こころの癖・・・二分化

正しい/間違い、得/損、味方/敵、優/劣、美/醜、勝ち/負け等、様々な二分化をしながら世界や人、そして自分自身と関係を作っていきます。私たちには、殆ど自動的に自分と出会った対象を瞬間的に二分化して把握し、どちらかのレッテルを張って分類し、対応を探るという心の働きがあります。
幼児期は二分化に極端にこだわる時期です。たとえば、絵本を読んでいて様々な動物が擬人化されて登場すると、「この豚はいい人?」、「この猿はいい人?」、「狼だから悪者だよ」といった具合です。絵本のストーリーとは全く関係がなくても、新しい登場人物が出るたびに「いい人?」、「悪い人?」と聞いて、絵本のストーリーとは違う「いい人と悪い人のお話」を想定します。
私たちは何か新しいことに出会うたびに、それを二分化して捉えるという根強い感性があります。おそらく、かつて今のように安全がなかった時代にひ弱な人間が生き抜くためには、新しく出会うことが良いか悪いかを瞬時に分けて、悪いものであれば直ちに身を守る手段を講じなければならなかったのでしょう。突然出くわしたのがウサギかライオンか、それは自分にとって、良い/悪い、安全/危険、勝てる/負ける、そういった判断を瞬時に繰り返してきたのでしょう。今もそれは強力な自己防衛力として働いています。
ちなみに、先ほどの、絵本の登場人物を「いい人/悪い人」で尋ねてくる子には、「どうかな~」と答えています。なぜなら、きちんとストーリーの中から自分の判断で二分化を行うことが、幼児期の子どもの学びだからです。二分化がいい、二分化が悪いということではありません。
ただ自己防衛力としての二分化が、自分自身を苦しめることがあります。二分化は色んなものにレッテルを張ることです。レッテルはいつも他者に張るわけではありません。自分に「悪い」、「劣る」、「負け」というレッテルを張るのです。このレッテルを剥がして「良い親」、「良い上司」、「良い大人」であろうと、なんと多くの方がもがいていることでしょうか。
一度レッテルを決めてしまうと、「頭で分かっていても、心が納得しない」ために、いつまでも良くない出会いを繰り返すことになります。自分の子が「○○ちゃんに叩かれた」と聞くと、相手の子にもさらにはそのお母さんにもレッテルをべたべたと貼り、もはや自分で張ったレッテルの主張することが事実を歪めて、真実として力を振るいはじめます。
せめて、二分化の弊害を知って、「自分は絶対の真理を見通す裁判官ではない」、「二つに分けるのでなく、いっそ50ぐらい解釈の可能性を考えよう」という心の声を備えておきたいと思います。

2019年09月06日