”みんな仲良く”の弊害

西荻学園幼稚園の教育目標として「元気で仲良く」という言葉が伝えられています。伝えられている説明によると、「元気の『元』は、天地のはじまる前からの、『はじめ』の意味。元気は万物の根本の精気。これを聖書に基づいて、あらゆるものの造り主である神の息、神の霊と理解して、造り主である神の力に守られ、その力に満ちていることを『元気』と言います。従って、『元気で仲良く』とは、『神である主を愛しなさい』、『隣人を自分のように愛しなさい』というキリスト・イエスの教える最高の生き方を幼児にわかりやすく伝え、幼児らが遊び(幼児にとっては生活、経験、学習)のうちにこれを経験し、自主と協同の生き方から、祝福されるような人生のスタートを身につけさせたいという願いを表したものです」とあります。

「仲良く」という言葉は、長い間「みんな仲良く」と読み替えられてきました。わたしは、その解釈には疑問を持ち続けていました。「みんな仲良く」ぐらい、自分自身の人生で経験してきた現実と離れたことはなかったからです。

誰もが無条件に仲良くあることを求められるというのはおかしいと感じていました。誰とでも仲良くなどなれません。一人ひとり性格が違いますし、どう頑張っても合う合わないということが起こります。また、誰が誰と仲良くなるかというのは、命令されることではないだろうと感じていました。

これは、私が牧師の家庭で育ったからこそかもしれません。どんなにいい人でも付き合うのが苦手な人間がいます。そもそも神様は、結構「えこ贔屓」です。神の民と呼ばれるイスラエルが生まれ大切にされるのは、「私が選んだから」と神様は言い切ります。神様の愛は徹底的に贔屓します。旧約聖書の「エサウとヤコブの兄弟の物語」や「サウル王とダビデ王の物語」を呼んでいると、そう感じます。愛するとは、「贔屓」なのです。

しかし、日本の教育は代々「みんな」仲良くしなさいと言ってきました。同じクラスだから仲良くしなさい。隣同士だから仲良くしなさい。これは子どもには意味のわからない圧力です。「仲良く」とは「私が選んだ」という愛の意志の下で生まれる平和なのです。

クラスは、たまたま集まった、全く異なる個性の集まりです。教育の原点はその個性に出会うことにあると思います。ところが「みんな」という言葉が「仲良く」に付けられると、個性が個性と出会うことよりも、集団であるクラスを調和させることが優先されます。そこで個性は後回しになるか、場合によっては「問題だ」と言われてしまいます。これは子どもにとって不幸なことではないでしょうか。

「みんな」を取り去って「仲良く」を求めたときに見えてくるのは、人間関係のルールです。個性は尊重され、集団としての調和はルールを守って成立するのが近代社会の仕組みです。

幼稚園は子どもが初めて踏み出す「社会」です。それは、将来子どもたちが生きるはるかにスケールの大きな「社会」に生きていく時と、同じ人間の限界をもっていることを教育者はわきまえなければなりません。子どもだからみんなと仲良くなれという幻想に子どもを追い込んではいけないのです。

「みんな」仲良くというのは、人間の個性と尊厳を無視した要求です。それは聖書の見つめる人間の姿に反します。

2020年10月15日