従順と自立の矛盾

将来子どもに、「どのような人になって欲しいか」と問われた時に、最も多くの答えが「自立した人」なのだと聞いたことがあります。

一方で、今子どもに、「どのような子どもであって欲しいか」と問われると、「親の言うことを聞く、従順な子」であることを望む人が多いのだそうです。

これは、矛盾しているのではないかと思います。大人になった時の生き方は、子どもの時代の連続線上にあります。子ども時代に従順であることを求められ、従順に生きてきた人が、大人になったら「自立しろ」と要求されて、対応できるのでしょうか?

私は、教育の果は、教育を受けたことによって、一人の人生が満足できる人生となったか、で判断されると考えています。様々な教育理論があり、それらの評価にその教育をもって成功している人が紹介されます。しかし、人生は教育のみによってもたらされるのではなく、様々な外的要因に影響を受けます。

その外的要因の受け止め方が、矛盾しているのは、かみ合わせが悪いような気持ち悪さを感じます。独創性や好奇心を持つことは、場合によっては環境の破壊に繋がります。おもちゃを壊してみないと、どういう構造になっているのかわかりません。人間は死に触れなければ死の痛みを理解できません。恐怖を理解できません。自立するために、大人の期待に背くところで育つことはいくらでもあります。

大人は子どもに対して、自分の接し方が、自分の願っている人格の形成の助けとなっているのかを考える必要があります。

公共の場所で、「泣かないで静かに出来て、えらいね」と話しかける大人の姿を見ます。しかし、泣くべき場面で泣かない子どもは、大人によって何かを奪われているのです。子どものときは色々な感情を経験することが必要です。それを表現する経験が必要です。欲求を自分で伝えることができなければ、自立できません。

未来のために、本来の子どもの成長に合った行動をとっているのが子どもです。しかしそれは、多くの大人が無意識に「迷惑」と思っていることなのです。だから、静かにしていると「偉い」のです。迷惑をかけないから偉いと決めることは、子どもという存在に対する否定です。子どもが子どもとして果たしている未来への責任を「迷惑」とすることだからです。

子どもは大人の言うことを聞いていればいいという考え方のもと、従順を求めるのが未来につながるのか。意見を言う子どもに対して「言うことを聞けない、問題のある子」と決めることは、本当に未来のためになっているのか。

従順と自立の矛盾への挑戦が教育には欠かせません。大切なことは「子どもであれ、大人であれ、私と同じように自分自身を生きる尊い存在である」という普遍的な視点にいつでも立ち戻ることだと思っています。まさに、聖書が語る「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイによる福音書22章39節)こそ、教育実践の土台とすべきことです。

2020年10月13日