褒美と罰の本質は同じ

子どもをコントロールする方法という点で、褒美と罰は同じものです。大人の都合にあわせて褒めたり罰を与えるのは、子どもを操作しようという意図があります。褒美と罰は見た目が異なるようで、大人による条件づけという実体は同じものです。

しかし、子どもを行動をコントロールするために使っている言葉は、本音ではないことを子どもに見透かされます。

褒美と罰は、条件付けであるため、与え続けないといけないという事態に陥ります。子どもを罰しても、同じことを繰り返したり、もっと行動が悪化することはよくあります。行動が悪化すればまた別の罰を与えることになるでしょう。

褒美も同じことが起こります。与えれば褒美への依存が強くなっていきます。褒美を与え続ければ、褒美の内容も際限なく上がっていきます。

褒美と罰によっておこるもう一つの問題は、子どもに自己中心的な考え方が根づいてしまうことです。褒美をもらい続けると、褒美を得ることが目的となります。その結果、自分の行動が相手に与える影響を考えなくなり、自分のことだけを考えます。

例えば、幼稚園に朝一番にくる子に、「偉いね」とか「すごいね」というようなおざなりな誉め言葉をかけてしまいがちです。そうすると、一番になって褒められる自分の都合を考えます。そうすると一番になれなかったときに、お父さんやお母さんがバッチをつけるのが遅いとか、荷物を持ってくれなかったからとか、周囲に原因を押しつけて、自分のことだけを優先するように要求し始めます。

罰はさらに深刻です。説明や話し合いをせずに一方的に与えられる罰は、問題とされた好意との関係が子どもにとって明確ではありません。そのため反省を促すことにならず、自分が間違った行動をとったことを考えずに、罰を与える相手が悪いと思うようになります。罰を与える相手に怒りと憎しみを抱きます。親子関係では、罰は子どもにとって最も信頼できる存在であった親からの裏切り行為として、子どもの心を混乱させます。やがて、親が信頼できない存在という思いが強くなると、子どもは心を閉ざすほか無くなります。

そうなれば、どうやって罰を逃れるかに意識が向いていきます。罰の場合も、相手への影響を考えずに、自分の損得だけを考えるような自己中心的な考えが育っていきます。

さらに、罰を与えられると、問題が起こった時に、暴力や圧力で解決することが子どもの中で正当化されていきます。罰を与えることは問題は暴力と圧力で解決することができるという考えに洗脳していくことです。一方的に力を振るう行動が模範であった子どもに、平和的な解決を選ぶことは困難になっていきます。そうした存在となった子どもは周囲から孤立していきます。

罰の連鎖は、さらに世代を超えていきます。子ども自身が親になった時に、自分が経験してきたことを嫌いながら、しかし同じように子どもに接してしまうことが多いと言われています。

褒めることと叱ることは、子どもの育ちにおいて最も重要な大人の関与です。そして安易な方法は子どもの中に望ましくない影響を与えます。

2020年10月29日