタイミングであり、それまでは声をかけずに距離感をもって離れているのが良いのです。

「お手伝いしようか?」と声をかけても、もう少し自分で頑張りたい子は「あっちに行って!」と言ったり、聞こえないふりをしたりします。そのときはまた距離を離して見守ればいいのです。子どもは大人を信頼していれば、助けが必要な時には声をかけてきます。

西荻学園幼稚園の方針の中で「丁寧・適時・適所なかかわり」というのは、このような子どもの自主的な活動に対する先生の姿勢を意味しています。

ところで、このように助けが必要となった子に、先生はなるべく早く応えようとしますが、場合によっては他の子の手伝いをしていることもあります。そんな時は、「これが終わったら行くから、それまでもう少し自分でやってみて」と、順番を明確に伝えて自分なりの試行錯誤をしながら待つようにうながします。もちろん次の子がいるからといって、今向き合っている子を疎かにはできません。理想は「その子にもまんべんなく、助けが必要な子にしっかり時間をかける」ということです。しかし、そのために子どもは「順番待ち」をしなければなりません。

かわいそうに感じられるかもしれませんが、待たせてしまう子は次の機会に優先してあげます。また、試行錯誤をしながら待つように促すと、その間に一瞬でも課題から気持ちを解放したことで、取り組んでいた活動への新しいアプローチを発見して解決してしまうことも少なくありません。「もうできちゃったよ」と得意な顔の子に、「先生はあっちに行って」と振られることも多くあります。

兄弟姉妹のいない子どもの中には自分の番を「待つ」ということに慣れていないために、無理に先生を引っ張っていこうとする子もいますが、先生が必要な時に丁寧にかかわることを繰り返していくうちに「待つ」ことができるようになります。

2018年10月26日

習い事をやめると『やめ癖』がつくか?

子どもが習い事を始めると、一度は「やめたい」と言い出します。親としては、「せっかく始めたのだから、もう少しがんばりなさい」と励まします。しかし、「やめたい」と子どもが言ったときには、安易に励ますより、親も一旦立ち止まって考えてみるのも悪くありません。

なぜ、「やめたい」と言い出したのでしょうか。他にも習い事や教室が多すぎて子どもが疲れているのかもしれません。何事も、意欲のない時に無理にさせても成果は上がりません。それどころか「二度とやりたくない」と悪い印象として残ってしまうかもしれません。

また、子どもに習い事をやめさせると、「やめ癖」や「あきらめ癖」、「逃げ癖」がついたり、あるいは「挫折感」に苦しまないかと心配される保護者もおられます。

結論を言いますと、習い事をやめたから幼児期の子どもの発達に悪影響があるということはありません。

橋井健司先生がうまいたとえを使っておられました(「世界基準の幼稚園」光文社)。「やめたい」というのは、いわば車のブレーキを踏んでいる状態なのだそうです。そこで無理にアクセルを踏んで前に進んでも、故障の原因にしかならないでしょう。まずは親も落ち着いてなぜ子どもがブレーキをかけているのかを察知する余裕を持ってほしいと思います。

その上であえて申しますが、「やめる」という捨てるものを決める決断は、前向きな決断だと思います。「何をしないか」を決めること、「いらないもの」を見分けること、「捨てるもの」を決めることは前向きなことです。

驚かれるかもしれませんが、幼稚園と習い事や教室で一日のスケジュールがいっぱいで、子どもが疲れ切ってしまうようでしたら、いっそ幼稚園をお休みされてはいかがでしょうか。ぎっしりの隙間のない一日を無理して生きるより、よほど子どものために良いことです。私は子どもにとって隙間のないスケジュールは危険だとすら思っています。そういう子どもは、明らかに心が消耗しているのです。

その上で、子どもの体力や知力や経験を考えるとスケジュールが物足りなくなったと思われたら習い事を考え始めてもよいのではないでしょうか。

心理学用語に「レディネス(readiness)」という言葉があります。「学習活動に効果的に従事することを可能ならしめる学習者の心身の準備状態」(ブリタニカ国際大百科事典)のことを意味します。

子どもが習い事に興味をもって「これをやりたい」といっても、レディネスが整っていない中途半端な状態のこともあります。そのような状態ではじめても、長続きできず飽きてしまいます。あせって習い事を始めても成果はないのです。それでも「もう少しがんばって」と親は願われるでしょうが、そのような時は早くやめて出直した方がいいのではないでしょうか。

2018年10月29日

秋の恵みをいただいて

肌に感じる風も少しずつ冷たくなり、秋の深まりを感じます。この季節は、園庭で遊びまわるには最適な気候です。戸外での活動をたくさん取り入れていきたいと思います。

先日の運動会では、たくさんのお手伝いとご声援と拍手をありがとうございました。運動会を経験し大きく成長した子どもたちは、活動も自信に満ちて大きく力強くなってきました。これまで、離れてお友だちの様子を見ていた子が積極的に遊びに関わってくるようになりました。下の年齢の子たちが、上の年齢の子たちの遊びを真似して自分たちで遊んでいる姿も多くみられます。自分たちを真似する下の年齢の子たちのお世話をする上の年齢の子たちの優しい姿も見られます。譲ったり、譲られたりといった交渉とコミュニケーションの場面も少し深まってきました。異年齢の子との交流を多く経験することは子どもたちの育ちの力を強く刺激しています。日毎に伸びる子どもたちの姿に教師も喜びを感じています。

秋は様々な実りを子どもたちにも大人にも経験させてくれるうれしい季節です。お芋掘りでは、子どもたちの顔ほどもある大きなお芋を掘り出して、親子一緒に喜ぶ姿もありました。季節や自然が与えてくれる恵みを親子で一緒に喜ぶことは、何よりも子どもたちにとって幸せな経験です。季節感や幸福感という「言葉で言い尽くせないもの」が、子どもたちに伝えられています。

(11月の園だよりから)

2018年10月30日

手を使いましょう

子どもが幼児期に主体的に遊びを始めるためには「下準備」が必要です。たとえば、スポーツ選手は試合のために体を鍛え、筋肉を自分のイメージの通りに動かすことで自在に肉体を活用します。

子どもも幼児期に体をたくさん使って遊びます。つまり考え方はスポーツ選手と同じです。違いは、子どもは意識的に必要な準備を選んだり、行ったりできないということです。そこで大人の意識的なサポートが必要になります。もちろんこれは何でもやってあげるということではありません。

幼児期を通して「下準備」として意識されると良い第一のことは、「毎日できるだけたくさん手を使うように習慣づける」ということです。単純なことと思われるかもしれませんが、これは子どもが人として生活習慣を身につける上でも欠かすことのできないほど重要なことです。

西荻学園幼稚園では、お当番として欠席の連絡を園長まで知らせに来てくれます。その際、事務室の扉を開けるのですが、子どもの多くは扉のノブを開けられません。最近は扉を回すノブではなく、レバー式のものが多くなったために、そもそも扉を開けるために「ノブ」を回す必要があることを知りません。そこから教えます。「目で見たノブを手でつかむ」。これが第一段階です。ノブを握ったら、その手を回転させます。これが第2段階です。最後に回転させた状態を維持して手前に引きます。これが第3段階です。そうして初めて扉が開きます。同じことが回すタイプの水道を使う時にも起こります。加減ができないので、水浸しにしてしまうことが続きます。はさみを使ったり、折り紙をしたり、のりを適量つけたり、こういった活動も同じです。これらの動きを完成させるために必要な下準備が、手をたくさん使うということです。

いっそレバー式にしてしまうということも考えました。実は大人にとってはその方が「楽」なのです。しかし、「毎日できるだけたくさん手を使うように習慣づける」という下準備をしっかりして、できることを増やす方が大切だと考えてそのままにしています。

私たちが日々の生活の中でどれだけ手を使っているかを考えてみてください。朝起き上がり、洗顔し、服を着替え、食事を作り、食べます。考えるときも、書いたり、本をめくったり、パソコン、スマートフォンやタブレットを操作したり…と殆ど間断なく手は使われています。

手を使うことが「できることを増やす」ために必要です。できることが増えると、子どもは自信を得て自立していきます。自分から「やりたい」という意欲を抱き、それを実現するための創意工夫が起こります。そのために手をたくさん使って動きを向上させることが大切になります。そしてそれは単に肉体的な面だけでなく、内面においても豊かなものをもたらします。手を使う習慣を普段から積極的に取り入れてほしいと思います。何でもやってあげるのではなく、できることを積極的にさせることです。

2018年10月31日

子どものこだわりを理解するヒント

幼児期の子どもは、時として大人には理解しがたいほどの「こだわり」をみせることがあります。それらはやがて必ず環境に適応することで収まりますが、その間に子どもの内でどんなことが起こっているのでしょうか。

幼児期の子どもにとって、まだまだ世界は初めてのことに満ちています。目に映ること、耳にすることが未知のものばかりです。この時の子どもの置かれている状況を理解するには、今まで一度も行ったことのない世界に放り出されたと想像してみてください。

手がかりが何もないのです。地図もなく、言葉もわからず、時計もない。そんな「知らない世界」に放り出されたら、私たちはどうするでしょうか。必死に周りを観察し、僅かでも手がかりとなることを見つけたら、それを目印にして動こうとするでしょう。探検に出かけても、必ず見知っている目印を手掛かりにして戻って来ようとするでしょう。そうやって自分で地図を描き、自分で言葉を理解し、そこにいる者たちと手探りでかかわっていくのです。それが、幼児期の子どもたちの毎日なのだと考えてください。

もちろん「ガイド」として大人が傍にいることは大きな助けになるでしょう。しかし、このガイドは同時に「わからないこと」が待ち構えている世界に子どもを押し出すのです。知らない世界を進んでいくのは不安なことです。そこで、目印となることを一つ一つ繋げて秩序立てていきます。それは安心を作る作業です。

ここで、もう一つ想像してみてください。そうやって苦労して秩序立ててようやく適応しようとしている環境を、そうとは知らない誰かに壊されてしまったら、つまり目印となるものを取られたり、別の位置に動かされてしまったら、不安からパニックになり、癇癪を起こしても当然な気がしませんか。

幼児期の子どもは、物事を行う順序がいつもと違うと癇癪を起し、いつもの場所にものが置かれていないと怒ったり、物をきっちり同じ向きで揃えないと落ち着かなかったりします。大人にとっては、なぜそんなことが気になるのかと思うような些細なことにこだわります。しかし、上記のように子どもとってはそれが一大事なのです。

子どもこだわりに全て付き合っていられないというのが、大人の正直な気持ちでしょうが、この幼児期の子どもの気持ちを理解しているのといないのとでは大違いです。

こだわりはそう長くは続かないと言われますが、1年以上様々なこだわりを見せるのが普通です。この時期はイライラすることでしょうが、この時期にこだわりを通して「秩序感」を育てることが、人間の社会性を得ていくために大切な準備なのです。

2018年11月02日

大人の貫禄は子どもにもわかる

子どものころ、大工さんや植木屋さんの仕事を身近に見る機会がありました。祖父は金箔押しの職人でした。祖父の思い出は一緒にお正月に過ごした食卓と、金型を調整する神業のような職人の手仕事の情景です。職人の仕事を目にすると、飽きずに眺めていたことを思い出します。その時見た仕事の流儀が、時として自分の仕事を支え、ヒントを与えてくれることもあります。憧れた思い出が今も自分にとって大事な財産になっていることを思わされます。

年季のある職人の貫禄というのは、子どもにわかるものです。そこに至るまでに並々でない苦労があったことでしょうし、同じ道を目指しながら挫折していった仲間も多くいたはずです。その中で独り立つ職人というのは過酷な競争に打ち勝ってきた人です。

ちょっと見はヨロヨロしているお爺さんやいつも静かにほほ笑むお婆さんが、戦争中の体験を語られると、その説明の正確さと見識の高さに圧倒されます。人間として筋を通して生きている姿に「大人」とはこういうものだ、と知らされたものです。年月は容赦のないもので、こちらの予定にお構いなしに人生を削り取っていきます。そんな中で「大人」として生き抜く耐性を、昔は困難な時代の中で否応なく鍛えられたところがあったのでしょう。

哲学者の鷲田清一氏がこのように言っています。「かつては場数を踏み、痛い目に遭う体験を通して、生きていくのに不可欠な『見極め』がつく大人になりました。子供もさまざまな職業の大人を見て、生き方を選択できた。ところが失敗する可能性があらかじめ排除され、大人の仕事にも多様なイメージを描けません」(『おとなの背中』角川学芸出版)。さらに、似たような価値観の大人の背中しか見えなくなった結果、子どもたちは「万能感」か「無能感」のどちらかの両極端に生きるようになった、と述べています。

今は、昔はなかった「選択の自由」が与えられています。自由が与えられているからこそ、その中で貫禄ある「大人」になることは指標を失くしたように思われます。しかし、そんな時は幼い子どもと向き合ってみることです。幼い子どもから好かれ、同時に畏怖、尊敬されれば「大人」です。そしてそんな大人が子どもに「憧れ」という財産をもたらします。それは「万能感」の下品さと、「無能感」の諦観の沼から子どもたちを引き上げる「恵み」となるのではないでしょうか。

2018年11月05日

子どもはやりたがっている

「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」これは山本五十六の言葉と伝えられています。人の成長を考えるときにいつでも思い出すべき、暗唱して心に刻み付けるに足る言葉です。私の経験からも、この言葉の一節のどれかが欠けたときに私自身が人の成長の妨げとなったことを反省させられることがたびたびあります。

幼児期の子どもたちに接していて感心するのは、「できる」ことへの気持ちの強さです。例えば、コップを傾けて水をそそぐ。水道の蛇口をひねって水をバケツに汲んで砂場までこぼさずに運ぶ。砂山をつくって、トンネルを繋げるにはどうしたらいいか。登り棒の上り方。鉄棒で前回りをすること。歯ブラシをつかって歯を磨くこと。手を洗うこと。

大人となった私たちが「ちゃんとやりなさい」、「自分でできるでしょ」の一言で指示してしまいがちな殆どの動きも遊びも、子どもたちは「知らない」のです。私たちには勝手な幻想があって、年齢とともにできることが自動的に増えると何故か思ってしまうのですが、「増える」のではなく子どもが「できるようになりたい」と思って増やしてきたのです。だから、「やってみたい」という要求に十分に応えてもらえなかったことは、うまくできなくて当然です。だからこの「できるようになりたい」と望んでいる子どもたちの気持ちに応えることが幼児教育では非常に重要になります。それではどのようなことに気を付けたらいいでしょうか。

それは、子どもが「自分の目」で見て、なるほど!と「わかって」、自分もやってみようと「やってみて」、自分自身の成果に「満足する」、というプロセスを実現していくことです。このプロセスを大事にすると、単に「できるようになった」というだけでなく、「学んだ」ことになります。つまり、「できた」ということと同時に「学び方」を学ぶことにつながります。

子どもが良く見て、自分で取り組めるような伝え方を考えてみると以下のようになります。

① 教える「うごき(行為)」をできるだけ一つに絞り込み、子どもの注意をそらす余計なものを取り除く。

② 子どもに伝える動作を分析し、各動作を、はっきりと、ゆっくりと、正確に順を追って実行して見せる

③ 難しいところを確認し、特に丁寧に、正確に、ゆっくり、繰り返して、見せる。

④ 見せるときには、言葉を使わない。子どもを「見る」ことに集中させる。

⑤ 伝えるときは言葉に頼らずに、動作を正確に実行して「見せる」ことに集中する。

⑥ 間違いをその都度訂正することは心を怯えさせるので、子どもがやっているときは声をかけない。

⑦ うまくできなかった時は、もう一度、繰り返し、正確な動きを、ゆっくり、丁寧に「見せる」。

⑧ 子どもが自分自身ではじめる自由を与える。

分析すると8項目にもなりましたが、一つ一つは「できる」大人にとっては決して難しいことではありません。むしろ、大人にとっては難しいことではないので子どもがうまくいかないと焦れてしまうのです。そこで子どもから取り上げて間違いを指摘したり、代わりにやってしまいます。けれども、それこそが子どもの「学び」の機会を奪う最大の敵です。大人が「焦れる」と、子どもはうまくできないことを「悪いこと」と感じて、失敗を恐れてやらなくなります。それは一番避けるべきことです。

正確に、ゆっくり、丁寧に、繰り返し、見せる。それに加えるならば「できると信じる」こと。これが大事なのです。

2018年11月07日

クレーン現象

「クレーン現象」という言葉があるそうです。子どもが「お母さんがして~」「先生がして~」と、まるでクレーンの先で物を取るように、親や先生の手でしてもらおうとすることだそうです。

子どもは本来「自分でする」と言う気持ちが強いものです。そこで大人が手を出してやってしまうと不機嫌になり、泣き出したり、怒ったりします。そのような子どもたちがいつの間にか「やって~」「して~」と、人の手をあてにするクレーン現象にかかっているのです。

子育てにおいて大事なことはなにかと聞かれれば、「自立」と「自律」と応えます。「自分の手を使い、自分の頭を使い、自分のやりたいように進める」という活動を繰り返してきた子どもは、「自分でする」というあの強い気持ちを持ち続けます。それは「自律」を身に着け、「自立」を目指して一歩一歩進んでいる姿です。「お母さんがして~」「先生がやって~」という子どもと比較すると、「自分を使い、自分でやりたいようにする」子どもの方が強い生命力を感じます。

一頃、ビジネス書で「タイムマネジメント」ということが流行りました。正直言って、最近のビジネスマンはこの程度の見通しも計画も立てられないのかと驚いたものです。幼児期以来の日常の積み重ねが大人になって影響しているのではないか、と考えてしまいます。

幼児期に「遊び」という環境の中で、自分で考えて遊び、実行し、考えて工夫する、という一連の活動を自分のやりたいようにやってきた子は、自分の生活、つまり限られた「時間」を管理する「自律」を身に着けていきます。優先順位をつけ、出来るものから片づけて、必要性を自分で判断してやり通すという「人間力」を発揮できると信じています。

そのために、子どもの「自分でする」という生命の要求に応える大人の工夫と努力は大事なのです。

 

2018年11月08日

自立とはどんなことか

介護保険を通してサポートを受けられる方の立ち合いをお願いされて行ってきました。ケアマネジャーの方が熱心に介護サポートをお勧めする姿を見ながら、そこで使われる「自立」という言葉が「自分でできる」ということに意味が限られていることに気が付きました。「~ができる」、「~へ移動できる」といった具合です。介護の現場では安全という意味でそれでよいのでしょう。

しかし私が度々使う「自立」、つまり幼児教育における「自立」はただ「自分でできる」ということに限りません。「自立」とはもっと全人格的なものです。その人の感性、知性、理性、意志、肉体を駆使するものです。

「自立」は、自分自身に対する自信や確信に基づく安心があり、周囲の人や物と安定した関係を築いており、自分で選択し、責任を取ることであり、それらの実現のため行動に挑むことです。このすべてがあって自立が成り立ちます。必ずしも「自分でできる」ことが全てではありません。そこに自主性がなければ「自立」ではないのです。

この「自立」へと向かうために、かならず子どもがたどる「道」があります。まず自分からすすんでかかわること、次にそのかかわったことを続けること、続けているうちに単なる運動が感性、知性、理性、意志を駆使するものとなっていきます。そして、満足を実感して終了します。この段階を経て、自分自身に対する自信や確信を得ると、子どもの人格が奥底から変わっていくのです。

集団保育の現場で、優れた教師は「指示」の下で子どもたちを動かすことをしません。初めに子どもたちの興味を引くいくつもの方法を用意して、子ども自身の「やってみたい」という気持ちを引き出します。例えば競技や、劇や合奏、歌の時です。人に動かされるのではなく自分から決めて始めることができた子どもは、人に依存せずに取り組みます。やがてその活動の満足や充足が、子どもの中に自信と確信を育て、人への親切へと発展したり、周囲への思いやりを発揮したり、より良いことをしようとする態度に繋がっていきます。自由を守られたことで、かえって規律意識を育てるのです。

一つの活動に集められたエネルギーが満たされ、集中した活動によって大きくなり、「やり遂げた」という満足を得ると、今度はその大きく膨らんだエネルギーが、人格の諸相に調和をもって再び分配されるのです。集中と調和のプロセスを通して人格は育ち、自立が得られます。

きっかけは大人の目から見ると生活上の小さなことかもしれません。しかしそこから育つ「自立」とは全人格的な営みの成果なのです。

2018年11月09日

生活のリズム

私たち人間は、それぞれにふさわしい生活リズムをもって生きています。リズムは生活習慣によって作られていきます。

健康な人は、多くの場合、日々の生活を快適にする生活のリズムをもっています。もちろん不規則な日もあるでしょうが、およそ食事、睡眠、日中の活動についてリズムを持っています。

食事は、栄養を考えて摂ることはもちろん大切です。それと共に食べることは心に喜びをもたらすものです。喜びをより大きくするため、あるいは悲しみを癒すために美味しいものを食べます。願わくは、食卓を囲んで家族が会話することができれば素晴らしいと思います。心を豊かにするために食事は大切な生活習慣ですから、食事時間も習慣化して生活のリズムを作ることが良いでしょう。

睡眠も食事と同様に活動の基礎です。トータルの睡眠時間とともに、夜は何時に寝て、朝は何時に起きるという毎日の規則的な習慣は子どもの心身の健全な発育のために非常に重要なことです。この「非常に重要」ということを真剣に受け止めてほしいと思います。幼児期の心身の発達の著しい時期に、脳や身体はリズムをもって活動し、順序正しく成長していきます。リズムが狂うということは、この「順序正しく」という成長が乱れるということです。具体的にはホルモンバランスが崩れます。子どもたちの脳や身体の成長は必要に応じたホルモンが多すぎず、少なすぎず、最適な量が分泌されることで健全に発達成長します。そのバランスの重要性は身体の成長発達期を過ぎた大人の比ではありません。よい睡眠のリズムはあらゆる行動に関係し、目覚めている日中の活動に力を与えてくれます。これまで、子どもの自主的な活動や、能力の獲得ついて様々書いてきましたが、それらは「良い睡眠習慣」があることで満たされるのです。子どもにとって規則的な睡眠がどれほど大切かは「寝る子は育つ」という格言もあるほどに、どの時代の親たちも肌で実感してきたのです。

最後に、幼児期の子どもが健康的な生活リズムを構成するときに不可欠な要素は「遊び」です。ほとんどの生命体は、規則正しい活動を繰り返すことによって生命を保ちます。幼児期の子どもにとって、食事と睡眠以外の生活リズムといえば、何といっても「遊び」です。

食べる、眠る、遊ぶという三つの要素が生活の中でリズミカルに定着することが、子どもが健康で幸福な日々を送る上でとても大切なのです。

2018年11月12日

人の間で生きる

「人間」の文字が表すように、私たちは人の間で生きています。たくさんの人とのかかわりを求める人も、少ない人との深い交流を求める人など、様々な人がいます。しかしどんな人でも他者との関係を通して自分の存在を実感します。人との交流を失って生きるのはつらいものです。そこで、子どもたちが人と交流して生きることに喜びを感じる力を育んでいくために大切なことを考えてみたいと思います。

幼稚園でも、遊んでいる子どもたちの輪の中になかなか加われない子がいます。親としては、そのような子どもに対して不安を感じられることもあるでしょう。しかし、ほとんどの場合心配はいりません。子どもは本来、信頼する人、安心できる人にしか話しかけませんし、一緒にいたいと思うことはありません。まず親や祖父母、幼稚園の先生たちなどに自分の意思や望むことを聞き入れてもらうことで、安心して話すことができるようになります。その後に、同年代の子どもたちとも話せるようになります。

このときに大切なことについて、児童精神科医の佐々木正美先生は、子ども言うことを「聞くこと」と「聞き入れること」とは別だということを言われています(『はじまりは愛着から』佐々木正美著、福音館)。「子どもが話しかけてきたら、何でもうなずいて聞くように心がけてください。親にとって都合の悪いことを言っても、それを頭ごなしに否定するような態度はけっしてとってはいけません。できるだけ穏やかな表情や言葉遣いで、お母さんはそうは思わない、そういうことは好きではない、と丁寧に伝えましょう」(同書58ページ)親や祖父母その次に先生と、少しずつ「思った事を素直に話しても大丈夫」と安心感を得ていけば、やがて友だちとなる同年代の子どもたちにもかかわっていけます。

子どもは親や先生、その他の大人から学ぶだけでなく、それ以上に近い年齢の子どもと学び合うことが重要です。それがさらに沢山の多彩な個性を持つ友だちと交流し、教え、教えられる機会をどれだけ持てたかという「量」が重要です。この点は、子どもの育ちの興味深い点なのですが、「質」より「量」ということが重要なことが沢山あります。いわゆる「親友」という関係は、幼児期・少年期を経て人間関係を成長させたところで得るものです。むしろ多彩な「量」が、遊びやおしゃべりを通して知識や経験や感情を数多く子どもたちに得させます。それが周りの人からの期待に応えていこうとする(例えばお手伝いを喜んでする等)自発的な活動を促します。

現代ではこういった子ども同士の交流は、大人が意識して大切にしてやらなければならないでしょう。大人から学ぶだけでは、子どもの心を動かせないことが確かにあるのです。それは友だちと共有する時間の中で与えられるものなのです。大人は子どもに、友だちの大切さを伝えることを怠ってはならないと思います。そのために、自分自身が誰かの良い「友」でありたいものです。

2018年11月13日

大人になるために―必要なものは代替できない

子どものころに十分な教育を受けられなかったとしても、健全な大人として立派に人生を全うした人は限りなくいます。しかし、子どものころに十分に遊んだ経験のないまま大人になり、ひきこもりや、対人恐怖や負い目に過剰なストレスを感じる人が非常に多くなっています。

子どもには、まず母親(母性)、次に父親(父性)、祖父母や兄弟姉妹ら家族、そして友だちや先生たちと交流を豊かに広げ、繰り返すことで生きていくことが大切です。この点は、未だに数学的に置き換えることのできない事柄です。数学的に置き換えられないということは、他のもので代替する手段が質的に「ない」ということです。

子どもたちにとって「遊び」は代替不可能な事柄です。大人は子どもたちに「教えることができる」ということを大きく評価しすぎていないでしょうか。知識や技術が増えることは価値のあることです。しかし遊ぶことに罪悪感を感じさせることは避けるべきです。

子どもの発達に遊びと交流は不可欠です。共感や感動などの人間性の発達に加え、規則や役割、責任、義務、道徳といった社会性の発達に有益な活動です。さらに、友だちとの遊びを十分に体験することで、人を信じる感情や自分を信じる心を育てていきます。

作詞家の阿久悠氏は新聞のエッセイで、子ども時代にやっておかなければならないことを全部すませてからでないと、しっかりした大人になることはできない、と書いておられました。

思春期や青年期を迎えてから気持ちを引き締めて努力しても、簡単にしっかりした大人になれるものではないでしょう。子ども時代にやるべきことをちゃんと経験しておくことが、大人になる前提なのです。

2018年11月15日

目先ではなく本質を考える

みやざき中央新聞(2762号)に掲載された「株式会社そうじの力」の代表取締役、小早祥一郎氏の講演から紹介します。

【以下引用 一部要約】
たとえば、「Aさん、あれはどこにあるんだっけ?」と言われたAさんが一生懸命ものを探す。「あれ、ここに置いたはずなんですけど、ちょっと探してみます」と言ってAさんがウロウロしてしまったら、それだけでAさんの力は100%発揮されなくなります。Aさん、Bさん、Cさんの力を結集すればすごい力になるはずなのに、ばらばらでコミュニケーションが取れていなければ力を発揮できません。掃除の目的はここにあります。要するに「100%の力を発揮するために」掃除をし、きれいにするのです。力を発揮するのは「個人」でも「家族」でも「職場」でも同じです。掃除は「きれいにする」こと自体が目的になってしまうことがあります。しかし、それはあくまで結果としてきれいになるものです。もう一つ、想像してみてください。道にゴミが落ちていた。「あ、ゴミだ」と気付いても通り過ぎることが多いと思います。でもゴミが落ちているのを見て、ちょっと立ち止まりしゃがんでそのごみを拾ったら、少なくともそこにあったゴミ、つまり「小さな問題」が解決したということになります。言い換えるなら、ゴミを拾うことは、自分に「小さな問題を解決できる力」があると思える行動です。つまり掃除は自主的な「問題解決力」です。自分が捨てたわけでも、自分が悪いわけでもない。「拾いなさい」と言われているわけでもありませんが、気付いて「自分がやればいいんだな」と思える力なのです。
【引用終り】

掃除をすることは100%の力を発揮するため。ゴミを拾えるのは問題解決力の証し。私たちは子どもに様々なことを指示します。例えば「おもちゃを片付けなさい」、「もう、お片付けの時間だから、やめなさい」、といった具合です。その時、指示をする私たちは目先の行動を目的にしていないでしょうか。しつけや教育といった課題を持つときには、こんなことでも立ち止まって考えてみる「癖」を持てると良いでしょう。

紹介した小早氏も、自分の仕事を立ち止まって考えています。その時に見えたのは、目先の善し悪しではなく行動の本質です。

「きれいにする」ことが目的になると、物を別の場所に移すことが「整理」になります。ゴミを別の場所に隠すことが「掃除」になります。つまり作業です。しかし、本質として「100%の力を発揮するために」を目的とすると、行動の結果は「成長」と「充実」に結びつきます。

子どもたちのために、自分が普段与えている指示がただその場を満たす作業を命じているのか、その作業を通して「成長と発達」に結びつく本質をとらえているかで、言葉遣いも何もかもが変わってきます。仮に、子どもがその指示に対してすぐに応じることができないときも、反射的に怒ることから解放されて、子どもの発達の段階を理解し、子どもの発達に適した指示を与えることができます。

2018年11月17日

教えたと言える状態

何度教えてもなかなかできない人に、「前にも教えたでしょう。」「さっき伝えたでしょう。」「何度も言わせないで。」こういう言葉をかけてしまいます。教えたことを理解していない相手を責めてしまう言葉です。

「教える」ことには常に「学ぶ」相手がいます。当然、教える側も学ぶ相手に合わせて工夫します。そこで「教えたつもり」になります。しかし、学ぶ人が理解する、あるいはできるようになっていなければ「教えた」ことにはなりません。厳しいですが、学ぶ側に結果がなければ「教えたつもり」になっているだけで、「教えた」ことになりません。

「教えたつもり」ではなく「教えた」といえるようなるには、相手を見る他ありません。教えた結果、学んだ相手が今までできなかったことができるようになったら「教えた」と言えます。乱暴な言い方をすれば、教え方はそこでは「問題にならない」のです。学んだ者の獲得する結果が全てです。

私たちは教える側よりも学ぶ側の立場が弱い、と無意識に思っています。また、そう思わせています。教え方が悪いと考えるよりも、「できないのは自分のせいだ」と考える傾向があります。これはすでに幼児期の子どもにも見られる傾向です。

「まじめにやってない」と決めつけられたのかもしれません。「やる気がない」と責められたのかもしれません。これではいつまでたっても「教えた」、「学んだ」といえる状態は訪れません。これは教える側にも学ぶ側にも、時間の無駄であり、不幸なことです。

学ぶ人に学ぶ気持ちがないなら、やる気を起こさせるところから教える者の責任は始まっているのです。教える人の責任は重大です。

2018年11月19日

なまはむめろんタップダンスコンサート

今日は、「なまはむめろんタップダンスコンサート」がありました。幼稚園のお母さま方のおはからいで、幼稚園の保護者も含むユニット「なまはむめろん」をお招きすることができました。子どもたちは音楽もダンスも大好きです。今日は一緒に歌っても踊ってもいいコンサートで、子どもたちも保護者の方々も、もちろん教師たちもみんな楽しい時間を過ごしました。

 

普段、ダンスの好きな子どもたちはお弁当の時間に他のクラスに行ってダンスを披露したり、園庭で遊んでいるときに一緒に踊ったりしています。おもしろかったのは、普段ダンスを踊っている子たちは、じっと座ってステージのダンスを凝視していました。代わりに、普段はダンスをしない子たちが一緒に踊って、跳ねていました。ブルースハープに興味をもって真似する子。特にブルースハープの歯磨きが楽しかったようです。「もう一回」とリクエストしていました。保護者からは、「この子がこんなにステップを踏んで踊るとは思わなかった」、「~くん、上手ね」、という声も聞こえました。保護者の方々も手拍子をして体を揺らして楽しい時でした。きっと、じっとステージを見ていた子たちは、明日から自分たちのダンスに今日見たステップを踊るのではないかと思います。お帰りの「さようなら」の挨拶の後、コンサートで教えてもらったタップダンスのステップを見せあって遊ぶ子や、お母さんに「見て」と言って自分流のダンスを披露している子もいました。

 

とても楽しいステージを準備してくださった幹事様、なまはむめろんの皆さん、ありがとうございました。

2018年11月20日

「真似」のすばらしさ

以前、何かの記事で読んだのですが、「真似」には「猿真似」という言葉がありますが、実は猿は生まれて後のごく短い期間を除いて真似が殆どできないそうです。逆に人間は猿と同じく生まれて後のごく短い期間の真似が見られなくなったあと、しばらくするとすさまじい勢いで真似を始めます。それが一生続くのだそうです。「真似」が上手で、「真似」の恩恵を最大に受け取っている生物が私たち人間です。

西荻学園幼稚園にも兄姉のいるお子さんがいます。兄姉のいるお子さんは、いないお子さんと比べると、技術や交渉や秩序感といった面では発達が進んでいることが多いです。これは、身近な年上の子の「真似」をしたいという強い動機が子どもたちにあるからです。この気持ちはどんな先生の指導力をも超えて子どもたちを突き動かします。新しいことに挑戦するときも、親や先生がどんなに促しても励ましても教えても、一向に挑戦しなかったお子さんが、上の年齢の子どもがそれをするのを見て、「自分も、自分も」と名乗りを上げて挑戦するということは幼稚園ではよく見られる光景です。固く閉ざされていた心の扉が、年上の子の声掛けをもらったり、楽しくやっている姿を見ると簡単に開くのです。

これが同年齢では、こういうふうにはいきません。意外に思われるかもしれませんが、幼児期の子どもは極めてプライドの高い存在です。同年齢のお友達のアドバイスを素直に聞くことはなかなかできません。しかし、自分より年齢が上の子どもとなれば、プライドが傷つくことはありません。その分、素直にアドバイスを受け入れられるのです。

そして、これは真似る側だけのことにとどまりません。真似られる側、アドバイスを与える側の子どもも、自分より年下の子であると、教えることに抵抗を感じないことが多いのです。逆に、同年齢では自然に競い合っていますから、「真似するな」と声を荒げるのです。ところが、年下の子が自分の真似をしているのを知ると優越感を感じます。「~ちゃんがやってるのは、私をまねしてるんだよ」と、わざわざアピールします。純粋な意味で、「誇り」がそこにあります。これも素晴らしいことです。

年長児の頃には、お友だちの間にはライバル意識も芽生えています。勝負事を望むようになり、勝ち負けに敏感になりこだわります。負ければひどく落ち込むこともあります。そんなときに自尊心を取り戻し、平常心を取り戻すために自然に年下の子どもたちと遊んで気分を切り替えて戻ってくるということがあります。どんな慰めよりも、自分が年下の子たちのあこがれの対象であるという自覚が子どもの心を修復します。

このことは、同時に「自分(あるいは年長)こそ幼稚園のリーダーだ」という意識を生みます。わがままを言ったり、片づけをしないと、年下の子たちから「A組(年長クラス)さんなのに、変だよね」と言われている場面も見られます。先生には色々と言い訳をしたり、無視したりしていた子が、年下の言葉を聞くととたんに動き出すのです。

「学ぶ」は「真似ぶ」から転じた言葉と聞いたことがあります。真似を通して「学ぶ」ことと「教える」ことを子どもたちは経験します。「真似る」、「真似られる」ことで子どもたちが得るものは多様で、どれも素晴らしい力を子どもたちにもたらします。それは幼児期や少年期だけでなく、必ず将来大人になっても力を発揮します。

2018年11月22日

ごっこ遊びの深さ

ごっこ遊びは、子どもたちの発達にどのような意味を持つでしょうか。保育関係の論文では、ごっこ遊びの意義を「他者理解」とか「役割取得」といった用語で分析しています。これは、子どもの想像力や協調性といった社会性の発達に影響を持つということです。

これは、今日ではむしろ「コミュニケーション力」を育むと理解する方がわかりやすいと思います。ごっこ遊びは不得手な子は、コミュニケーション力に関わる能力の発達が未熟なのだと理解できます。先ほど「想像力」や「協調性」という言葉を使いましたが、具体的には「お互いのイメージの共有」を目的とするために、相手のイメージを汲み取る力が必要であり、相手の伝えるイメージを説明する言葉を理解する読解力が必要であり、共感が必要です。さらにそれは一方通行のものではありません。自分の側から情報を伝える伝達能力や要求を通す交渉力と説得力が必要です。ごっこ遊びの中で自分がどんな役割を果たすのか。自分たちのごっこ遊びをする集団の秩序と境界線をどうするのか(例えば、「年中さんだけ」、「女の子はいい」、「先生はダメ」といったグループの境界線や役割上の秩序がごっこ遊びには必ず現れます)。

これは私の私見ですが、最近の企業では部署の「リーダー」を育てるために「ロールプレイ」を取り入れるところがあります。ごっこ遊びはそれに近いと理解するのが良いと思います。大げさに思われるかもしれませんが、ごっこ遊びで要求される能力はチームリーダーに求められる能力と同じです。

ごっこ遊びに参加する子ども同士が対等に交渉を行い、その中からごっこ遊びを牽引するリーダーが生まれていきます。しかしリーダーの地位は安泰ではありません。常に要求を突き付けられ、不平を言われます。そこで怒ったり、乱暴な態度をとれば、ごっこ遊びからはじき出されます。この点、子どもたちのとる態度は極めてシビアです。リーダー失格となれば、もうそのごっこ遊びに自分の居場所がなくなります。自分から新たなルールの中で役割を獲得する努力(謝罪や役割の変更等)をしない限り、別の遊びに向かうしかないのです。

ごっこ遊びが示すコミュニケーション能力とは、単に言葉のやり取りをするということにとどまりません。コミュニケーションの本質は「想像力」と「交渉力」です。豊かなイメージを共有し、交換して常にごっこ遊びは発展していきます。

このように、ごっこ遊びを通して子どもたちは、この後の生涯において宝となる「人の間で生きていく力」を鍛えているのです。

2018年11月26日

親はすばらしい

どんなに評判の良い教育理論であっても、すべての子を満たすことはできません。理想と現実のギャップに悩むことが必ず起こります。その子どもにあったやり方に工夫をしなければうまくいきませんし、しかもそれを忍耐強く長時間続けなければ効果は持続しません。教育はインスタント、時短というわけにはいかないのです。子育ての悩みが尽きることはありません。諦めずに自分なりの努力と工夫、そして地道な実践からしか道は開けません。

しかし、子どもを愛する大人が、教育理論を知ることで子どもの「正しい見方」や「手助けの方法」を知っているのと知らないのとでは全く大違いです。

子育ての悩みは尽きません。しかし、子どもの成長は待っていてはくれないのです。幼児期の成長に「停滞」はないのです。その時に、不器用でも不慣れでも、「子どもの見方」の入り口を知っているということは、子どもの真の望みを理解することができるということです。少なくとも、それを探ることができます。そこで「手助けの方法」を知っていれば、子どもの望みに適った手助けを工夫できるということです。

幼児教育の最大の目的は子どもの望みと一致しています。子どもは「自分でできるようになりたい」と望み成長しています。幼児教育は子どもの「自立、自律」を目的にしています。このことを知っているのと知らないのとでは雲泥の差です。子どもたちはやがて主体性をもって人生を自分で拓く力を得ていきます。そのことを見失っては目先の上手、目先の成功、目先の従順、目先の満足に心を奪われてしまいます。しかもその時満足しているのは子どもではなく、大人の方ということになりかねません。子どもの人生の主役は、子ども自身です。それを奪ってはいけません。

子どもの成長は停滞しません。しかし時短にもできません。一歩一歩です。挨拶ができない時期があるでしょう。上手にお話しできない時があるでしょう。イヤイヤと何でも嫌がる時があるでしょう。ケンカしてしまう時があるでしょう。しかもそれが続くと、「いつになったらできるようになるのか」、と、ため息が出て、途方に暮れることでしょう。

それでもその時に子どもの望みを忘れずに「良い母親であろう」、「良い父親であろう」と悩む人は、「良いお母さん」であり「良いお父さん」です。子どものために悩み、頑張っている親は、間違いなくかけがえのないすばらしい親です。

理想と現実のギャップに悩むときには、どうか「自分でできるようになりたい」という子どもの願いを思い出してください。周りの声も批判や非難よりも、その子の内なる「できるようになりたい」という声に心を向けるお母さん、お父さんでいてください。幼稚園はそんなお母さん、お父さんの味方です。

2018年11月28日

自信を奪わない

幼稚園の先生が子どもに接するときに配慮するのは「自信を奪わない」ということです。

子どもにとって、毎日毎時が学びの時であり、発達の場面です。その時にもっとも子どもを伸ばすのは、子ども自身の「やってみたい」、「できるようになりたい」という成長欲求に即したときです。この成長欲求に強く応え、子どもに行動を促す力になり、失敗してもへこたれない心をもたらすのが「自信」です。「自分はできる」と自信を抱く子は、様々な行動に積極的です。新しい環境で挑戦を恐れません。

この「自信」の源泉は、「自分でできた」という成功体験が何といっても大きいです。しかし「他人に迷惑をかけないこと」「集団のルールを守ること」を重んじる日本の子育てでは「自信」が育ちにくいと言われます。

それは、多くの場合子どもの行動をコントロールすることに注力してしまうからでしょう。子どもの行動をコントロールできる親が「良い親」である、集団のルールを守る子が「良い子」であると考えるとき、教育やしつけは「ダメ!」に偏ることが多いからでしょう。つまり、子どもを育てる中で、子どもの行動や発想を制限することが多くの割合を占めるのです。

「ダメ!」の他にも、「過干渉」ということがあります。子どもが一生懸命にやっていることに、親が手を出してさっさと片づけてしまう、ということです。子どもが自分の意思でやろうとしたことを親が先取りしてしまうことが「過干渉」です。過干渉は子どもからやる気を奪います。そして「自信」を失っていきます。「危ないから」、「時間がかかるから」、「汚すから」という大人の都合が子どもの行動を制限します。これは子どもが何歳であっても同じです。子どもが育つためには必ず干渉を受けざるを得ません。だからこそ、自信を奪わないことを念頭にして、どこまでが必要な干渉で、どこから過干渉になるかを見分ける配慮を失わないことが大事になります。

もう一つ加えると、「放任」も子どもの自信を損ないます。それは子どもを「一人の人間」として扱っていないということです。一人の人間として果たすべき責任は子どもにもあります。マナーやエチケットは特に、毅然とした態度で伝えることが大事です。ただし、その時は子どもを人目から離して、人前で叱らないように配慮できることが望ましいです。子どもは概してプライドが極めて高い存在です。子どものプライドを傷つけない配慮を心がけるべきです。

2018年11月29日

クリスマス会へ向けて

【12月の園だよりから】

遊戯室にクリスマス会の練習のための舞台が設置されました。いよいよ子どもたちのクリスマス会に向けての練習も本格的になってきます。全てのクラスが歌と合奏をします。その他にC組は遊戯、B組は劇(セリフは録音します)、A組は聖誕劇(セリフを実際に舞台上で言います)をします。沢山のことに子どもたちは取り組みます。歌や楽器、遊戯や劇には得意・不得意がありますし、自分の思い通りの楽器や役になれなくても一生懸命に取り組む子がいます。大役を引き受けて少し落ち着かない様子の子もいます。クリスマス会はその年に与えられた恵みを精一杯に舞台の上で表現するときです。子どもたちは一回一回の練習のたびに前よりも成長した姿を見せてくれます。お部屋でプレゼントを作る様子にも、子どもたちなりに期待をもってクリスマス会に臨もうとしていることを感じます。今年のクリスマス会でも保護者の皆様に多くのお手伝いをいただくこととなります。心より感謝いたします。 みんなが一緒に救い主のお誕生を祝うクリスマスを喜びをもって迎えられますように。(園長 有馬尊義)

2018年12月03日

答えのない問題を考える力

今は、医療や技術、ダイエットや子育てにいたるまで日々新しい発見や検証が発表され、これまでの常識と思っていた考え方が覆されるということが次々とあります。昨日までと全く正反対のことが「正しい」情報として伝えられます。何をどう信じればいいのかわからなくなるというのは、情報化著しい社会の宿命です。しかし、そこで自分で考えて「選ぶ」ということが求められます。

その時に求められるものを書き出せば、情報を「見極める力」、常識を「疑う力」、未来を「予測する力」、多面的に物事を「考える力」、自分の判断を「検討する力」などになるでしょうか。これらの力が育っていかなければますます増え続ける情報の洪水に振り回される人生になります。

このような時代をチャンスと見るか、危機と取るかは価値観に由来するでしょう。しかし、事実として今の子どもたちはこれまでの親世代や祖父母世代の常識や価値観に生きるのではなく、自分の人生の歩みを自分で考え、自分で選び、自分の力で開拓しなければならないという現実があるのです。

これらの力を育てるときに必要なものの第一は「言葉」です。思考は言葉によって形成されます。幼児期は沢山の言葉を獲得します。中には親として眉を顰めるような言葉をいつの間にか取得していることもあるでしょう。しかし、それらの言葉を使って話すことを叱ったのでは、子どもは話すことに怯えてしまいます。子どもにとって話すことは思考することそのものです。それらの言葉を使うとどうして不快な気持になるのかを「会話」をもって伝えることで、子どもに「考える」機会と「選択」の機会、そして「検討する」機会を与えることに繋がるのではないでしょうか。

もう一つは、年長児ほどの言葉を駆使することができる子どもには、少しずつ「答えのない問題」を投げかけることです。念のため申しますと、「答えがない」のですから子どもはそこで「言葉」を失って黙ってしまうかもしれません。しかし子どもの中で「問いかけ」が消滅することはないようなのです。ある時きっかけを得て、突然話し始めます。

答えが決まっている問題に置いて「言葉」すなわち「思考」はさほど重要ではありません。むしろ「知識」が重要です。しかし、最初に触れましたように今の時代は知識は外部記憶装置としての端末やネット検索を用いれば、一先ず得ることができます。知識はもちろん軽視すべきものではありません。しかしもはや個人で管理しきれないほどのスピードと分量が現代社会を生きるための知識として必要になっているのです。風が吹いて桶屋が儲かるのはせいぜい同じ町内の出来事でした。しかし、蝶が羽ばたくとハリケーンが起こるのは地球の裏側かもしれないということを予測しなければならないような時代なのです。「想定外」が言い訳にならない時代とは、そういう時代です。

先日、世界的に非常に優秀とされる大学に進んだお子さんが卒業を前に「留年」されたという話をききました。なぜ留年されたのか。成績は極めて優秀であったそうです。しかし「哲学がない」と教授会は判断をしました。つまり単なる知識においては極めて優秀と言っていい。論文を書くと情報を駆使して抜群の完成度のものを提出する。筆記試験も問題ない。しかし人物に「哲学」がない、という理由でした。将来必ず指導的な人物となることが求められるだろうから、一年留年して、旅して世界の答えの出ない矛盾を見て、考えなさいと勧められたそうです。えらいと思ったのは、このように告げられた親は、この教授会の判断に「愛情」を感じたと言われたことです。そして、有難いと感じつつ、その忠告に従ったのだそうです。教授たちが真摯に一人の学生の人生を慈しんだ上で出された選択であったからでしょう。

情報を「見極める力」、常識を「疑う力」、未来を「予測する力」、多面的に物事を「考える力」、自分の判断を「検討する力」、それらを駆使してどう答えのない問題に取り組むのか。それをどう伝えていくのか。それが幼児期、少年期、青年期のどのような時期の教育にとっても重要な課題となるはずです。

2018年12月05日

挨拶

「ごあいさつ」を大切にする幼稚園は多くあります。西荻学園幼稚園も大切にしています。毎朝の幼稚園の門で子どもたちと「おはようございます」とお辞儀をして挨拶します。挨拶をする子もいれば、しない子もいます。お辞儀はするけど声を出さない子、反対に声は元気だけれども顔は横を向いている子等、様々です。一緒におられる保護者の方も、挨拶についての考えは様々のようです。叱る方や強要する方もいますし、苦笑いをしている方もいます。ただ概ね親はしっかりとした手本となる挨拶をしてくださいます。

私自身は、強要しては挨拶の基本から外れるだろうと考えています。強要して挨拶を嫌うようになってはもっと大事なことを失わせてしまいます。同じ子でも気分がいい日もあれば、しぶしぶ幼稚園に来ていることもあるのですから、無理強いは必要ないでしょう。ただ、挨拶がコミュニケーションのために重要であることを教えることは大切です。

教えると言っても、難しいことではありません。親が挨拶をして「幸せ」や「うれしい」が生まれることを見せればよいのです。挨拶のアクションはおよそ単純なものですから、手本となって動きを見せ、言葉を聞かせるのです。

挨拶はコミュニケーションの基本です。コミュニケーション力がなければ、意思疎通ができませんし、関係を作れませんし、それは自分自身の生きにくさに繋がります。

相手の目を見て「笑顔」で挨拶する、というのは殆どの国で通用する行動です。笑顔は「自分はあなたに敵意を抱いていない」というアピールです。コミュニケーションの基本です。

逆に、この基本ができていないと良好な人間関係の輪の中に入れてもらえません。笑顔一つで人間関係が損なわれ、ひいては人格形成に影響が出てくるのです。大人になって仕事をするようになれば、笑顔がなくて取引先を失った、仕事を失ったということが実際に起こりうるのです。挨拶を軽く考えてはならないということです。

その他にも、相手を見て話をする。自分の考えを正確に伝える。人の話を最後まで聞くといった人づきあいのルールを子どもが知るのは、親の姿からです。

子どもはまず親の真似をして成長します。親子のしぐさや表情、話し方、身振り手振りはそっくりなことが分かります。親がコミュニケーションについてよい手本を意識すれば、子どもはそれをちゃんと受け取ります。後は、子ども自身の「気分の問題」ですから、今日できなくとも深刻に心配することはありません。必ず挨拶をするようになります。後は挨拶という習慣を子どもがいくつになっても「軽視」しないことが大切です。

2018年12月10日

母親の笑顔は家庭の太陽

北欧諸国は「子育てしやすい国」のランキングで常に上位になります。その要因は政府の子育て支援が理由ではありません。そう世間に思わせると経済的効果と得票が見込めるので、日本ではそのように理解させようとする方々がいますが、実際の要因は「父親(同居家族)の育児参加」の「質」が良いということです。

ただし、この場合も単純に父親の育児休暇を取る割合で「質」を計ると本質を見失います。確かに育児休暇を取るスウェーデンでは父親は80%に上るので、日本の2%と比較すれば驚異の数字です。ただそれ以上に重要なのが、育児に参加する父親(同居家族)が何を目的としているかです。それは母親に代わって育児を「実行する」ことが目的ではないのです。

乳幼児期の子どもと密接にかかわるのは母親です。これは子ども自身が母親を求めるからです。この時期の母子関係によって子どもの人格形成の土台が作られていきます。そこで、父親(同居家族)が目的とするのは、子どもにとって代わりのいない「母親のストレス負担を軽減する」ことです。言い換えると、母親をいかに「人、妻、母として幸せ」にするかが目的なのです。それは必ずしも何でも代わってやってあげるということではありません。

これは子どもの育ちの面で極めて大きな影響をもつ姿勢です。繰り返しますが、この時期に子ども自身が密接なかかわりを求めるのは母親です(母性と言い換えていいいかもしれませんがここでは母親とします)。これはどうしようもなく代替不可能な子どもの本能的な求めです。

母親の心の余裕が子どもの人格育てます。しかし母親が育児のストレスでイライラしており、眉間にしわを寄せていては、愛情を求める子どもに欲求不満を残します。「ああしなさい!」、「それはダメ!」、「早くしなさい!」、「ちゃんとしなさい!」、「後にして!」、「わがままいわないで!」、「どうしてできないの!」、「何度言ったらわかるの」といった禁止の言葉や急き立てる言葉、否定の言葉、やがては子どもの人格やプライドを傷つける言葉が増えます。それらの言葉が子どもの体験をことごとく「失敗体験」にしてしまいます。これでは自尊心は育ちようがありません。しかし、これは母親の責任ではありません。父親をはじめとする同居家族が母親を「幸せ」にしていないからこうなるのです。

母親の笑顔は家庭の太陽です。父親や同居家族の育児サポートはこの太陽を守るためにあるのです。それが家事や雑用を手伝うことであるか、幼稚園の送り迎えをすることか、子どもの勉強を見てあげることか、母親の話をきちんと聞くことか、夫婦で子どもの将来を語り合うことか、一日完全に子どもから離れて自由な時間をもてるようにするとか、その「実行」は様々でいいのです。そのために感謝と配慮と協力をすることが父親(同居家族)の育児参加です。目的は幸せなってもらうことです。

2018年12月11日

父親の出番

乳幼児期の子どもが第一に求めるのは殆どの場合母親(厳密には母性ですがここでは母親とします)です。これは仕方ありません。しかし、乳幼児期後半から父親(厳密には父性ですがここでは父親とします)の役割が増えていきます。

「父親は外で働き、母親が子育てをする」という状況は、サラリーマンという働き方が定着してからです。つまりそんなに古くからあった考え方ではありません。江戸時代には、子どもの教育は父親の役目であることが殆どでした。学問や礼儀作法、人づきあい、商売や職人としての技術、遊び方までを父親が教えていたのです。それでは現代ではどうでしょうか。

まず、子どもが生きる力の土台というべきものを形成する乳幼児期(およそ6歳まで)は、子育ての主役は母親です。この時期の子どもは「根拠のない自信」を持つことが大切です。この自信をつくるのは「愛されている」という実感です。それには母親によるスキンシップが最も効果的です。この時期の父親は母親のサポート役です。母親の味方でいることが大事です。

一方、子どもが大きくなるにつれて、徐々に父親の役割が増えていきます。子どもを普段とは違う外へ連れ出し、一緒に体を動かしたり、自然に触れたり、普段出会うことのない人と関わる機会を作るといったことに、父親は適任者です。

それらを通して、社会のルール、仕事の大切さ、人付き合いの方法など子どもが成長していくときに要求される生きるための知恵や技術、能力を見せるのは父親の方が向いています。出展が不明なので申し訳ありませんが、以前成長期に父親と過ごした時間が多い子は社交性が良く、結果としてより高いキャリアを得る、自分の仕事への満足度が高いという調査結果を見たことがあります。

子育ては永遠に続くものではありません。父親、母親が自分の役割を大切にし、お互いを尊重して、協力できることが子どもにとって最善の育ちの環境です。

2018年12月12日

兄弟姉妹は平等にすべきか

二人目以降のお子さんがおられると、「兄弟姉妹を平等に」と思うことが殆どではないでしょうか。兄弟姉妹に限らないのですが、愛着を求め、自信と自尊心を育てるべき年齢の子どもにとって「平等」に扱われることは、不当に扱われているのと変わりません。

その意味で、兄弟姉妹を平等に育てることにこだわることはむしろ上の年齢のお子さんにとって悪影響があります。無理に平等に育てる必要はないのです。上の子を中心に育てるくらいでバランスがいいのです。

特に「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだから~」という言い方は避けた方が良いでしょう。ほとんどの場合、この言葉の後には「がまんしなさい」とか「ダメ」というニュアンスが続きます。上のお子さんは生まれたときから親の愛情を「全部」独り占めしてきたのです。つまりもともと「一人っ子」だったのです。ところが弟、妹ができたとたんに「あなたへの愛は弟(妹)と平等にするために、半分に減らします」という態度をとられて納得できるはずがありません。もちろん親はそんなつもりは全くないでしょう。そんな言い方もしないでしょう。しかし、それまで愛を独占していた上のお子さんがどれだけ不安を感じるかを知ってあげてください。

失われた愛を取り戻すために、自分へ親の関心を引き付ける必要があります。そこで、駄々をこねたりお漏らしをしたりといった、いわゆる「赤ちゃん返り」と言われる状態になります。すべては母の愛を取り戻すためです。子どもが愛を得るために良いことをしてくれるとありがたいのでしょうが、たいていは悪いことをします。聖書に「愛は忍耐強い。…すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」という一節があります。まさしくこのような愛が試されるのです。

その時に、「がまんしなさい」、「めんどうかけないで」と突き放されると子どもは何を感じるでしょうか。子どもの親に対する愛の期待は冷え切っていきます。安心できる愛着の基地を失って、行き場がなくなります。そうなって良いことはまずありません。

おかしな行動が見えてきたら、名前を呼んで「寂しかったのね。ごめんなさい」と伝えてあげることも大切です。これまで以上に手をつなぎ、抱きしめたり、膝の上にのせたり、おんぶしたりして、体温を感じる触れ合いを体験させてください。

このように書きてくると、「それでは下の子は、寂しくならないか」と思われるでしょう。上の子が「一人っ子」であったのと違い、下の子は生まれたときから親の愛を100%独占できないことが「当たり前」の環境にいます。親の愛は兄弟姉妹で分け合われるもの、という前提が生まれたときからあります。そのため、少々親の目が上の子に多めに向いても大丈夫なのです。兄弟姉妹に関しては上の子の方を中心に、というぐらいでむしろ「平等」が実現するのです。

2018年12月13日

親が子どもについて謙遜する必要はありません

「お子さんはとても頭が良いですね~」と褒められると、「いやいや、そんなことはありません。うちの子は全然だめで~」と答えている姿をよく見ます。

謙遜は日本人の美徳であるのと同時に、行き過ぎた謙遜は欠点でもあると思います。かくいう私も妻を褒められて、「いやいや~」と答えている自分に気づいて改善しようと努力しているところです。

親が自分のことを「いやいや~、うちの子なんか全然だめです~」と答えているのを聞いたら、子どもはどう思うでしょうか。そこに親の「謙遜」を忖度しろというのは無茶な話です。子どもは素直に、「ぼくは(わたしは)ダメなんだ」と聞いてしまうのです。親は謙遜しているつもりですが、子どもはその言葉をそのまま受け止めてしまいます。意図せず、心ない言葉を聞いた子どもの自信は大きく揺らぐことになります。

自分のことを謙遜するのは良いと思いますが、子どものこと、パートナーのこと、身内のことを卑下して扱う必要はありません。

特に、「良くできるお子さんですね~」と、子どもが褒められたなら「ありがとうございます。この子は私もびっくりするくらい一生懸命練習していましたから、とてもうれしいです」と満点に肯定してあげた方が良いのです。「可愛いお子さんですね~」と言われたら、「ありがとうございます。本当に可愛くて可愛くて、私、この子が大好きなんです」と言ってあげてください。

特に幼い子は大人の会話がわからないと思っていると、何気ない一言が子どもにとって大変な重荷となってしまうことがあります。逆に、子どもの味方である親の一言が、子どもの短所を長所発見の糸口に変え、長所をさらに育てます。

2018年12月17日

イヤイヤ期を考える

「もう帰りますよ」-「イヤ、帰りたくない」、「お泊りする?」-「イヤ、帰る」、「お片付けしましょう」-「イヤ、もっと遊びたい」、「おもちゃがなくなってしまうかもしれないけど、いいの?」-「イヤ、片づける」、「それじゃあ一緒に片づけましょう」-「イヤ、もっと遊びたい。」以下、同じようなやり取りが続きます。何を促しても「イヤ」と返すので、「イヤイヤ期」などと呼ばれる状態です。親もどう対応していいのかわからなくなり途方に暮れてしまいます。

この「イヤイヤ期」を通過するために大切とされているのが、以前ブログで触れたことのある「根拠のない自信」です。「根拠のない自信」というのは、「自分は愛されている」「自分は受け入れられている」「自分は大切にされている」という感覚であり、「自分は価値ある人間だ」と子どもが自分の存在を信じている状態です。この「根拠のない自信」はまず100%親から与えられます。子どもが努力して手に入れるものではありません。

「根拠のない自信」の上に様々な学習や経験が積まれていきます。底辺である「根拠のない自信」が大きく広ければ、その上に築かれるものも安定して大きく高くなります。ピラミッドをイメージされると良いでしょう。

そこで話しを「イヤイヤ期」に戻しますが、「根拠のない自信」を十分に得た子ほど、次に「自分の力で、何でもやってみたい」という好奇心旺盛な時期を迎えます。「根拠のない自信」があるから「何でもやってみたい」と思えるのです。そうして大人の側からすると、「何でこの子は私を困らせることばかり始めるの!」と思わずにおれない行動が出てきます。「やってはいけないこと」をします。

子どもには「何でもやってみたい」という気持ちがあり、大人の方には子どもの行動をコントロールしなければならないという思いがあって、この相反する思いがぶつかるところで「イヤイヤ期」が起こるのです。

「何でもやってみたい」という子どもの思いは、言い換えると「自分自身と自分の周りの環境を自分でコントロールしたい」ということです。だから何であれ自分以外の者に自分の行動をコントロールされることが嫌だから「イヤ」と言っているのです。この時に「もう知りません」と突き放されると「愛されている自信」が揺らいでしまいます。ではどうすればいいのでしょうか。前もって言っておきますと決して楽ではありません。

まず基本的に、納得のできる理由をきちんと言葉を尽くして教えることです。やさしく丁寧に説明して、なぜその行動をしなければならないのかを考えさせることで、子どもが少しずつ受け入れ理解できるようにします。そうして「根拠のない自信」を損なわないようにします。

しかし、そううまくいかないことがあります。それは、「イヤイヤ期」は「自分でやりたい」という自立心と、親から離れることの不安との葛藤を抱えている時期のためです。この葛藤を子どもに言葉で説明して理解させ受け入れさせろという訳にはいきません。

「イヤイヤ期」は、人の一生の中で最も「自立心」が強くなっている時期だという意見があります。しかし、同時に「根拠のない自信」を与えてくれる親から離れる不安が最も大きい時期でもあります。この二つの気持ちがぶつかって「イヤ」へと突き進む他ないのです。

このどうにもならない子どもの心情を理解することが大事です。「イヤ」が続くようでしたら、「わかった。うるさくいってごめんね」と受け入れ、そのことをスキンシップも合わせて子どもに感じさせてあげると良いでしょう。親の愛情によって「根拠のない自信」をさらに大きく厚く与えてあげるのです。その繰り返しが、「イヤ」以外の行動へ子どもを進ませることになります。

最後にもう一度記します。この時期の当事者となる親は楽ではありません。肉体的に休息をとって、体と心に余裕を持つよう心掛けてください。親が幸せを感じられることが、どんな時期でも子どもの健やかな成長と幸せに必ずつながります。この時期は特に親自身も自分を労わることを意識すると良いと私は思います。

2018年12月21日

お手伝い

「根拠のない自信」を強めるときの最善の方法は、子どもにお手伝いをしてもらうことです。うまくいけば親も子も幸せになれます。

最近は家事を子どもに分担させる家庭が減っています。これは親にも子にもマイナスなことです。家事は文字通り「家庭の仕事」です。その過程に所属する家族が応分に負担するのが最善なのです。そこに子どもを参加させないのは、子どもを一人前の家族として扱っていないということです。この考えは、子どもの権利を無視した「過保護」です。子どもには家庭に「参加する」権利があります。家庭の仕事を分担することで自分自身を育てる権利があります。子どもに何もさせないことが大事にしていることだと思うのなら、大変な勘違いです。幼稚園では夏休みや冬休みといった時期に「お手伝いをする」ことを子どもたちと約束し、休み明けには休みの間に習慣としたお手伝いをこれからも続けるように伝えています。

幼児期の子どもには、簡単なお手伝いを丁寧な言葉で頼んでみます。その際、例えば「お皿を並べてね」と言っても、子どもはどうすればいいのかわかりません。最初はゆっくりと食器棚からお皿を取り出し、両手で持って落とさないようにテーブルへ運び、どの位置に配置するかを見せてあげます。言葉で説明するのではなく、やり方を「見せる」ことを大事にしてください。できたら「助かったよ、ありがとう」と感謝の気持ちを伝えてます。子どもは「自分でできた」という成功体験を得ます。頻繁にお手伝いを頼んでほしいと思います。

小さな子に手伝わせるよりも、大人がやってしまった方が早いことは沢山あるでしょう。しかし、あえてお手伝いを頼んでください。この家庭の一員として仕事を果たすということは不思議なほどに子どもに自信を与えます。お手伝いを果たすことで、秩序感を強くしている時期の子は「責任」ということを学びます。これは将来、社会の一員として振舞うことを求められるときに大きな力となります。

最後に、お手伝いを頼んだ時の注意点を述べておきます。それは「出来不出来をとやかく言わない」ということです。幼児期の子にお手伝いを頼むのは、成功体験を与えるためです。難しいことや、失敗しやすいことは頼まないでください。多少出来が悪くてもまず「助かったよ、ありがとう」です。それから、もう一度やり方を丁寧に見せてあげればいいのです。「こうすれば、もっときれいに(上手に)できるよ」と向上することを教えてください。

お手伝いとは家庭という社会への貢献です。社会経験の一歩です。「自分の力でやりたい」と強く願っている時期に、自分の力を発揮して「人の役に立った」、「人を助けた」、「人から感謝された」という喜びの体験は、言語、思考、コミュニケーションといった面でも発達を促します。お手伝いを通して、「どうしてこうするのがいいのか」を話せば知識が増えます。子どもに尋ねて考えさせると考える力を育てることができます。お手伝いには子どもの好奇心と探求心を満たす要素が満載なのです。

2018年12月23日

競争‐根拠のある自信へ

これまで「根拠のない自信」について書いてきました。それは、幼児期には「根拠のない自信」を育てることが大事だからです。しかし、いつまでも根拠のないままではいけません。「根拠のある自信」も育てられる必要があります。

「根拠のある自身」を育てる時期は幼児期の後半からです。およそ小学校入学を意識するころからでしょう。それまでは「根拠のない自信」を優先すべきです。

「根拠のある自信」は、競争や継続といった実績によって得られるものです。スポーツやダンス、音楽や劇の発表会など、人前で競ったり披露したりする経験によって得られます。特に小学生になったら「競争」と「継続」を意識して活動させることも大切になってきます。

「競争」というと反対される意見をお持ちの方もおられるでしょう。私は、子どもが意欲をもって取り組んでいる事柄に関して、「競争」を取り上げるのは避けるべきだと考えています。「負けたら可哀そう」というのは、子どもの意識ではありません。負けを経験した子どもと向き合うことを避けたい大人の意識です。子どもを守るように見えて、実は大人を守るための発想です。本来、子どもは「競争」が好きなのです。負けて悔しくても、また競いたいと思うのです。「負けたら可哀そう」という状況に子どもが陥るのは競争の目的を間違えて教えているからです。

私自身は学校の成績に関わる学力向上に競争を持ち込むことには反対ですが、課外活動で意欲的に取り組む子どもの発達には「競争」が必要な要素だと考えています。その際、競争の目的は「相手を打ち負かす」ことでも「優越感を味わうため」でもありません。これを目的にすると子どもは褒めてもらうために「必ず勝てる相手」を見つけ出します。そこに「根拠のある自身」は一切育ちません。育つのは、「負け=悪」という怯えです。

子どもを競争に継続的に参加させる目的は、「自分に気づかせる」ことと「心をしなやかにする」ことです。競争を通して子どもに自分の強みに気づかせ、強みをさらに磨くことで「根拠のある自信」が育ちます。そして、競争する中で出会う困難や敗北から立ち上がり、「心をしなやかに」することを知ります。自分の蓄えた力を発揮することができます。その結果「根拠のある自信」が育ちます。

競争すれば敗者になることもあります。そこで、「もっと頑張ろう」と思うか、「今度はこういう練習をしてみよう」とか、あるいは「別の方法でやってみよう」とか、さらには「別の分野でがんばろう」ということを思うかもしれません。競争相手の「強み」を理解し、自分自身に対する思考を発展させたり転換させたりするきっかけが、敗北によって与えられます。

自分の強みや弱みをわからないままになると、「何となく」という根拠ない判断で人生を歩むことになります。自分のことがわからないままでは、何を決めるときも「何となく」、そして感謝もないままに「生かされる」人生になりかねません。むやみに競争を取り上げることは、子どもの人生を祝福することに繋がらないのです。

2018年12月28日

長所を伝える

前回、子どもの競争について記しました。「根拠のある自信」を得るときに、健全な競争は重要な原動力となります。このような競争の過程では、子ども自身が自分の長所に気づくことができるようにサポートすることが不可欠です。幼児期後半から小学生の子どもが自分で自分の長所に気づくことは困難ですから、一番身近な存在である親がどんな小さなことでも長所を見つけて、はっきりと言葉で伝えてあげることが大事です。

ところで、長所は常に「良い面」でなければならないと考えてしまいますが、長所は短所と思われるところに隠れていることがしばしばあります。幼児期に「落ち着きがない」ということは「活発」、「活動的」という長所が育とうとしているのかもしれません。「集中力がない」ということは「観察力がある」、「様々なことに興味をもつ」、「探求心がある」ということでもあります。「けんかばかりする」という子は、実は「正義感が強い」、「弱いものを守ろうとする」、「優しい」子であるかもしれません。

子どもの長所が何なのか良く分からないという時には、子どもが周囲からどのように見られているかを思い出すとよいでしょう。祖父母や、お友だちのお母さんやお父さん、幼稚園の先生から、「誰からも好かれますね」、「笑顔がとても素敵ですね」、「いつも元気ですね」、「虫を見つける名人ですね」、「お話しが上手ね」、そのような子どもの様子を聞くことがあると思います。そこに子どもの長所を知る手掛かりがあります。

幼児期から小学生のころの子どもであれば、遊んでいる時の様子をじっくりと観察してみるのもよいでしょう。一人で遊んでいる様子から何に興味や関心を持っているかがわかります。お友だちと遊んでいる時の様子から、「負けず嫌い」、「リーダー気質」、「気遣いがある」、「教えるのが上手」、「動作が機敏」、「ジャンプ力がある」、「鉄棒が上手」、「思いやりがある」、「手先が器用」、「集中力がある」、「頑張って取り組める」、「勇気を出して挑戦する」、「失敗を怖がらない」、そういった人格や身体能力の長所が見えてきます。

こうした長所を親から認められると、子どもは張り切って長所を伸ばし、大切にします。実はあまり深く考えることはないのです。子どもを見ていてパッと頭に浮かんだ子どもの「あら、すごい」と思った姿をそのまま伝えてあげればよいのです。

2019年01月04日

ヴィジョンを持つ

幼児教育の環境は今年も様々な揺さぶりをかけられることでしょう。経済的にも、学識的にも、様々な発言が無責任に幼児の育っていく環境を揺さぶります。そのような世相の中で、貴重な成長期である幼児期の育ちを支えるものは何でしょうか。私はしっかりと子どもについてヴィジョンを持つことだと思います。幼児教育の場である幼稚園はもちろん、親もヴィジョンを持つことが大切です。

かつては、単純に表現すれば、「優秀な成績を得、有名な大学に入り、優良な企業に入社する」という目標がありました。最近ではこれが「日本で」だけでなく「海外で」という視野の広がりを得たくらいでしょうか。

皆がこの道を辿ると成功した人生を得ることができると信じられていた時代にはヴィジョンは必要ではありませんでした。実際に目に見える成功者がいるのですから、目標を達成するために「競争に勝利する」ことが大事だったのです。そのような中でヴィジョンに思いを巡らせることは、かえって競争力を損なうことになります。既に先行者がいるのですから、後の世代はより効率よく競争に勝利するように工夫し、あとは頑張ることが求められていたし、それで成果がでていたのです。しかし今日、このような頑張りによる目標の達成は、成功と幸福を必ずしも約束してくれません。むしろ、「それは~で代わることができる」という非情な存在否定にさらされています。

言葉を変えるなら、既に日本の子どもたちも親も幼児教育そのものも、トップランナーとして道を拓くことを要求されるようになっているということです。そこには参考とすべき事例はあっても、後追いすべき目標はありません。真似るべきものがない中で、考えることなくひたすらこれまでどおりに「頑張る」、「努力する」ということを続ければ、結果は明白です。絶対に取り戻せない時間を浪費して、最後は行き倒れることになります。このような時代に子どもたちが道を切り開いていくために、「ヴィジョン」を持ち、示し、共感を得ることが必要だと考えています。

このように指摘すると、あるいは「うちはちゃんと子どもの将来を考えています」という方がおられるはずです。それは本当に「ヴィジョン」になっているでしょうか。「ヴィジョン」と「目標」を間違えていないでしょうか。「目標」は達成を目指して挑戦すべき「通過点」です。そして、目標は往々にして「命令」に姿を変えます。「ヴィジョン」は、それを目指していくことで「世界にどのような影響を与えるのか」を視野に収めるものです。つまり「子どもが世界にとって代わることのない人となる」、とはどういう人として育っていくことなのか、を示すものです。

キリスト教会ではヴィジョンは「幻」と翻訳されて用いられてきました。幻を抱くときに必要なのは、分析と統計と経験ではなく「感性」です。ヴィジョンを聞いたときにワクワクして、ぜひ自分も参加してみたいと思うような「感性」の世界がなければヴィジョンにはなりません。それは必ずしも言葉として完成しないものかもしれません。しかし、それを掲げることで、目標を定め選ぶ時の「筋」が通ります。

親が抱くヴィジョン、家族が抱くヴィジョン、そして何よりヴィジョンを生きる主役である子ども自身が共有することが重要です。そして、そこに幼稚園も自園のヴィジョンをもってワクワクしながら参加します。地域が支えてくれます。育ちゆく子どもたちの目の前に世界を広げていきます。そこで「選択」を迫られるときヴィジョンは力強く決断を後押ししてくれます。

2019年01月08日

「本年もよろしくお願いいたします」(1月の園だよりから)

「本年もよろしくお願いいたします」(1月の園だよりから)

明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

クリスマス会では多くのご協力をいただいき、ありがとうございました。楽しいクリスマス会となりました。心より感謝いたします。子どもたちが練習してきた歌や演奏や劇を楽しんで精一杯にステージで披露してくれました。大きなことを達成して顔を輝かせる子どもたちを見ることができました。

 冬休みの間には、クリスマスやお正月といった行事や楽しい出来事がたくさんあったことと思います。行事は祝福の挨拶を重ねる時でもあります。挨拶の小さな言葉、小さなしぐさが豊かに愛を伝えます。世界中どこも、習慣は違っても人が人と共に生きているところに挨拶はあります。私たちは挨拶に込めて大切な人に幸いを祈り、尊敬を表します。自分以外の人の幸いを願い尊敬を持つこと、それを表現できるのはすばらしい人の営みです。小さな日常の挨拶の積み重ねを大切にしたいと思います。

園長 有馬尊義

2019年01月10日

結果よりも過程を

子どもは環境が変わることを嫌がります。その要因は様々ですが、重要なこととして「失敗を恐れる」という要因があります。

子どもはプライドの高い存在です。それだけに挑戦にともなう失敗のリスクを過剰に気にする傾向があります。子どもが失敗を恐れるのは自然なことです。しかし、失敗を恐れて挑戦をしないようなると成長が妨げられてしまいます。そこで、今の「必ず成功を得られる居心地のいい環境」から、「失敗してもいいから新しい環境へと挑戦する」という姿勢を示すことが大切になります。

その時に子どもに大きな励ましを与えるのは、親が「結果に対して寛容」であることです。結果よりも「挑戦した過程と努力を重視」することです。

「結果」を褒められると、子どもは「自分をよく見せる」ことを優先します。そのため、より失敗を恐れる傾向があります。しかし「過程と努力」を褒められた子どもは、より難しいことを求めて挑戦することを優先します。結果としてより高いレベルの成功を得ることになります。通過点となった成功はより確かなものになります。

子どもの成長には、今の実力よりも「ちょっと上」に挑戦することが重要です。常に成功を得、いつも「自分が一番」という「居心地の良い環境」から、あえて今よりもレベルの高い環境に子どもをチャレンジさせることによって「成長を止めない」ように促すことが大人の役割です。子どもが時を多く過ごしている環境をよく見て、成長を止めないように「ちょっと上」へ気持ちが向くようにしてみてください。

付け加えますと、あくまで「ちょっと上」です。手の届かない、実力よりもはるか上の環境に入れてしまうと自信を無くしてしまいます。大人は「過程と努力」を見ることができますが、子ども自身はあくまで「結果」から自信を獲得します。子どもはプライドが高いので、「あともうちょっと」ぐらいの結果が伴わないとやる気をなくしてしまいます。それだけは避けるように注意してください。

2019年01月11日

講演会ご案内

1月18日(金)10:30~12:30に杉並区勤労福祉会館ホールにおいて、松居和先生の講演があります。

未就園の保護者の方々、また卒園児の保護者の方々もどうぞご来場ください。

「西荻学園幼稚園」とおっしゃって受付をしてください。

多くの方のご来場をお待ちしています。

チラシPDF 1.74MB)

 

2019年01月15日

選択の経験

子どもが何かを「選ぶ」という機会を大事にしてほしいと思います。それは「考える力」のきっかけとなります。

子ども自身に、「自分にとっていい選択は何か?」という問いを常に意識させるのです。大人の方が「この子にとっていい選択はこれだ」と過度に決めないということです。習慣的に「選択」をすることを許されてきた子どもは、周囲に流されそうになったり、不本意な選択をしそうなときに立ち止まって考える癖がつきます。

「ママが選んで」という子もいるかもしれません。その時も親に従うという「選択」をしたのは他でもなく自分自身だということを伝えることができると良いです。私たちの日々は、老若男女関係なく「選択」によって作られています。より良い選択をするために、幼い時から選択する姿勢を作ることが大事です。

多くの場合、幼い子に選択の機会は多く与えられません。食べ物も洋服も、靴も、カバンも親が選んで与えるのが一般的ではないかと思います。親としては、子どものためを思ってより良いものを選ぶのですが、それは子どもが選択する機会を奪うことと裏表の関係です。選択を大人が与えるべきか、子どもに選択させるべきかを考えなければなりません。そこに「親」の選択すべきところがあります。

西荻学園幼稚園では、制服も、カバンの指定もありません。上履きも基本的な機能を満たせばどんなものでもよいとしています。キャラクターものでも、どんな柄でも構いません。説明会では、「是非、お子さんに選ばせてください」とお話ししています。それだけではないでしょうが、子どもに様々なことを選ばせる保護者の方がとても多くおられます。西荻学園幼稚園の園生活は、入園前に自分で選んでみることから始まるといってもいいかもしれません。子どもは自分で選ぶことで好き嫌いを認識します。また、自分で選んだことでモノに対する責任や、選択する「重さ」を知ることができます。

「選択」の訓練は、同時に「自分と向き合う」という行為です。この訓練を幼い時から習慣づけることは、将来子ども自身が様々な悪意ある誘惑や危険から守る強力な心の盾になります。選択によって自分の意思や考えを表現することができるようになります。

ぜひ、選択の機会を子どもに豊富に与えてほしいと思います。

2019年01月17日

言葉を先取りしない

言葉は主語や代名詞が省略されても通じてしまうことが多くあります。会話言葉というのは構造がかなり曖昧でも通じてしまいます。しかし、幼い時はできるだけ曖昧な言葉を使わない、使わせないという方が良いようです。

幼稚園で子どもが先生に「紙!」と叫ぶ場面があります。先生はすぐに「お絵描きするために白い紙が欲しいと言っている」と察します。しかし、「紙?紙が何?」と聞き返します。子どもは「かーみー!」と繰り返します。けれども「かーみー、って何のこと?」と返します。すると「とって!」、「何を?」、「紙!」、「どうするの?」…、と察しの悪い受け答えをします。子どもの単語が出そろったぐらいに、「紙を取って欲しいの?」と聞きます。「そうだよ!」「それじゃあ、どう言えばいいのかな?」「紙をください」となります。

 察しの悪い会話は、聞き返せば成立します。
 「みんな持ってるから買って!」-「みんなって誰?」
 「あれ、ちょうだい」-「あれって何のこと?」
 「幼稚園楽しかった」-「べつに」-「じゃあ、つまらなかったのね」
 「一緒に行く?」-「どっちでも」-「じゃあ、行かないでいいわね」

大人が察しの悪い人となって聞き返し、子どもの言葉を促すことで、子どもは言葉を「文章」に組み立てなければなりません。文章を作るということは、自分の思考を形にする作業です。曖昧なものをきちんとした言葉へと落とし込み表現することで思考する経験が得られます。

一方で、大人が子どもに言葉をかけるときも、「ちゃんとしなさい」とか「しっかりやりなさい」とかいう指示の内容が曖昧な言葉は使わないように心がけた方が良いでしょう。言葉で伝えるのであれば、何をしたら「ちゃんとする」のか、どういうことが「しっかりしている」ことなのかをきちんと伝えるのです。

子どもは結構めんどくさがりです。察してもらうのが当然といった「王子様」や「お姫様」になりやすいです。大人は察しが良く、文章が成立していなくても子ども要求を理解します。「ママ!」と言われただけで、手袋を渡してあげたり、「ない!」と怒鳴られて、カバンを渡してあげたりといった場面を幼稚園で見かけるのですが、察しの悪い大人になって子どもに文章を組み立てさせてみてください。きちんと言葉で説明させることで思考を具体化し、また具体的なことを言葉という概念に落とし込む経験となります。副次的に忍耐力や集中力も必要とされるでしょう。

そのうち察しの悪い様子で大人に聞き返されると、子どもが大人の意図を察して、きちんとした文章で話すように自分から言い直すようになります。

2019年01月21日

家庭でルールを考えてみましょう①

子どもは日常の様々なコミュニケーションや行為によって成長していきます。その時に子どもと家族がルールを共有していることは良いことです。

子どもの自己肯定感を高め、自信を持たせるには、自由に考え、やりたいことをやるということは大切です。しかし、それは何でも思い通りにさせるということとは違います。

子どもを自由にさせることを、まるで鮭を川に放流するように、後は放っておくという「放流型」の子育てをなさる方もおられます。これは極端です。私は全く勧めません。無法地帯である大海原に向けて川に放流された鮭の稚魚が無事に帰ってくる確率は小数点以下です。それで立派な成人となるのは、宝くじが当たるような奇跡です。子育ては博打だと言われる方もおられますが、「何でも自由にさせる」というのはあまりにも見込みのない賭けです。無法地帯で育つのは、自分勝手で他者への思いやりに欠けた、衝動的な人間です。社会性や自制心、責任感がなければただのわがままです。

そこで―たとえが悪いのはお赦しください―子育ては「柵」で囲われた牧場で羊や牛を自由にさせるような「放牧型」であることが望ましいと思います。柵はここからは出てはいけないというルールです。

幼稚園で子どもたちと遊んでいると分かるのですが、子どもは自分がどこまでやっていいのか、どこまでが許されるのかを試しています。そこで明確な「限界」をルールとして共有することで、子どもは「ここまでならやっていい」という判断基準を持ちます。それは安心を与えられるということです。また、同時にルールによって子どもは危険から守られます。ルールと言う「柵」は安心を与え、危険から守るものです。

この限界がなければ子どもはどこまでやっていいのか分かりません。分からないままに力いっぱい遊んで、怪我をしたりトラブルを起こしてから「何やってるの!ダメでしょ!」と怒られるのは、子どもにしてみれば理不尽です。

ルールは人を縛るもので必要ない。どんなことも受け入れる寛容さが必要なのだという方もおられるかもしれません。そうであれば、「絶対に」子どもを叱ってはいけません。子どもの犯すあらゆる間違いを子どものせいにしてはいけません。それは、「ルールは不要」と判断している大人の責任です。「ルール」を与えないのであれば、子どもの間違いの一切を大人は一方的に背負い続けるべきです。それが「フェア」なことです。

実際に、ルールのないところぐらい人間が不自由を感じる環境はありません。ルールは人をより安心して自由に解き放つためにあるものです。

2019年01月24日

家庭でルールを考えてみましょう②

個人差のあることですが、3歳~4歳ぐらいまではルールを自発的に理解し、守るための自制心の発達が未熟です。言い換えると「我慢する」ことが苦手です。ですから、大人が何度も手本を示してルールを守ることを教える必要があります。しかしその後(だいたい4歳以降)、自制心がある程度育つと、きちんと子どもが受け取れるようにルールを示せば、子どもの欲求は「ルールを守る」方に熱心になります。さらに成長すると自分たちでルールを決めたり、ルールを変えて一層適したルールを作るということもあります。

ルールを作り、子どもがそれを守れるようにするために、3つのポイントがあります。

① ルールは少なくすること

② ルールの内容は年齢相応にすること

③ ルールを決める話し合いに子どもも参加させること

ルールは少ない方が効果的です。たくさんのルールをつくってしまうと、禁止されたり、叱られるばかりになります。それではうんざりしてしまいます。たくさんのルールは逆効果です。そこで、子どもも参加する家族の話し合いで、「本当に大切なこと」は何かを定めるとよいでしょう。「本当に大切なこと」はしっかりと守らせます。それ以外のことは自主性に任せます。

ルールの内容は子どもの年齢に合わせて考えましょう。知識や理解力を超えたルールは守りようがありません。まだ空を飛べない雛に、「空を飛ぶのが鳥である」というルールを与えるのは、おかしいでしょう。ましてやそのルールを守ろうとして飛べない雛が空を飛ぼうと巣から飛び出したら、取り返しがつかない事態だって起こります。ルールを決めるときに、不可能な背伸びを要求しては無意味どころか有害です。

そして、最も大切なのが、ルールを決める話し合いに子どもを参加させることです。言い換えると、子どもの知らないところでルールを決めて、押し付けることをしないということです。幼い子は、自分の意見を言ったりすることはできないことが殆どでしょう。しかし、自分も参加した話し合いで決めたことというのは、つまり「自分で決めた」ということです。ルールが最大の力を発揮するのは「自分で決めたこと」という土台がある時です。話し合いに参加することで、家族の中で自分に何ができるのかを考えるようになります。子どもなりに「家族」という正解のないチャレンジに参加します。4歳を過ぎるころにはこうした話し合いに加わることができるようになります。

ルールを一緒に考えることは、自分も家族のメンバーであることを自覚させます。頼るだけでなく、家族のメンバーとしてルールの中で役割を得、「頼られる」ことで健全な自信が育ちます。これはとても大切なことです。

2019年01月25日

家庭でルールを考えてみましょう③

家庭のルールを決めるときには、家族にとって大事なことは何かをまず決めるとよいでしょう。最も大事な原則ですから多くても3つぐらいにしましょう。これは子どもの年齢が上がっても変わることのない原則です。例えば「互いを尊敬し、大事にする」といったことです。宗教的な言葉で表されるものでも良いと思います。例えばキリスト教徒であれば、イエス・キリストの「互いに愛し合いなさい」という言葉でも良いと思います。

余談ですが、親が何らかの宗教の信仰を持つのであれば、幼い時からきちんとそのことを伝え、子どもも信仰を持つように育てるべきだと、わたしは考えています。信仰は生き方の土台であり、有形無形に人生を導き支えるものです。自分の人生を預けている大事なものを子どもに伝えられないのはおかしなことです。親が「わたしは~を信じている」、「信じて幸せに生きている」、「あなたにも幸せになってほしいから、信じてほしいと願っている」ということを折々に伝えるべきです。

話をルールを決めることに戻します。家族の原則を定めたら、次に「やるべきこと」をルールにします。家族の原則を守り、達成するために何をするべきかを考えます。この場合も、細かすぎると子どもは嫌になるでしょうし、親も守ることが難しくなってしまいます。

次に「やってはいけないこ」をルールにします。同様に多すぎると家庭が息苦しくなりますから、「絶対に」やってはいけないこと、に限定するとよいでしょう。

子どもが幼いころは、ルールは簡単で少なくすべきです。「やるべきこと」であれば、「家族に自分から『おはよう』と『おやすみなさい』を言う」というルールだけでも良いのです。ルールを決めて「守ることができた」という自覚を持たせることが大事です。ルールを毎日守ることで自信と達成感を得ます。達成感というのは何も大きなイベントによるものである必要はないのです。小さな達成感を重ねることも大事なことです。

良いルールは良い習慣を作ります。幼い時から大人になっても通用する生活の習慣をルールとすることで、良い習慣が人生に定着します。良い習慣を持つ人は、往々にして尊敬を得ます。

ルールを守るということは、ルールによって形づくられた集団の「正式な」一員となるということです。子どもは大きくなるにつれて様々な集団に加わる経験をします。集団の中では責任感や自制心を求められます。そのための訓練になります。

決めたルールは家族全員が守ることが原則です。それによって子どもは自分が家族の一員であることを自覚しやすくなります。そして、ルールがあることで家族の間で問題が生じたときに解決の道筋が明確になります。

2019年01月28日

家庭でルールを考えてみましょう④

ルールは「守れた、出来た」という達成感を重ねて自信を育て、良い習慣を子どもが得ることが目的です。縛ることが目的ではありません。そこで子どもがルールを守るために配慮すべきことがあります。

第一は、ルールを徹底するために、ルールを守る姿を親自身が必ずルールを守って示すということです。一度決めたら頻繁にルールを変えてはいけません。万一、ルールを変えるときには子どもに対しても真摯に提案すべきです。また、ルールを守れなかった場合は、真摯に謝罪すべきです。

次に、子どものやるべきことは代わりにやらない、ということです。大人がやった方が早いと思える時はいくらでもあるでしょうが、粘り強く子どもを見守る忍耐力が必要です。もちろん、いささか子どもの手に負えない状況になったと思ったら「手伝ってもいいですか?」と聞いて手伝ってあげるとよいでしょう。

子どもにルールを守らせるときの態度として、「絶対に守らせること」と「どちらでもいいこと」を区別しておくと良いと思います。例えば、「家族みんなの場所(リビングやお風呂場等)で遊んだら片づける」というルールを決めたらば、子ども部屋は子どもの部屋ですから、散らかっていても放っておくということです。リビングを散らかしてそのままにしておくなら叱ります。しかし、子ども部屋のように自分の部屋を与えたならば、その部屋の整頓については何も言わないと決めてしまうことです。もしかしたら、大人の目には散らかって見えても、子どもにとっては快適なのかもしれません。子どもの頃に自分の部屋を散らかしていたからといって将来掃除や整理が出来ない人になると決められません。

ところで、ルールを頻繁に変えるのは良くありませんが、「やるべきこと」のルールは定期的に話し合って、成長に応じて新しくしてください。進学や新年や誕生日といった成長を子どもが実感できる時がいいと思います。基本的な習慣はそのまま継続させ、出来ることをルールとして加えます。その時、より家族に貢献できることをルールにするとよいでしょう。

2019年01月29日

家庭でルールを考えてみましょう⑤

子どもがルールを守れなかったとき、あるいは守らなかった時にはどのようにすべきでしょうか。

おそらく、お手伝いのようなルールは代わりにやってしまった方が早いということが殆どでしょう。その方が簡単なのですが、あえてルールを守らないことで家族が迷惑を感じていることを伝えられると良いでしょう。これは叱ることとは違います。「困っているの、だからお願いね」、と促します。

それでもやらない場合は、原則として何故やれないのか、あるいは何故やらないのかの理由をじっくり聞いてみます。ルールだからと押し付けのではなく、子どもが自分の気持ちを説明する機会を与えてください。理由を聞いたら、まずは「(子どもの)話はわかった」と気持ちを受け入れます。正当な理由であれば特例として、「今日は代わってあげる」、「明日、今日の分も必ずする」、「一部だけでもやる」等の提案をします。ただし、余程の正当な理由がない限り特例として見逃すことは避けた方がよいでしょう。特例のないルールはありませんが、乱発しないようにしましょう。

おそらく、子どもの理由で最も多いのは「やりたくない」という言葉です。しかし、それは理由とはなりません。子どもが説明しなければならないのは「どうしてやりたくないのか」ですから、それを話せるようにすることが大事でしょう。その上で、何故家族一人一人にルールがあり、役割があるのかを思い出せるように話をします。

例えば、「もしも、パパ(ママ)がやりたくないってお仕事をやめちゃったらどうなるかな?」「もしもやりたくないってご飯を作らなかったらどうなるかな?」子どもなりに考えられるように話をしてみてください。その上で、「パパ(ママ)もやりたくないからお仕事辞めてもいい?」と聞くと「ダメ」と答えると思います。やりたくなくても、やらなければならない「責任」ということに思いが向くように丁寧に話すことが大切です。

ルールは守ることで定着します。「ルールだから」ではなく、ルールを守ることで、家族の一員としての達成感を得られることが大事です。そのために自分からルールを守れるようにすることが目標です。

2019年01月30日

家庭でルールを考えてみましょう⑥

子どもは遊びに夢中になったり、他のことに興味をもって集中するとルールを忘れてしまうことがあります。

そのようなときルールを思い起こさせようとしますが、それと共に大切なことは、子どもが忘れてしまったことを正直に話せる環境を普段から作ることです。

過ちを正直に話すことができないと、子どもは嘘をつくしかありません。しかし、子どもが嘘をつくようになると大人は子どものことが理解できなってしまいます。子どもの嘘というのは大人にはすぐ見抜くことができる場合が多いです。当然、嘘をついたことを叱ります。そうすると子どもは嘘をつかなくなるでしょうか。逆です。もっと上手に嘘をつくようになります。これではお互いが理解できなくなります。そこで何より、過ちを正直に話せる環境を普段から作ることが大切なのです。

正直に話せる環境は、第一に黙って聞いてくれる環境です。途中で怒ったり、非難したり、批評したりせずに聞いてくれる環境です。正直に話せるならば、過ちを犯したのは自分自身であり、それがいけないことは幼児でも十分に理解することができます。その上で、どうすればいいかを一緒に考えてみてください。

聖書にイエス・キリストとして大切な言葉があります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(聖書 マタイによる福音書11章28~29節 新共同訳)。

この聖書の言葉の「疲れた者、重荷を負う者」というのが、ルールを忘れて罪悪感を抱いている子どもと思ってください。心が重くなっている子どもを、「わたし」が迎えます。「わたし」にご自身の名前を入れてください。まず、休ませてあげることです。柔和で謙遜であることを心がけて話を聞きましょう。それが正直に話せる環境を作るということです。

そして「軛(くびき)」を一緒に負います。軛(くびき)というのは、2頭以上の家畜をつないで一緒に作業をさせるときに使われる首にかける道具です。進む方向がバラバラにならないように、軛(くびき)の重さを一緒に背負って、同じ方向を向いて前進します。正直に話をした子どもと、方向を目指し、改めて一緒にルールを負って出発するのです。

こうしたことを繰り返す中で、たとえ問題が起こっても家族のルールに立ち戻って穏やかに話し合う環境が作られていきます。家族が問題解決に向けて心を合わせやすくなります。このような環境を目指していくことは、幼児期だけでなく、年齢が上がり毎に活動や交友を広げていく子どもにとって、特に大事なこととなるはずです。

2019年01月31日

家庭でルールを考えてみましょう⑦

いつも子どもの近くで「何か危険なことはないか」、「間違いがないか」と見張っている親のことを、「ヘリコプター・ペアレンツ」と呼ぶそうです。子どもが乳児期にはこのような親の見守りが極めて重要です。

しかし、幼児期、少年期、青年期と成長し、体力も活動範囲も交遊も広がっていく子どもを常に見張り続けておくことは現実問題として無理でしょう。特に年齢が上がれば、親に対しても隠しておきたいことが出てくるのは当然のことです。親子だからと身も心も裸で隠し事なしにいましょうというのは現実的ではありません。いつまでもそのような関係を子どもに求めるのは、親の方に幼児性が残っているということです。必ず隠し事はあります。これは善悪で計るべきことではありません。人に見せない自分自身を持つことは人として当然のことです。

子どもの活動範囲が広がり、親の知らない交友や活動を経験するようになると、場合によっては法律的、道徳的、倫理的に問題あることに出くわすことがあります。その時に、子ども自身がルールを犯すことに健全な「嫌悪感」、「罪悪感」を持っていることが、最終的に子ども自身を守る防波堤となります。引き返せないところに足を踏み込むのを止める心を持つことができます。過ちを正直に話せる環境で育ったのであれば、直ちに躊躇うことなく親に助けを求めることができます。ルールを家族と一緒に決め、過ちを話し合って正し、ルールを守ってきたそれまでの達成感と自負心とが、親の目を離れたところで過ごす機会の増える子どもを危険から守ります。SNS等を通して、親の世代には経験のない交友や悩みを持つことになる子どもたちにとって、このことはこれからの時代に取り分け重要なことになるはずです。

一旦ルールが定着すると叱る機会は減るはずです。叱る機会が減るということは、親の負担がずっと楽になるということです。親に余裕が生まれ、結果的に快適な親子の関係を保つことが容易になります。

親が子どもを心配するのは当然のことで、「親ばか」と言われるくらい何でもやってあげたいと思うくらいがいいと思います。しかし、子どもの人生を監視し続けることはできないのです。干渉しすぎることは子どもの健全な自立を妨げるのも事実です。子どもが困るたびに先回りして助け、親やってもらうことが当たり前になると、毅然として子どもの間違った要求をはねのけられません。実は家庭のルールは守る側だけでなく、守らせる側をも育てます。子どもの成長にふさわしい親へと育っていくのです。

反抗期に「ルール」を与えられても子どもは受け入れられないでしょう。そのころになってこれまで何でもやってくれた「召使い」が「親」になって自分の要求を受け入れないと言い出せば、子どもは激しく抵抗するか、面倒なって無視するかのどちらかです。「ルールを持つ」、「ルールは守る」、「ルールを作る」という環境で幼い時から家族と共に過ごすことはとても大切です。

2019年02月01日

成長を感じるうれしさ(2月の園だよりから)

子どもたちの成長は、幼稚園だけで与えられるものでなく、何よりもご家庭の中で受けてきたものです。子どもたちと接していると、「ああ、随分と大きくなったな」、「しっかりと声を出すようになったな」、「お話しが上手になったな」と感じることが多くなり、成長を知ってうれしくなります。それは、ご家庭の愛に支えられ幼稚園へと通ってきた子どもたちが、お友だちや先生と交わり遊ぶ中で身につけてきたものです。

小学校への進学を控えたA組の子どもたちはグッと身長も伸びて、お辞儀の様子も明らかにB組、C組のころとは違います。体だけでなく、遊びの中でも頼もしさを感じる場面が多くあります。B組、C組の子どもたちも年齢の違う別のクラスのお友だちを遊びに誘ったり、率先してお手伝いをしてくれたり、名前を覚えてお休みを気にしたりします。3学期には体育参観、英語参観、リズム参観があります。僅かな時間ですが、子どもたちが幼稚園で経験してきたものをご覧いただきたいと思います。

2019年02月02日

子どもと会話をする

日本人はコミュニケーション能力に自信がない、と言われてどれぐらいの時がたったでしょうか。およそ70%以上の人が、コミュニケーションが苦手と感じているという調査結果では、どんな時にコミュニケーションが苦手と感じるのかと言うと、「自分の気持ちを伝えるのが下手」、「人前でうまく話せない」、「人と打ち解けられない」、「職場(学校)の人間関係で苦しんでいる」といった意見が出ているそうです。

会話や対話も真似るものです。表現・質問・応答、意見と感想の違い、会話の発信と受信も教わっているか教わっていないか、経験しているか経験がないかでは大違いです。その基礎は家庭で十分養われます。家庭でどのような言葉をかけられているのか、どのくらい親と会話をしているのか、どんな内容の会話なのかが極めて重要なことになります。

しかし、かけられる言葉が指示ばかりでは会話は成立しようがありません。よく子どもに話しかけているつもりで、「ああしろ」、「こうしろ」、「それはだめ」ばかりでは会話が発展しようがありません。それは常に2択なのです。むしろ指示する側は「yes」以外は受け付けないでしょう。これはコミュニケーションとしての会話には相当しません。

幼児期の子どもは、考える力が足りないのではなく言葉を知らないために話すことが苦手ということがあります。ですから、幼児期はあまり質問攻めにしてしまうと子どもは困ってしまいます。子どもの関心を引いているものを、親が言葉で丁寧に拾うということがいいでしょう。「これは赤いね」、「電車だね」ということから、「電車の横に赤い線かあるね」、「窓は全部で1,2,3・・・6つあるね」、「ここに字が書いてあるよ」という感じです。やがて子どもの方から「これは何?」というふうに聞いてくるようになるので、子どもの質問に対話をもって応えることを大事にした方がいいでしょう。

「どうして?」、「なんで?」という質問の中には、案外難しいことも多くあります、しつこく聞かれるとうんざりしてしまうかもしれませんが、ここが努力のしどころです。「どうしてだと思う?」「わかんない」「じゃあ一緒に考えてみようか」「調べてみようか」という問いの積み重ねが対話を生み出し、「思考」を促します。子どもの回答が間違っていても、できるだけ否定するのではなく、その子が自分で考えたことを認め、どうしてそういうことを考えたのかを詳しく聞いてみたいものです。案外、驚くような子どもの発想の力を知らされることも多いのです。すぐに正解を教えるのは、実は指示している時と、コミュニケーション上の質的違いは殆どありません。

会話や対話は、「認めてもらった」という経験です。子どもは答えが知りたいという欲求よりも、気を引きたくて質問と言う形で話しかけてくることもあります。そこで無視されては、話しかけることや質問することを恐れるようになるでしょう。

2019年02月04日

哲学を体験する

「哲学」というと、幼児期の子どもにはさっぱり関係がないように感じられて当然です。実際、プラトンやアリストテレスを読み聞かせなさいということとは違います。哲学から学ぶのは、思考過程に当たる「プロセス」であり、哲学者自身の問題や課題への向き合い方です。つまり、子どもが哲学を体験するときに大切なのは、哲学を学んだ大人の先導です。

哲学について日本人の多くは勘違いし、学び方を間違えていると思います。少なくとも哲学を解説して生業にしていこうというのでもない限り、哲学者の業績など学んでも雑学程度の意味しかありません。そんなものはネットで検索すれば丁寧な解説がいくらでもあります。そもそも、現代の科学で間違いと証明されているような内容を何で知る必要があるでしょうか。哲学を学ぶというのは、哲学者の主張内容を覚えることではありません。

大事なのは、哲学とは世界の中に「不思議」を感じた歴史であり、気になって仕方がない疑問を解こうとした「思考」と「情熱」の歴史の記録だということです。数多の英才たちが重ねた思考のプロセスを知ること、それによって世界の不思議にどのようにアプローチするのかを体験することが幼児期の「哲学」です。

「わからなーい」と思考停止することなく、「~先生が言った」と権威に依存することなく、自分自身の感じた「不思議」と「疑問」を、粘り強く思考を掘り進める知的な態度と思考のプロセスを自分自身で経験していない者が、新しい営みを開拓することはできません。哲学の態度は、「すぐに役立つ知識を追い求める」欲求にいつも脅かされます。すぐに人に頼って手にしたインスタントな知識である「すぐに役立つ知識」は、すぐに役に立たなくなると言われます。また、全知となることはできません。自分の知りえる全てが役に立たないときや不十分な答えしか得られないときに、諦めるのか思考を掘り進めるのかで人格や品格が決定的に異なります。

子どもが何かに疑問を持ったら、本人が納得するまでまず思考を掘り下げる対話を心がけたいと思います。それが哲学を体験させるということです。子どもが突拍子もない答えを語っても、「どうしてそう考えたの(思うの)?」と興味津々で聞いてみてください。彼らの「哲学」を学べます。私にとっても実に学びがいのある「論理」があります。決して馬鹿にできません。それこそ「ホモ・サピエンス」です。それから大人は、子どもの出した結論が「正しいかどうか」を哲学プロセスを一緒にたどって掘り下げていけばいいのです。

大人が本当に幼児に対して苦労すべきところは、答えを教えることではなく、哲学の思考プロセスの道中で如何に子どもの興味を維持し続けるか、です。その方がよっぽど難しいことであり、それこそ子どもだけではできないことなのですから。そこにこそ環境を整える大人の出番があります。

「幼児期の環境はストレスを感じるぐらいでないといけない」、とは私の先輩にあたる園長の言葉です。何でも与えていると、本人は王様のように振舞いますが、実際には環境の奴隷になって哲学を失うということが起こります。哲学できなくなることは、「ホモ・サピエンス」でなくなってしまうことに他なりません。それこそ本当に恐るべきことです。

2019年02月05日

質問の力

「質問」は教育活動の中核となるツールです。質問によって、子どもの「知りたい」を引き出し、刺激し、子ども自身が考え、答えを探し求め、答えを見つけることを経験させることが教育の本道です。この質問という素晴らしいツールを使いこなすという点で私自身は自分をまだまだ二流以下の教育者と思っています。常に反省することが多いです。イエス・ノーの二択を超えた質問を「最適に」発し、子どもに与えてこそ一流の教育者です。

例えば先日のブログ、「家庭でルールを考えてみましょう」におけるルール作りの時に、子どもに良い質問を重ねて子ども自身が答えに自分で近づけるように導くことで、子どもは自分で決断します。自分で決断したからこそ実践もともないます。ルールの効果が高くなります。基本的に、自分で答えを出すことが重要なことです。

良い質問を与えられることで、子どもに自分で考え、自分で答えを探す癖をつけることが大切です。良い質問を多く受けてきた子は、自問自答も育っていきますから、問題解決能力が育っていきます。

代表的な良い質問のカテゴリーは次の二つになります。

① どんなやり方があると思う?

② 自分だったら、どうすると思う?

シチュエーションによって質問の具体性は代わりますが、およそこの二つの代表的な質問を念頭に置いて質問を構成します。お分かりになるとおもいますが、この二つの質問に共通するのは、問題の当事者が質問を受ける子ども自身であることを意識させる性質の質問となっていることです。

幼児期に第三者の考えや感情を想像して物事を考えさせるというのは難しい課題です。様々な意見がありますが、人間が明確に第三者の目線に立ち自分を客観視できるのは12歳以上と言われます。大人になっても十分にはできないという分析をする学者もいます。「私が~と感じたのだから、〇〇ちゃんも~と感じる」という展開はできるのですが、「私は~と思っている。○○ちゃんは△△の理由で◇◇と思っている」という想定へと発展させることが難しいのです。第三者に関わる質問をしてはいけないということはありませんが、子どもが答えることができない様子でしたら、問題を子ども自身にもう一度戻して構成しなおす方が建設的です。発展的、建設的な質問の基本は自分自身の問題として課題を受け止められるように導くことを意識した質問になります。

子どもから質問への答えが返ってきたら、まず「なるほどね」、「そうなんだね」、「うんうん」と答えを受け入れます。それから、「どうしてそう思ったの?」と子どもの思考を辿る質問をして対話を広げていきます。

何らかの知識を求めているのであれば、どうやってその知識を得るかを対話によって考えさえ、一緒にその答えを確認するようにするとよいと思います。いくら子どもが自分で考えることが大事と言っても、間違った知識を与えてしまうのはよろしくないでしょう。協力して答えを見つけて「そうだったんだ」と納得できれば良いわけです。その中で、図鑑の見方などを身に着けていくこともできるでしょう。

質問は答える側が試されるだけでなく、質問する側の知識や知力の「底」を晒すことでもあります。初めから最上の質問はできません。しかし自分の質問を常に批判的に反省することで、良い質問者として質問の蓄えを増やすことはできます。つまらない質問や、的外れな質問は子どもからも軽蔑されます。大人同士では人間関係に致命的な事態を招くかもしれませんが、子どもは私たちとの関係をその程度で断ち切ることはしません。実に心の広い、ありがたい、最上のコーチです。しっかりと今日も子どもたちに話しかけて、鍛えてもらおうと思います。

2019年02月06日

子どもを待たせる

子どもが小さい時の子育ては面倒で、手間のかかるものです。子どもは親に負担を強いるのです。しかし、永遠の子ども時代などありません。幼い時は人生全体の僅かな期間のであり、通過点に過ぎません。ここでしっかりと子どもと時と場所を共有し、負担を背負い手をかければ、後の長い期間の子どもとのかかわりが楽になります。しかし、大きくなってから軌道修正するのは大変なことです。

おそらくどんな育児書を開いても、成長期の子どもにとって最重要なのは親によって子どもが尊重されることです。それも体験的に、です。子どもの話を聞き、問題を子どもと一緒に考え、話し合う時間を持つことです。ここで徹底的に親に辛抱や我慢強さが求められます。

「これやって!」、「一緒に遊んで!」、「早くこっち来て!」…子どもと接していると、実に多くの要求をしてきます。こちらの都合などお構いなしです。どんなに我慢強い人でも、忙しい時に子どもからこのように言われるとイライラすることだってあるでしょう。

こういう時は、自分に対しても子どもに対しても鷹揚に構えることです。子ども要求が緊急のものでない限り、別の仕事をしている最中であれば「今、お掃除してるから待っててね。お掃除をしない汚いお部屋で遊ぶのは、お母さんは悲しいと思ってるの」でいいのです。

乳児期の子どもの要求には速やかに応答する必要があることが多いのですが、幼児期の子どもの要求は、きちんと丁寧に理由を伝えることで待たせることができます。そして、この説明をするときのコツが、「嬉しい」、「悲しい」といった感情を伝える言葉です。

子どもは自分勝手で自分を優先すると思われることが多いのですが、子ども自身と親のどちらを優先するかを選ばせると、子どもは意外なほど多くの場合親を優先します。もちろん泣いたり、駄々をこねたりして冷静に選ぶことができない場面もあります。そのような時は、こちらの言葉を聞きとれない状態ですし、選択できない状況です。しかし選べるならば、子どもは自分よりも親を守る方を優先することが多いのです。

禁止すべきことについても、感情を添えた説明をすると子どもは禁止の理由と危険を認識しやすくなります。頭ごなしに理由も説明されずに「ダメ!」と言われては腹が立つものです。おそらくこれは自分の存在が認められていないと感じてしまうことからくる反発です。ですから、子どもの存在を受け入れていることを伝えることが理由を説明するときの第一段階。第二段階に論理的説明をし、第3段階としてこちらの感情を添えて伝える。さらに可能ならば「~が終わったらね」と約束をすることで、見通しを与えることができます。普段の関係が特別険悪でない限り、基本的にはこの伝え方で幼児期の子も待つことや禁止を受け入れることができるようになります。一度言えば理解するとは限りません。何度も同じようなやり取りを繰り返すこともあるでしょう。しかし確実に理解できるようになります。やがて自分が他者に与える影響について予想できるようになります。

2019年02月07日

今の気持ちはどんな感じ?

子どもは感情の起伏が激しいものです。頻繁に機嫌が変わるので、「落ち着きがない」「癇癪もち」「お友達と上手に付き合えない」「切り替えが苦手」など、様々に評価されます。ほとんどの場合感情の起伏は年齢とともに穏やかになっていきます。

子どもがなかなか自分の感情をコントロールできないのは、成長の過程として受け入れざるを得ないことですが、あまり激しい感情の起伏は子どもにとっても負担となることがあります。感情は自分でコントロールする他ありません。余程重篤な病症でない限り、薬物で抑えるわけにはいきません。そこで、少しずつ子ども自身が感情をコントロールするために、子ども自身に感じている感情を言葉(絵図)で表現させるという方法があります。

3歳頃であれば、「幸せ(嬉しい)、悲しい、怒り」といった三つの文字や絵を使って、「今の気持ちはどんな感じ?」と尋ねて、自分の感情へと意識を向けさせるのです。子どもの語彙が増えてきたら「ワクワクしてる、イライラしてる、怒っている、落ち着いている、嬉しい、楽しい、悲しい、寂しい」というふうに微妙な感情の表現を増やしてみるといいでしょう。それらを言ったり、書いたり、絵をボードに掲示して子どもが客観視できるようにします。

自分の感情に自分で思いを向けることは大事な成長です。これは自分を自分で観察し分析するということです。これが自制心を育むときに大切な訓練になります。自分自身の感情を捉えることができないと自制しようがありません。やがて「何に怒っているのか」「どうして悲しくなったのか」といった分析に進んでいきます。そのうちに感情に任せるままでは解決しなかったものに対処法を見つけていきます。

親は子どもの感情を誰よりも汲み取ることができるでしょう。幼い時は、そうやって感情を汲み取り、その原因に親が対処する必要があります。その時に第一に大切なのは、感情を受け止めることです。「いい」とか「悪い」という判断はせずに受け入れるということです。怒りは「悪」ではありません。悲しむことの重要な感情の経験です。感情はどんなものでも必要なものです。大切な自分の一部です。しかし、自制心がなければ他人だけでなく、自分自身も苦しめることがあります。

自分自身の感情を心から外に出して客観視することを繰り返すうちに、感情に振り回されないように自制心を育て、落ち着いて様々な課題に対処できるようになるのです。

2019年02月08日

選択と指示

「あるレストランに親子が来ました。親は子どもに『何でも好きなものを頼みなさい』と言いました。子どもはメニューをじっくりと見て、エビフライを選びました。すると父親は『ここはハンバーグがおいしい店だからハンバーグにしなさい』と言いました。母親はメニューの中から子どもの好きそうなメニューを勧めてくれました。子どもは『何でもいい』と言いました。」

上記のお話のどこに子どもにとって望ましくないものがあるかは、すぐにお分かりになると思います。はじめに「何でも好きなものを頼みなさい」と子どもの自主性を引き出す選択を与え、子どもはそれに自分の答えを返したのに、結局親の選択と好みを押し付けている点です。子どもの答えは否定されました。これならば最初から「ここはハンバーグがおいしいお店だから、今日はハンバーグを頼もう」と決めればいいのです。自由を与えておいてから、それを取り上げられることは大変に傷つけられることです。このようなことが続けば、子どもは自分で選択することそのものを放棄するでしょう。無意味なことに意義を見いだせないのは当然のことです。

子どもの自己肯定感や主体性を育てるために選択肢を与えた時には、子どもが選んだ答えが親の意に添わなくとも、子どもの選択を否定しないことです。親には子どものためを思う気持ちがあってのことでしょうが、子どもの側からすれば操られ、変えられるように感じるのは当然です。対話は感情的になり子どもの気持ちを萎えさせます。

子どもに対して意見を聞くのであれば、その件に関して命令と指示をやめることです。逆に子どもに指示を与えなければならないときは、「物わかりのいい」親を繕って「あなたの好きにしなさい」と言ってはいけません。どちらも子どもの感情を苛立たせます。子どもに対して親の態度を「選択」と「指示」を区別して一貫させることが自己肯定感と主体性を育てます。

子育て論の中には、「選択」と「指示」のどちらか片方を否定するものもありますが、私には現実的に思えません。「指示」ばかりを与えるのはおかしいことですが、経験の乏しい幼児期の子どもを、予想される危険から遠ざけ行為を戒めるのは、断固とした親の「禁止」という指示です。危険を前にして「ケガするけれど、まだやる?」と選択を与えているようでは困ります。「子どもが選んだことですから」と、他の子を傷つけていいということはありません。「選択」がいいこと、「指示や命令」は悪いことなのではなく、選択と指示の間で親が態度を曖昧にし、子どもの感情を苛立たせてしまうことが問題なのです。苛立ちの中では問題に正しく向かい合うことができません。

幼児期であっても、子どもの経験が増え、知識を増していけば「指示」よって従わせるよりも、「選択」を問うて、徐々に論理的な結論を応答するように子どもを導くことを心がけるとよいでしょう。子どもは大人から意見を求められることで自分の存在意義を感じます。自分の思いや考えを表現することで自信がつきます。自分の意見を聞くために待っている人がいてくれるということは自己肯定感につながります。

2019年02月14日

対話と自己表現

子どもと話をしていると、明らかに間違った意見を言うことがあります。そのような時に、「それは違うでしょう!」、「ダメね。分からないの?」という言い方は避けた方が良いでしょう。

対話は互いの表現の連鎖です。対話のために幼児期から経験させたいのは表現することに自信を持つことです。子どもが「何を言っても大丈夫」と感じ、どんな意見も馬鹿にされず、真剣に聞いてもらえるという信頼関係を持ち、安心して表現できる機会を多く持つことが大切です。

意見が間違っていた時には、間違いを正す必要はあります。しかし自分の考えを発言したことをまず受け入れます。「あなたの言うことは分かった」と、発言を受け入れます。その上で、「どうしてそう思うのか」と聞いて、子どもの思考過程を聞きます。自分の考えを発言することは間違ったことではありません。それどころか自分を表現できることは極めて重要なことです。それを否定はできません。その上で、別の思考方法を辿るお手伝いをすることで、間違った意見を正すのです。「他に考えられることはない?」、「別のやり方はないかな?」というふうに聞いてみます。さらに子どもが可能な範囲で、「お父さんだったらどうすると思う?」、「先生はうれしいと思うかな?」と考える条件を加えたり減らしたりして導きます。

大切なのは子ども自身が正解に辿り着き、それを発言できることです。そうやって発言者としての自信を高めていきます。また適切に間違いを正すことを経験すれば、自分の意見の否定で傷つくことなく適切な自信を高めることに繋がります。

職場の会議などで、自分の意見を否定されると自分自身の人格が否定されたように感じる人がいます。自分が否定されたと感じることに怯えて意見を言えない、という人がいます。しかし、自分や他人が持つ考えは、あくまで一つの意見であって、それに反対する人がいるのは当たり前です。自分の意見に反対されても、自分自身が否定されたわけではないと受け止められるように、対話による発信と受信の中で、自己表現を重ねて自信を育てることが大切です。最初に戻るようですが、「意見の否定は人格の否定ではない」という姿勢を身につけるためにも、間違った意見に対して「ダメ」という人格否定の言葉で受け止めるのは避けるべきなのです。

こうした丁寧な対話を繰り返すことで、子どもは会話の中ですぐに怒ったり、人の話を遮ったりということが少なくなります。自制心や柔軟性、共感、社会性が育っていきます。

2019年02月15日

愛着と報酬

幼児期の子どもが経験したことのないことに挑戦するためには、「安全基地」が必要だと言われています(ジョン・ボウルビィ イギリス、心理学者)。子どもが保護者に示す親愛の情や、保護者から切り離されまいと執着する感情を「愛着」と言います。このような子どもの愛着を向けられている保護者が「安全基地」となるからこそ、幼児は新しい経験の世界に踏み出し、探検できるのです。そこで幼児期は著しい発達の時となります。

この愛着と心理的な安全基地が発達過程において重要だという考え方に対して、「報酬」という考え方があります。学習と報酬の関係について多くの実験がされています。その結果、人は報酬が約束されていると問題解決能力が低下するという興味深い結果が出ています。つまり「~ができたら~を買ってあげる」とか、「頑張ったら、~に連れて行ってあげる」等の報酬を約束すると、学習効果が下がるということです。これは、最も少ない努力で最も多くの報酬を得るために何でもやるようになるからだと説明されています。

ずいぶん前ですが、園庭の落ち葉を観察することを目論んで子どもたちと集めるゲームをしたことがありました。ゲームですから「勝ち」という報酬が約束されます。「たくさん葉っぱを集めたチームが勝ちね」と。子どもたちはどうしたでしょうか?「勝ち」のルールを理解できなかった子どもたちは「黄色い葉っぱがいっぱいだよ」とか、「大きいのはどっち」といった具合に、地面の葉っぱを集めます。自分のルールで好きなように集めます。そこでは、「これは何の葉っぱ?」という質問も出ました。一方、「勝ち」という報酬を理解した子たちはどうしたのかと言うと、はじめは園庭に散らばる葉を集めていましたが、すぐに手の届く範囲のたくさん葉のついた枝をへし折りはじめました。あっという間に背の低い木は手の届く範囲の枝を折られてしまいました。「たくさん葉っぱを集める」というルールで「勝ち」という報酬を得るために最も楽な方法を選んだのです。報酬を得るためには最適の解です。しかし学習という面ではどうでしょうか。明らかに発展はありません。

報酬を約束する問題点はここにあります。報酬を得るための最短距離を走ってしまうのです。そこから知識や経験を高められるような回り道の課題は取り除かれてしまいます。これはルールへの理解が進めば進むほど顕著になります。報酬が約束されると、自分自身で考え、自分の興味を進み、自分自身で納得するという「自分本位の行動」が制限されるのです。しかし幼児期においてはこの自分本位の行動こそ最重要な経験と知識を与えます。

幼児期の自分本位の行動を支えるのが「安全基地」の存在です。挑戦はしっかりとした「安全基地」を確保しているからこそ可能です。

「安全基地」は、不安になったり、一つの挑戦を終えて充足したときに、自分を迎えてくれる存在です。子どもにとって最も大事な存在です。この存在との「愛着」は、どんな「報酬」にも代えられないことを忘れないでいたいと思います。

2019年02月21日

自己紹介ができるように

緊張して人前でお話しをすることが苦手な人は大人にも子どもにもいます。子どもは怖いもの知らずで、何でも元気よくできるということはありません。子どもは大人よりもプライドが高いので、間違うことを恐れて人と違うことをしたり、言ったりすることに抵抗感を感じることが多いのです。

「話す」ことは必要で大切なことです。自分の考えや気持ちを表現することは大事です。そこで、ある程度「筋」のある話をする機会を家庭で持つことを意識するとよいでしょう。

例えば、食事の時に一日の出来事や楽しかったことなど、「はい/いいえ」だけでなく、ストーリーや意見や考えを構成できるテーマを決めて話をします。いわゆる5W1Hにあたることを質問しながら話すことを促します。初めはもちろん上手に話せないでしょうが、より具体的に話すことを促します。そして大人も子どもに同じテーマで話をします。

子どもの気持ちが乗ってこないときには、親の方から話をしてみます。大人でも「今日楽しかったこと」というテーマで話すと、意外と難しいことを経験します。それが子どもの話を聞いたり、話を促す時の「気づき」にもつながりますから、大人も必ず話をしてみると良いでしょう。子どもの「聞く」力にもつながります。子どもは少しずつ話をすることに慣れていきます。

お話の目標は「自己紹介」です。幼稚園では機会がないかもしれませんが、小学校に入ると自己紹介をすべき機会が増えます。単に名前だけでなく、自分自身のことを具体的に表現して伝わりやすく話せるようになれたら最高です。ちょっと一目置かれる存在になります。人前で話すことへの苦手意識もなくなっているはずです。

2019年03月08日

4月の園だより(入園・進級おめでとうございます)

入園、進級おめでとうございます


C組、B組に入園なさった皆さん、入園おめでとうございます。B組の皆さん、A組の皆さん、進級おめでとうございます。かっこいい、やさしいA組、B組となるために心の中はやる気でいっぱいでしょう。新入の皆さんは、保護者の方から離れて初めての集団生活が始まります。また在園の皆さんは、新しい担任の先生・お部屋・お友達で楽しみでもあり、ちょっぴり不安な面もあるかと思いますが、少しずつ慣れていって欲しいと思います。大切なお友だちと出会い、楽しい遊びをたくさん見つけてください。「幼稚園は楽しいな」、「明日も行きたいな」と思ってもらえることが一番うれしいことです。


幼稚園は、A組のお友だち、B組のお友だち、C組のお友だちと、先生たち、ご家庭の方々、皆の交流と協力の中で織りなされていきます。そして、天のお父さまである神さまが愛をもって守り導き、幼稚園の皆と一緒にいてくださいます。今年も子どもたちの健やかな成長の一年が織りなされることを願い、神さまのお守りと祝福をお祈りします。
園長 有馬尊義

2019年04月08日

遊びは育ちの必須栄養

遊びは心の柔軟性と、順応性、創造性に深くかかわります。また遊ぶことによって共感や倫理といった社会性を身に着けていくことができます。幼児期に知識を詰め込むより遊びを通して社会性や情緒面を育てる方が、生涯的には成功につながるという研究結果がいくつも発表されています。およそ共通することは、幼児期によく遊んでいた子どもは、自分から問題を見つけ、解決のために自分で考え、学び、反復し、努力し、行動する力に優れているということが言われています。
人間と遊びに関する研究は、古くて新しい研究分野です。かつては哲学者が人間の定義として「遊ぶ」ということを語りました。現代では生理学や心理学、進化生物学、分子生物学などの様々な分野で研究されています。その結果はいずれも人間にとって遊びがどれだけ重要なものかを示しています。
人間は生まれながらにして遊びを通して問題解決能力を獲得していきます。赤ちゃんは音のなるおもちゃ振って遊びながら、原因と結果の関連性を学習していると聞いたことがあります。人の真似をして遊び始めるのは、記憶の出し入れが遊びに発揮されているからです。さらに人の真似を通して、どうしたら同じことが再現できるかという課題に対する問題解決能力を学んでいきます。子どもの動きや表情に大人が反応して笑いかけるのも、子どもにとっては大事な遊びです。子どもは何度も同じことを繰り返すことが好きですが、それは自分の行為に対して反応する周りの対応を得ることで、行為を共有して認知能力を高めています。認知能力が育つということは、事象と言語と意味が結びつくということです。幼児期に一人遊びから友だちとの遊びの世界へ進み、「ルール」が遊びに取り入れられると、もはやこの遊びは何のため、という単純な理解では済まないほどに遊びによって高められる能力は爆発的には増えます。身体的にも、心理的にも、精神的にもです。「ごっこ遊び」は、役割担当を決め、時に譲り合い、交替で行うルールが共有されます。「やりすぎ」への注意が喚起され、ルールを守ることが求められます。自己肯定感、幸福感、満足感、おもいやり、共感、交渉といった人間社会の健全な一員となるためのスキルを、小さな共同体を遊びのたびに子どもたちは創造して獲得しているのです。
遊びは「さぼり」でも「怠惰」でも「わがまま」でもありません。成長に食事が必要なように、人間が成長するには遊びは必須の栄養なのです。本質的に、成長に関わる「遊び」には善悪はありません。だから、子どもの遊びの色々に苦笑いして、ちょっとため息をついてあきれ、振り回されて、でも遊びの奇抜さに感心して、「この子はやっぱり天才だ」と思えたら、その時子どもは栄養満点の遊びを満喫していると思います。

2019年04月10日

子どもと一緒に遊ぶ

子どもの脳の発達は、生まれた後に成長する割合が大きく、その成長を助けるのが遊びです。遊びは自発的に行われる活動です。自発的だから楽しいのです。子どもは自発的に何かに興味関心を持っている時、楽しく遊んでいる時に驚くほど深い集中力を発揮します。その集中力(ゾーンと呼ばれることもあります)によって、それまでできなかったことができるようになったり、驚くほどの知識を獲得します。特に遊びは深い集中力をもたらし、さらに極めてバラエティーに富んだ可能性を秘めた行動であることから、成功失敗によらず問題解決能力や実行力、協働の経験、失敗の失意から立ち直る力などの能力を身に着けることができます。遊びの中での失敗は失敗ではなく、うまくいくための試行錯誤の機会に変えられます。だからこそ子どもの自発的な遊びの時間をより多く与えることに努力したいのです。
このような遊びの力は、子どもだけに恩恵を与えるものではありません。生涯にわたって、大人にも必要なことです。「楽しい」ということなしでは心身ともに疲れてしまいます。逆に、楽しいと心から思ったときは、疲れを忘れて取り組んだ経験を持つ方も多いと思います。楽しい遊びがもたらす集中力の恩恵は、私たち大人にもあります。ぜひ、子どもと一緒に遊びを楽しんでほしいと思います。
子どもと一緒に遊ぶ際には、是非「大人の実力」を見せつけてあげるのも良いです。遊びの時は、面白さを感じさせるために子どもに華を持たせて「勝たせてあげる」ことも必要なことがあります。しかし、子どもたちの中には「大人なんだからできる」という前提があるのです。つまり自然に子どもたちは一緒に遊ぶ大人の姿に「お手本」を見つけているのです。だから、大人として実力をしっかりと「見せる」ことが色々な意味で重要になります。ちなみに、園長の私は、子どもたちにとって一番勝つことが難しいラスボスのような存在です。鬼ごっこでも、綱引きでも、登り棒でも、「競争」を挑まれたら手を抜かずに勝つことを目指しています。
外遊びであれば、身体能力の可能性を見せてあげることができます。自然をベースとした遊びでは、「危険」と「難しい」の境界線を示すことも大人の役目です。どんなことが「危険」になるのか、危険を予測すること、危険を避けるため判断。一方で危険とは異なる「難しさ」への挑戦、自分の限界を知ること、「もうちょっと」を頑張ること、出来たときの喜び、そういったことを子どもは大人の姿を通して獲得できるのです。様々なスポーツも将棋のようなゲームでも、大人の上手な体の使い方や、ゲームに勝つための方法を学び取っていきます。大人は「遊び」の大先輩であって欲しいのです。子どものために大人こそ「遊び」を楽しむことに熱心であってほしいと思います。

2019年04月11日

大人は万能でも完璧でもない

大人が間違ったときに威厳や対面を気にして取り繕ったり、言い訳したりして子どもに謝らないというのは間違いです。子どもにしてみれば、間違いに気づいたら謝りなさいと指示されてきたのに、自分が間違えたときに謝らない大人を尊敬できるでしょうか。矛盾を感じてしまうでしょう。
大人が速やかに誠実かつ潔く誤りを認め謝罪すれば、それを見た子どもも自分の間違を認めて謝ることができる子に育つでしょう。逆に言い訳を重ねて謝罪しない姿を見れば、間違いをごまかす人間に育つでしょう。それは、間違いを認めて修正する自信が育たないということに繋がります。
人間は万能ではないし、完璧な存在ではありません。しかし一方で成長の可能性が常にある存在です。ですから、できないことや間違ったことを認めることができることが、成長において非常に重要な要素となります。
間違いを認めることは悪ではありません。恥でもありません。大人が自分の間違いを認め、子どもに対しても速やかに潔く誠実に謝罪する姿を示すことは、自分をありのままに認める「客観視」を育み、自己を認めることで間違いを修正し、自己肯定感を高めることに繋がります。謝罪は自分に対する自信を育てるものなのです。
現代はあらゆる発言に監視が付き、非難と批判が待ち構えています。正しい謝罪というスキルは、これからの時代に必須の自己防衛手段でもあると思います。誤魔化すことで小さな間違いを取り返しのつかない過失へと広げ、さらに言い訳を重ねた稚拙な謝罪が企業や個人に大ダメージを与える様は本当に残念なことです。
大人が万能である必要はありません。完璧を装う必要もありません。それはむしろ成長する子どもにとっては、有害なことです。大人とは万能で完璧であることではありません。大人が万能を装い、完璧を演じることを子どもは利用しますが、尊敬することはありません。自己を信じ、嘘や見栄えのいい話に頼ることなく、正直に道を切り開くことのできる「器」や「品格」が子どもに憧れの大人を感じさせるのです。

2019年04月12日

自己肯定感の揺らぎ

以下のような様子が子どもに見られたら、少し気を付けておいた方がいいでしょう。
・常に人の目を気にして、人との比較で物事を考えることが多い。
・自分より劣る人に対して、見下す傾向がある。
・自信がないため、人の言葉に傷つきやすい。
・何かをやり始める前にあきらめてしまう。
・人の批判が多い。
・自慢話が多い。
・必要以上に自分の失敗を責める。
・褒められても、素直に受け止められない。
幼児のことですから上記のようなことがその子の性向であると決めつけることはできません。ただ、一時的にせよ自己肯定感が揺らいでいる時に上記のような様子を見せることがあります。その原因は一概には決められませんが、子どもに様子が気になったら、まず子どもへのアプローチを見直す機会だと思われるといいでしょう。
 自己肯定の反対は、言葉にすると「自己否定」になるでしょう。つまり自分が嫌いで、自分が受け入れられないという状態です。
「まだ出来ないの!?」「やっぱりだめね」、「本当は男の子(女の子)がよかったのに」、「どうしてできないの!?」といった今の自分の存在を否定するような言葉は子どもの自己肯定感にマイナスの影響を与えます。また親や保護者が完璧主義で、子どもができる範囲で一所懸命やっているのに何度もやり直しをさせたり、子どもの努力を認めずに結果だけを見て「100点でなければ意味がない」といった否定をしたり、兄弟や他の子と比べて「~ちゃんはできるのに、なんでダメなの」と比較をすると、いともたやすく子どもの自己肯定感は揺らぎます。
自己肯定感の揺らぎを感じたら、まず周りのことに関係なく、子どもを一人の人間として認めることです。自己肯定感とは自分の存在そのものが大事だと思えるということで、そこに他人との比較は必要ありません。
自己肯定感の高い子は、おおむね逆境に強い子です。やり遂げようとする意志が強いので、結果的に学びの成果を得やすくなります。実力を得、実力に基づく達成感からさらに自己肯定感は高まります。他人と比較することで自分を守る必要がありませんから、他者の存在を受け入れることが容易になります。人の話を聞くことができるようになります。そうなると自然に人が集まり、さらに良い環境が形成されます。自己肯定感は傲慢とは違いますから、いくらでも高めてあげて良いのです。

2019年04月15日

感情を抑えること、感情を伝えること

子どもの自己肯定感を育むということは、「自分は無条件で愛されている」という実感を与えるということです。そのために大切なのは、一時的な感情に振り回されて、子どもへの評価を変えないということです。
子どもと一緒に過ごしていると、いかに褒めて育てようと思っても、注意を与え、危険から子どもを守るために叱らなければならない場面があります。もちろん手を出すのは論外です。決してしてはいけません。そのためにも、叱る側が感情的になってはいけません。感情的になって怒鳴るのも同様に絶対に良くありません。緊急にストップをかけるために大きな声を出すことと、感情的に怒鳴りつけることは別です。緊急事態に大きな声を出して子どもにストップが伝わったなら、その後は感情的に怒鳴ってはいけません。叱るというのは、問題行動を止め、訂正を与え、正しい行動へと促すことが目的です。その目的に沿う最も最適な方法は、穏やかに論理的に説明することです。感情的に怒鳴ることは存在の否定につながります。
一方、大げさなほどに感情をあらわすべきなのは、子どもへの感謝です。「ありがとう」は相手の存在価値を認める言葉です。加えて、「とっても助かった」といった言葉を加えられると、子どもは自分が人の役に立っていること、人から必要とされる存在なんだと感じることができます。
もう一つ、感情をあらわすべきなのは、子どもを褒めるときと、子どもが褒められた時です。「うれしい」という感情を、子どもを褒めるときと、子どもが褒められた時にあらわします。これは子どもの誇りを高めます。褒めるときには結果ではなく、努力やプロセスを褒めるように意識します。子どもが何かに挑戦して「できた!」という時には、大げさなほどに喜んで褒めます。失敗したときにも、頑張りを大げさなほどに褒めます。決して、「がっかり」した顔や失望を見せないように気をつけます。
そして、おそらく日本人にとって大事なのは、子どもが褒められた時には「ありがとう」と素直に喜びをあらわすことです。「いやいや、うちの子はまだまだです」とか「普段はダメなのに、今日は頑張ったみたい」というような謙遜の言葉を聞きますが、それは褒めてくれた相手が聞くのと同時に、当事者の子どもが聞いていることが多いのです。実はこういった謙遜の言葉の中には子どもの自尊感情を損ね、自分に対する肯定的なイメージを損なう言葉が少なからず含まれています。ですから、褒められた時には謙遜するよりも、「ありがとう!」そして、「○○くん(ちゃん)も素敵!頑張ってるね」の方がいいと思います。褒められたらば感謝して「ありがとう!」そして褒めてお返しするようにしてはどうでしょうか。そうすれば謙遜する必要はありません。

2019年04月16日

子どもの感情が爆発するとき

 嫌なことが続くと感情を爆発させてしまうことは、大人にもあります。まして、感情のコントロールが未熟な子どもが感情を抑えられずに爆発してしまうのは、当然の出来事です。
 大人でしたら、自分の感情が「怒り」なのか、「悲しみ」なのか、「失望」なのか、判断もできるでしょう。感情に「言葉」を与えることは、感情を制御する第一歩です。しかし幼児は自分の感情を的確に言葉で表現することができません。理解できていない不快感が心を乱すのですから、それはどれほど不愉快なことでしょう。ですから、幼い子はたびたび「癇癪」を起こします。
 大人は、感情を爆発させてしまうと大抵後悔します。実は子どもも同じです。「自分はダメな子だ」と思ってしまうのです。そんな中で感情を爆発させた子どもを叱るのは、逆効果です。まずは子どもに「あなたはダメな子じゃない」と伝えるために、落ち着かせることが肝要です。最も効果的なのは抱きしめることです。そうして子どもが落ち着いてから、どうして感情が爆発したのかを聞いていきます。それは「怒り」に分類できるかもしれませんし、「焦り」に該当するかもしれません。しかし、爆発するということは、いろいろ複雑な感情が混ざり合っているからです。
 少しずつ、感情と言葉を結び付けていけるとよいでしょう。感情をカードにして、イラストで表情を分かりやすくしてあげたりして、この気持ちは「怒ってる」、この気持ちは「悲しい」、この気持ちは「イライラ」といった風に、まずは単純に結びつけるといった工夫もよいでしょう。そういったものを準備するときには、「嬉しい」や「楽しい」、「ワクワク」といった感情も一緒に準備します。「イライラ」して感情が爆発したけど、今は「楽しい」に変わったといった、感情の変化を確認できるとより感情の言語化にプラスに働きます。そこから、「この次、また『イライラ』が来たら、今日みたいに大きな声を出さないで、どうしたらいいかな?」と対策を一緒に考えてみます。
 これを繰り返すうちに、子どもは自分の感情に「言葉」を与え、自分の感情を把握します。そうして自分をありのままに受け止め、コントロールすることができるように育っていきます。
 感情のコントロールでも、大事なのは自分で対処法を学ぶことです。自分への信頼と自信を高めることで、自制心が育ちます。
 子どもが感情を爆発させることは、一概に悪いこととは言えません。このこともまた子どもが自分自身を育てる大事な機会になっているのです。

2019年04月18日

親の自己肯定感を守る人

親(特に母親)の幸福度と子どもの満足度の間には、明らかな相関があるそうです。保育の現場にいると肌でそれを感じます。
子どもの自己肯定感を高めることをいくつか記してきましたが、子どもの自己肯定感を高めることと同じくらい大事なことが、親自身の自己肯定感を高める(あるいは損なわない)ことだと思います。単純に言うと、親自身が自分を大事にすることです。
しかし、子育てはストレスやプレッシャーと全く無縁でいることはほとんど不可能です。もしも間違った育て方をしたら、この子の人生はどうなってしまうのか。子どもの人生を背負う不安があります。自信を無くし、思い通りに応えてくれない子どもにイライラし、願ったように助けてくれない周囲にイライラして、子育てを楽しめなくなると、自己肯定感は下がっていきます。それが子どもに悪影響を与えるというのですから、ひどい悪循環に陥り、辛さは増すばかりです。
親自身が「完璧」を目指して、そうはなれない自分自身をダメだと思っていては、子どもと楽しく過ごすことはできません。「完璧」を目指すことはやめてみましょう。実際、完璧な親というのは存在しません。また、親としての評価は、自分という人間への評価ではありません。
子どもためにやってあげたいことはたくさんあっても、体力も気力も財力も限られています。全部はできません。だから、「やらない」という選択肢があることを覚えておきましょう。私自身も幼稚園をあずかるものとして、子どもたちのためにやってあげたいこと、用意してあげたいものは沢山あります。でもそこで「やらない」という選択肢を意識して加えます。その方が、現実的で幸福な選択を見いだせることが多いです。
そして、親の自己肯定感を守る最大最強の味方は子どもです。子どもは親を受け入れることについて、この世で最も愛にあふれ、驚くほど許容範囲は広く、何度でも赦してくれる存在です。子どもたちは、殆ど無条件に私たちを信頼して自分を預け、私たちの存在を探し求めてくれるほどに重んじ、愛情を注いで、私たちの自己肯定感を守ってくれる人なのです。

2019年04月19日

好きだからやる

 好きだから、楽しいから、やりたいから、だから子どもはやろうとします。もっとうまくなりたい。もっとやりたい。もっと聞きたい。もっと見たい。もっと知りたい。「もっと~したい」という気持ちがあるところに、子どもにとっての「遊び」が生まれてきます。 好きなことをしている時は、自然と笑顔になります。失敗しても、何度もやっています。
 先日、NHKの「100分で名著」という番組でマルクス・アウレリウスの自省録を紹介していました。番組の中で、自省録の中にたびたび出てくる「善く生きる」という言葉を解説されて、「もともとこの言葉に『善悪』という意味はありません。『善く生きる』とは、『幸せに生きる』ということです」と言われていました。「善」とは「幸福」です。道徳や倫理と関係した「正邪」と結びつくのは二次的な意味になります。
 幼児期はまず自分だけの幸せの追求です。しかしそのうちに、自分の行動が誰かの幸せに繋がり、誰かを喜ばせることができると知ります。誰かのために「やりたいから」、それをする、というのも幼児にとっては「遊び」に他なりません。好きだからお手伝いをします。やりたいから助けてくれます。そのような経験を重ねて、遊びの目的が大きなものになり、公(おおやけ)なものになっていきます。幸せは大きく育っていきます。ますます、幸福追求に力が入ります。このようにして「社会人」へと踏み出していくのです。
 少し大げさに言うならば、このようにして社会にアプローチすることは、心に「情熱」を与えます。情熱のあるところで、人はくじけたときにも心を回復させることができます。難しい課題に難儀するときにも、「相手」への想像力を働かせて答えを追求し、そこから共感する仲間を見つけ出し、アプローチを継続できるようになります。その時の思考の方向は、「この人に何をしてあげられるだろうか」というものが大きくなります。それは自分にある可能性の鉱脈を掘り下げることです。
 幼児期は、これは「義務」、これは「責任」、これは「遊び」と色分けしていくよりも、まず「好きだからやる」という「遊び」の領域を充実させることが重要だと思うのです。

2019年04月22日

あきらめ癖

大人も子どもも関係なく、成功の要因は「継続」です。努力と取り組みを継続した人は、他の分野に取り組むのも積極的ですし、また努力を継続できます。諦めずにやるべきことをやり続け、壁にぶつかったならば模索し、やり続ける。こういった努力は「やり抜く習慣」として子ども時代から身に着けることができれば、将来にわたって大きな力となります。
 そこで、子どもに習い事などの継続をするように励ますのですが、そこで「あきらめ癖」ともいうような状況に出くわします。すぐに「無理」とあきらめてしまう。あるいは取り組む前から「無理」と決めて挑戦しないといった状況です。こういったあきらめの原因は、およそ次の3つとされています。
(1) 自信の不足
(2) 成功経験の不足
(3) 繰り返し(習慣)の欠如
継続のためには、成績ではなく努力(過程)を褒められること、適切な手本を提示することが基本です。その上で、3つの原因について対応を考えてみます。
「自信の不足」に対しては、子ども本人がやり遂げる経験を重ねることが大切になります。ですから、子どもが取り組むことに口出しや手出しをしないことが必要になるでしょう。出来栄えよりも、子どもが「できた」という満足感を得ることを目的とした見守りが大事です。
 「成功経験の不足」については、「自信の不足」と連動することですが、取り組みの開始において、子ども自身の意思で選ばせることが大切になります。子ども自身が決めて行動し、子ども自身が工夫や、やり直しなどの意思を決定できるように環境を与えるように心がけます。「やらされたことがうまくいった」というのではなく、「自分で考えてやってみて成功した」という経験を重ねられるように配慮します。
 「繰り返し(習慣)の欠如」とは、「同じことを繰り返す」という経験です。最も重要な繰り返しの経験は日常の生活リズムにあります。そこで「習慣」と言い換えることができます。子どもたちと接して感じるのは、「あきらめ癖」があらわれる子は、生活リズムが安定していないことが多いです。生活リズムが乱れるということは、物理的に肉体や精神のバランスが乱されるということです。その結果は顕著に好奇心と集中力と忍耐力に現れてきます。寝る時間、起きる時間、食事の時間、遊ぶ時間などをできるだけ一定のリズムで繰り返せるように生活を安定させると、多くの場合、子どもたちは驚くほどの好奇心と集中力と忍耐力を発揮するようになります。そうなれば、たとえ小さな行動でも、子どもにとっては大きな意味を持つようになります。

2019年04月26日

ルールを守る子、ルールを破る子

ルールに対して子どもには二つの欲求があります。「ルールを守る」と「ルールを破る」です。伝統的に男の子はルールを破る傾向があってルールを教えるのが難しく、女の子はルールを守って集団の調和を守ろうとすると言われています。ただ幼稚園で子どもたちの姿を見ていると、ルールに対する傾向は性別に寄らず、一人の子どもの中で「ルールを守る」と「ルールを破る」ということが欲求によって入れ替わるというのが正確だと思います。
「ルールを守る」という傾向は、集団の秩序や調和に対して子どもが欲求を感じていると理解されがちですが、ルールを通して集団を維持し、集団に奉仕するという意味で「ルールを守る」というのは、かなり高度な社会性と精神性があることです。
子どもは「ルールを守る」ことに非常に執着します。それは社会的動機ではなく個人的欲求からです。この場合、本人も出来ていないのに、お友だち出来ていないことを責めます。きつい言葉でお友だちを注意したり、列を乱す子を押したりするということもあります。列の順番を乱されると不愉快だからルールを守るように要求します。その際、自分も列を離れてしまいます。お片付けの声がかかっているのになかなか片づけない子に、苛立ちを感じるからルールを守るように要求します。その際、自分も片づけをしていません。もう一つは、ルールを守っている「自分を見てほしい」という欲求で、これはアピールです。ルールを守る自分を褒めてほしいという要求です。
一方「ルールを破る」のは、命じられること、口出しや手出しを嫌っているということです。ただ、大人にとっては手を焼くことですが、子どもらしい姿はこちらにあります。遊びの集中を妨げられれば不愉快ですし、自分でやろうという成長欲求を妨げられることも不愉快でしょう。
「ルールを守る」、「ルールを破る」のどちらの傾向に対しても、基本的なアプローチは同じです。手本を示して、努力を誉める。他と比較することをしない。自尊心を傷つけない。ルールを変更しない。特例を作らない。これらの積み重ねです。そこから、本来の社会的意味でルールを守ることへと成長を繋げていきます。
ルールを守るというと、多くの場合「禁止」に服することと理解され、拘束をイメージします。しかし「ルールを守る」とは、「相手に対してわたしは何ができるだろうか」という精神から動くことを選ぶということです。赤信号で止まるのは、止まるという行動を起こすことです。赤信号で止まることで歩行者を守ることを選ぶのです。しかし、多くの場合赤信号で止まることで自分を事故から守ることを選びます。それは実は先に述べた子どものルール感覚と変わりません。社会性が未熟で、結果として不満が付きまといます。まずは大人自身がルールを守るという本当の姿勢を知ることがなければ、子どもにルールを教えることが「不幸」なことになってしまいます。

2019年04月27日

トイレトレーニング開始のタイミング

おしっこやうんちをしたいと感じて、トイレに行くまで我慢して、自発的にトイレでおしっこやうんちができるようになる、というのがトイレトレーニングの目的です。
そこで、トイレトレーニングは大まかに次のようなことを目標とします。
1. おしっこ(うんち)がしたいと言える
2. トイレまで排泄を我慢できる
3. トイレで排泄ができる
トイレにおけるマナーはこの次の段階になります。例えばパンツの上げ下ろしや、トイレットペーパーできちんと拭くこと、排泄後の手洗い等はしばらく手助けが必要なことが多いでしょう。
上記のような目標に到達できるためには、子どもの体の成長を待たなければなりません。おしっこは膀胱にたまり、その情報が神経系を通して脳に伝達され、その情報を脳が受け取ると「おしっこをしたい」という感じ、「おしっこを出せ」という指令を出します。その指令が神経系を通って膀胱に伝わり、筋肉を動かして、はじめておしっこが出ます。非常に大雑把ですが、こういう経過でおしっこを出します。
そうなると、脳と膀胱の発達、脳と膀胱の「連携」の発達がなければトイレトレーニングの目標に到達できないことになります。赤ちゃんの頃は脳と膀胱の連携が未発達で、膀胱も小さいので反射的におしっこをしています。身体的に我慢はできない状況です。やがておしっこの感覚を覚え、膀胱も大きくなっておしっこをある程度貯められるようになると「我慢する」をするようになります。こうなった時がトイレトレーニングを考え始める時期になります。多くの場合、「もう2歳だから」とか、「周りが始めたから」というようなことでトイレトレーニングを始めることが多いのですが、子どもの体が成長して準備ができていない時にいくらトイレトレーニングをしても、うまくはいかないでしょう。
子どもがトイレトレーニングを始められる発達の目安は、第一に「歩ける」ことです。危なげなく一人で歩けるようになれば、脳を含む神経系の発達が一定のところに到達していると考えられます。次に、トイレトレーニングは言葉をかけることからはじまります。ですから第二に「言葉が分かる、話ができる」というのが目安になります。「おしっこに行く?」という問いかけや、「おしっこしたい」という訴えも、多くの場合言葉を使います。そして、最後におしっこの間隔が空くということが大事です。ある程度間隔が空かなければおしっこを我慢することができません。時間を決めておむつをチェックする等して、おしっこの間隔が大体2時間程度空くくらいが目安といわれています。

2019年05月07日

トイレトレーニングの工夫

 幼稚園や保育施設でのトイレトレーニングをいくつか紹介します。
 おトイレの際に、おむつの子もトレーニング中の子も一緒にトイレに連れていきます。おトイレをする様子を見せるためです。一人でできない子に、一人でできる様子を見せることで、子ども自身がトイレトレーニングに取り組む気持ちになることも多いです。
 おトイレの時間はほぼ毎日決まった時間に全員に促します。出ても出なくてもかまいません。決まった時間にトイレに行くことで習慣づけをします。だいたい90分~120分間隔で誘うことが多いです。習慣づけることでおしっこのコントロールができるようになります。
 おトイレに入っている時間は2~3分程度ですが、子どもにとっては長い時間に感じられます。そこで、トイレに座ったら声をかけてお話をします。歌を歌うということもあります。いずれも、2~3分間座っていられるようにするトレーニングです。ただし、「おしっこ出た?」等のおしっこに関する声掛けばかりですと、早くしなくてはいけないと子どもは緊張しますので、声掛けはリラックスさせるためです。
 トイレットペーパーは、トイレトレーニングをはじめたばかりの子どもにとってはおもちゃです。幼稚園でも、一個丸々引き出してトイレを詰まらせる子が毎年います。ペーパを引き出すためにトイレに入ることもあります。そこで、保育園などではトイレットペーパーをあらかじめ1回分に切り分けて準備していることも多いようです。まずは、使いやすい状態からはじめて、トイレットペーパーを必要な分切って拭くという練習に進むと良いでしょう。「自分でできた」という達成感を少しずつ重ねていきます。
 服は、自分でおろしやすい、脱ぎやすい、そしてあげやすい、着やすい服を選んでくださる方がよいです。きちんと拭いて服装を整えるところまでできると介助なしでトイレができることになります。服装にも「自分でできた」という気持ちを持たせやすくしてあげる工夫があると良いです。
 最後に、トイレトレーニングは失敗と挫折と停滞がつきものです。少しづつ成功体験を重ねることが大切です。失敗が続き、おトイレのたびにおしっこを拭いたりするのは大変ですが、心がけて「がっかり感」を表情や言葉に出さないようにしましょう。逆に、無理に笑顔を作ることも子どものプライドが傷つきます。トイレトレーニングはなかなかデリケートです。失敗して一番がっかりしているのは子ども自身です。失敗したときには、普段通りに「きれいにしようね」と着替えさせて、失敗を引きずらせずに気分を切り替えるようにするのが一番です。

2019年05月09日

魅かれることから

幼稚園の園庭は砂の園庭です。子どもたちが走り回って遊ぶのに適当な場所です。この砂の園庭で、体育などの活動の際に子どもたちが園庭に座って先生のお話しを聞いたり、順番を待つという場面があります。そんな時、必ず園庭の砂をいじって遊び始める子がいます。前もって注意をしても必ず何人かは砂をいじり始めます。飽きているのではなく、砂の感触に魅かれているのです。
あるいは、道を歩いている時に縁石や花壇のへりに登りたがります。前もって注意をしても必ず上ります。塀に上りたがり、登るための遊具でない物に上り、大人をヒヤヒヤさせます。大人は危ないと感じるので、前もって注意を与え、また叱ったりしますが、何度も同じことをします。狭いところ、不安定なところに上ることに魅かれているのです。
雨が降ると水たまりができます。水たまりを見つけたら、必ず水たまりを通っていきます。まるで子どもの中に、「水たまりを見つけたら入ること」というルールがあるかのようです。水たまりに魅せられているのです。
何かを集めるのが大好きです。葉っぱも小石も子どもたちにとっては夢中になって集めるコレクションです。集めるということに魅かれているのです。
子どもたちにとって、「今、目の前にあるもの」が確かな存在です。その存在に魅かれるのです。非常に狭く、かつシンプルです。自分で見たもの、自分で触れられるもの、自分で得られるもの、このタイミングが子どもにとって重要な時なのです。大人が見ると「何でわざわざそんな事をしているのだろう」、「何もこんな時にしなくてもいいのに」と思うようなことが、子どもの世界の常識なのです。前もって注意しても、「今はやらないよ」と声をかけても通じないのが、当然なのです。子どもには「前」も「後」もありません。「今」、「目の前」のものに魅かれているのです。
「視覚」「聴覚」「嗅覚」「触覚」「味覚」といった代表的な感覚が最も鋭敏な時が幼児期です。この時期に感覚的な刺激を通して物事を理解し、概念をとらえようとしています。砂を飽きるまでいじって、指の間からさらさらと落ちる様を見たり、砂が落ちることで手の中の砂が「無くなる」「消える」という概念を感じています。道を歩くとわざわざ広い道ではなく狭い縁石の上を歩くのも、運動的な刺激と共に概念をとらえています。「危険」なことと「難しいこと」の境界線をとらえようとします。「限界」という概念を得ます。
概念をとらえるために、子どもの内には情熱的なまでの魅かれるものへの欲求があります。そして、この欲求を通して「さらさら」や「ごつごつ」や「べたべた」や「バシャバシャ」といった擬態語で表されるような概念の世界に入っていきます。大人が一緒に砂を触って「さらさらしてるね」と言う言葉を聞いて、魅かれたものが、「さらさら」と「砂」という概念を結び付けて体得されます。こういった概念の獲得を通して、将来、私たちと交わすコミュニケーションも、お友だちと交わすコミュニケーションも基礎が形成されています。
大人にとっては、少々困った砂いじりも水たまりへの突撃も、子どもにとっては「概念」を獲得するための重要な「今」「目の前」の世界へのアプローチなのです。

2019年05月10日

環境を作る

幼児教育と聞くと、具体的に何をしていると思われるでしょうか。外で子どもと一緒に遊んだり、一緒に歌ったり、工作を一緒に作ったり、お遊戯をしたり…そんな子どもと一緒に過ごす場面を思い浮かべることでしょう。これはとても大切な幼児教育の現場です。しかし一部でしかありません。重要ですが全てではありません。むしろ、子どもと一緒に過ごす以前の時間に大事なものがあります。それは「環境を作る」ということです。
子どもは、言われてやることにたいした喜びは感じません。私たちは「こういう遊びに誘ったら、きっと喜んで遊ぶぞ」、と思って子どもを誘いますが、往々にしてこの期待は裏切られます。大人から見ると何が楽しいのやらさっぱり分からないことでも、明らかに子どもが自分で選んで行動している時には喜びを感じています。
ですから子どもが自分で選んで行動できるように環境を作ることが、幼児教育では極めて重要なことになります。これは何もおおげさな遊具や調度を整えるということではありません。子どもが「やりたい」と思ったときに、自分でそれを始めるための環境を作るということです。
例えば、「工作をする」時に、幼稚園の先生たちは沢山話し合って材料を準備しています。画用紙をどのようなサイズで用意するのか。飾りをつけるときに使うのは糊か、テープか。仮にテープの方が丈夫に作れても、子どもがまだ自分で扱えないのであれば、糊を使って作る方法を模索します。あるいは、子どもに挑戦させるためにどんな「挑戦する工程」を用意するのか。準備できるものに子どもを合わせるのではなく、子どもに合わせて適切な準備をします。子どもたちの集中力は長くはありません。興味をもって集中してできる間に工作が完成できるように、学びと経験から先生たちは準備します。そして、子どもが自分から興味を持てるように、一つの作品のために絵本を何日も前から読み聞かせたりして、子どもが自分から取り組めるようにあらゆる環境を整えます。大好きな子どもたちの「自分でできた」という育ちの喜びのためです。いくら自分でできることがいいといっても、何も準備しないでただ子どもたちをそこにいさせればいいというのは放任であって、教育ではありません。もちろん「自分で選びなさい」、「自分でやりなさい」と口で言ってもその通りにはなりません。
以前、行政の方がこども園になることを勧めに来られた時に、教師たちの準備の場所を指して、「幼稚園時間の子どもたちが帰ったら、幼稚園の先生たちは仕事がお終いですから、保育士に場所を明け渡してください」と言った言葉を聞いて、絶対にこども園にはならないと決めました。幼稚園教師の仕事も保育士の仕事も、その実態を全く知らない人間が作っている制度だと分かったからです。
子どもが興味があるもの、夢中になれそうなものを、自分で選べるように配置すること。子どものレベルに合わせて準備すること。こういったことが環境を作ることになります。幼児教育の現場で見せるものではありませんが、むしろ多くの時間を費やしている欠かせない極めて重要なことなのです。

2019年05月14日

火事場の馬鹿力

幼児期に夢中になって満足するまで取り組む経験は貴重です。この時の子どもたちの集中力について輝きベビーアカデミー代表の伊藤美佳先生は、「火事場の馬鹿力と同じ」と言われています。火事のような切迫した状況で、普段では想像できないような力を無意識に発揮することが、火事場の馬鹿力です。それぐらい、ものすごい集中力が発揮されるのです。
子どもが集中している時、子どもを見守る大人は、「決して話しかけない、音を立てない、邪魔をしない」ことが大事です。真剣な顔で取り組む時に、中には鼻水を垂らして没頭する子もいますが、話しかけたり拭いたりしない方が子ども為です。
私は、幼児期の一人遊びは、大人に勧められてお友達と遊ぶよりも遥かに重要な遊び体験だと思っています。幼児期に火事場の馬鹿力に喩えられたような集中力を発揮する経験を沢山することは、必ず将来、取り組むべき、避けてはならない課題を担う基礎となる力となります。人間はやりたいことをやって力を育み、やりたくないことであっても責任をもって取り組むことで大人となるのです。
子どもを褒めることは大切なことです。しかし、褒めるタイミングの方が褒める量よりもはるかに重要です。集中力を発揮している子どもを褒めても、子どもにとっては迷惑でしかありません。本当にやり抜くべきことが中断され、出来なくなってしまうからです。
幼児期に自分の世界に没頭することが、結局、自立を作ります。いつまでもママにやってもらっては自分でできませんし、自分でやろうともしません。言われたとおりにするだけでは伸ばしようのない能力が人間にはあるのです。
幼稚園に、掃除をする身としては困ったところに毎日砂を山のように運んでくる子がいました。何度担任の先生が注意してもやめないので、いっそ掃除の仕方を工夫した方がよさそうだ、と発想を変えてやらせてみたところ、一週間も続けたらその「遊び」をやらなくなっていました。たとえ大人から見るといたずらにしか見えなくても、子ども自身が決めてやっていることです。何らかの育ちの欲求が子どもを動かしていたのです。子ども自身が、今ここで必要だと求め、決めているとき、育ちにおける「火事場の馬鹿力」が発揮されています。

2019年05月17日

サポートのさじ加減

集中して取り組んでいる子どもをそっとしておくことは大切ですが、同時にうまくいかなくて困っている部分があったら、適切なサポートをすることが必要になります。
物事をやるにはいくつかのステップがあります。例えば折り紙を折る時に、折工程が10あるとします。折り順にそって6までは自分でできるけれども、7がうまくできなくて集中力が途切れることがあります。その7「だけ」を教えることがサポートになります。7を教わったらまた自分で完成させたいのに、結構大人は7だけでなく最後の10まで「やってあげて」しまいます。大人が仕上げて「できた!」と喜んでも、子どもにとってはうれしくありません。
作ってもらった素晴らしい折り紙よりも、大人から見たらまだまだ下手くそでも最後まで子ども自身が完成させた折り紙の方が子どもにとってはるかに価値があります。サポートはお世話をすることとは違います。
もう少し加えますと、「やり方」を教えるときには、できるだけ「言葉を使わない」で伝える方が良いです。言葉は子どもにとって使い始めたばかりの思考ツールです。言葉と動きと両方で教えられると、言葉の方に意識がいきます。しかし、幼児期の取り組みの多くは「できる」大人の真似をすることで体得します。字を書き始めた子どもが文字をひっくり返した「鏡文字」を書くのも、真似をするからです。鏡文字は書こうとすると難しいのに、子どもは器用に鏡文字を書きます。それぐらい、動きを真似ることが得意な時期なのです。動きを真似るときの集中力は、言葉を理解しようとするときの集中力と比べ物になりません。子どもに説明している自分の言葉を分析すると分かるのですが、動きを教えようとする言葉は難しすぎる単語になるか、抽象的すぎるものになっています。そこで、「見ていて」と指示して、ゆっくり、ていねいに、黙ってやるほうが効果的ということになります。
上記の折り紙であれば、出来ないで困っている折り方だけを黙って見せて、子どもにまた折り紙を返してしまうというのが、良いさじ加減のサポートです。

2019年05月22日

じゃれつき遊び

子どもたちは大人にじゃれつくのが好きです。幼稚園では、毎朝正門で「おはようございます」と子どもたちと挨拶をします。正門のところに立っていると、必ず外遊びに出てきた子どもたちがじゃれついてきます。私によじ登ろうとする子、足にしがみつく子、様々です。私が体をゆすったりして動くたびに「キャー」と歓声をあげます。
じゃれつき遊びは大事な遊びの一つです。スキンシップという意味でも、身体の発達、運動能力の発達、そして精神の発達においても大きな力を持つ遊びです。幼児期のこれらの発達に、「手指」運動が良いということはご存知の方も多いと思います。指先を使うことは、脳に大量の刺激を与えます。しかし、もう一つ幼児期に大事なのが、「腕脚」の運動です。
日本体育大学名誉教授であった正木健雄先生(故人)が、「脳を鍛えるじゃれつき遊び」(小学館)という著書で、「じゃれつき遊び」を詳しく解説されています。
先生は、じゃれつき遊びを保育の中に意識して取り入れている幼稚園の先生方の証言として、じゃれつき遊びが一番子どもたちの「目がキラリと光る」という言葉を紹介しています。正木先生は「目がキラリと光る」のは、大脳の前頭葉がとても働いている時の現象だと言われています。正木先生は何年もじゃれつき遊びをした子どもたちの前頭葉の働きを調査されました。その結果は予想を超えるものだったそうです。
通常、幼児期の子どもの遊びは「興奮」に傾きます。前頭葉の発達の順序が「興奮」を発達させることが先行するからです。幼い子どもが興奮すると収まらなくなるのは、実は成長過程としては当然のことなのです。その後、幼児期を超えて、青年期まで時間をかけて興奮を抑える「抑制」を発達させていきます。ところが、じゃれつき遊びをする子どもたちの前頭葉では、興奮を発達させるだけでなく、抑制の強さも一緒に発達させていることが分かりました。これは「大人」の脳に近い活動がされていたということです。
じゃれつき遊びによって興奮と抑制の両方がバランスよく刺激された後、何が子どもたちにもたらされるでしょうか。それは極めて高い「集中」です。
正木先生は、じゃれつき遊びは直ちに子どもたちを賢くする遊びではないが、この遊びで育った子どもは素晴らしい集中力が育てられると言われます。それは幼児期を超えた向こうに広がる少年青年時代の学習と体験の野で本物の力を発揮します。
じゃれつき遊びをする子どもは夢中で、何度も同じことをするように要求します。心から満足して「あー、疲れた!」とキラキラした顔で言うまでやめようとしません。大変ですが、おすもうやレスリングのような「腕脚」を動かし、刺激を得るじゃれつき遊びは、子どもたちにとってあらゆる意味で最高の遊びの一つなのです。

2019年05月24日

ダメと言われるほどやりたくなる

動きが活発になったお子さんに一日何回ぐらい「ダメ!」と言っているでしょうか。多分、ほどんどの場合、効果がないのではないかと思います。というよりも、ほぼ効果はある特殊な場合を除いてゼロでしょう。
なぜなら子どもは「ダメ!」と言われるほどやりたくなるのです。なぜなら、「脳には否定語が通じない」からです。例えば、私は蛇と虫では、虫の方が苦手なタイプです。そこで、「虫のことは考えないで」と言われると、むしろ苦手な「虫」がすぐに頭の中に浮かんでしまします。つまり、「~しない」、「ダメ」という言葉を言われても否定の効果はまずゼロなのです。大人は「ダメ」とされていることを表に出しませんが、子どもは「思考=行動」あるいは「思考=おしゃべり」ですから、この点がさらに顕著に見られます。
そこで、子どもに「ダメ」を伝えるときの最も良い手段は、肯定することでしてほしくない行動から遠ざけるということになります。例えば、机の上にのってほしくないのであれば、「この椅子に座ってね」とか、「この台の上はのってもいいよ」と、肯定的な代替案を示すことです。走ってはいけないところでは、「ママ(パパ)と一緒に歩いてくれるかな」と示し、大きな声を出してはいけないところでは、わざと耳元でこしょこしょと「内緒話をしようか」と語りかけるといった具合です。その際に「ちょっと難しいけどできるかな・・・」と切り出すとさらに子どもは指示を聞いてくれることが多いです。ただ、子どもは次々と新しく出来ることを求め続けているので、「出来てしまった代替案」では通じなくなります。大変ですが試行錯誤しながらいろんな言葉をかけなければなりません。
「ダメ」という言葉は、聞いた瞬間に脳の思考を停止させます。そのため聞くべき言葉が排除されてしまうと思ってください。「ダメ」がきっかけとなって、その後の話を、「聞く必要のない話」と判断するようになります。
「ダメ!」の通じる唯一の例外は、危険に近づこうとする子どもの行動を「停止」させる時です。その時には、「そんなことをすると怪我をするかもしれないよ」ではなく、はっきりとお腹に力を入れて「ダメ!」と言ってください。その際に説明の言葉はいりません。子どもが停止し、危険から遠ざけたところで子どもの緊張をほぐしてから、丁寧に説明してあげてください。

2019年06月03日

子ども専用のスペース

私たち大人は、子どもに伸び伸びと遊んで欲しいと思って広いスペースを準備します。外で走り回ってサッカーをしたり、鬼ごっこをして遊ぼうというのであれば、広い空間が必要となります。しかし、それ以外の遊びでは、子どもが必要とするスペースは、私たち大人が抱くイメージよりもずっと小さいものです。
砂場で熱心に遊んでいる子を観察すると、一人の子が砂場全体を使って遊ぶということはまずありません。しゃがんで自分の手の届く範囲で熱心に砂をいじっています。幼稚園では落書きのためにチョークを用意しています。落書きを地面に書く時にも、チョークで書ける床面スペース全体を使う子はほとんどいません。おままごとのスペースもよく見ると広げたシートの片隅でわざわざ集まっています。
それなのに何故広いスペースが必要と感じるのかというと、子どもたちの遊びが次々と変わるので、それに伴って場所を移動するからです。おままごとをしていた子どもが、おままごとを放って別の場所で木登りを始めます。やがて、またおままごとに戻ると、次は上り棒に行ったり、鉄棒に行ったりという具合です。実は遊びを単体としてみると子どもの遊びが支配できるスペースは大変小さいのです。
子どもは意外と狭いスペースで落ち着くものです。それが子どもにとっての「自分の場所」として支配できる範囲を意味しています。幼稚園の教室いっぱいに広げられたおもちゃをかたずけるのは、子どもにとっては重労働です。しかし、狭い場所を指示して、「ここがAちゃんの場所だよ」と教えると、その場所の片づけはその後、指示されなくても自分からできるようになります。
ご家庭のリビングなど、大人のスペースは子どもにとって大きいので、その中に例えば体格に合わせた幼児用の机と椅子を用意して、「ここがあなたの場所」として与えてあげると、そのスペースの中で遊び、そのスペースの中の片づけをするようになります。朝起きると、まず「自分の場所」に行っておもちゃを取ってくる、自分のカバンを取ってくる、といったことも出来るようになります。
「子ども部屋」は、体格の小さな子ども時代には広すぎるスペースであることがしばしばです。結果として「片づけられない」、「整理できない」と叱られるより、子どもに合わせた「狭いスペース」を与えた方が良いことが多いのが幼児期です。

2019年06月04日

やりたいことをやる力

子どもにとって「やりたいことがやれる(挑戦できる)」というのは大事なことです。
西荻学園幼稚園では、園庭の外遊びの時に、様々な園庭遊具の他に、ボールや三輪車、ペダルなしの自転車、手押し車、手先を使うおもちゃや工作の材料、図鑑などを準備しています。砂場のおもちゃも多くありますし、木登りに挑戦できる木も、虫探しをする藪もあります。そして、先生たちがいます。
しかし、「羊を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」というように、やりたいかやりたくないかという自分の欲求に従って「やらない」を選ぶのであればそれはそれでよいのです。しかし、本当はやりたいのにやろうとしない子がいます。欲求に勝る「ストップ原因」があって、本当は求めていることができなくなっているのです。
ストップ原因は様々にありえます。しかし大きく分けると2つです。一つは、やりたいことをやると「怒られる」、「間違える」ということへの恐れです。もう一つは、「やって」と言えばやってもらえる環境に浸ってしまって、真っ先に自分では「できない」と判断してしまう場合です。
子どもにとっては全てが遊びのカテゴリーに入ります。朝の支度も、お手伝いも、子どもにとっては遊びです。本来遊びには「もう一回!」、「できた」、「もうちょっと」があるのであって、失敗しながら成功に進んでいくものです。
しかし、大人である私たちは「ちゃんとできないといけない」、「早くできないといけない」という遊びの基準から外れたところで子どもの行動を判断してしまいます。そのために、子どもがやっている途中で「ダメじゃない」と声をかけ、子どもから取り上げて代わりにやってしまいます。叱ってしまうこともあります。結果として、子どもは失敗すら経験できないということになります。
繰り返しますが、子どもは失敗して上手になっていきます。失敗の経験を取り上げらるから、次もできないのです。やらせてもらえないと楽しくなりません。チャンスを与えなければ満たされることはないのです。自分でできれば充実感があり満足できるのに、遮られ、取り上げられることが常態化すると、自分を出せなくなり、「やりたくてもやれない」という子になってしまうことがあります。
「ダメ」と言われて行動と思考が停止し、取り上げられて自分で答えを見つけることができないのは、子どもの自尊心を脅かします。やがて言わないとやれないということが起こり、しかも成功経験がないので、出来ることを応用して発展させたり、行動を予測したりといったことも難しくなります。
確かに何度か失敗を経験させなければなりませんが、子どもがやりたくてやる行動の成長は驚くほど早いので、できたことを認めてあげて、次のステップに子どもが進んでいくことを促す方が上手にできるようになります。結果として、何度も同じことを言ったり、何でもやってあげないといけないということから大人は解放されます。そうなれば、大人にとっても子どもにとっても幸せなことだと思います。やりたいことをやる、という子ども本来の力を発揮することができます。

2019年06月05日

使いやすければ、できる

キリスト教会には幼稚園を併設している教会がいくつもあります。牧師の関係でそういった教会へ行くと、お願いして幼稚園を見せていただきます。どの幼稚園も様々に子どもたちの環境を工夫しておられます。
ある幼稚園では子どもたち一人一人に自分のぞうきんを用意していました。子ども自身で拭くためでした。子どもが水をこぼした時など、「ぞうきんを取りに行こうね」と声をかけると、自分のぞうきんを持ってきて自分で後始末をするようになるそうです。子どもと一緒にぞうきんで水を拭き、洗って、絞って、干すところまで一緒にやって教えると、やがて何も指示しなくても自分でぞうきんを取りに行き、自分で拭いて、洗って、干すようになるのだそうです。
子どもが失敗したとき、叱ったり、注意したりするのではなく、「対処」を教えるということが大切なのだと教えてもらいました。失敗した時を、「対処」を教える機会と考えて、最初にきちんと教えると、同じことがあった時子どもは自分で対処できるようになるのです。
失敗したということは子どもにもすぐに分かります。いけないことをしたと自覚しています。その時に、叱られるとやがて大人の声に耳を貸さなくなります。聞こえないふりをして無視をします。不愉快だからです。これではいつまでたっても子どもは成長しません。成長とは、失敗を経験して対処を覚えて得られます。
子どもに対処を教えるときに、先ほどの園が用意されていた道具が、「自分のぞうきん」でした。最近は、ぞうきんも手軽に購入することができますが、購入できるぞうきんは幼児の手には大きすぎます。使いにくいのです。使いにくいとうまくできませんから、やりたくなくなります。それでは対処が身につきません。そこで、子ども用のものは、子ども用に工夫することが大切なことになります。ぞうきんであれば、子どものてのひらのサイズに合わせることが大事です。大体大人サイズの4分の1ぐらいです。このサイズですと、子どもの手で握ると絞ることができます。
子どもにとって失敗もの対処も「遊び」となれば、楽しく覚えていきます。やって見せ、一緒にやって、最初に子ども用の物を準備して丁寧に教えると、子どもはどんどん「大人の仕事」をやってみたくなるものです。先ほどの園で工夫されていた子どもの「自分のぞうきん」などは、取り入れてみると良いと思います。

2019年06月06日

見て、考え、言葉を得る

朝の挨拶をしている時、必ず「お話」をしてくれる子がいます。今日の気持ちや出来事をお話ししてくれます。挨拶の順番を待つ子もいますが、できるだけ目線を合わせて話を聞くようにしています。わざわざ教室から私のいる事務室にやってきて、些細な出来事を報告してどう感じているのかを話してくれる子もいます。お当番の時はもじもじして声の出せない子が、今見たことを話す時にはイキイキとした声で話をしてくれます。子どもにとって、今見てきたことをすぐに言葉にして伝えたいというのはとても大きな欲求なのだと知らされます。大きな欲求であるということは、大きな育ちのチャンスを持っているということです。
幼児期の子どもは、基本的に「見ているもの」について考えます。大人のように、景色を眺めながら明日の予定を考えるということはしません。つまり、子どもが見ているものこそ、子どもが言葉を得るための教材になっているということです。
見ているものを言葉と結びつけることは重要な積み重ねになります。そこからさらに進んで、目に見えない感情を言葉化することは、見て、心動かされた子どもの視線を察知し、そこに共感した大人の言葉が与えられる中で蓄積されていきます。
四六時中子どもの表情を観察するのは不可能ですが、もしも子どもが「あ!」という表情を見せた時、見入って心奪われていたならば、子どもに共感し、「言葉」を与えるチャンスです。感情、感動は何もしなくても勝手に育つものではありません。子どもが見た事象に対して、共感してくれる人の心と言葉が子どもの感情と感動を育てます。
「まだ小さいからわからない」ということはありません。乳児の頃から子どもは驚きや美しさ、すばらしさを感じています。ただ、見た事象、感情や感動を、大人と共有するための言葉をはじめとする表現と伝達手段を得ていないのです。
そこで実は、子どもを感性豊かに育てようとするならば、子どもの感情と感動に対してどれだけ豊かに大人が共感し、多彩な表現を伝えることができるかというのが一番重要なことになります。
そして、やがて子ども自身が自分で言葉をもって感情や感動を伝えるすべを得たならば、今度は大人が黙る時です。子どもの気持ちを先回りして察して語り掛ける必要はありません。自分自身を伝える子どもの言葉を大人の眼差しの中で見て、子どもの言葉を聞き、「そうなんだ」と答えるだけで十分です。多少間違っても、直ちに訂正はしないで、話したいという子どもの欲求を満たしてあげてください。そういう機会を重ねると、不思議なほどに子どもの言葉は多彩に、そして深みを増していきます。

2019年06月07日

言葉以外のコミュニケーション

子どもと接するときに、言葉によって伝達することは大切です。「どうせ分からない」と思わずに、丁寧に言葉をかけることで子どもの語彙も広がっていきます。そして同時に、言葉以外の伝達手段も用いることも重要なことだと思います。
幼稚園に入園してくる子は学齢3歳の子たちです。3月に3歳になったばかりの子もいて、言葉の発達の様子はみんな違います。なかなか言葉が出なくて心配されている保護者の方もおられます。そんな時に、コミュニケーションは言葉だけではないことを知っておくと、ぐっと気持ちが楽になります。
言葉を促すと言っても、言葉をかけることだけが手段ではありません。「何を話そうか?」と困ってしまうかもしれません。そんな時に、前後関係も複雑な意味もなく、ただ「コミュニケーションをとる」ことだけを目的として、子どもを誘うのに手指コミュニケーションは赤ちゃんの頃から使われます。子どもに向かって手や指を使ったコミュニケーションや手遊びを歌ったり、話しかけたりしながら併用することで、子どもに伝わる情報の幅は大きく広がります。一緒に手遊びをすれば脳も刺激を受けます。
コミュニケーションは、「話す」、「書く」だけでなく、「表情」、「歌う」、「描く」、「演じる」、「動く」など表現手段は様々です。そういう手段が沢山ある方が、子どもの捉える「意味」の世界に多層的な経験が加わると思います。語彙力や感受性が育っていきます。言葉は充当ですが、伝達手段のひとつに過ぎません。
これは逆に、子どもから大人へ自分の思いを伝えるときに言葉だけではない手段を与えることになります。語彙力の乏しい年齢の子も、精一杯話しかけているのに分かってもらえないとイライラするでしょうし、悲しいのは大人と一緒です。これからの時代、様々なツールの発展で世界中の人と出会う機会はますます増えるでしょう。そのような時代に生きていく子たちが様々な伝達手段を多層的に経験し、コミュニケーションの深みと幅を育てることは重要だと考えています。

2019年06月10日

ケンカの仲裁はしない

子どもが一緒にいれば、間違いなく諍い、ケンカが起こります。子ども同士のトラブルは成長のために必要な経験です。ケンカは怪我に繋がる、ということで直ちにやめさせたり、大人がどっちが正しい、どっちが悪いと決めてしまうと、子ども同士で解決する経験を持てません。ケンカも立派な社会経験であり、人間関係の経験であり、自己主張と共有と譲歩の経験です。どうしたら子どもたちを暴力ではなく、解決に意識を向けられるでしょうか。
ケンカが始まると、子どもは大人の仲裁を期待するところがあります。しかし、大人の仲裁に納得できるのは、ケンカをしているどちらかの側の子で、「あなたが悪い」とされた子は納得いきません。大抵の場合、大人はケンカが始まってから子どもに注目しますから、ケンカの原因について実は見ていないことが多いのです。この辺を計算して言い訳を始めるという子も現れます。いかにすれば大人を味方につけられるかを学んでいる子です。そこで、「ケンカを見るのは気持ちが良くないので、ケンカは外でやってください(あっちでやってください)」と伝えます。子どもを脅してはいけません。冷静に伝えます。ケンカを止めてもらえず、大人を味方につけられず、外に出されてしまうとなると、子どもたちは途端に「ヤバイ」と思うようです。そこで話し合いが始まることが期待できます。もちろんこれは万能の手段ではありませんが。
基本的に、子ども同士のトラブルは手加減のない暴力に発展しないよう気を付けなければいけませんが、大人は我慢して「見守る」のがベターです。お友だちと遊ぶようになった子どもには少しずつ確実に解決能力が育っています。

2019年06月15日

うちの子インタビュー

人と人が話をする様子を日本語は多彩に表現します。「会話」や「対話」、「談話」という具合です。それぞれの違いはお分かりになるでしょうか。
「会話」は二人または数人で話をすることをいいます。一方、「対話」は二人の人が向かい合って話をすることをいいます。会話は取り留めのない話なども含みますが、対話は信頼関係を築くためのコミュニケーション、という意味合いが強いようです。このうち「対話」について、大変良い示唆をいただきましたので紹介します。
「あなたも名探偵」という児童文学シリーズの作家である杉山亮さんが、「子どものことを子どもにきく」という本を著しておられます。その中で、杉山氏は息子さんが3歳から10歳になるまでの8年間、年に1回、「インタビュー」をしてきたことが紹介されています。この杉山氏から、子どもと対話するときの心構えを紹介します。
1. 子どもだから面白いことを言うと期待してはいけない。
2. 子どもだから尋ねてもわからない、と甘く見ない。
3. 大人に都合の良いところに誘導しない。
4. 大人が既に答えを知っていることをわざわざ尋ねない。
5. まとめようとしない。
6. 相手の全力に応えて、わからないことは「わからない」、知らないことは「知らない」と言う。
杉山氏は言われます。「自分の思ったこと、感じたことをそのまま言えるようになることは、悟ることに匹敵するほど大きな力だ。知識のためでもなく教育のためでもない、静かでしかし楽しい対話を大人と子どもの間で始めよう。」
子どもの未来に心から関心をもって、同じ人間として尊敬を抱き、対話ができる関係を築きたいと思います。

2019年06月27日

習慣を得るために

月曜日の朝は、登園してくる子どもの中に明らかに不機嫌な子がいます。普段と違う週末のスケジュールを過ごして寝不足になっていることが多いです。幼児期の子どもにとって十分な睡眠をとることは、場合によっては食事よりも優先させなければならないくらいに大事なことです。
しかし、なかなか子どもが寝てくれない、という悩みを持つご家庭も多いと聞きます。睡眠は習慣ですから、原則は「一定」であることです。寝る時間を一定にし、起きる時間を一定にします。その際に、寝る前15~30分を絵本を読んだり子どもとお話しをして、子どもと向き合う濃厚な時間を過ごし、時間になったら寝るということを習慣にされるのがよいでしょう。
統計を取ったわけではありませんが、意外と多くの家庭が寝る時間を決めていなかったり、布団に入ってから親が遊びに付き合ってしまったり、ということで「一定」していないことが多いように感じます。本当は、布団に入ったら子どもに何を要求されても相手にせず、つまらない感じで、鈍い反応しかしない、という方が子どもの寝つきのためには良いのです。ただ意外とこれができないのです。
出来ない理由はなんでしょうか。その大きな要因は罪悪感ではないかと思います。親はとても忙しいです。朝は、慌ただしく幼稚園に送り、幼稚園の後も気がつけば、「早くしなさい」、「ちゃんとしなさい」、「~をして」、と指示や命令ばかりとなりがちです。そのためちゃんと子どもの相手をしてあげられないという後ろめたさを感じられるのでしょう。子どもも親との時間に満足していないので寝る前にいつまでも遊ぶことを要求します。
寝る前に濃厚な15~30分を子どもと過ごすのは、親がその日の子どもとの時を後悔しないためでもあります。そうして一定の「これ以上はできない」という枠を親がきちんと決めて伝えておけば、子どもは自分でスケジュールの中で動くようになります。
後ろめたさや罪悪感のために、様々な場面で知らず知らずのうちに家庭の主導権を子どもが握ってしまうことがありますが、「寝ると言ったら絶対なんだ」というような主導権はしっかりと親が持つことで子ども自身が「自分の習慣」を獲得できます。

2019年06月28日

子どもとリクエスト

素敵なかかわりを感じさせるお話を伺いました。ある子煩悩と言っていいお父さんと子どもの日常の風景です。
子どもたちとテレビを見ている時に、子どもたちが「お父さん、テレビの音が小さい」といお父さんに言います。お父さんは「ああ、そう」と聞いてそのままにすると、「お父さん!テレビ!」と子どもが言います。そこでお父さんはこう言うそうです。「不満には応えられないけれど、リクエストなら聞きますよ。」すると子どもたちははっと気が付いて、姿勢を正して「お父さん、テレビの音を大きくしてください」と言います。そこでお父さんは「はい、いいですよ」とすぐに音量を大きくしてあげるそうです。
本当にありふれた日常の風景ですが、ただ不満を言うのではなく、自分の願いを相手に伝えるという会話に、惹かれるものがありました。自分から責任をもって人と関わる習慣の一つがリクエストです。それを通して自分の目標が遂げるというのは立派な「おとな」の姿勢です。
反対に、大人から子どもにリクエストするときにはどうしたらいいでしょうか。西荻学園幼稚園では「聞く」ことを大切に教えます。というのも、子どもは聞こえていても、「聞いていない」ことが多いからです。
これはシュタイナー教育を軸にされている幼稚園の園長とご一緒したときに伺ったことです。この園長先生の幼稚園では、昼食は給食を準備されています。昼食後、お皿を洗って片づけるという約束になっていました。
ある子がお昼を食べ散らかしたままで遊び始めました。先生は、その子の耳元で「テーブルを片付けてね」とリクエストします。子どもは「うん」と言って遊び続けます。少し経つと先生はまた耳元でさっきよりも小さい声で「テーブルを片付けてね」と言います。その子は「うん」と言い遊び続けます。5回目に先生が耳元でその子だけに聞こえるように「テーブルを片付けてね」と言った時に、その子は本当に聞こえたようで、お皿を洗って、すべてを片づけたそうです。そして、先生に「全部片づけた」と得意げに告げる子に、先生はにっこり笑って「ありがとう」と伝えました。
シンプルに繰り返すのは時間がかかって手間だと感じられるかもしれませんが、実感としては繰り返さなければならない回数はむしろ少なくなるように感じています。
子どもは聞こえていても、聞いていません。その時に、命令でもなく、相手の罪悪感や焦燥感を煽り立てるのでもなく、ただシンプルにリクエストを繰り返すところに、教育者の力を感じます。

2019年07月05日

言葉と心の違い

子どもは言葉で言っていることと思っていることが違うことが多いものです。
「幼稚園に行きたくない!」と言われたら、どうされるでしょうか。「行かないとダメ!」「何を言ってるの!」と咄嗟に言ってしまうかもしれません。
子どもが困ったことを言う時には、「助けてほしい」という気持ちがあります。それを上手にあらわしたり、説明できないので、「イヤ」という言葉になってあらわれるのです。
「幼稚園に行きたくない」という言葉の裏に、苦手な体操があるからかもしれません。お母さんと一緒にいたい、という気持ちがあるのかもしれません。それを「行かない!」という言葉でいっているかもしれないのです。
こういうときは、まず子どもの気持ちに共感することから始めてみてください。幼稚園に遅刻してしまうと焦られるかもしれませんし、子どもを送った後予定があって焦られるかもしれませんが、共感してあげることが最も時間的にも早く解決することが多いです。
「そう、行きたくないのね」と共感してあげてから、しばらく何も言わないで黙っていましょう。その際、正面に立つより、横に寄り添って同じ方を見て子どもが言葉を発するのを待ってみてください。
子どもは自分がやらなくてはならないことを十分に理解しています。しかし、それでもままならない気持ちに揺れています。だから、「どうして?」、「何で?」と問い詰めずに待ってみてください。少しずつ「イヤ」以外の言葉を話し始めます。
大事なのは、子ども自身が気持ちを外に出すことですから、慰めたりアドバイスをしたり、焦って「どうするの?」と選択を迫らないことが大事です。とにかく子どもに言葉を出させてください。そして、「そうなんだ」、「うん、わかるよ」と共感します。共感は同時に子どもを観察することです。本人が表せない不調があるかもしれません。
アドバイスや慰めというのは、実は事情を早く終わりにしたいと思っている側の逃げ道なのです。だからこのような時には、子どものためにはならない、と思ってください。子どもは自分でやるべきことへと踏み出す力があることを信じてみてください。そこで子どもの考える力が育っています。

2019年07月11日

声かけ無用

子どもが何かに集中していたら、声をかけるのは禁物です。
一生懸命に工作をしたり、絵を描いたり、逆上がりに挑戦していたら、声をかけてはいけません。「何をつくってるの?」とか「上手だよ」とか言いたくなりますがやめておきましょう。
大人でも仕事に集中している時に話しかけられたり、電話やLINEが入ったら集中が途切れて仕事が続かなくなることがあります。子どもにとってはそれ以上に困ってしまうのです。
子どもはごっこ遊びが好きです。そこでは、ただの木切れがケーキになったり、互いがヒーローになりきって遊びます。イメージが投影されるのです。独り言を呟きながら活動することも多くあります。集中しているからです。活動をするときにイメージがとても重要で、時には声に出すことでそれを補い、活動のストーリーを思考しているのです。
ところが、そのように集中し、夢中になって遊んでいる子どもに声をかけると、活動を中断させられます。そうすると、イメージがなくなってしまいます。「次はああして、こうして」と、先のことまで考えてフル回転していた思考が止まってしまいます。
子どもは好きなことを集中してやることで満足を得ます。この満足感で得られるものと、褒められることで得られるものは、かなり違うのです。子どもが求めてきたときに、求めてきたことだけに応える、という姿勢を基本にするといいと思います。
ですから、子どもが求めてきたら応えてあげます。集中して描いた絵を「見て!」と持ってきたら、その時に褒め、「何を描いたの?」と尋ねましょう。子どもがどんなイメージとストーリーの中で遊んでいたかを知ることができて、なかなか面白いです。スマホを見ながら「ああ、そう」と受け流すのはもったいないことです。

2019年07月12日

間違いを指摘するタイミング

子どもたちのためにご家庭でおもちゃを準備することがあるでしょう。幼稚園でもおもちゃを準備しています。おもちゃには遊び方の決まっているものが多くありますが、幼児が取り扱い説明書を読んでおもちゃで遊ぶということはありません。感性で遊び方を捉えて勝手に使っています。
それが知育玩具のようなものであると、与えた大人は「違うよ、こうやって遊ぶんだよ」と間違いを指摘したくなります。ルール通りの方が「正しい」遊び方だという先入観があるからです。さらにルール通りにすることで「知恵がつく」と思うからです。しかし、こういう場合は間違いを指摘せずにいましょう。子ども自身が間違いに気づく時がくるからです。子ども自身が間違いに気がついてルール通りにした時に、知育玩具は初めて本来の想定している可能性に向かいます。
年中から年長の頃には、文字を書き始める子がちらほら見られるようになります。よく見られるのが「鏡文字」です。その際に、目指したいのは「自分で気づく」ということです。自分で気づかせるには工夫が必要ですが、例えば見本と合ってるかどうかを自分で丸付けをさせてみたりするといった方法があります。できるだけ子どものプライドを尊重することで、嫌になって文字そのものを敬遠させないことが大事です。
そして、これが一番根気のいるところですが、間違いに気づく工夫をしてもなお気がつかないときは、「まだ、間違いに気づく段階に達していない」ということですから、待たなくてはなりません。間違いに気づく段階に至らないと、「違うよ」と言っても理解できないのです。
考えてみれば、大人同士でも間違いを指摘することは大変デリケートな行為です。プライドが高く、これから成長をしていこうとする子どもを相手にするときには、なおさらデリケートかつ根気が必要になります。

2019年07月13日

降園後の保育室

子どもたちが降園した後の保育室やトイレは、その日の子どもたちと教師たちの興味や関心、工夫や戸惑い、気持ちの落ち着きや苛立ち、満足したこと、やり遂げたこと、そんな沢山のことを感じ取らせてくれます。保育時間は園長が保育室内をうろうろしていると子どもたちの集中が切れてしまうことも多いため、直接保育室内に入ることはできるだけしませんが、降園後は、すべての保育室とトイレを見るようになりました。
同じことをしている方が他にもおられました。玉川大学准教授で東一の江幼稚園園長の田澤里喜先生です。先日届いた日本教育新聞に記事を寄せておられ(2019年7月1日)、こうした保育室の変化に気づくところに、保育の質向上につながる可能性があると書いておられました。
保育の質を高めるには、教材の工夫はもちろん必要です。しかし、いつ、どんなことに興味を抱き、どんな風にアプローチをするのかを想像した環境の工夫も大切です。子ども疑問や好奇心は待ったなしです。
朝、すべてのクラスの保育日案を確認します。変更があれば報告されますので、何も報告がなければ保育日案を軸に保育活動がされたことが分かります。しかし、降園後の教室に残っているのは、保育日案の成果だけではありません。
空き箱を長く長く繋げて作った力作が残っています。あまりにも長くなったので自転車で登園している子は持ち帰れなかったのです。これを作った子にとってアプローチは終わっていません。さて、どうやって持って帰るのでしょう。その工作が他の子に壊されないように置いてあります。
「今、子どもたちは記号に興味を持ってるんです」と言った教師の担任している教室の扉には、子どもの目の高さにカラーコピーした記号が掲示してありました。その成果は、危ないところ、子どもが触ってはいけないところに黄色い画用紙で作った「危険」マークをつけると子どもどうして「触っちゃだめだよ」と教え合う姿に繋がりました。子ども同士が教え合うことは、確実に子どもを成長させます。
羽アリが飛ぶ季節に羽アリを捕まえてきたので、子どもたちで考えたアリの名前の書かれた飼育箱がアリのように装飾されて置かれました。ただ飼育箱を置くのではなく、ちょっとした工夫を加えてくれることで環境が子どもたちのアプローチを迎えることができます。今年のたなばたの短冊に、「アリがいつまでも元気でいられるように」と願って書いてもらった子がいました。その子のアリへの関心と優しい心を迎える「見える環境」が準備されたからです。
ちょっとしたことでも環境として見えるようにすることで、子どもの興味や関心は育ちます。子どもが登園したときと子どもが降園した後で教室の環境が変わっていく幼稚園を嬉しく思っています。

2019年07月16日

「希望の松」から学んだこと

東日本大震災の後「希望の松」とタイトルをつけられた一本の松の写真が新聞に掲載されました。七万本の松林が津波によって流される中で、耐え抜いた一本の松は、希望の象徴として紹介されました。
撮影されたのはフォトジャーナリストの安田菜津紀さんです。安田さんは義理のお母さまをこの津波で亡くされました。被災地を訪れた時、あまりの光景に何をしたらいいか分からない中で、唯一シャッターを切ることができたのが「一本松」だったそうです。「希望の松」として人々の希望の象徴となった時に、「良かった。陸前高田のことが伝えられる。私にも何かできた気がする」と思えたそうです。
しかし、この写真の掲載された新聞を身近で傷ついている義父を励ますつもりで見せた時、言われました。「何で、こんな海の近くに来たの?余震が続いているんだよ。もう一度同じ揺れが来て、同じ波が来たらどこに逃げるつもりだったの?」そして続けて言われました。「あなたは七万本の松と一緒に暮らしてこなかったから、この残された一本の松は希望の象徴に見えるかもしれない。だけど自分たちにとっては、津波の威力を象徴するもの以外の何物でもない。できれば見たくない。」
そのとき安田さんははっとしました。自分は一体誰を大切にしてシャッターを切っていたのだろう。どうしてシャッターを切る前に、ここで生きる人たちの声に丁寧に耳を傾けなかったのか。このことは安田さんにとって一番大きな教訓となったそうです。
先日、園児の保護者との個人面談が各クラスで行われました。子どもたちの育ちも環境も様々で、教師たちも一学期を手探りし。試行錯誤し、様々な形で子どもたちのために幼稚園の毎日を作ってきました。ほぼすべての保護者の方々が教師たちに感謝を述べてくださいました。ありがたいことです。
しかし、中には教師の言葉を受け止められない保護者の方々もおられたようです。教師の報告を聞きながら、子どもを思い、保護者を思っての教師の言葉であったことは確かです。ただそれらの方々に語る前に、聞くことが大切なのだと思わされました。丁寧に「聞く」ことは、どんな仕事をしている者にとっても大事なことでしょうが、教師のように心が「伝える」ことに傾く者は、特に心がけなければならないのでしょう。子どもの声に耳を傾ける教師が、保護者の声に耳を傾けるときが面談の時なのでしょう。そのとき前述の安田さんのお話を思い出しました。
子どもたちの光景、エピソード、言葉や仕草。それらを見守る大人は、教師は教師として、保護者は保護者としてそれらを別々に受け止めています。必ずしも喜びや希望ではなく、教師や保護者に苦痛や悩みをもたらす事もあります。「希望の松」が多くの人には希望の象徴に見えた中で、「見たくない」と感じる人がいたように、です。教師の受け止めが絶対ではないことを心したいと思いました。その上で、一人の子どものことを大切にする仲間として並んで子どもを見つめられたら、と思いました。

2019年07月19日

「褒める」と「おだてる」は違います

大人は子どもを褒めるのが好きです。「すごいね!」、「上手だね!」、「天才!」と大げさに褒めたくなります。
ただし、子どもが夢中になっている時に褒めるのは、子どもにとって集中を妨げる邪魔になってしまうことは以前記しました。もう一つ、子どもを褒めるときに心したいのは、「大げさにやり過ぎない」ということです。
褒められることは子どもにとってうれしいことです。しかし、大げさに褒められると、その後の遊びへの集中力が削がれてしまいます。
幼稚園で子どもたちは鉄棒で遊びます。「ぶたのまるやき」、「前回り」、「逆上がり」等、褒めてもらいたくて「見て!」と先生を呼びます。見せてもらった先生も「できるようになったんだね」、「いっぱい練習したものね」と先生たちも褒めます。しかしその時に思わず「大げさに褒めて」しまうことがあります。大げさに褒められた子はうれしいですから、続けて鉄棒に挑戦します。しかし、褒められた後の挑戦が、一番怪我をしやすいのです。なぜなら、鉄棒を成功させることよりも、「もっと褒めてほしい」ことに心が向いてしまい、集中できなくなるからです。そして、痛い目を見たことに挑戦するのは、心が折れてしまってできなくなります。
子どもたちが「見て」といって誘ってくれるものは、子どもにとって「ついにできた」という自慢の技です。鼻歌交じりにできることではなくて、集中して力を発揮してようやく成功したものです。それを今後繰り返してより上手にできるようになります。その時に「褒められたいからやる」というのは邪魔な意識です。子どもにとって自分から欲して、「やりたいからやる」という経験こそがもっとも重要な育ちの機会です。
褒めるというのは、おだてることとは決定的に違います。芸を成功させたイルカにご褒美をやるのとは全く違うことです。大人が子どもを褒めるというのは、「できた」という達成感そのものを喜びとして感じられるようにするためのものです。ですから、褒めるというのは子どもを興奮させるために伝えるのではなく、短い言葉で、達成を次の挑戦のための基礎とするように安心させることを意識する方が大事なのです。

2019年07月23日

やらない子

子どもはとてもプライドの高い存在です。このことは、子どもと一緒に生きる上で大事な前提だと私は考えています。「子どもだから、いいだろう」、「子どもだから、明日には忘れてるよ」と思うのは間違いです。子どものプライドにかかわることは、余程のことがないと子どもの意識の中から取り除けられることはありません。いわゆる「トラウマ」となるのです。
幼稚園でパズルで遊んでいる子を必ず邪魔をする子がいました。その子に「一緒にやらない」、「やってみる?」と誘っても「やらない」といって逃げてしまします。しかし、しばらくするとまたやってきて、組み上げられたパズルをわざと崩したり、ピースを取って持って行ってしまうといった邪魔をします。
なぜ、そんなことをするのかというと、その子はパズルに興味はありますが、パズルをやる自信がないのです。だから他の子がしているのを邪魔するのです。
子どもは、できないことを恐れます。挑戦してできるかどうかわからないものには、なかなか取り組めません。新しいものになると、失敗するのが怖いのです。
失敗してもいい、という経験をさせたいと教師は願いますから、何度も積極的に誘います。しかし、どうしてもやらないという時には、その子のできそうな他の遊びに誘います。
その時パズルに興味を示していても、プライドが邪魔をすることがあります。そのような時には、無理強いせずに、別のやりたいことを探してあげる方がよいです。
「レディネス」という概念があります。子どもは自分自身の育ちの中で、準備ができたときに必要なものに取り組んで自分自身を育てていくという考えにつながる概念です。興味を抱いても、手の届かない時、手の出せない時はレディネスが整っていないのです。だからといって放っておいては、レディネスの整った他の挑戦の機会を逃してしまうかもしれません。レディネスの整わないところから子どもの興味を別に向ける手助けをするのも大事なこと務めです。

2019年07月25日

頼る力

自分にはできないことを自覚して、「助けて」、「手伝って」と人に頼ることができるというのも、大事な生きる力です。一人でできることには限界があり、得意もあれば不得意もあるのは、子どもも大人も同じです。
幼稚園には、何でもやってもらおうと依存してしまう子もいます。それが甘えなのか、依存なのか、それとも何をすべきか理解できていないのか、子どもたちの成長の様子は様々なので一括りに「良くない」とは言えません。しかし、人に頼ることができない子は心配になります。
これからの時代は、さらに人に上手に頼ることが「力」として問われると考えています。会社で社長だけが頑張っていても、チームのリーダーだけで仕事をしても、すぐに限界がきて、つぶれてしまいます。集まった人々が自分の役割を得て、得意な力を出し合って組織は最大の力を発揮します。助け、助けられる。それが成熟した社会ではないでしょうか。
「手伝ってほしい」、「助けてほしい」と言える「力」は、自分自身を把握する力であるのと同時に、他者を尊敬尊重する力でもあります。他者を貶めることは、動物でもできます。しかし、他者の才能を認め、尊敬し、尊重するところまで想いを高めることができるのが人間です。もちろん、人にものを頼めるのは自分のすべきことを精一杯やっているからです。何もせずに頼るのは驕った依存です。これは子どもであっても戒めなければならないことです。
子どもは向上心が豊かです。自分の能力を最大限に発揮することに喜びを感じます。そんな子どもたちに「~が得意なんだね」、「~はお任せしていいかな?」、「お願いするね」というように、持っているものを認め合えるような言葉をかけることで、子どもの自尊心は育ちます。それと共に、「何か手伝えることはある?」と聞く言葉も大事です。それを通して「ここを手伝ってほしい」と伝えられるようになります。自分自身への理解と、他者を信頼できる存在として受け止めることの両方で、頼る力が育ちます。

2019年07月30日

待つことを教える大切さ

子どもと過ごして特に多く使う言葉は「急いで」、「早く」ではないでしょうか。仕度が遅い子や、なかなか遊びを終えられずにいる子に、幼稚園の先生も「もうお友だちはお部屋にいるよ」、「みんな待ってるんだよ」と言って急かします。
周りの状況を把握して、行動を切り替えるようになることは大事な成長です。ただ今回は、待たせる子ではなく、こういった場面ではもう一方に「待っている子」がいることを考えてみたいと思います。
普通ですと、みんな揃って行動をするときに待たせてしまう子は、先述のように急かされたり、あるいは遅れたことを叱られたり、待っている皆に「ごめんなさい」と謝らせる等の対応があるでしょう。しかし、視点を「待っている子」に向けると別の事柄が見えてきます。それは、「待つことを教える」ということの大切さです。
待つことができるということは、人間の器の問題です。これは実は教育の最大課題へのアプローチではないでしょうか。
遅れてくる人にイライラして、遅れてくる人にずっと心を奪われていて、その人が到着するなり「何やってんだ!」と怒鳴る人。
誰かが遅れていても、心を奪われずに過ごし、「大丈夫、待っている間に~ができたよ」とさらっといえる人。
どちらに人間的な魅力があるでしょうか。どちらの人間と一緒にいたいと感じるでしょうか。待つことができる人とは、寛大な心をもって赦す人です。人望や魅力といった言葉であらわされる心の器を育てる方が、教育の課題として優先順位が高いのではないでしょうか。
どうせ待つなら、歌でも歌って待とうか?お話しを一つしましょうか?そんな風に「待てる人に育てる」ということは素敵なことではないかと思います。
考えてみれば、私たちはこれまで皆、迷惑を掛けたら謝るという教育だけを受けてきたように思います。しかし、私たちは誰でも迷惑をかけずに生きることはできません。待たせる子も、その子なりのベストを尽くして生きています。それならば、迷惑をかけられてもそれを受け止める器を育て、相手の事情に心を寄せることができる方が、ストレスなく健康的な生き方に繋がります。
「待つ」ということは我慢することではなく、「赦す」ことなのです。

2019年07月31日

感覚の優先傾向を知る

子どもから「~って何?」と聞かれて、答えに困ったという話をよく聞きます。分からないというより、どう説明すればいいのか困ってしまうということがあります。
先生としては、せっかく子どもが興味をもって聞いてきたので、正確に伝えようと頑張ります。その時に、ニュアンスで伝わる子と、厳密に正確な言葉の説明を求める子がいます。あるいは、答えを考えているうちに他に興味が移って質問を忘れてしまう子や、童話のような物語で説明されることを好む子もいます。
これは、「どんな感覚を優先的に認識しているか」という傾向と関係しています。
聴覚の感覚を優先する傾向があると、説明を「読む」よりも「聞く」を好みます。言語感覚が鋭敏ですと、新しいことと「意味」が結びつくことが重要になります。触覚が優先される傾向があると、手を動かすなどの動きがあると説明が理解しやすくなります。視覚を優先する傾向があると、書面や絵や図があると理解の際に大きな助けになります。これらは必ずしも一つの感覚が突出していたり、他の感覚が弱いというものではありません。あくまで、傾向があるというものです。
自分のことで恐縮ですが、私は視覚が優先される傾向にあるようで、理解の際には特に「書面」を視ることが大事です。必ずしも紙をめくる感触を必要とはしません。最近、電子書籍の優れた「読み上げ」機能を使ってみたのですが、どうしても集中できず内容が十分に理解できませんでした。聞くだけですと理解が困難になるようです。しかし、これが講演ですと、資料の書面がなくても講師を視て話しを聞くと理解できます。
自分や子どもの感覚の優先傾向を知ると、少し客観的に子どもとの距離を保って関わることがしやすくなるのではないかと思います。これはもちろん、大人同士の間でも同じです。一緒に仕事をしていて、「何でこの人とうまくいかないのだろう」というような時に、それは互いの悪意からではなくて、感覚の優先傾向がすれ違っているからかもしれません。ちょっと工夫するだけでコミュニケーションの結果はずいぶん変わるものなのです。

2019年08月02日