園長の思い

園長 有馬尊義のブログです。

ブログ一覧

言葉という生きていく力

子育ての目的は、子どもが生きる力をつけることです。親の保護から巣立って、自分で生活の糧を得て自立していく力を持つことです。
自立とは、自分で身の回りのことができて、経済的に自活できることを指すことが多いのです。しかし一人で生活できるということだけでは、自立は孤立と化してしまします。
人間の生きる力というのは、社会の営みの中で、一人で何でもできることではなく、多くの人間と関わって生きるということです。それは単純に、友人を持つとか、家族を持つことを意味しません。友人というカテゴリーが必ずしも「親愛」を保障するものではありません。家庭が「裁き」の場となることがあります。いくらでも孤立の可能性のある世界の中で、コミュニケーションし、時には決断して「頼ったり」、時には譲って「頼られたり」しながら、赦したり赦されたり、許したり許されたりしながら、周りの人々との関係を平和というバランスをとりながら生きていくことへの挑戦ができるのが、人間の自立です。
気持ちよく人と生きていこうと思うならば、自己を表現する力と、他者を理解するための解析力は欠かせません。その時に、現在のところ言葉以上に明晰に自己を伝え、他者を解析するためのツールは開発されていません。表現の可能性は様々あります。図や表、イラストもあります。しかし今のところ、それらの解釈にも言葉が使われます。表現と意味を結び付けるために言葉が必要です。つまり、言葉に代わり得る解析力を持ったツールが見当たらないのです。コミュニケーションのテクノロジーは、言葉化を容易にするためのツールの開発と、言葉の活躍場面を拡大する方向に向かっています。
気持ち良く生きていくために、言葉の力は欠かせません。その力を磨くことは、人が生きていくために欠かせない武器を磨くということです。言葉は生まれつき持っている才能ではなく、後天的に身に着けていくものです。磨けば研ぎ澄まされます。置いておけば錆びつきます。
私は子どもたちと話す時、良く正確な言葉を使うことを促します。「壊れた」のではなく、「壊した」とか、「鉛筆ちょうだい」ではなく「鉛筆を貸してください」とか、言い直させて、子どもにとっては面倒な大人をやっています。それは、子どもたちが将来、自分たちの人生を、自分自身が主人公となって、預けることをせずに歩むということが、自分の言葉を駆使することと深く関わっていると考えるからです。心で思っているだけでは得られません。与えられません。自分も相手も大切にして生きていくためにも、言葉の力を磨くことを大事にしたいからです。

2020年01月28日

自分をどこかへ預ける

精神科医の香山リカ氏が、若者の変化についてこんなことを語っていました(朝日新聞2017年12月31日)。
診察室を訪れた若者が「つらいんです」と言います。どういう風につらいのですか?と聞くと、「つらいってことです」と答える。そして、「この『感じ』がとれる薬をください」と。手っ取り早く薬だけ欲しがる若者が気になる。そこで香山リカ氏は、「自分の内面を掘り下げ、ことばで表現する力が落ちているように思う」と語ります。大学で学生と接していても、「『私』をどこかに預けている感じがする」とも言います。そして、どうしてそのような若者が見られるようになったのかということについて、「自分の弱さと向き合うのはとても苦しいことだから、でしょうね」と分析していました。
聞いた話で恐縮ですが、現代の若者はほんの数日で江戸時代の人の一生分の情報に触れてしまうそうです。それほどに膨大な情報が溢れています。しかし、一方でその溢れる情報をコピペすることで大学の卒論もできてしまいます。
最近の書籍のタイトルや表紙は、ぞっとするほど同じ体裁の同じような言葉で構成されています。「できる!○○をする3つの方法」といった具合のテンプレート化されたものが増えました。マーケティングに裏付けされた通りの言葉をつなぎ合わせると、なんとなく文章ができてしまいます。
一方で、自分自身と向き合って、不器用であっても自分の感情や状況を自分の言葉で表現することができない若者が存在します。言葉は溢れているのに、唯一の自分、大切な自分を語ることができないで、どこかの誰かに預けてしまう。それは、自分にしかわからない自分自身の気持ちや内面を、誰かが語ってくれるのを待っているのでしょうか?あるいは表現そのものを諦めているのでしょうか。
自分を表現する方法は言葉だけではありません。音楽や映像、劇…様々あります。しかし、やはり人間にとって言葉は特別なツールです。自分を表現して、相手に気持ちを伝える手段をとして言葉を磨くことは、自分自身を愛することです。自分自身を愛することを「どこかへ預けてしまう」ことで、やがて他人や世界への興味すら失ってしまうのではないでしょうか。

2020年01月27日

会話を膨らませる

話し合いのスキルは、これからの時代に一層重要なものとなるでしょう。その時に、会話が膨らむことは大事なことです。対話を継続する術が必要になります。
会話が膨らむためには、受け取った言葉を上手に投げ返すことが大事になります。ですから人と話をするときには、何かしらの形で返すのが礼儀です。黙殺や発言を馬鹿にするようなことはしてはいけません。子どもと話す時にもこの原則は守られているでしょうか。
子どもが大人に話しかけるときは、話の結論や正解を欲しているというよりも、アピールや共感であることの方が多いです。
大人がよくやってしまうのが、正解を教えてしまうことです。これですと、会話は終わってしまいます。多くの場合、子どもは不満を感じます。大人は結論や正解が分かっても、会話の最後は子どもに譲るように会話を継続することを目指す方が、子どものためになります。質問を重ねて、答えを知っているつもりの子どもが、黙って自分の知っているはずの答えについて考え始めてしまうようになる方がいいのです。知らないことが沢山ある、という感覚こそ成長の力です。「知っている」と思ったところで、終わるのは、会話も成長も同じです。
「それでどうしたの?」とか「それからどうなったの?」とか聞いてみたり、子どもが言ったことを「逆上がりができたんだね」、と言葉をそのまま返したり、頷いたり、相槌を打つだけでも相手の話を促すことができます。促して話すことで、互いに相乗効果をもって内容は高まり、深まり、広がり、思いもかけない世界へと進んでいきます。
幼稚園で子どもたちを見ていると気がつくことですが、子どもはお友だちの呼びかけや先生の話を、かなりの場面で「無視」しています。興味のあることに集中していて聞こえないから、結果的に呼びかけに応えられないということはあります。しかし問題は、明らかに意図的に無視をしている場面が意外なほど多くあることです。つまり継続の術ではなく、無視する術を発達させているのです。
会話も、無視も、子どもが手本としているのは大人です。それも最も身近な大人である親です。大人が意識して子どもとの会話を繋げていかないと、話を続ける術を子どもは学べません。子どもの話をおもしろがる。楽しむ。もっと知りたいと思う。そんな心をもって子どもと会話をしていきたいと思います。

2020年01月24日

比較するなら過去と今

幼児期の子どもは、年齢だけでなく月齢でも随分成長程度が異なります。4月生まれの子どもと3月生まれの子どもでは、大変な差を感じることでしょう。また、兄姉がいるのか。お父さん、お母さんと過ごせる時間。祖父・祖母や叔父・叔母の関りがあるかないか。些細な環境の違いで、得意不得意や興味関心や成長の違いができます。ですから幼稚園では、他の子と比較をすることに意味がありません。
しかし、人間というのは比較して状況を把握しようとする能力が秀でています。ですから、どうしても気持ちが比べてしまうことに向かってしまうのは仕方のないことです。それならば、比較の対象を変えればよいのではないでしょうか。
私は、比較するなら「昨日の子」と「今日の子」の姿を比べるということを土台にするのがいいと思っています。子どもと毎日一緒に過ごしていると、かえって昨日と今日の成長には鈍感になりがちです。その分意識して見ることを心がけると子どもを観察する目が養われます。毎日でなくても、先月と今月、春と夏、去年の誕生日と今年の誕生日でどれだけ成長しているかを比較してみるとよいでしょう。過去と今を比較するのです。そうすると、子どもの頑張ってきたことや、興味の移り変わりや、葛藤や、友だち関係の発達や、得意なこと、今は苦手に思っていること等、色々なことに気がつきます。
他の子と比較してわかるのは「できる・できない」だけです。しかし過去と今を比較すれば、明日のための「課題」が見えます。子どもが頑張る課題と共に、子どものサポーターである親の課題も見えてきます。昨日のどんな自分の態度や言葉に子どもが勇気を得たのか、喜んだのか、嫌だったのか、悲しかったのか。そんなことにも思いが向くようになるでしょう。子どもが人を親へと育ててくれます。それが子どもの「仕事」なのかもしれません。
ですから、他の親と自分を比べることも意味がありません。人間は神様ではないのです。必ず出来ないことがあります。どんなに子どもに要求されても応えてあげられないことがあります。みんな違うのは当然です。親としての自分を考える時にも、昨日の自分と今日の自分を比べる程度で十分です。過去と今を比べてみると、親の方も大した親として育っているのです。

2020年01月23日

静かにする時間

「聞く」と「話す」を人間は同時にできません。話し合いというのは、「聞く」と「話す」の両方が必要です。どんなに強力に「話す(発信)」ができても「聞く(受容)」ことができない人とは話し合いは成立しません。
聖書にこんな一節があります。「たとえ地上のすべての言語や天使の言語を話しても、愛が無ければ、やかましいシンバルや煩い銅鑼も同様です」(コリントの信徒への手紙一 13章1節の私訳)。
「聞く」というのは、話している人を大切にするということです。人の話を聞く時間と自分が話す時間を交互に経験して、「話が通じた」という感覚が成立します。ですから、話をしている人の時間を奪わない、という意味を子どもたちに伝えることが大事になります。
私は週に1回、各クラスに赴いて聖書のお話をします。私が教室に入ると、教師が子どもたちに、「園長先生がお話に来てくれたよ。お話を聞くときはどうするんだった?」と話しかけてくれます。そうすると、子どもたちは「静かに聞く」とか、「園長先生のお顔を見る」というふうに答えています。ちゃんと声をかけて確認をするだけで、子どもたちはしっかりと「話を聞く」ことができます。
たとえ一時的に騒がしくなっても、「今は、私がお話をする時間だからね」、「今は、誰がお話をする時間かな?」といった声をかけると子どもたちはハッとして、静かになっていきます。「聞きなさい」、「静かにしなさい」という命令よりも、話している人を尊重することを伝えた方が、自分から話を聞く姿勢に戻っていく力が養われています。
話を聞くのは、一義的には興味があるからです。私も聖書のお話をするときに、子どもたちに興味を持ってもらえるように工夫をします。
相手に興味をもって「聞く」こととは違いますが、内容に関わらず静かにしなければならない、「静かにする場面」を体験することも大事です。例えばコンサートや図書館、公共の乗り物の中やレストラン等です。長時間は難しいでしょうが、幼児期であっても、「静かにするべき場」があることを教え、体験していくことは大事なことです。

2020年01月22日
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