見守るということ

「見守る」というのは、日本独特の保育における表現だと聞いたことがあります。おそらく外国語に翻訳すると「見ているだけで、何もしない」という意味合いで考えられてしまうのではないかと思います。もちろんそうではありません。大事なのは、「守る」という言葉の持つ意味です。「見守る」という言葉が保育における表現となった時に、そこには「応援する」という意味があるのだと思います。
これは、子どもの主体性の問題とも関係すると思います。子どもの主体性を奪い取るような干渉は望ましくありませんが、しかし干渉しないことが「見守る」ではありません。子どもが大好きな先生と一緒に遊びたいと思ったり、不安な時に手を握ってほしいと思ったり、分からないことを一緒に調べてほしいと思ったりしている時に、先生が何もしてくれなかったら子どもはどう思うでしょうか。そこでは「守る」ことが損なわれ、子どもの育ちが妨げられることになります。
子どもは、自分の思いが誰かにしっかりと受け止めてもらって、初めて主体的に動き出すことができます。自分の思いが受け止められて実現したときに、安定した時間を得ます。その中で豊かな育ちが守られます。こういった子どもに向き合うことが保育としての「見守る」です。
幼稚園でいると「見て!見て!」という姿にいつも出会います。こんなことがありました。「数えて!」と言ってフラフープをして見せてくれた子がいました。そして、「すごいでしょ!」と言います。私たちはこの「すごいでしょ!」という姿の中で自己肯定感が豊かに育まれていることを知っています。だから、何度同じような場面で「すごいでしょ!」を見ても、それを尊重し、丁寧に受け止め、認めて、関わるということを絶えずします。
しかし、毎日のように「すごいでしょ!」という場面に出会っていると、だんだん受け答えが簡単になっている自分に気が付いて反省する瞬間があります。倉橋惣三は「驚く心が失せたとき、詩も教育も、形だけが美しい殻になる」(「育ての心」倉橋惣三著)と記しています。子どもの一つ一つの言動に、心が動き、そこに丁寧な関係を生み出そうとするのです。ここに「見守る」を保育の姿と表現できる大事な心があるのではないかと思います。
フラフープを見せてくれた子に、「14回もできた!」と驚くと、その子は「昨日、○○先生と一緒にした」と教えてくれました。ちなみにその先生はフラフープは上手ではなかったはずです。しかし先生はその子を見守って、「一緒にやる」という方法で、丁寧に関係を生み出してくれていたのです。子どもが教えてくれた、大変にうれしい「報告」でした。

2020年08月19日