園長の思い

園長 有馬尊義のブログです。

ブログ一覧

子どもの問題の前で立ち止まる

 子どもたちと接していると、神さまは人間を何て自由に創造してくださったんだろうと思わされます。そんな彼らと接していて、「正しいって何だろう?」と考えさせられます。それは、子どもたちは自由に振舞いながら、実は多くの場面で自分たちの行いが正しいのかどうかを問いかけてくるからです。
 遊びの時間であれば、遊ぶことは「正しい」ことです。でも先生のお話しを聞くときには、遊ぶことは「正しくない」ことになります。2~3歳程度の子どもに、「今は遊ぶ時間じゃないでしょ」と言い聞かせても、時間感覚も周囲への関心も未熟な彼らに理解できるはずがありません。この場合、遊び続けようとする子どもと、子どもに通じない言葉をかけて正しい行動を求めている大人とどちらが「正しい」のでしょうか。
 この世界には、あり得ないと思えるような違う考え方を持つ人がたくさんいます。特に子どもと私たちの間では、この感覚をもっておくことは大事です。
 子どもにとっての正しい行為は、私たちにしてみればとんでもない身勝手な振る舞いに見えたりします。しかし、彼らの視界、彼らに聞こえている音、彼らの触れる感触がもたらす、彼らの受け取った世界にどのように向かい合うかは、大人には測れないことが多くあります。大人から見ると「問題」と見え、すぐにやめさせないと面倒だと思えても、それは子どもが受け取った環境に対する一生懸命にあみだした大切な対処法なのかもしれません。
 問題行動をすべて受け入れることをすすめているのではありません。しかし、「この行動はこの子にとってどんな意味があるのだろう」、「この行動でこの子は何を得ようとしているのだろう」という思いを心に持っておくことが大事なのです。もしかしたら子どもなりの愛情表現かもしれません。子どもからのSOSかもしれません。
 子どもの問題と思える行動を前にして、大人は「すぐに、今すぐに」と改善を考えます。しかし、その過程を通さないと辿り着けない成長もあるのです。問題行動が自分自身や相手を害するものでない限り、大人自身が少し俯瞰して子どもを見る心の余裕をもっていたいと思います。子どもの行動の中には、簡単にとってしまってはいけないことがあるのです。

2019年10月31日

子どもなりの覚悟

幼稚園は間もなく来年度の入園を希望される方々の面接の時期を迎えようとしています。同じく、来年度から小学生になる園児たちも、受験、入学前検診など、いよいよ小学校に行く日が近づくことを感じるようになります。
この時期、運動会という大きな行事を達成した自信で日々の遊びがグッと力強く大胆になる子がいる一方で、お友だちから離れて教師を強く求めるようになる子や指しゃぶりなどの行動が再び始まる子がいます。夏休み後に少なくなった抱っこやおんぶ、肩車などの要求も増えました。
運動会で見た子どもたちの成長に大人はさらに大きく、さらに前進を期待します。それが「もう、おにいさん、おねえさんなんだからできるでしょ」、「おにいさん、おねえさんなんだからしっかりしなさい」といった指示となって子どもたちに届くことがあります。
子どもたち自身も成長していくことを望んでいます。しかし、小学校を控えた頃の子どもの成長は不安と隣り合わせです。子どもたちは不安を抱っこやおんぶ、肩車などの接触を教師を求めたり、自分の指をしゃぶるといった行動で乗り切ろうとしています。
成長の著しい幼児期は、成長というものの持つ「これまでの当たり前が壊され、新しい常識が獲得される」という側面が特に強い時期なのだと思います。この成長の中を前進する子どもたちの感性は、自信と不安の中で不安定になるのも仕方のないことです。
小学校を控えている頃の子どもたちには、自分自身が甘えていることも、頑張らなければならないことも十分に分かっています。その中で、覚悟を決めて前進するために安心できる感触を求めるのです。このときに、子どもたちの具体的な将来を、「楽しみだね」と声をかけて一緒に期待を膨らませることがサポートになります。この時期の子どもの甘えは特に大事に受け止めてほしいと思います。簡単にそれを止めないで欲しいと思います。
甘えん坊で、頼りなく、幼くて心配になってしまうかもしれませんが、子どもたちは新しい成長に対して、彼らなりの感性で覚悟をきめ、意識することがあるのです。
小学校に入ってすぐの授業公開に行きますと、クラスの中で幾人かの子が指しゃぶりをしたり、口を手で触ったりしている様子を見ることができます。子どもなりに真剣に新しい環境に向かい合っているのです。そう思うと、指しゃぶりも、抱っこやおんぶを求めるのも、尊い挑戦の儀式なのです。

2019年10月29日

事実に帰る

子どもの要求に、「それはできない」、「それはよくない」という事が起こります。子どもの気持ちはわかるけれども、その行動は良くないと思うことを、どのように子どもに伝えればいいのだろうと悩むことがあります。
 そんな時、私たちの気持ちは緊張して固くなり、ますます身動きできなくなるような感じがします。ただ黙って子どもの前にいる自分が子どもにとってひどい壁のように感じられて、嫌になってしまうこともあります。子どもの前で立ち往生してしまいます。
けれども、私たちは壁ではありません。子どもにとって邪魔な障害ではありません。どうしても受け入れることのできない事実の前で、じたばたしている子どもの支え手でありたいと思っているのです。さらに壁を高くしたいとは思っていません。
事実にはいろいろあります。
・目で見る事実
・耳で聞いた事実
・見て、聞いて感じた事実
・事実を知って私の中に起こった判断
子どもに対するときにも、正直に私たちが見たこと、聞いたこと、感じたことという事実を伝えることで耳を傾けてもらえます。事実を伝えることが一番子どもとの距離を近くするように感じています。子どもには事実を受け止めることが難しいように思えますが、伝え方によってちゃんと受け止めやすくすることができます。
 一方で、子どもの前で立ち往生しているに自分を弁護しようとすると「事実」よりも、「批判」、「忠告」、「強制」、「評価」を伝えてしまいます。子どもの隣に立つために事実に立ち戻ってみましょう。

2019年09月13日

こころの癖・・・二分化

正しい/間違い、得/損、味方/敵、優/劣、美/醜、勝ち/負け等、様々な二分化をしながら世界や人、そして自分自身と関係を作っていきます。私たちには、殆ど自動的に自分と出会った対象を瞬間的に二分化して把握し、どちらかのレッテルを張って分類し、対応を探るという心の働きがあります。
幼児期は二分化に極端にこだわる時期です。たとえば、絵本を読んでいて様々な動物が擬人化されて登場すると、「この豚はいい人?」、「この猿はいい人?」、「狼だから悪者だよ」といった具合です。絵本のストーリーとは全く関係がなくても、新しい登場人物が出るたびに「いい人?」、「悪い人?」と聞いて、絵本のストーリーとは違う「いい人と悪い人のお話」を想定します。
私たちは何か新しいことに出会うたびに、それを二分化して捉えるという根強い感性があります。おそらく、かつて今のように安全がなかった時代にひ弱な人間が生き抜くためには、新しく出会うことが良いか悪いかを瞬時に分けて、悪いものであれば直ちに身を守る手段を講じなければならなかったのでしょう。突然出くわしたのがウサギかライオンか、それは自分にとって、良い/悪い、安全/危険、勝てる/負ける、そういった判断を瞬時に繰り返してきたのでしょう。今もそれは強力な自己防衛力として働いています。
ちなみに、先ほどの、絵本の登場人物を「いい人/悪い人」で尋ねてくる子には、「どうかな~」と答えています。なぜなら、きちんとストーリーの中から自分の判断で二分化を行うことが、幼児期の子どもの学びだからです。二分化がいい、二分化が悪いということではありません。
ただ自己防衛力としての二分化が、自分自身を苦しめることがあります。二分化は色んなものにレッテルを張ることです。レッテルはいつも他者に張るわけではありません。自分に「悪い」、「劣る」、「負け」というレッテルを張るのです。このレッテルを剥がして「良い親」、「良い上司」、「良い大人」であろうと、なんと多くの方がもがいていることでしょうか。
一度レッテルを決めてしまうと、「頭で分かっていても、心が納得しない」ために、いつまでも良くない出会いを繰り返すことになります。自分の子が「○○ちゃんに叩かれた」と聞くと、相手の子にもさらにはそのお母さんにもレッテルをべたべたと貼り、もはや自分で張ったレッテルの主張することが事実を歪めて、真実として力を振るいはじめます。
せめて、二分化の弊害を知って、「自分は絶対の真理を見通す裁判官ではない」、「二つに分けるのでなく、いっそ50ぐらい解釈の可能性を考えよう」という心の声を備えておきたいと思います。

2019年09月06日

何かを教えたいという焦り

子どもと一緒に過ごしている時、「何か教えなければいけない」という焦りを感じることはないでしょうか。
仕事や家事がスムーズにできて、今日は子どもと一緒に過ごせる、と思って「何して遊ぼうか?」と尋ねます。例えば「塗り絵がしたい」と言われて塗り絵をしていると、「今日は天気がいいのだし、せっかく一緒に過ごす時間があるのだから、外でボールで遊んだほうがいいのではないか」、「ずっと塗り絵をしているよりも、せっかく一緒に私がいるのだから、折り紙やあやとりを教えた方がいいのではないか」。そんな風に感じることがあるのではないでしょうか。
子どもにとっては、大好きな人が一緒にいてくれるだけでいいのですけれども、何か教えなければいけないという気持ちがわいてきます。これは親に限らず、幼稚園の先生も、子どもと接する大人の多くが感じることのようです。子どもに何か一つでも新しいことを覚えてほしい。何か一つでも教えたいと思うのは、未来へと続く子どもの中に自分の存在価値をささやかであっても残してほしいという、大人となった命の焦りなのかもしれません。
人に教えるという焦りは、独特のものです。そこで自分自身の価値が決まってしまうような脅迫感があるからです。教えられることがなくなったら、もうその人と一緒にいられない。もうその人にとって一緒に過ごす価値のない人間になってしまう。このじっとりとした心の中にある、「自分自身の価値」に関わる恐れはなかなかに強いのです。
先日、ひらがなで自分の名前を書くことをはじめたお子さんから、「『る』ってどう書くの?」と聞かれたので紙に「る」と書いてあげました。この子が「園長先生、字が上手~」と褒められてしまいました。私は実際、お世辞にも字が上手ではありません。でもひらがなを書き始めた子には、「かっこいいー」となりました。恐らく、私たち大人はこのあたりでニヤニヤしながら「ありがとう」と満足するのが一番幸せなのです。そこから、「この字、間違ってるんじゃない」と指摘すると、途端にそっぽを向かれます。
幼くても、子どもたちには自分でやりたいことがあり、自分で教わりたいことがあります。大人と子どもの人間関係には、「教える・教わる」という関係とは、ちょっと違う関係があるのだと思います。

2019年09月05日
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