好きだからやる

 好きだから、楽しいから、やりたいから、だから子どもはやろうとします。もっとうまくなりたい。もっとやりたい。もっと聞きたい。もっと見たい。もっと知りたい。「もっと~したい」という気持ちがあるところに、子どもにとっての「遊び」が生まれてきます。 好きなことをしている時は、自然と笑顔になります。失敗しても、何度もやっています。
 先日、NHKの「100分で名著」という番組でマルクス・アウレリウスの自省録を紹介していました。番組の中で、自省録の中にたびたび出てくる「善く生きる」という言葉を解説されて、「もともとこの言葉に『善悪』という意味はありません。『善く生きる』とは、『幸せに生きる』ということです」と言われていました。「善」とは「幸福」です。道徳や倫理と関係した「正邪」と結びつくのは二次的な意味になります。
 幼児期はまず自分だけの幸せの追求です。しかしそのうちに、自分の行動が誰かの幸せに繋がり、誰かを喜ばせることができると知ります。誰かのために「やりたいから」、それをする、というのも幼児にとっては「遊び」に他なりません。好きだからお手伝いをします。やりたいから助けてくれます。そのような経験を重ねて、遊びの目的が大きなものになり、公(おおやけ)なものになっていきます。幸せは大きく育っていきます。ますます、幸福追求に力が入ります。このようにして「社会人」へと踏み出していくのです。
 少し大げさに言うならば、このようにして社会にアプローチすることは、心に「情熱」を与えます。情熱のあるところで、人はくじけたときにも心を回復させることができます。難しい課題に難儀するときにも、「相手」への想像力を働かせて答えを追求し、そこから共感する仲間を見つけ出し、アプローチを継続できるようになります。その時の思考の方向は、「この人に何をしてあげられるだろうか」というものが大きくなります。それは自分にある可能性の鉱脈を掘り下げることです。
 幼児期は、これは「義務」、これは「責任」、これは「遊び」と色分けしていくよりも、まず「好きだからやる」という「遊び」の領域を充実させることが重要だと思うのです。

2019年04月22日