大人の貫禄は子どもにもわかる

子どものころ、大工さんや植木屋さんの仕事を身近に見る機会がありました。祖父は金箔押しの職人でした。祖父の思い出は一緒にお正月に過ごした食卓と、金型を調整する神業のような職人の手仕事の情景です。職人の仕事を目にすると、飽きずに眺めていたことを思い出します。その時見た仕事の流儀が、時として自分の仕事を支え、ヒントを与えてくれることもあります。憧れた思い出が今も自分にとって大事な財産になっていることを思わされます。

年季のある職人の貫禄というのは、子どもにわかるものです。そこに至るまでに並々でない苦労があったことでしょうし、同じ道を目指しながら挫折していった仲間も多くいたはずです。その中で独り立つ職人というのは過酷な競争に打ち勝ってきた人です。

ちょっと見はヨロヨロしているお爺さんやいつも静かにほほ笑むお婆さんが、戦争中の体験を語られると、その説明の正確さと見識の高さに圧倒されます。人間として筋を通して生きている姿に「大人」とはこういうものだ、と知らされたものです。年月は容赦のないもので、こちらの予定にお構いなしに人生を削り取っていきます。そんな中で「大人」として生き抜く耐性を、昔は困難な時代の中で否応なく鍛えられたところがあったのでしょう。

哲学者の鷲田清一氏がこのように言っています。「かつては場数を踏み、痛い目に遭う体験を通して、生きていくのに不可欠な『見極め』がつく大人になりました。子供もさまざまな職業の大人を見て、生き方を選択できた。ところが失敗する可能性があらかじめ排除され、大人の仕事にも多様なイメージを描けません」(『おとなの背中』角川学芸出版)。さらに、似たような価値観の大人の背中しか見えなくなった結果、子どもたちは「万能感」か「無能感」のどちらかの両極端に生きるようになった、と述べています。

今は、昔はなかった「選択の自由」が与えられています。自由が与えられているからこそ、その中で貫禄ある「大人」になることは指標を失くしたように思われます。しかし、そんな時は幼い子どもと向き合ってみることです。幼い子どもから好かれ、同時に畏怖、尊敬されれば「大人」です。そしてそんな大人が子どもに「憧れ」という財産をもたらします。それは「万能感」の下品さと、「無能感」の諦観の沼から子どもたちを引き上げる「恵み」となるのではないでしょうか。

2018年11月05日