みんな一緒でなければならないのか

遊びの時間が終わってお片付けの声がかかると、子どもの中には一人か二人、それまでの遊びに区切りをつけられないでぐずる子が必ずいます。そんな時に、「ほら、みんなもうお片付けしてるよ!」、「もうみんなお部屋にいっちゃうよ!」、とじつに様々な「みんな」という言葉がバリエーション豊かに飛び交います。おそらく幼稚園や保育園で発せられる言葉のトップ3に入る言葉が「みんな」です。

子どもに社会訓練を与えるときに、「みんなにあわせる訓練が必要である」という意見があります。小学校に進学してから苦労させないために、集団生活に早くなれるように、「みんなに合わせて行動する子」を作り出そうと大人は四苦八苦、工夫の限りを凝らしています。

頭からこのことを否定するほど、「集団行動」に無意味さを感じているわけではありません。しかし教育にかかわるものとして、この「みんなに合わせる反復訓練」によって得られるのは「協調性ではない」という事実から目をそらしてはなりません。「みんなに合わせる反復訓練」から子どもが得るのは、似て非なるネガティブな「同調性」です。

協調性と同調性は、似たものと見られますがまったく別のものです。同調の出発点は「みんながそうしているから、あなたもしなさい」という外発的要因です。もっとはっきり言えば子どもに自己主張を「諦めろ」と伝えているということです。過激なようですが、分析すればそういうことになります。当然ながらこの経験が重なっていけば、やがて内発的な意欲は弱まっていきます。「みんなと一緒」を強制されるので、やがて大人に対して諦めてしまうからです。子どもによってははっきり言う子がいます。「どうせ、やらせるんでしょ!」何を言っても私の話は聞かないじゃない、と幼児期から大人を見限っているのです。あるいはいつも顔色を伺い、作品を作るといつも誰かのコピー作品となります。「好きにしていいのよ」と言われると困ってしまい、何もできなくなります。それを我が子の成長した姿として親は望まれるのでしょうか。

「良い子」の基準は国や文化によって異なります。日本では「言うことをきちんと聞ける子」、「指示に従える子」、「集団の和を乱さない子」が良い子として認識されます。逆に言うと、そういう子に育てる親こそ「立派な親」であり、そういう子にしつけた教師は「優れた教師」と評価されるということです。卒園近い年長児は先生から言われます。「もうすぐ一年生なんだから」、「もう一度年中さんになる?」と、周りに合わせられない子は追い立てられていきます。厄介なのは、この同調を求める大人の声が子どもへの「愛情」から発せられているということです。

だからこそ申します。その深い愛情をもって、子どもの目を見てください。みんなの方ではなく、あなたの愛する子の目を見てあげてください。子どもと目を合わせてみてください。「みんな」という言葉で論点を曖昧にすることなく、子どもの目を見て、「どうしてうまく切り替えることができないのか」を考えることに愛情を費やしてみてください。真剣に子どもから聞く姿勢で接してみてください。

はっきり言えば、これは時間も手間もかかります。うまくいかないという思いに何度も苦しみます。周りから「ちゃんと子どもにやらせなさい」という非難を浴びます。「みんな」という言葉にとらわれた人から冷笑されるでしょう。しかし、これを繰り返すことによって自発的な「集団への協調」が必ず育ちます。5歳頃には、子ども自身が集団の中で自分がすべきこと、すべきでないことの境界線を見つけていくようになります。集団で遊ぶ機会が増えれば、どうすれば集団の良好な関係を保つことができるか、目を合わせた知的な意見交換を学んでいきます。自分のやりたいことと集団が求めていることの誤差を意識し、その誤差を自分の物差しではかり、許容範囲を把握し、自分自身で自分を律していく力を得ていきます。

2018年10月17日