分かるほど教えられなくなる

例外はありますが、という前提で記します。
物事を知れば知るほど、深く理解している人ほど教え方が上手、という常識が教育の世界にはあります。そして、現在の教師養成や教員免許更新はこの「常識」に基づいてプログラムされています。しかし、これは全く根拠を持たない幻想です。
単純に考えて欲しいのですが、ご自身の経験で幼稚園、小学校、中学校、高校、大学で、最も理解不能な授業・講義をしていたのは誰だったでしょうか。私は大学教授の講義が最もひどいものだったと思っています。教え方が下手なのです。
何故下手なのでしょうか。それは、教える側にとって分かり切ったことを、分からない人がどうして分からないのか、どこが理解できないのかが分からないで教えようとするからです。教育の現場で、知識量は多いほど良い、分かるほど良いということと、良い教師であり、教え方が上手いということは比例していません。むしろ、教える側と教えられる側の理解のレベルが適度な開きを持っているときに最適な学習が成立します。
一番わかりやすい例は、子どもたちが活動や遊びの中で互いに教え合うことの方が、教師が教えるよりも格段に成果を上げることが実際にあるということです。虫のことを教えるのは、虫を知っている子が知らない子に教える方が格段に知識の吸収が容易です。遊びのルールを理解した子が、理解できない子を誘導した方が、教師が何度もルールを伝えるよりも時間短縮になります。教師よりも子どもの方が、理解の難しい子にとって良い教えてになれることが多いのです。
これに加えて、教師は分からない子に知識を与え、理解を得ようとします。しかし、それ以上に大切なことはその子の気持ちに寄り添うことです。分からなくてやる気を失ってる子に、「頑張って、きっとできるから」と、子どもにとってはるかな高みにいる教師から言われるのと、自分よりちょっとだけ上手な(あるいは下手な)親しい子から「いっしょにやって」と誘われるのとでは、どちらが子どものやる気を奮い立たせるでしょうか。やる気がなければ、いかなる取り組みも子どもの時間を浪費させるだけです。
また、教師は「みんなができる」ことを目指し、子どもの心理を読み解き、理解度を測り、子どものことを把握しようと懸命な努力をしています。その結果、「できる子」と「できない子」の二分割で教室を理解します。そして、「できない子」を「できる子」にするための素晴らしい教授法を求めて懸命に努力します。しかし実際は、教室は二分割されているのではありません。教室に30人の園児がいれば、「できる」から「できない」まで、30分割の現実があるのです。「できる子たち」も「できない子」も一人ひとり違うのです。できる子がもっとできるようになる方法は、一人ひとり違います。できない子ができるようなるための方法も、一人ひとり違います。そしてどの方法が最適かを知っているのは当人です。それを知るために、当人から「何が分からない」、「どこが難しい」、「教えて欲しい」という意欲と対話を引き出すことが必要です。そのためには向き合って沢山の対話を重ねなければなりません。しかし、教師と子どもの間だけでそれを成り立たせようとすると、一人の子どものために他の子どもたちは置き去りにされます。つまり膨大な取り返しのつかない時間の無駄が生じます。
これらの、浪費と無駄の時間から子どもたちを「学び」の時間で生きる喜びへと導くことが、本当に教師に求められていることではないでしょうか。

2020年03月24日