園長の思い

園長 有馬尊義のブログです。

ブログ一覧

事実に帰る

子どもの要求に、「それはできない」、「それはよくない」という事が起こります。子どもの気持ちはわかるけれども、その行動は良くないと思うことを、どのように子どもに伝えればいいのだろうと悩むことがあります。
 そんな時、私たちの気持ちは緊張して固くなり、ますます身動きできなくなるような感じがします。ただ黙って子どもの前にいる自分が子どもにとってひどい壁のように感じられて、嫌になってしまうこともあります。子どもの前で立ち往生してしまいます。
けれども、私たちは壁ではありません。子どもにとって邪魔な障害ではありません。どうしても受け入れることのできない事実の前で、じたばたしている子どもの支え手でありたいと思っているのです。さらに壁を高くしたいとは思っていません。
事実にはいろいろあります。
・目で見る事実
・耳で聞いた事実
・見て、聞いて感じた事実
・事実を知って私の中に起こった判断
子どもに対するときにも、正直に私たちが見たこと、聞いたこと、感じたことという事実を伝えることで耳を傾けてもらえます。事実を伝えることが一番子どもとの距離を近くするように感じています。子どもには事実を受け止めることが難しいように思えますが、伝え方によってちゃんと受け止めやすくすることができます。
 一方で、子どもの前で立ち往生しているに自分を弁護しようとすると「事実」よりも、「批判」、「忠告」、「強制」、「評価」を伝えてしまいます。子どもの隣に立つために事実に立ち戻ってみましょう。

2019年09月13日

こころの癖・・・二分化

正しい/間違い、得/損、味方/敵、優/劣、美/醜、勝ち/負け等、様々な二分化をしながら世界や人、そして自分自身と関係を作っていきます。私たちには、殆ど自動的に自分と出会った対象を瞬間的に二分化して把握し、どちらかのレッテルを張って分類し、対応を探るという心の働きがあります。
幼児期は二分化に極端にこだわる時期です。たとえば、絵本を読んでいて様々な動物が擬人化されて登場すると、「この豚はいい人?」、「この猿はいい人?」、「狼だから悪者だよ」といった具合です。絵本のストーリーとは全く関係がなくても、新しい登場人物が出るたびに「いい人?」、「悪い人?」と聞いて、絵本のストーリーとは違う「いい人と悪い人のお話」を想定します。
私たちは何か新しいことに出会うたびに、それを二分化して捉えるという根強い感性があります。おそらく、かつて今のように安全がなかった時代にひ弱な人間が生き抜くためには、新しく出会うことが良いか悪いかを瞬時に分けて、悪いものであれば直ちに身を守る手段を講じなければならなかったのでしょう。突然出くわしたのがウサギかライオンか、それは自分にとって、良い/悪い、安全/危険、勝てる/負ける、そういった判断を瞬時に繰り返してきたのでしょう。今もそれは強力な自己防衛力として働いています。
ちなみに、先ほどの、絵本の登場人物を「いい人/悪い人」で尋ねてくる子には、「どうかな~」と答えています。なぜなら、きちんとストーリーの中から自分の判断で二分化を行うことが、幼児期の子どもの学びだからです。二分化がいい、二分化が悪いということではありません。
ただ自己防衛力としての二分化が、自分自身を苦しめることがあります。二分化は色んなものにレッテルを張ることです。レッテルはいつも他者に張るわけではありません。自分に「悪い」、「劣る」、「負け」というレッテルを張るのです。このレッテルを剥がして「良い親」、「良い上司」、「良い大人」であろうと、なんと多くの方がもがいていることでしょうか。
一度レッテルを決めてしまうと、「頭で分かっていても、心が納得しない」ために、いつまでも良くない出会いを繰り返すことになります。自分の子が「○○ちゃんに叩かれた」と聞くと、相手の子にもさらにはそのお母さんにもレッテルをべたべたと貼り、もはや自分で張ったレッテルの主張することが事実を歪めて、真実として力を振るいはじめます。
せめて、二分化の弊害を知って、「自分は絶対の真理を見通す裁判官ではない」、「二つに分けるのでなく、いっそ50ぐらい解釈の可能性を考えよう」という心の声を備えておきたいと思います。

2019年09月06日

何かを教えたいという焦り

子どもと一緒に過ごしている時、「何か教えなければいけない」という焦りを感じることはないでしょうか。
仕事や家事がスムーズにできて、今日は子どもと一緒に過ごせる、と思って「何して遊ぼうか?」と尋ねます。例えば「塗り絵がしたい」と言われて塗り絵をしていると、「今日は天気がいいのだし、せっかく一緒に過ごす時間があるのだから、外でボールで遊んだほうがいいのではないか」、「ずっと塗り絵をしているよりも、せっかく一緒に私がいるのだから、折り紙やあやとりを教えた方がいいのではないか」。そんな風に感じることがあるのではないでしょうか。
子どもにとっては、大好きな人が一緒にいてくれるだけでいいのですけれども、何か教えなければいけないという気持ちがわいてきます。これは親に限らず、幼稚園の先生も、子どもと接する大人の多くが感じることのようです。子どもに何か一つでも新しいことを覚えてほしい。何か一つでも教えたいと思うのは、未来へと続く子どもの中に自分の存在価値をささやかであっても残してほしいという、大人となった命の焦りなのかもしれません。
人に教えるという焦りは、独特のものです。そこで自分自身の価値が決まってしまうような脅迫感があるからです。教えられることがなくなったら、もうその人と一緒にいられない。もうその人にとって一緒に過ごす価値のない人間になってしまう。このじっとりとした心の中にある、「自分自身の価値」に関わる恐れはなかなかに強いのです。
先日、ひらがなで自分の名前を書くことをはじめたお子さんから、「『る』ってどう書くの?」と聞かれたので紙に「る」と書いてあげました。この子が「園長先生、字が上手~」と褒められてしまいました。私は実際、お世辞にも字が上手ではありません。でもひらがなを書き始めた子には、「かっこいいー」となりました。恐らく、私たち大人はこのあたりでニヤニヤしながら「ありがとう」と満足するのが一番幸せなのです。そこから、「この字、間違ってるんじゃない」と指摘すると、途端にそっぽを向かれます。
幼くても、子どもたちには自分でやりたいことがあり、自分で教わりたいことがあります。大人と子どもの人間関係には、「教える・教わる」という関係とは、ちょっと違う関係があるのだと思います。

2019年09月05日

感覚の優先傾向を知る

子どもから「~って何?」と聞かれて、答えに困ったという話をよく聞きます。分からないというより、どう説明すればいいのか困ってしまうということがあります。
先生としては、せっかく子どもが興味をもって聞いてきたので、正確に伝えようと頑張ります。その時に、ニュアンスで伝わる子と、厳密に正確な言葉の説明を求める子がいます。あるいは、答えを考えているうちに他に興味が移って質問を忘れてしまう子や、童話のような物語で説明されることを好む子もいます。
これは、「どんな感覚を優先的に認識しているか」という傾向と関係しています。
聴覚の感覚を優先する傾向があると、説明を「読む」よりも「聞く」を好みます。言語感覚が鋭敏ですと、新しいことと「意味」が結びつくことが重要になります。触覚が優先される傾向があると、手を動かすなどの動きがあると説明が理解しやすくなります。視覚を優先する傾向があると、書面や絵や図があると理解の際に大きな助けになります。これらは必ずしも一つの感覚が突出していたり、他の感覚が弱いというものではありません。あくまで、傾向があるというものです。
自分のことで恐縮ですが、私は視覚が優先される傾向にあるようで、理解の際には特に「書面」を視ることが大事です。必ずしも紙をめくる感触を必要とはしません。最近、電子書籍の優れた「読み上げ」機能を使ってみたのですが、どうしても集中できず内容が十分に理解できませんでした。聞くだけですと理解が困難になるようです。しかし、これが講演ですと、資料の書面がなくても講師を視て話しを聞くと理解できます。
自分や子どもの感覚の優先傾向を知ると、少し客観的に子どもとの距離を保って関わることがしやすくなるのではないかと思います。これはもちろん、大人同士の間でも同じです。一緒に仕事をしていて、「何でこの人とうまくいかないのだろう」というような時に、それは互いの悪意からではなくて、感覚の優先傾向がすれ違っているからかもしれません。ちょっと工夫するだけでコミュニケーションの結果はずいぶん変わるものなのです。

2019年08月02日

待つことを教える大切さ

子どもと過ごして特に多く使う言葉は「急いで」、「早く」ではないでしょうか。仕度が遅い子や、なかなか遊びを終えられずにいる子に、幼稚園の先生も「もうお友だちはお部屋にいるよ」、「みんな待ってるんだよ」と言って急かします。
周りの状況を把握して、行動を切り替えるようになることは大事な成長です。ただ今回は、待たせる子ではなく、こういった場面ではもう一方に「待っている子」がいることを考えてみたいと思います。
普通ですと、みんな揃って行動をするときに待たせてしまう子は、先述のように急かされたり、あるいは遅れたことを叱られたり、待っている皆に「ごめんなさい」と謝らせる等の対応があるでしょう。しかし、視点を「待っている子」に向けると別の事柄が見えてきます。それは、「待つことを教える」ということの大切さです。
待つことができるということは、人間の器の問題です。これは実は教育の最大課題へのアプローチではないでしょうか。
遅れてくる人にイライラして、遅れてくる人にずっと心を奪われていて、その人が到着するなり「何やってんだ!」と怒鳴る人。
誰かが遅れていても、心を奪われずに過ごし、「大丈夫、待っている間に~ができたよ」とさらっといえる人。
どちらに人間的な魅力があるでしょうか。どちらの人間と一緒にいたいと感じるでしょうか。待つことができる人とは、寛大な心をもって赦す人です。人望や魅力といった言葉であらわされる心の器を育てる方が、教育の課題として優先順位が高いのではないでしょうか。
どうせ待つなら、歌でも歌って待とうか?お話しを一つしましょうか?そんな風に「待てる人に育てる」ということは素敵なことではないかと思います。
考えてみれば、私たちはこれまで皆、迷惑を掛けたら謝るという教育だけを受けてきたように思います。しかし、私たちは誰でも迷惑をかけずに生きることはできません。待たせる子も、その子なりのベストを尽くして生きています。それならば、迷惑をかけられてもそれを受け止める器を育て、相手の事情に心を寄せることができる方が、ストレスなく健康的な生き方に繋がります。
「待つ」ということは我慢することではなく、「赦す」ことなのです。

2019年07月31日
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