”考える”を促す

以前「人間にはもともと、『なぜだろう?』と繰り返して問い、分析を深める力が備わっている」というような意味の言葉を聞いたことがあります。

先日、子ども自身に考えることをさせる大切さについて書きながら「答えは一つ」という「思い込み」の中にいる子どもたちとのエピソードを思い浮かべていました。

「答えは一つ」という思い込みの中に押し込められた人は、とにかく早く正解を知りたいと要求します。子どもになぞなぞを出します。すると「答えは一つ」と思い込んでいる子は、考えることそのものを放棄して「答えは何!」と怒鳴りつけてきます。そういう時は、のらりくらりと交わして子ども自身が考え始めるように促します。

答えが一つであるならば、最短の正解への道は「知っている人間から聞き出す」ことです。単純に「正解を得る」ということを手段として突き詰めると、正解は「教えてもらうもの」であって、「考えるもの」ではないのです。最も省エネの手段です。

どうしてそのようになるのでしょうか。一つは思考を楽しむ手段を経験していないのではないかと思います。思考の原点は「沈思」ではなく、「対話」です。「なぜだろう?」という対話を繰り返し、ある根拠に基づいた「自分は○○と考える」という解答を生み、それを批判する別の根拠に基づく解答にであって、さらに「なぜだろう?」という問いに関わる分析を深めます。考えることができる人は、この過程を楽しめる人です。

考えることが重要なのであって、そのために「なぜ?」と問い、自分の意見を持つことが目的です。「考える」と「正解を得る」とを必ずしもイコールでつなぐ必要なないのではないかと思います。

「考える」ことを優先する時には、幼さはあっても、子どもが根拠を持って答えた言葉は一つの正解です。そこから正答に向かって行くときに、大人が質問をどのようにするかが大事です。

その時にできればしたい質問のスタイルは、「イエスかノー」のような2択の質問ではなく、「そうすると~はどうなるのかな」というような質問をすることです。イエスかノーではなく、もう一度根拠を持って考えを組み立てなければ、伝えることはできません。そうして考えることを促すのです。

何かをするときには、「できるかできないか」の2択ではなく、「どうしたらできるだろうか」を尋ねます。あるいは「もし~だったら、○○はできるかな」と尋ねます。できないことを考えるのではなく、できる方へと質問を広げるのです。こういった質問に促されて、新しいことに気が付いたり、自分でもっといい方法はないかと考えることもできます。

時には、真逆の意見をぶつけてみるのもよいでしょう。子どもの考えたことが正解であるように、他の人には他の答えがあることを考えさせます。

考える力を養うことには時間はかかりますが、決して子どもの人生にとって無駄にはならないはずです。

2020年09月29日