園長の思い

園長 有馬尊義のブログです。

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この子が生きている世界に寄り添う

子育てをしている親は、我が子の個性に悩むことがあります。その特性の強さに「育てにくさ」を感じて苦しむこともあるでしょう。

そうした親は「この先どうなるのか。今、何かをしてあげなければならないのではないか。手遅れになるのではないか」と、必死な思いで情報を集めます。そんなときに孤独と消沈の中にあることも少なくありません。そうした苦しい状況の親にとって幼稚園が心の支えになることはできるのでしょうか。

幼稚園の先生も「こうすれば大丈夫」と安易にいえるものはありません。また、外部の専門機関に繋ぐことだけでは、十分な解決と安心に繋がるとは限りません。

幼稚園の先生に求められるのは、「この子には、こんな思いがあり、こんな良さや重要な意味があります。この子のこういう素晴らしいところを大切にしましょう」と子どもの育ちに伴走してくれることではないかと思っています。

現在が充実した先により良い未来が待っています。とはいえ、今現在、苦しむ親には簡単に理解できるものではないでしょう。先のことは、誰も断定的に答えることはできません。しかし、今、この子が生きている世界を肯定し、この子の世界を大切にして寄り添ってくれる人との出会いは、大きな支えとなるはずです。

そうした幼稚園でのやり取りの中で、似た悩みを持つ親と出会うことも助けになります。悩みを知ってくれる支え合いが、卒園後も続くこともあるでしょう。同じような悩みを抱えた当事者でなければ気付けない思いや、かけられない言葉もあるはずです。

子育ては幼児期だけの問題ではありません。長期戦です。時には子や親に対する周囲の誤った見方にも耐えながら、我が子が我が子らしくあることを支えるのは簡単ではありません。周囲の理解が得られるとは限りません。

そうしたときに、困った時には話してみよう、と思っていただける親子にとっての安全基地としての幼稚園でありたいと思っています。その子らしさを大事にされた子は、時間はかかっても自尊心のある生き方を得ていきます。幼児教育とは、将来までその子の成長に重要な役割を果たす可能性を持っています

2021年06月14日

「ことば」の環境

西荻学園幼稚園はキリスト教を保育の土台としてます。聖書の教えを土台としているということです。聖書が、私たちの持つものの中で、もっとも警戒し、恐れているものがあります。それが「ことば」です。

これまでの人類の歴史の中で、人が人を死に追いやるときに最も多く用いてきたものは何でしょうか。剣でしょうか、銃でしょうか、核爆弾でしょうか。ある人は「毒」だと言いました。しかし聖書は武器や兵器ではなく、人の腹から出てくる「ことば」、罪に支配され、制御されない舌こそ最も人を死に追いやってきたものだと受け止めています。「ことば」に苦しめられ、そそのかされ、誘惑され、傷つけられた人の間で最も多くの争いと「死」が生み出されてきました。

聖書は、私たちの罪に「ことば」が深く関わることを伝えています。創世記の原罪の物語は、神様との約束を破ってしまった物語ではなく、食べてはならない木の実を食べてしまったことを指摘された時に、男と女、人と世界、神と人との愛を、人が「ことば」をもって決定的に破壊してしまった物語です。「食べてはならない木の実を食べてしまったのは、私のせいではない。」「あなた(神様)が合わせてくださった女のせいです。」「あなた(神様)がお造りなった蛇のせいです。」そうやって愛を壊していきました。悔い改めるならば、神様は赦してくださったはずです。しかし、ことばを用いた時、神様との関係は壊れ、「死」が生まれました。そこで聖書は、人間が「ことば」を用いることについて、特に心を込めて戒め、教えています。

ことばについて教えている聖書の箇所は、実にたくさんあります。たとえば、知恵を伝えているとされる旧約聖書の「箴言」には、無数の教えがあります。その中の18章の言葉を紹介します。
「愚か者は英知を喜ばず 自分の心をさらけ出すことを喜ぶ。」(箴言18章2節、新共同訳)
「愚か者の唇は争いをもたらし、口は殴打を招く。
愚か者の口は破滅を 唇は罠を自分の魂にもたらす。
陰口は食べ物のように吞み込まれ 腹の隅々まに下って行く。」(箴言18章6~8節、新共同訳)
「一度背かれれば、兄弟は砦のように いさかいをすれば、城のかんぬきのようになる。
人の口の結ぶ実によって腹を満たし 唇のもたらすものによって飽き足りる。
死も生も舌の力に支配される。 舌を愛する者はその実りを食らう。」(箴言18章19~21節、新共同訳) 

もう一つ、代表的な聖書の言葉を紹介します。新約聖書のヤコブの手紙3章の言葉です。
「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。
御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。」(聖書 ヤコブの手紙3章1~12節、新共同訳)

ヤコブの手紙3章の言葉は、子どもたちを迎える私たち「教師」にとって刻み付けて心しなければならない教えです。まず最初に「多くの人が教師になってはいけません」という戒めから始まっています。教師は他の人よりも厳しい裁きを受けることになるからです。何よりも「ことば」を裁かれるのです。

教師は、「ことば」を用いて子どもたちと接します。子ども同士で諍いがあった時、どういう言葉を、誰からかけるのか。遊び相手が見つからない子を、どう励まし、促すのか。泣いている子を慰める言葉は何か。保育の様々な準備をしながら、一日を振り返って、「あの時の言葉は、よかったのか?」と考えます。「こういう時には、どういう言葉をかけるのがいいのか?」、「この場面では、むしろ声をかけてはいけないのではないか?」、教師は常に子どもたちに向ける言葉を準備しています。「ことば」は口から発するものだけではありません。表情やボディランゲージ等、私たちから発せられる様々な「ことば」を子どもたちは敏感に受け取っています。

「子ども時代こそ最も豊かで、成長することで失っていく」ということを青山学院大学の福岡新地教授(分子生物学者)の対談記事を読みました。その記事を紹介します。
「必要なものが組み合わさることで大人になるわけではないからなんです。むしろ逆に、生命の基本は、まず過剰さを与えられ、それを刈り取っていきます。脳のニューロンは生まれた直後に多数の網目ができ、よく使われるものは強化され、使われないものは刈り取られます。大人になるということは、実は何かを失っていく過程なんですよ。免疫システムも胎児の期間が最も豊穣で、自己免疫疾患にならないように自分自身に反応する免疫システムがなくなり、外敵と戦うものだけが残ります。引き算なんですね。必然的に、子どもは豊かで大人はプアだということになります。」「子ども時代は五感が敏感です。嗅覚や視覚も良く、森に行けば匂いの変化がわかり、光の輪郭や蝶の羽、カミキリムシの輝きなどもとてもよく見えます。聴覚も子どものほうが広範囲で、高い音が聞けます。子どもは豊かな外部に対するプローブをもっているわけです。そこで知り得たことが大事で、多感な子どもたちに多様な体験を与えて、その中で自分にとって大事なものを自ら選び取ってもらう時期として、子ども時代があると思います。」(保育ナビ2021年2月号、フレーベル館)

新型コロナウイルス感染症のために、教師は全員マスクをして子どもたちと接しています。幼児期の子どもたちは、相手の表情から得る情報の7~8割を相手の目から感じ取っているそうです。もともと子どもたちは目から「ことば」を感じ取る力が豊かです。その子どもたちと、私たち教師はもう一つの大事な表情を伝える口元を覆って接しています。先ほどの福岡教授の言われるとおりであるならば、必然的に、子どもたちの目から情報を得る力は衰えることなく、むしろ強化されています。そこで、言葉をもって補うことは、とても大事なこととなっています。これまで以上に、舌の制御が、教師にとって大切になっています。子どもが相手だからと「ことば」を疎かにすることはできません。「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(ヤコブの手紙3章6節、新共同訳)。

私たちは今、もう一度自分の「ことば」を発することの恐ろしさを知るべきでしょう。特に、私たちの「ことば」を子どもたちが感じ取っていることを、深く知るべきです。発せられた言葉だけでなく、メールやラインを打つ人の「ことば」を、その目を子どもたちは見ています。そこで、火のように森を焼く様な言葉が発せられていることを、子どもたちは感じ取ります。

聖書は、神様が「ことば」によって世界を創造されたと記します。聖書において「ことば」は単なる響きではなく、そこに発した者の「実(じつ)」があると考えます。ことばには重みがあります。たった一つのことばが、人生全体に大きな影響を与えます。言葉が正しく用いられないと、自分や他の人々の人生を破壊することもあるのです。

私たちは言葉をもって主張します。そのような時こそ言葉を制御しなくてはいけません。主張は、容易に「勝ち負け」の問題となり、攻撃的になり、残酷になります。だから私たちはそういう時こそ黙ることを心しなければなりません。正義の主張、傷ついたという主張、過ちに対する言い訳をするときくらい自分の言葉に支配されてしまう時はないのです。言葉に支配された時、事柄ではなく人間への攻撃がはじまります。自分を正当化し、味方を得るために何でもします。先ほど紹介した創世記の原罪の物語がまさにそうなのです。だから、聖書は次のように語ります。言葉は最小にして、生き方で示すべきだと教えています。

「あなた方の中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。・・・ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブの手紙3章13~18節、新共同訳)

子どもたちを迎える教師として、ヤコブの手紙は大切なことを教えてくれています。また、イエス・キリストも言葉について教えておられます。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12章2~3節、新共同訳)

SNSの発達は、新しい言葉のフィールドを開拓すると共に、そこにも癒しがたい亀裂があることを教えています。仲間内の噂話はもはや隠れることができません。陰口は隠せません。個人への攻撃も隠せません。SNSは匿名の世界ではなく、この世で最も正確に発言者を追い詰めることのできるところです。

子どもたちは見ています。私たち大人の「ことば」の世界を見ています。聞いています。子どもに何かを与えるよりも、子どもの前で「ことば」を制御することのほうがはるかに大事なことです。子どもたちの言葉が攻撃的なるのは、私たちの日常に響いている「ことば」がそのようになっているからです。言い訳的になるのであれば、そのような「ことば」に接するからです。「ことば」は子どもの中に勝手に湧き上がるものではありません。どこかで獲得し、使い方を身に着けていくのです。現在のコロナ禍において、世間に響いている「ことば」は、子どもたちにとって潤いあるものはなくなっているように感じています。

幼児教育において、子どもたちの過ごす環境を整えることは重要な課題です。それは、おもちゃや遊具、調度にとどまらず、子どもたちの語る言葉、聞く言葉にも十分に心を配っていきたいと思います。「人の口の言葉は深い水。知恵の源から大河のように流れ出る。」(箴言18章4節、新共同訳)子どもたちの心を潤す「ことば」で幼稚園が満たされることを願っています。

(2021年2月父母の会の園長の話から)

2021年02月09日

躾(しつけ)の目的

子どもは、「走ってはいけません」と言われると走ってみたくなります。「取らないで」と言われると取っていきます。子どもにとって、未経験の出来事の本質はやってみないと理解できないからです。

多くの子どもにとって、最初の体験として、走ってはいけないところで走ることは楽しいことです。「取らないで」と言われて取ったときに、相手が困った様子を見せることは楽しいことです。人間には「良い思い」もあれば「悪い思い」もあります。どちらかを無しに人間について考えることは無意味であり、危険なことです。しかし人間は、人にぶつかったり、物を壊したり、転んで痛い思いをすると、「次は走るのをやめよう」と自制することを学びます。「良い思い」に従うか、「悪い思い」に委ねるかを決める力を育むことができます。

躾(しつけ)とは何か、という問いは、なかなか難しいものがあります。躾という言葉を英訳しようとすると、1対1で対応する単語はありません。例えば「training」でしょうか。しかし、日本語の「身を美しく」と表記される躾(しつけ)は、単なる技術の習得以上の広く深い意味を持ちます。

人間には「欲求」があります。「やる/やらない」は本来同等の価値です。最初から善悪に色分けされていません。ですから、「走ってはいけません」と言われたときに、子どもが走り出すのはおかしなことではありません。それを楽しいと感じることもおかしなことではありません。

躾の目的は、子どもが自律して生きることができるようにすることです。言い換えると、その場その場の「物事の判断を考えることができる」ようにすることです。人生を他人任せにしない生き方を育むことです。

先ほどの走ってはいけないところでどうするかは、「善悪」の判断になります。「取らないで」と言われてどうするかも、「善・悪」の判断です。判断は、怒られるから行動を抑制するのではなく、自分自身で決めて責任を伴った時にはじめて自律の意味を持ちます。

そこで、躾において大事にすべきことは、子ども自身に「善悪を考える」ように促すことです。子どもが自分自身の心の声に耳を傾けさせ、子ども自身に倫理観や道徳心に問いかけさせるのです。「叱られるから」、「褒められるから」という理由で行動を抑制するのではなく、自分の心が「よくないことだ」と判断するから自制するのです。

一方的な命令や威圧や誘導は、思い通りに子どもをコントロールすることであり、子ども自身が自分を制していることとは違います。

躾の前提は、子どもは一人前の独立した人格であり、親の所有物ではない、という当たり前の敬意に立つことです。人生の先達である大人が子どもに対し、人格を尊重し、敬意をもって接することから躾は始まります。そのような関係から、子どもも相手を信頼し、尊敬し、人格を尊重することを学びます。他者への敬意と尊重こそが子どもの内に「善・悪」を判断する自制を育みます。

2021年01月22日

セルフ・コンパッション

自分自身をケアする方法として「セルフ・コンパッション」というメソッドを知りました。直訳すれば、「自分を思いやること」です。

これはテキサス大学のクリスティン・ネフ(教育心理学者)がまとめたものです。鬱、不安感、完璧主義などを緩和し、満足感や幸福感、好奇心などを高める効果があると言われています。その結果、逆境を跳ね返す「レジリエンス」も強まります。

ネフ自身の体験によると、自閉症の息子が激しい癇癪を公共の場で起こし、周りから非難の目を浴びたときにセルフ・コンパッションの効果を実感したそうです。その時に胸に手を当て、「この難しい状況で、私はよく頑張っている」と自分を思いやることで、穏やかに子どもに接することができ、子どもも落ち着いていったそうです。

セルフ・コンパッションとは、温かい言葉や態度で自分に向き合うことです。周りの視線や言葉に委縮して、自分で自分を否定しては袋小路に追い詰められていきます。しかし、自分で自分を思いやり、励ますことで、周りにも思いやりを向けることができるようになります。

セルフ・コンパッションの方法としては、辛いと感じたときに、自分で自分の身体に触れてみます。自分自身の体温を感じることで、「幸福感」に関わるホルモンであるオキシトシンの分泌量が上がるのだそうです。そして、自分に思いやりをもって話しかけます。「つらいね。でも私は、私にできることをしているよ。大丈夫」とか、「今日もよく頑張ったね」というふうに話しかけます。

逆に自分に話しかけないように避けるべきなのは、「最低だな」とか、「こんなこともできないなんて」、「皆はできているのに、私はできない」、「これじゃあ心配だ」というような自分を否定するような言葉や評価です。

自分に対しては、つい貶めたり、功績を矮小化したり、否定してしまいがちですが、自分自身の気持ちに寄り添って、励ますことを心がけます。

ここまでお読みの方はお気づきのことと思いますが、この「セルフ・コンパッション」は、わたしがお伝えしている子どもへの接し方をそのまま自分自身に向けているものです。自分自身に対することと、子どもや周囲に対することは深く関係しています。

聖書の中でイエス様も「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せ」と、自分を愛することと他者を愛することを、分かつことのない一つの愛の教えとして教えてくださっています。聖書の言う「愛する」とは感情ではありません。具体的に「大切にする」行動を伴います。

自分に対して温かく、大らかに、他と比較しないで、気持ちに寄り添い、受け入れることで、子どもに対してもそのようにできます。自分自身が求めている安心や幸福を、子どもは親や教師の体温や言葉の中に求めているのです。まず、自分自身を愛する子のように大切にすることで、自然に子どもにも周囲にも温かく大らかに接することができます。

2021年01月14日

モラルを育むために

幼稚園で、幼いながらもルールを経験した子どもは、してはならないことをしてしまった時、罪悪感が湧き上がってきます。入園したての頃はともかく、半年以上幼稚園で過ごした子どもは、悪いことをしたという自覚を持っているという前提で向き合う必要があります。
子どもは「咎められる」、「叱られる」、「怒られる」ことにはじめは怖さを感じます。最初は行動にもつながるかもしれません。しかし、やがてそれらは子どもを制御できなくなります。叱られる時間を逃れるために嘘をついたり、言い訳ばかり巧みになり、行動に移れなくなります。話に耳を傾けなくなります。その時間を通過させ、子どもの内に何も残らないという不毛な浪費がはじまります。
子どもは「~はダメ!」という強い言葉や大声を聞くと、固まってしまうことが多いです。それは対処方法がわからない非常事態に遭遇したようなものです。どうすればいいのかわからないのです。そんな状況で話して聞かせても、聞けませんし、子どもの内に残るものはありません。
子どもの内には罪悪感があります。罪悪感というのは人間の行動を改善する時に強い助けとなる感情です。ですから、子どもが望ましくない行動をした時には、禁止するのではなく、できることを伝えるように心がけます。
お片付けをしないで教室に戻ろうとする子を、「あれ?」という顔で見つめるだけで十分な場合が多くあります。それから、「一番に並びたかったのかな?」と穏やかに声をかけてみます。「うん」と頷いてくれたりしたならば、「言ってくれてありがとう」と正直であったことを認めます。それから、「片付けないと、お弁当の後遊べなくなっちゃうね」と理由を伝えてから、その子が今「できること」を伝えます。「それじゃあ、砂場の道具は先生があっちに片付けるから、ボールと縄跳びをお願いするね」と話します。
砂場のシャベルを振り回している子には、「おやー」と声や表情を向けると大抵は罪悪感で止まります。それからシャベルで砂を掘って、「シャベルは振り回すものではなく、砂を掘るもの」とできることを示します。
騒いだら、子どものを見つめて「ひそひそ声でお話ができるね」と言います。ごみを放っていたらば、子どもを見つめて「ゴミはどこに捨てたらいいかな?」と尋ねます。
うなだれたり泣いたりした場合には、背中を抱いたり、さすったりして、その子が感じている強い罪悪感に寄り添います。
子どもの中の居心地の悪い罪悪感に寄り添うことによって、子どもの中に「モラル」が構築されていきます。怒られるからする、という他人を判断基準にして、見られている時にはちゃんとやる、褒められるためにやる、というものではなく、自分を基準として善し悪しを判断し、主体的にする・しないを選ぶことができるようになります。
自分の内に「モラル」を持つことは、主体的に生きるために大変大切なことです。モラルが自分で考え、判断し、行動することを促します。他人任せにせず、「自分でやる」という気持ちを育みます。

2021年01月13日
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