魅かれることから

幼稚園の園庭は砂の園庭です。子どもたちが走り回って遊ぶのに適当な場所です。この砂の園庭で、体育などの活動の際に子どもたちが園庭に座って先生のお話しを聞いたり、順番を待つという場面があります。そんな時、必ず園庭の砂をいじって遊び始める子がいます。前もって注意をしても必ず何人かは砂をいじり始めます。飽きているのではなく、砂の感触に魅かれているのです。
あるいは、道を歩いている時に縁石や花壇のへりに登りたがります。前もって注意をしても必ず上ります。塀に上りたがり、登るための遊具でない物に上り、大人をヒヤヒヤさせます。大人は危ないと感じるので、前もって注意を与え、また叱ったりしますが、何度も同じことをします。狭いところ、不安定なところに上ることに魅かれているのです。
雨が降ると水たまりができます。水たまりを見つけたら、必ず水たまりを通っていきます。まるで子どもの中に、「水たまりを見つけたら入ること」というルールがあるかのようです。水たまりに魅せられているのです。
何かを集めるのが大好きです。葉っぱも小石も子どもたちにとっては夢中になって集めるコレクションです。集めるということに魅かれているのです。
子どもたちにとって、「今、目の前にあるもの」が確かな存在です。その存在に魅かれるのです。非常に狭く、かつシンプルです。自分で見たもの、自分で触れられるもの、自分で得られるもの、このタイミングが子どもにとって重要な時なのです。大人が見ると「何でわざわざそんな事をしているのだろう」、「何もこんな時にしなくてもいいのに」と思うようなことが、子どもの世界の常識なのです。前もって注意しても、「今はやらないよ」と声をかけても通じないのが、当然なのです。子どもには「前」も「後」もありません。「今」、「目の前」のものに魅かれているのです。
「視覚」「聴覚」「嗅覚」「触覚」「味覚」といった代表的な感覚が最も鋭敏な時が幼児期です。この時期に感覚的な刺激を通して物事を理解し、概念をとらえようとしています。砂を飽きるまでいじって、指の間からさらさらと落ちる様を見たり、砂が落ちることで手の中の砂が「無くなる」「消える」という概念を感じています。道を歩くとわざわざ広い道ではなく狭い縁石の上を歩くのも、運動的な刺激と共に概念をとらえています。「危険」なことと「難しいこと」の境界線をとらえようとします。「限界」という概念を得ます。
概念をとらえるために、子どもの内には情熱的なまでの魅かれるものへの欲求があります。そして、この欲求を通して「さらさら」や「ごつごつ」や「べたべた」や「バシャバシャ」といった擬態語で表されるような概念の世界に入っていきます。大人が一緒に砂を触って「さらさらしてるね」と言う言葉を聞いて、魅かれたものが、「さらさら」と「砂」という概念を結び付けて体得されます。こういった概念の獲得を通して、将来、私たちと交わすコミュニケーションも、お友だちと交わすコミュニケーションも基礎が形成されています。
大人にとっては、少々困った砂いじりも水たまりへの突撃も、子どもにとっては「概念」を獲得するための重要な「今」「目の前」の世界へのアプローチなのです。

2019年05月10日