Q&A

 

クリスチャンではないのですが、教会に行ってもいいのですか?
教会はどなたでも入れますし、はじめての方でも礼拝に参加できます。聖書に、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)、というイエス・キリストの言葉があります。魂の安らぐ場所を必要とする方々のために教会は、門を開いています。
何か持っていくものはありますか?
西荻教会では、礼拝で用いる聖書と讃美歌は備え付けのものがありますので、それをご利用下さい。会費や入場料などはありません。ただ、礼拝の中で献金(金額は自由)があります。
教会に行くと必ずクリスチャンにならなければいけないのですか?
強制的にクリスチャンになるということは、決してありません。クリスチャンとして生きること(具体的には洗礼を受けてクリスチャンとなります)は、神の恵みとあなたの信仰によるものです。しばらく教会に通っていると、牧師や信徒から勧められることはありますが、あなたの気持ちが尊重されます。もし、クリス チャンとして生きようと思われたなら、牧師はもちろん、ご家族など親しい方にも相談されると良いでしょう。
名前や住所を聞かれると困るのですが・・・
西荻教会では、はじめて礼拝に来られた方に、お名前と住所を記すように用紙をお渡しします。支障がなければご記入ください。外部に漏らすことはありません。 信徒と交流する際に、お名前がわからないと不便なことがあるかもしれませんが、名前や住所を明らかにしないと受け入れられないということはありません。名前や住所を教えるのは支障があるという方は、受付の者にその旨をお伝えください。用紙にご記入くださった方は、礼拝の中で、牧師が新来会者として信徒にお名前を紹介いたします。
子どもを連れて行ってもよいのですか?
お子さんが一緒でも大丈夫です。ただ、聖日礼拝の場合、1時間以上の礼拝の時間や牧師による説教の言葉は小さなお子さん向きではありません。西荻教会では、 幼児や小学生のために、「こどもの礼拝」を毎週日曜日の午前9時からしています。小さなお子さんは、そちらに出席されるとよいでしょう。高校生くらいから、聖日礼拝に出席されるとよいでしょう。
何かを買わされたりしませんか?
礼拝では「献金」以外にお金を必要とすることはありません。礼拝以外の集会に参加されると、昼食費などが必要となることはあります。物品の購入を強制することはありません。ただ、キリストのことをより深く理解するために、ご自分の聖書を持つことをお勧めします。聖書は一般の書店で購入できます。翻訳が様々ありますが、西荻教会では、日本聖書協会刊行の「新共同訳聖書」を用いています。
礼拝とはどんなことをするのですか?
キリスト教会では、聖書(旧約聖書、新約聖書)に証された主イエス・キリストによって示された神を賛美するために礼拝をします。西荻教会でも、讃美歌を歌 い、聖書の説き明かし(説教)によって礼拝をします。また、聖礼典として、西荻教会では毎月第一日曜日に聖餐式が執行され、時には洗礼式が執行されます。 礼拝は教会にとって最も大切な行為です。神さまの前に、厳粛な思いを持つことは大切ですが、単に私たちの努力によって為される一方通行の行為ではありませ ん。聖書から、神さまの言葉が私たちの心に力強く響き、喜びと安心とが与えられます。初めて礼拝に出られる方は、それまで知ることのなかった異質な空間に 戸惑われるかもしれませんが、礼拝の順序は週報に記されていますし、分らない事は近くの信徒に尋ねれば快く教えてもらえます。いままで知ることのなかったことの中に、人間の豊かな生き方と価値観があることをぜひ知っていただきたいと思います。
献金はどうすればよいのですか?
献金は、主イエス・キリストによって救いを成就なさった神さまの今も私たちに注がれる慈しみに、私たちが応える感謝の形です。入場料でも参加費でもありませ ん。感謝であって、義務ではありません。自発的なものですから他人が額を決められるようなものではありません。極端なことを言えば0円でも1億円でも良いのです。
クリスチャンでありながら勘違いする人もいるのですが、多くささげるほど、多く恵まれるということではありません。神さまの恵みはお金で買えるものではありません。神さまの恵みは私たちがささげることに先行しています。神さまの慈しみを注がれた生活を破壊しないよう、ふさわしい額を自分で決めて、礼拝のはじまる前に準備しておかれると良いでしょう。献げられた献金は、教会の維持や活動のために用いられます。
お祈りは、どうするのですか?
祈りは、キリスト教会では主イエス・キリストによって仲立ちされた、神さまとの対話です。独り言ではありません。聴いてくださる神さまがおられるのです。神さまは、「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩編50篇15節)と、私たちを祈りに誘っておられます。聖書に多くの祈りが記されていますし、主イエス・キリストも祈りの言葉を教えてくださいました(主の祈り)。
自分の心がおしゃべりをやめて静まる時、自分が世界の中心ではなく、まことに神さまの慈しみがなければ立ち得ない罪人(つみびと)であることを知ります。そ して、罪人である私を招かれる神さまに自分を委ね、また愛する人々のこと、世のことを神さまに委ねます。自分の心を沈黙と聖書の言葉をもって開き、思い・ 配慮・感謝・告白・うめき・叫びを、言葉に託して神さまに差し出すのです。
礼拝の中での祈りは、信仰共同体(教会)の公的な祈りです。祈りの最後に「アーメン」と共に言います。「アーメン」は「本当です・その通りです」という意味です。祈りは、クリスチャンにとって、呼吸のように大事なものです。信仰の理解が深まると共に、祈りもまた成長していきます。「百聞は一見にしかず」と言います。祈りの仕方を知るには、祈っているクリスチャンを見るのが一番良いでしょう。
洗礼(バプテスマ)とは何ですか?
主イエス・キリストは、弟子である使徒に向かって「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイによる福音書28章19~20節)と命じられました。教会はこの主イエス・キリストの命令を継ぎ、神から離れていた人が神を知り、神の御許へと帰って行くために、また神の御許へと帰った者がキリストの弟子としてふさわしく、神と隣人とに仕えるように、主イエス・キリストを証しするところです。
神から離れた罪人である私たちが、聖書によって証しされた、主イエス・キリストのみ言葉とみ業によって明らかにされた(啓示された)救いの道を通って、神の 御許に帰るためには、救いの道そのものである主イエス・キリストを救い主として信じること以外に救いはありません。その信仰を神と教会共同体の前で明らかにし、神に救われた者であることを示し、主イエス・キリストの弟子にふさわしい新しい生き方を約束する〔しるし〕が洗礼(バプテスマ)です。
洗礼の際には水が用いられます。水によって罪の中にあった古い自分が死んで、キリストによる新しい命に生まれ変わるということを象徴しています。西荻教会では頭に水を数滴垂らす「滴礼」という仕方をします。カトリック教会などでは、洗礼(バプテスマ)の後ホーリーネーム(洗礼名)をつけますが、プロテスタント教会である西荻教会ではホーリーネームはつけません。
聖餐(せいさん)式とは何ですか?
主イエス・キリストは、十字架にかかられる前に、弟子たちと夕食を共になさいました。「最後の晩餐」と一般に呼ばれます。その席で、パンとぶどう酒をご自分 の体と血とにたとえて弟子たちに与えられました。これを後の教会では聖餐と呼んで、この晩餐の後、肉を裂き血を流し、ご自分の命をかけて私たちの罪の赦し のために十字架にかかって代償を果たしてくださった主イエス・キリストを記念して、代々の教会は聖餐を礼拝の中で繰り返してきました。
初代教会の使徒パウロが伝えている聖餐についての記事を引用します。
「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂 き、『これは、あなたがたのためのわたしのからだである。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにし て、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(コリントの信徒への手紙一 11章23~26節)
聖餐は、主イエス・キリストご自身が定められたものですから、主イエス・キリストに対する信仰がなければ意味がありません。ですから、聖餐は洗礼を受けた者のみがいただきます。
聖書にはどんなことが書かれているのですか?
キリスト教会の聖書は、「旧約聖書」と「新約聖書」の両方を併せて「聖書」と呼びます。「旧約」、「新約」というのは、「旧い契約」、「新しい契約」をそれぞれ意味します。
旧約聖書は、天地創造、バベルの塔、ノアの箱舟など、よく知られた物語の外に、「十戒」と呼ばれる神との契約、その契約を貫く神と、その神に対する信仰の言葉と、ついに神との正しい関係を築くことのできない人間の深い罪の姿を記しています。神との関係が破れていることが罪です。
新約聖書は、旧い契約の中で解決されない罪の問題に対して、神のほうから行動を起こしてくださり、神と人間との隔たりを埋め、関係を回復するために主イエス・キリストが来られたこと、その主イエスのご生涯と、主イエスを仲立ちとした新しい神との契約について、主イエスへの信仰に生きた弟子たちのことが記されています。
カトリックとプロテスタントは、どう違うのですか?
「プロテスタント」は、16世 紀に起こった宗教改革によってカトリック教会から分離したキリスト教徒に対するカトリック側からの呼称です。当時のカトリック教会の人間中心的な教会のあ りように抵抗(プロテスト)して、「聖書のみ」「信仰のみ」によって救われることを主張し、司祭の階級制度に対して「万人祭司」を主張しました。カトリッ クとプロテスタントは歴史的に対立していたこともありますが、現代ではそのようなことはありません。対話と歩み寄りの時代を迎えています。
西荻教会は、プロテスタント教会である日本キリスト教団に属する教会です。
教会にある十字架には、どんな意味があるのですか?
神の子である主イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの代わりに死んでくださったので、主イエスを信じる私たちは神から罪の罰を受けなくてよくなった ことが、救いです。十字架刑は、もっとも残酷な処刑方法で、それによって処刑されるものは、神に呪われた者とされ、多くの苦痛と屈辱、孤独を味わって死ん でいきます。主イエスは、私たちのために十字架の苦痛と屈辱、孤独のすべてを味わい尽くされ、死なれました。罪のない方が、全人類の罪を負って身代わりに死んでくださったのです。そこに神の愛が明らかにされたと聖書は証しします。また、神は墓に葬られた主イエスを三日目の朝に死から甦らせられ、永遠のいのちの希望を与えてくださいました。教会に掲げられている十字架は、この神の愛と、主イエスの救いの恵みをシンボル化したものです。
クリスチャンになるとお酒を飲んではいけないのですか?
「クリスチャンは禁酒しなければならない」という考え方は、キリスト教の伝道が解禁された明治初期のアメリカ人宣教師によってもたらされたようです。これは、彼らがアメリカで行っていた彼らの倫理の社会における具体化としての禁酒運動がそのまま持ち込まれたようです。
聖書に「禁酒」ということを命じているところはありません。主イエスご自身、婚宴の席で水をぶどう酒に変えられましたし(ヨハネによる福音書2章1~11節)、 主イエスは罪人も招かれた食事の席を大変楽しまれたようですから、主イエスご自身全くお酒を飲まなかったとは考えにくいようです。しかし、大切なことは、 お酒を飲むことが主イエスによって与えられた自由を生きていることになるかどうかだろうと思います。「酒に酔いしれてはなりません」(エフェソの信徒への 手紙5章18節)とあるように、お酒に支配 されるような飲み方はしてはならないでしょう。また、お酒の席でないと腹を割って話せないという程度の人間関係を教会に強要するのもおかしいでしょう。お酒にかかわる経験からつらい思いをしてきた人もいるかもしれません。自分を主張して、彼らを躓かせることは果たして主イエスの与えてくださる自由に生きていることになるでしょうか。
教会では個々人の趣味や嗜好を禁止することはありません。しかし、教会は酒に酔う以上の幸いを主イエスからいただくところです。ですから西荻教会では教会の建物の中は禁酒禁煙としています。
怖いキリスト教もあると聞いたのですが?
まことに残念なことですが、「キリスト教」を名乗っていても、実態はキリスト教と全く異なる、無関係の団体が存在します。信徒に霊感商法や偽の街頭募金などの反社会的行為をさせたり、思想的に反社会的なコントロールを行う団体を「カルト」と一般に呼びます。
カルトの教義の特徴として以下のようなものがありますので、見分ける際の参考にしてください。
① 自分たちの団体のみを唯一の正しい教会だと主張して、他の教会に行かせない。
② 「罪」を強調して、救いを求める信者を心理的に拘束し、「自分たちの団体から離れると地獄に落ちる」などの脅迫をする。
③ 一般社会や他の教会、あるいは信者の家族・友人を、悪魔(サタン)の支配下にある、あるいは悪魔(サタン)だと決め付ける。
④ 研修会など、さまざまな理由をつけて自分たちの活動に引きずり込み、信者を心から案じている家族や友人から引き離そうとする。
⑤ 献金や献身を強要し、献金額や活動によって救いの「レベル」が上がると教える。
WCC(世 界教会協議会〈カトリック、プロテスタントを含む国際的なキリスト教会の連合体)では、「統一協会(世界基督教統一協会)」、「エホバの証人(ものみの塔 聖書協会)」、「モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)」などを、キリスト教とは認めていません。西荻教会はそれらと一切かかわりはありません。