子どもを主体的にする主体的教師

 幼稚園教育要領は、子どもの活動について「主体的」であることを求めています。「主体的」というのはつまり、子どもが主役になってするということですが、この言葉を聞くと「それでは子どもについていればいいのですか」、「子どものやりたいようにさせればいいのですか」という人がいます。これは「主体的」の具体的な姿を「放任」と翻訳して理解しているという証拠です。なぜそういうことになってしまうのかというと、「一斉型保育」が幼稚園の主流であった時代があるからです。当時は子ども数が多く、一クラス40人を一人の幼稚園教師が担任するということもありました。そのような状況では一斉型保育にせざるを得なかったのです。しかし今後はさらに少子化が進むことが予想されます。クラスの規模も少人数化に進んでいます。子どもの発達について、これまで経験則から予想されていた子どもが「主体的」であることの重要性が、目覚ましい研究によって科学的検証と実践をもって確認されてきました。それらを踏まえて学ぶ者にとって、今の保育の志向が一斉型保育の頃と同じであっていいわけがありません。私は一斉型保育の「小学校への接続のために」という迷信から早く日本の教育は解放されなければならないと思っています。現在の「小1プロブレム」の主たる原因は、子どもから主体的活動を奪う「一斉型保育」と「放任」にあると考えています。

子どもの「主体的」な活動というのは「放任」とは全く違います。「主体的」の具体的な方向性は「自責」ということです。一斉型保育が「先生に言われたから従う」という「他責」に根ざすのに対して、「自分で決めたから行う」という子どもの「自責」の活動ということです。「自責」は一昔前に使われた「自己責任」という切り捨て論理とも違います。他人のせいにはしない、という主体性です。自責のもとで、「何で遊ぶか」、「誰と遊ぶか」、「どんなルールで遊ぶか」等々、子どもは決断していきます。その時、子どもの「成長しよう」、「学ぼう」、「知ろう」、という生命の最大課題の欲求が発揮されているのです。そこから子ども自身が秩序を作り、規範を思考し、抑制を選択します。しかし、知識と経験のない子どもたちは自分の選択や決断に満足できる結果を引き寄せることができません。そこで極めて重要な存在となるのが子どもの決断をサポートする大人であり、幼稚園であれば教師の存在です。

子どもの主体的活動のサポーターとしての教師は、総合的な幼児教育の知識と経験が求められます。情熱だけでなく冷静な理論的裏付けをもって保育に当たらなければなりません。たやすく「放任」となりかねない状況を、子どもの欲求を察知し、適切な言葉としぐさをもって、必要な分だけを誘導し、子どもの主体的活動を妨げないというのは、大変な忍耐と体力、寛容と愛を必要とします。必然的に一人の教師の見れる子どもの数は少人数にならざるを得ません。

しかも、そこで一番大切なのは、教師自身が「主体的に動くことは楽しい」と実感していることです。主体的な大人だけが子どもの主体的活動をサポートできます。主体的に活動している子どもから学ぶことは大きいという実感のない人は、主体的な子どもの姿を大切にすることができません。教師自身の主体性が大切にされ、「子どもためにやってあげたい」と思えることが大切です。そのために「自責」の姿勢で学び続け、試行錯誤を重ね、昨日よりも今日、今日よりも明日、さらに成長しているのが主体的な教師です。園長としての素直な思いを言えば、このような教師は非常に高く評価されるべきです。出来ることなら給与を今の何倍も出して報いたいと思っています。

今日記したことは理想です。しかし、「進みゆく教師のみ人に教える権利あり」(小原國芳 玉川大学創始者)です。教師も園長も学び続ける主体的存在であることでのみ、子どもに、保護者に、人に教えることができるのです。

2018年09月17日