教えたと言える状態

何度教えてもなかなかできない人に、「前にも教えたでしょう。」「さっき伝えたでしょう。」「何度も言わせないで。」こういう言葉をかけてしまいます。教えたことを理解していない相手を責めてしまう言葉です。

「教える」ことには常に「学ぶ」相手がいます。当然、教える側も学ぶ相手に合わせて工夫します。そこで「教えたつもり」になります。しかし、学ぶ人が理解する、あるいはできるようになっていなければ「教えた」ことにはなりません。厳しいですが、学ぶ側に結果がなければ「教えたつもり」になっているだけで、「教えた」ことになりません。

「教えたつもり」ではなく「教えた」といえるようなるには、相手を見る他ありません。教えた結果、学んだ相手が今までできなかったことができるようになったら「教えた」と言えます。乱暴な言い方をすれば、教え方はそこでは「問題にならない」のです。学んだ者の獲得する結果が全てです。

私たちは教える側よりも学ぶ側の立場が弱い、と無意識に思っています。また、そう思わせています。教え方が悪いと考えるよりも、「できないのは自分のせいだ」と考える傾向があります。これはすでに幼児期の子どもにも見られる傾向です。

「まじめにやってない」と決めつけられたのかもしれません。「やる気がない」と責められたのかもしれません。これではいつまでたっても「教えた」、「学んだ」といえる状態は訪れません。これは教える側にも学ぶ側にも、時間の無駄であり、不幸なことです。

学ぶ人に学ぶ気持ちがないなら、やる気を起こさせるところから教える者の責任は始まっているのです。教える人の責任は重大です。

2018年11月19日